雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
唐門に近づくにつれ、道を来る人が増えた。
同じ方へ向かう者ばかりではなかった。家財を積んで下りる車と、薬材を積んで上がる車が狭い道で向き合い、どちらが先に退くかで怒鳴り合っていた。荷を失くした子供が泣き、母親が泣くなと怒った。その母親の声も、泣きそうだった。
私は背の野太刀を押さえ、車の脇を通った。
姉は途中で足を止め、車輪の前へ転がった石を蹴り出した。
「喧嘩は動いてからやれ。後ろが詰まっておる」
男が言い返そうとした。
姉が顔を上げると、口を閉じて車を押した。
二月の下旬だった。
雪山を出てから、何度も靴を乾かした。こちらの道にはもう氷がなく、代わりに泥が深かった。荷受け場の入口も泥に覆われ、戸の下端に擦った跡がいくつもあった。
「先に、こいつを頼めるかい」
帳面を預かる女が、挨拶より先に戸を指した。
私は荷を下ろし、しゃがんだ。姉が鞘を受け取ってくれたので、そのまま戸の重さを確かめられた。
誰かが道具を持ってきた。私が頼む前に、下へ敷く板も運ばれてきた。
人が働く場所だった。
私はその忙しさが、少し嬉しかった。
*
姉は周囲の道を見てくると言った。
私は戸の修繕を終えていた。帳面の女が札を持って来て、運び込んだ荷の数を確かめてほしいと頼んでいた。
「近くを一回りだ。奥の抜け道も見てくる」
姉が言った。
私が頷くまで待ち、戸を出た。
私は札を一枚ずつ並べた。
十六、十七、十八。
外で足音がしたので、入口を見た。荷運びの男だった。
札へ戻った。どこまで数えたか分からなかった。最初から数え直した。
二十六。
そんなにない。
並べ直すと二十二になった。さっき数えた札を、数え終えた方ではなく手前へ戻していた。
「いくつだい」
女に聞かれた。
「二十……もう一度」
私は札を揃えた。
今度は声に出さず、指で触れながら数えた。十を過ぎたところで戸が鳴った。私はそちらを向いた。
「来てくれたのか!」
趙活だった。
顔を見た瞬間、姉ではなかったことに失望した。その顔を隠すのが遅れ、趙活が立ち止まった。
「……帰った方がいいか、俺」
「違います。失礼しました」
彼の肩の陰から、小梅が顔を出した。
「あら、来たばっかりでもう女に嫌われたの。今日は顔を洗った?」
「洗った。洗ってこれだ、悪かったな!」
小梅は笑った。私の前へ来て、左の目元を見た。手は伸ばさず、顔だけ少し傾けた。
「晴姉さん、目はどう?」
「戻りません」
「……そう」
その間だけ、芝居がなかった。
小梅は私の袖を軽く握り、すぐ放した。
「じゃあ本梅は、右から意地悪するわね」
「左からでも、声で分かります」
「やだ、そんなに好きだったの?」
私は返そうとして、言葉を失った。札をまだ握っていた。
趙活が卓へ荷を置いた。私の前の札と、困っている帳面の女を見比べる。
「先にこっちか。何を数える」
私は答えたつもりだった。
返事が遅れたらしく、女の方が荷の数を説明した。趙活は全部を取らず、私の手にある二枚だけをよこせと言った。
「一人で全部数えてくれとは、手紙に書いてないぞ。俺にも働かせろ。帰って来て、飯だけ食っていると思われる」
「誰がそんなこと思うのよ」
「お前は三日前に言った」
「三日前は、本当に食べてばっかりだったから」
「その前の二日は寝てないんだよ!」
私は少し笑った。
それでも数は戻ってこなかった。笑えることと、作業が出来ることは別だった。
姉が帰ってきた時、私の前には同じ札が残っていた。
小梅が先に近づき、蘭姉さん、と呼んだ。姉はその肩をつかみ、顔を見た。二人の間で言葉が二つ三つ行き来する。私は聞いていなかった。
札を置いて、立った。
姉の肘へ触れた。
小梅が私を見た。姉も振り向いた。
「終わったか」
「まだです」
姉は卓を見た。
何か言いかけ、口を閉じた。私の手を肘から外す代わりに、袖へ握らせ直した。
「では、私にも見せろ。道で聞いた話がある」
隣へ立った。
私は札を開いた。十九枚だった。数え直しても十九枚。書き入れ、帳面の女へ渡せた。
姉が私の顔を見ていた。少し困って、それから、嬉しそうになった。
「よし。これで話せるな」
私は袖を放さず頷いた。
*
趙活は紙へ、荷受け場と裏の道を描いた。
姉が見てきた道を加える。人を逃がせる幅はあるが、車は通れない。奥の部屋には動けない者が二人いる。荷を全部守ろうとすれば、その二人を後へ回すことになる。
私は紙へ指を置いた。
「荷を捨てる方を、先に決めてください。始まってから全部大切だと言われても、運べません」
