雪山の娘   作:雪山派外姓弟子

3 / 32
本日開店、修理は明日

 廖平(りょうへい)の荷車が、鳴いていた。

 きゅう、きゅう、きゅう。

 車輪が回るたび、山羊の子のような声を出す。

 姉が荷台へ草を置いた。

 

「食べないね」

「食ったら、俺が逃げるよ」

 

 廖平は車輪の下へ寝転がり、顔だけこちらへ向けた。父の門弟で、今年十八になる。剣を振るより戸や荷車を直す時のほうが、口数も笑う回数も多かった。

 姉は草をもっと前へ置いた。

 

「口、そっちじゃない?」

「だから、こいつには口がないんだって」

 

 私は車輪の縁の、黒い傷を追っていた。

 音が鳴るたび、傷は同じ所に来る。前の人生の仕事が、少しだけ顔を出した。異音を耳だけで追うと、よく分からないまま全部を外すことになる。まず、何をした時に鳴るのか。

 

「もう一度、お願いします」

 

 廖平が車輪を回した。

 きゅう。

 私は黒い傷を指した。指が近づくより先に、廖平の掌が間へ入った。

 

「動いてる時は、ここから先へ手を出すな。お前の指まで鳴き始める」

 

 そうだった。

 私は膝の上へ両手を置いた。知っているつもりで忘れる。以前なら、自分が新人へ言う側の注意だった。

 回して、止めて、また回す。

 廖平の顔が変わった。

 

「ああ、そっちか! おい、晴、こっちを見ろ。……いや、そこから見ろ。下には来るなよ」

 

 あわただしく指示され、私は腹這いになった。姉も隣へ寝た。三人で荷車を囲み、しばらく誰も起き上がらなかった。

 

 原因は、私が予想した所とは少し違った。

 擦れている箇所を見つけたつもりでいたが、廖平はその奥の木を押し、割れ目を見せた。

 

「こっちが逃げるから、こっちへ触る。ここだけ削ったら、もっと傾くところだった」

 

 私は、その木目をじっと見た。

 金属の部品なら頭の中に収まりのつく形があった。木は、同じものを二つ並べても同じようには傷まない。見たことのない使われ方もする。

 廖平は木片を外し、私たちへ見せた。

 姉が感心した声を出す。

 

「歯が抜けたみたい!」

「そうだな。こいつの飯は、木だったな」

 

 廖平まで話を戻した。私は少し悔しかった。

 

     *

 

 荷車が直るより先に、修理屋が開店した。

 もちろん、姉の店だった。

 私が割れた木片を見ている間に、家から敷物が持ち出され、縁側へ広げられた。壊れたものを置く所と、お金を置く所と、私の座る所が決められる。

 

「姉さまは、どこですか」

「お客さんを連れてくるから、座らない」

 

 姉は早くも母のところへ走った。

 私は帳場の前に座っていた。まだ、帳面はない。

 

 最初の客は母だった。

 ほつれた袋を持ってきたので、廖平は目をそらした。

 

「師母、それは、俺じゃなくて」

「直せるものなら何でも、と梅が言ったのよ」

 

 姉は自信満々に私を指した。

 

「晴、できるでしょう?」

 

 縫い方を知っていることと、縫えることは別だった。

 私は針を持つ許しも得られなかった。母は袋を置いたまま帰り、姉はお客が一人来たと数えた。受注だけが積み上がる。よくない会社に入ってしまった。

 

 二番目の客は門弟の男で、欠けた櫛を懐から出した。

 廖平は一目見るなりにやついた。

 

「これは、これは。新しく買ったらどうです、師兄」

「直せるかどうかを聞いている」

「買えない櫛なんですか」

「廖平」

「誰かの土産ですか」

「口を直せ。先に」

 

