雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
きゅう、きゅう、きゅう。
車輪が回るたび、山羊の子のような声を出す。
姉が荷台へ草を置いた。
「食べないね」
「食ったら、俺が逃げるよ」
廖平は車輪の下へ寝転がり、顔だけこちらへ向けた。父の門弟で、今年十八になる。剣を振るより戸や荷車を直す時のほうが、口数も笑う回数も多かった。
姉は草をもっと前へ置いた。
「口、そっちじゃない?」
「だから、こいつには口がないんだって」
私は車輪の縁の、黒い傷を追っていた。
音が鳴るたび、傷は同じ所に来る。前の人生の仕事が、少しだけ顔を出した。異音を耳だけで追うと、よく分からないまま全部を外すことになる。まず、何をした時に鳴るのか。
「もう一度、お願いします」
廖平が車輪を回した。
きゅう。
私は黒い傷を指した。指が近づくより先に、廖平の掌が間へ入った。
「動いてる時は、ここから先へ手を出すな。お前の指まで鳴き始める」
そうだった。
私は膝の上へ両手を置いた。知っているつもりで忘れる。以前なら、自分が新人へ言う側の注意だった。
回して、止めて、また回す。
廖平の顔が変わった。
「ああ、そっちか! おい、晴、こっちを見ろ。……いや、そこから見ろ。下には来るなよ」
あわただしく指示され、私は腹這いになった。姉も隣へ寝た。三人で荷車を囲み、しばらく誰も起き上がらなかった。
原因は、私が予想した所とは少し違った。
擦れている箇所を見つけたつもりでいたが、廖平はその奥の木を押し、割れ目を見せた。
「こっちが逃げるから、こっちへ触る。ここだけ削ったら、もっと傾くところだった」
私は、その木目をじっと見た。
金属の部品なら頭の中に収まりのつく形があった。木は、同じものを二つ並べても同じようには傷まない。見たことのない使われ方もする。
廖平は木片を外し、私たちへ見せた。
姉が感心した声を出す。
「歯が抜けたみたい!」
「そうだな。こいつの飯は、木だったな」
廖平まで話を戻した。私は少し悔しかった。
*
荷車が直るより先に、修理屋が開店した。
もちろん、姉の店だった。
私が割れた木片を見ている間に、家から敷物が持ち出され、縁側へ広げられた。壊れたものを置く所と、お金を置く所と、私の座る所が決められる。
「姉さまは、どこですか」
「お客さんを連れてくるから、座らない」
姉は早くも母のところへ走った。
私は帳場の前に座っていた。まだ、帳面はない。
最初の客は母だった。
ほつれた袋を持ってきたので、廖平は目をそらした。
「師母、それは、俺じゃなくて」
「直せるものなら何でも、と梅が言ったのよ」
姉は自信満々に私を指した。
「晴、できるでしょう?」
縫い方を知っていることと、縫えることは別だった。
私は針を持つ許しも得られなかった。母は袋を置いたまま帰り、姉はお客が一人来たと数えた。受注だけが積み上がる。よくない会社に入ってしまった。
二番目の客は門弟の男で、欠けた櫛を懐から出した。
廖平は一目見るなりにやついた。
「これは、これは。新しく買ったらどうです、師兄」
「直せるかどうかを聞いている」
「買えない櫛なんですか」
「廖平」
「誰かの土産ですか」
「口を直せ。先に」
私は櫛を受け取った。
割れ目の横に、小さな鳥が彫ってある。欠けた歯より、そちらを残してほしいらしい。廖平もそれを聞くと笑うのをやめ、削る範囲を爪で示した。
男は長いこと考え、最後にうなずいた。
姉は私の耳へ口を寄せる。
「今の人、髪、ないよね」
なかったわけではない。少なかっただけである。
廖平の肩が震えた。
男は聞こえないふりをした。姉は分からないことを母へ聞きに行こうとし、私に袖をつかまれた。
櫛が直ると、銭を一枚もらえた。
姉は飛び跳ねた。私は両手で受け取った。
廖平の仕事なのに、私たちの店が儲かった気になっていた。
それを知った父が、自分にも見せろとやって来た。
姉は銭を掲げ、私は櫛の木屑を見せた。父はなるほどと聞き、廖平へ「今日の稽古は」と尋ねた。
廖平は工具を片づけ始めた。
「客を待たせているので、明日に回そうかと」
「明日の稽古も明後日へ回すか。便利な店だな」
父は廖平を連れていった。
私たちは、修理する人を失った。
姉はしばらくその背中を見送り、次に私を見た。
「晴。今日、直らないものを持ってきてもらおう」
事業継続の意志が強い。
*
私は店で使う小さな車を作りたかった。
出来上がった品を運ぶのだ。皿の上に載せて引っ張るだけでも十分だったが、車輪が欲しかった。
前の私は図面を見て寸法を確かめる仕事をした。木の端材を見れば、おおよその形は浮かぶ。
ところが、小さな輪を四つ揃えるだけで、さっそく行き詰まった。
まず切れない。次に穴を開けられない。丸くしようとして、母の椀の縁を木へ押しつけていたら、廖平に見つかった。
「それで師母の椀が割れたら、お前の店の客になるぞ」
私は椀を戻した。
廖平は丸い板を作る代わりに、使わなくなった玩具を出してきた。四つの車輪がついた、小さな牛だった。