帳面の女は口を引き結んだ。
趙活が頷いた。
「薬はここまで。あとは人だ。道を空けるためなら、箱を壊していい」
「代金は」
「俺の顔にでも書いておいてくれ。今は払えん」
女は笑わなかった。
趙活も笑わなかった。
やがて女が、自分の帳面の端へ印をつけた。
小梅はその間、戸口で使いの男と話していた。
声が違った。柔らかく、相手を急がせない。なのに男の返事はだんだん短くなり、最後には深く頭を下げた。
「本梅がお返事するわ。待つ場所は、そちらでよいのね?」
小梅が戻ると、趙活が紙から顔を上げた。
「どこへ行く気だ」
「お話をしに。活くんが行ったら、顔を見ただけで刀を抜く人もいるでしょ」
「お前が笑って行ったら、安心して刀を抜かれるだけじゃないのか」
小梅は笑ったまま、彼を見た。
趙活の声が低くなった。
「何でも一人で片づけてから、ほら褒めて、と帰ってくるなよ。俺はお前が何をされたかも知らずに、礼だけ言えばいいのか」
小梅はすぐには返さなかった。
指先で、卓の紙の端を押さえた。
「……活くん。アタシ、行くわよ。あんたのいる場所を、アタシも守りたいの。怖い顔をされたら後ろへ隠れて、それで済ませる気はないわ」
趙活の顎が動いた。
止めたい言葉が残っている顔だった。
小梅は身を乗り出し、その鼻の先を指でつついた。
「帰ってきて褒めてもらうのも、やめない。両方欲しいから。ケチくさいこと言わないで」
「……帰って来いよ」
「そこまで頼まれたら、本梅も断れないわね」
彼女は笑い、男を待たせている方へ出た。
誰と何を話すのか、私には全部分からなかった。聞こうとしたが、趙活は別の使いに呼ばれた。小梅の背を見て、それから山へ戻る荷を持った。
「俺は上へ行く。ここで何かあっても、すぐには来られん」
姉が頷いた。
「来いとは言わん。ここの道は、私たちが見ておく」
趙活は頭を下げ、走った。
小梅を追う方角ではなかった。
*
翌日、山の方で合図が上がった。
唐門への攻撃が始まったのだと、荷を取りに来た男が告げた。声より先に、空の担架を抱えた弟子たちが走っていった。
私は直した戸を開け放した。閉じて守るより、運び入れる人を通すためだった。
姉は表へ出た。
「奥を頼む」
私は頷いた。
姉の顔をもう一度見てから、背の刀を下ろした。鞘を壁へ寄せ、大きな刃を抜く。膝が少し頼りなく感じられた。姉が見えなくなる前に、仕事を始めたかった。
最初に来たのは、負傷者だった。
次は、薬を出せと言う男たちだった。
唐門へ送る荷は差し押さえる、と男は言った。誰の命令か帳面の女が聞くと、返事の代わりに剣の鞘で卓を叩いた。
墨壺が倒れた。
姉が男の手首をつかんだ。
「書く方の手を壊すな。お前のような客を追い返すのに、まだ使う」
男の顔が歪んだ。後ろの二人が武器を抜いた。
姉は捕まえた腕を外へ振り、その男ごと二人を戸口へ押し戻した。怒鳴り声がぶつかった。刃の音がした。
私は奥へ首を回した。
帳面の女は、もう人を動かしていた。抱える者、支える者、荷を蹴って道を空ける者。頼んだ通りに、箱より人が先へ出た。
横の戸が蹴られた。
私はそちらへ移った。左肩を壁へ寄せ、戸口の正面を右眼へ入れる。
二度目の蹴りで戸が開いた。
男の足が入った。
私は野太刀を低く振った。
内功を通した刃が、踏み込む脚を止めた。男の剣が遅れて下がってきたので、私は柄を引いて刃を立て、横へ払った。剣が戸の桟へ打ちつけられた。
次の一歩で、胸を斬った。
男は戸の外へ倒れた。
私は確かめに近づかなかった。もう一人が向こうから石を投げたので、壁の陰へ戻った。左から近づかれたら見えない。見えないところを内功が教えてくれるわけでもない。
私は戸の内側で待った。
男は倒れた仲間を跨いだ。
剣を前へ出し、こちらの刀を押さえて入ろうとする。私は真正面から押し返さず、相手が踏み込む方へ半歩退いた。
刃が木を削った。
私は刀を返した。男の手から剣が飛び、壁へ当たった。もう一度振れば、首へ届く。
男は両腕を上げた。
私は柄を胸へ打ち込み、外へ倒した。縛る人が来るなら生きている。来る前に起きて襲うなら、今度は斬る。
怖いから許す、とは言わなかった。
表の音が止んだ。
私は動けなかった。
止んだ理由を確かめるために出れば、ここを空ける。分かっているのに、刀を持ったまま戸へ一歩出た。
「晴!」
姉の声だった。
私は返事をした。大きすぎる声になった。
姉が横の道へ回り、倒れている男たちを見た。私の顔へ視線を戻す。私はその袖に血がないことを、何度も見た。
「ここにおる。中を見ろ」
姉の手が私の肩へ触れた。