 私は櫛を受け取った。

 割れ目の横に、小さな鳥が彫ってある。欠けた歯より、そちらを残してほしいらしい。廖平もそれを聞くと笑うのをやめ、削る範囲を爪で示した。

 男は長いこと考え、最後にうなずいた。

 姉は私の耳へ口を寄せる。

 

「今の人、髪、ないよね」

 

 なかったわけではない。少なかっただけである。

 廖平の肩が震えた。

 男は聞こえないふりをした。姉は分からないことを母へ聞きに行こうとし、私に袖をつかまれた。

 

 櫛が直ると、銭を一枚もらえた。

 姉は飛び跳ねた。私は両手で受け取った。

 廖平の仕事なのに、私たちの店が儲かった気になっていた。

 

 それを知った父が、自分にも見せろとやって来た。

 姉は銭を掲げ、私は櫛の木屑を見せた。父はなるほどと聞き、廖平へ「今日の稽古は」と尋ねた。

 廖平は工具を片づけ始めた。

 

「客を待たせているので、明日に回そうかと」

「明日の稽古も明後日へ回すか。便利な店だな」

 

 父は廖平を連れていった。

 私たちは、修理する人を失った。

 

 姉はしばらくその背中を見送り、次に私を見た。

 

「晴。今日、直らないものを持ってきてもらおう」

 

 事業継続の意志が強い。

 

     *

 

 私は店で使う小さな車を作りたかった。

 出来上がった品を運ぶのだ。皿の上に載せて引っ張るだけでも十分だったが、車輪が欲しかった。

 前の私は図面を見て寸法を確かめる仕事をした。木の端材を見れば、おおよその形は浮かぶ。

 ところが、小さな輪を四つ揃えるだけで、さっそく行き詰まった。

 まず切れない。次に穴を開けられない。丸くしようとして、母の椀の縁を木へ押しつけていたら、廖平に見つかった。

 

「それで師母の椀が割れたら、お前の店の客になるぞ」

 

 私は椀を戻した。

 廖平は丸い板を作る代わりに、使わなくなった玩具を出してきた。四つの車輪がついた、小さな牛だった。

 

「こいつを借りればいい。荷台を引かせる。牛から車輪をむしるなよ」

 

 私が何をしようとしたか、正確に見抜かれていた。

 母にもらった小箱を牛へつなぐ。紐を短くすると曲がらず、長くすると柱へ引っ掛かった。二人で試しているうちに、姉が戻ってきた。

 

「できた? 私、阿秀とお店の旗を作ってくる。晴も来る?」

 

 まだ、車は曲がっていなかった。

 ここを直せば動く。廖平は次の紐を選んでいる。私は小箱を押さえたまま、姉の顔を見た。

 

「行きます」

 

 立ち上がると、廖平が驚いた。

 

「もう少しで出来るぞ。旗が来るまでに走らせようぜ」

 

 私は小箱へ一度戻りかけた。

 姉が先に戸口を出た。

 靴を履く音がした。私は紐を置き、その音を追った。戸の敷居を越えてから振り返り、廖平へ言う。

 

「直す時、待っていてください」

「こっちも用があるんだがなあ」

 

 困った声がした。私は聞こえなかったように、姉の隣へ走った。

 

 旗は、ただの布だった。

 阿秀の母が端を縫ってくれ、姉が燕を描いた。尾が四本あったので、私は減らそうとした。

 

「いっぱいあったほうが、速いの!」

 

 そういう船も作ったことがあるような気がして、口を閉じた。

 姉は私を膝の前へ座らせ、髪を布で包んだ。自分と同じ形にするつもりらしい。

 布を結ぶたび、耳の上を指がかすめる。

 前の自分がこんな格好で座っていたら、相当に妙だっただろう。けれど阿秀の母は、仲のいい姉妹ねえと笑うだけだった。

 姉は私の肩をつかんで鏡へ向けた。

 

「ほら、店の娘さん」

 

 私は鏡の中の、頭巾をかぶった小さな娘を見た。

 その後ろへ姉の顔が並ぶと、さっきまで変だった格好が急によくなった。

 姉が離れようとしたので、頭巾が曲がっていると訴えた。

 曲がってはいなかった。

 