「こいつを借りればいい。荷台を引かせる。牛から車輪をむしるなよ」
私が何をしようとしたか、正確に見抜かれていた。
母にもらった小箱を牛へつなぐ。紐を短くすると曲がらず、長くすると柱へ引っ掛かった。二人で試しているうちに、姉が戻ってきた。
「できた? 私、阿秀とお店の旗を作ってくる。晴も来る?」
まだ、車は曲がっていなかった。
ここを直せば動く。廖平は次の紐を選んでいる。私は小箱を押さえたまま、姉の顔を見た。
「行きます」
立ち上がると、廖平が驚いた。
「もう少しで出来るぞ。旗が来るまでに走らせようぜ」
私は小箱へ一度戻りかけた。
姉が先に戸口を出た。
靴を履く音がした。私は紐を置き、その音を追った。戸の敷居を越えてから振り返り、廖平へ言う。
「直す時、待っていてください」
「こっちも用があるんだがなあ」
困った声がした。私は聞こえなかったように、姉の隣へ走った。
旗は、ただの布だった。
阿秀の母が端を縫ってくれ、姉が燕を描いた。尾が四本あったので、私は減らそうとした。
「いっぱいあったほうが、速いの!」
そういう船も作ったことがあるような気がして、口を閉じた。
姉は私を膝の前へ座らせ、髪を布で包んだ。自分と同じ形にするつもりらしい。
布を結ぶたび、耳の上を指がかすめる。
前の自分がこんな格好で座っていたら、相当に妙だっただろう。けれど阿秀の母は、仲のいい姉妹ねえと笑うだけだった。
姉は私の肩をつかんで鏡へ向けた。
「ほら、店の娘さん」
私は鏡の中の、頭巾をかぶった小さな娘を見た。
その後ろへ姉の顔が並ぶと、さっきまで変だった格好が急によくなった。
姉が離れようとしたので、頭巾が曲がっていると訴えた。
曲がってはいなかった。
*
店へ戻ると、牛の車は出来上がっていた。
廖平は、小箱へ布を敷いてくれていた。櫛や小箱を運ぶ時、傷がつかないようにだという。
私は嬉しくなった。嬉しくなってから、出来るところを見られなかったのを思い出した。
「どうやって、曲がるようにしましたか」
「ここを少し動かした。さっきのやり方だと、牛も箱も引っ張り合ってたからな」
彼は実際に走らせて見せた。
私は膝をついて追った。説明は分かった。それでも、直る直前と直った直後の違いを、この目で見たかった。
姉が牛を持っていき、客のいない縁側を三周した。
車はよく走った。
私がもう一度廖平へ聞こうとした時には、彼は道具を包んでいた。
夕方、母が自分で袋を縫いながら店番に加わった。
父は修理の必要な踏み台を持ってきた。姉は大喜びしたが、父は客としてではなく、ここなら道具があると思ったらしい。
椅子も踏み台もひっくり返り、母の足元を牛が走る。
「こんな店なら、麓でやってみたいんです」
廖平が言った。
修理だけではない。旅の人の荷を預かり、車が直る前に急ぐ荷だけを別に運ぶ。山で暮らす人にも、荷を頼める店にする。
話し出すと早かった。どこに屋根が必要か、雪の日には何を入れるか。彼の頭の中では、もう店が建っているらしい。
父は踏み台の脚を確かめながら言った。
「俺が荷を預けたら、値引きはするか」
「弟子の暮らしを支えると思って、倍、お願いします」
母が拍手した。父は不服そうだったが、笑っていた。
「私も寄るわ。南へ行く途中に」
母が針へ糸を通した。
私は顔を上げた。南の布屋へ、また行くのかと思ったのだ。
違った。本当の南へ行きたいらしい。冬も雪に埋まらず、木に花が残っているという土地へ。
「何を見ますか」
「何があるか、見てから決める。あなたたちを置いていくと、父さんが夕飯を全部狐のお芝居で済ませるでしょうからね。四人で」
父は直し終えた踏み台を立て、余った板を姉へ渡した。姉は旗の燕をそのまま板へ写し、母に店の字を書いてもらった。尾は四本とも残された。
母が南の道を指でたどる横で、姉は新しい看板を、私と自分の席の間へ立てた。
四人。
私は牛を止めた。
前に知った物語の雪山には、この母はいなかった。父も、死んだ人としてしか語られなかった。
何が起きるのか、私は肝心なところをうまく思い出せない。滅びるという結末ばかりが、ひどく鮮明だった。
「今から、行きませんか」
母の針が、布を抜けた。
「今? もうすぐ日が暮れるわよ」
「明日。四人で。遠くへ」
私がしつこく言うと、父は踏み台を置いてこちらへ来た。
私は膝に乗せられても、同じことを言った。母は南の暖かさを話し、父は道中の宿を話した。私が怖がっていると気づいたのだろう。二人は本当に相談を始めたが、明日家を出るとは言わなかった。
田の水のこと、冬前に直す道、怪我をした門弟のこと。父にはここでしか出来ない用があり、母にも途中で放れない暮らしがあった。
私は父の服を引いた。
「明日がいいです」
姉が牛の車を押してきた。
「これで行けば? 晴の荷物、一つ入るよ」
小箱には、私の頭巾が入っていた。
私は父の膝から降り、箱の空いた所に母の袋を詰めた。入り切らず、牛が後ろへひっくり返った。
姉が声を上げて笑った。
私は笑えず、袋を取り出し、今度は半分だけ入れようとした。