     *

 

 店へ戻ると、牛の車は出来上がっていた。

 廖平は、小箱へ布を敷いてくれていた。櫛や小箱を運ぶ時、傷がつかないようにだという。

 私は嬉しくなった。嬉しくなってから、出来るところを見られなかったのを思い出した。

 

「どうやって、曲がるようにしましたか」

「ここを少し動かした。さっきのやり方だと、牛も箱も引っ張り合ってたからな」

 

 彼は実際に走らせて見せた。

 私は膝をついて追った。説明は分かった。それでも、直る直前と直った直後の違いを、この目で見たかった。

 姉が牛を持っていき、客のいない縁側を三周した。

 車はよく走った。

 私がもう一度廖平へ聞こうとした時には、彼は道具を包んでいた。

 

 夕方、母が自分で袋を縫いながら店番に加わった。

 父は修理の必要な踏み台を持ってきた。姉は大喜びしたが、父は客としてではなく、ここなら道具があると思ったらしい。

 椅子も踏み台もひっくり返り、母の足元を牛が走る。

 

「こんな店なら、麓でやってみたいんです」

 

 廖平が言った。

 修理だけではない。旅の人の荷を預かり、車が直る前に急ぐ荷だけを別に運ぶ。山で暮らす人にも、荷を頼める店にする。

 話し出すと早かった。どこに屋根が必要か、雪の日には何を入れるか。彼の頭の中では、もう店が建っているらしい。

 父は踏み台の脚を確かめながら言った。

 

「俺が荷を預けたら、値引きはするか」

「弟子の暮らしを支えると思って、倍、お願いします」

 

 母が拍手した。父は不服そうだったが、笑っていた。

 

「私も寄るわ。南へ行く途中に」

 

 母が針へ糸を通した。

 私は顔を上げた。南の布屋へ、また行くのかと思ったのだ。

 違った。本当の南へ行きたいらしい。冬も雪に埋まらず、木に花が残っているという土地へ。

 

「何を見ますか」

「何があるか、見てから決める。あなたたちを置いていくと、父さんが夕飯を全部狐のお芝居で済ませるでしょうからね。四人で」

 

 父は直し終えた踏み台を立て、余った板を姉へ渡した。姉は旗の燕をそのまま板へ写し、母に店の字を書いてもらった。尾は四本とも残された。

 母が南の道を指でたどる横で、姉は新しい看板を、私と自分の席の間へ立てた。

 

 四人。

 私は牛を止めた。

 前に知った物語の雪山には、この母はいなかった。父も、死んだ人としてしか語られなかった。

 何が起きるのか、私は肝心なところをうまく思い出せない。滅びるという結末ばかりが、ひどく鮮明だった。

 

「今から、行きませんか」

 

 母の針が、布を抜けた。

 

「今? もうすぐ日が暮れるわよ」

「明日。四人で。遠くへ」

 

 私がしつこく言うと、父は踏み台を置いてこちらへ来た。

 私は膝に乗せられても、同じことを言った。母は南の暖かさを話し、父は道中の宿を話した。私が怖がっていると気づいたのだろう。二人は本当に相談を始めたが、明日家を出るとは言わなかった。

 田の水のこと、冬前に直す道、怪我をした門弟のこと。父にはここでしか出来ない用があり、母にも途中で放れない暮らしがあった。

 私は父の服を引いた。

 

「明日がいいです」

 

 姉が牛の車を押してきた。

 

「これで行けば? 晴の荷物、一つ入るよ」

 

 小箱には、私の頭巾が入っていた。

 私は父の膝から降り、箱の空いた所に母の袋を詰めた。入り切らず、牛が後ろへひっくり返った。

 姉が声を上げて笑った。

 私は笑えず、袋を取り出し、今度は半分だけ入れようとした。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。