刀を持つ腕が、そこでようやく下がった。
私は奥へ戻れた。
*
逃げた者は、帳面の女が数えた。
私が全員を救ったわけではなかった。運び出した若い男は手を切っていたし、一人は転んで膝を腫らした。壊した箱の中身が泥へ散り、拾ってよい物と捨てるしかない物を選り分けた。
表にいた男たちは、姉に腕を押さえられ、縄を掛けられていた。
死んだ一人は、道の端へ移された。
私はその顔を長く見なかった。
荷受け場へ新しい人手が来た。
山ではまだ戦いが続いていた。運び上げるはずの薬が足りない、と使いが言った。姉は表の道を確かめ、動ける者と残る者を分けた。私は直した戸の癖と、まだ危ない横道を引き継いだ。
残る者がいる。
その返事を聞いてから、私たちは薬材を運ぶ一行と山へ上がった。
道には折れた矢があり、担架が下りてきた。姉はすれ違うたび、私を自分の右へ寄せた。
唐門の近くへ着くと、薬を受け取る人が走ってきた。私は包みを渡した。その向こう、開けた場所で、人が倒れた。
「
叫んだ男の腕を、別の門弟がつかんだ。
倒れた男は、片膝をついた。口元を拭い、立った。
相手が何か言った。遠くて聞こえない。
唐陞は首を振り、前へ出た。
また倒された。
今度は、起きるまでに時間がかかった。
姉が前へ出かけた。傘の先が、地面から上がった。
その時、唐陞が手をついた。
立った。
姉は足を止めた。
「もう、よせ」
今度の声は聞こえた。
峨嵋の向無憂だと、薬を受け取った者が教えた。彼の方はまだ立てる。唐陞の膝は、立つたびに折れかける。
唐陞は口元の血を袖で擦った。
「ここから、先へは」
声が途切れた。
それでも、身体を退けなかった。
向無憂は長く彼を見た。やがて、構えていた手を下ろした。
「武では勝てた。だが、その心までは降せなかった」
頭を下げた。
唐陞はそれを見届けるまで立っていた。向無憂が退くと、駆けつけた門弟の肩へ身体が崩れた。
姉が短く息を吐いた。
私は、握っていた自分の袋の紐をようやく放した。
向こうで大きな声がした。
趙活の声だった。
「
人の間から、彼が見えた。
南宮深を捕らえ、武林盟の側へ向き直っていた。相手の兵刃が止まった。まだ全員が退いたわけではない。怒鳴る者がいた。捕まった者の名を呼ぶ声もあった。
私は姉の横へ寄った。
ここから先を動かしているのは、あの男たちだった。
*
撤退を命じたのは、
本人は退かなかった。後ろへ下がる者たちの前で剣を構え、殿を引き受けた。
趙活は追った。
「勝手に来て、勝手に帰れば済むと思うな!」
声が裂けた。
私のすぐ近くには、腕を布で吊った門弟がいた。その男が、そうだ、と叫んだ。帰れる者だけが帰って、倒れた者はどうなる。そういう声が、あちこちから上がった。
瑞笙の剣は下がらなかった。
彼も、今ここで帰ることが許しになるとは言わなかった。
人の声が少し収まってから、瑞笙が条件を出した。
武林盟の者を九十里先まで退かせる。十日の間、西武林盟へは手を出させない。そして今日の決着を、その十日後につける。
私は趙活の横顔を見た。
すぐに頷かなかった。疲れた肩が上下していた。
傷を負った唐陞が、人に支えられて前へ出た。場所を任せるという瑞笙へ、
十日。
その言葉が私たちの間を通った。
誰も歓声を上げなかった。倒れた人のところへ戻る足が、やっと動き始めた。
私は薬の残りを運んだ。
唐門の中では、血のついた衣のまま働いている人がいた。門は守られたが、誰も座ってはいなかった。
趙活はこちらを見つけて手を上げかけ、途中で肩を押さえた。
「無事だったか」
先に聞かれた。
私は頷いた。彼の顔にも、手にも新しい傷があった。
小梅が後ろから来た。肩に埃が積もり、笑い方だけはいつも通りだった。
「活くん、こっちへ来て。お医者さまが怒ってる。いま連れていかなかったら、本梅まで叱られちゃう」
「後で行く」
「じゃあ、足を折って連れていくわ。急患なら順番も早いでしょ」
「行く! 自分で行くから!」
小梅は彼の腕を取った。
その指が、一瞬だけ強く締まった。趙活も顔を見て、何か言うのをやめた。
私は道を空けた。
唐門は、今夜なくならなかった。
それだけで全部が終わったと思いたかったが、眉山という名が、十日という声と一緒に残っていた。
知っていた火の色を、まだ頭から追い出せなかった。
姉は傘を壁へ立てた。
「残るぞ」
私の返事を待たず、小梅のいる方を見た。
私は包みを置いた。
「私も、います」
「知っておる。宿代を数えよ」
趙活はその夜、私たちへ会いに来た。
肩の手当てをされ、片方の袖が膨らんでいた。自分の傷の話をしたがらず、荷受け場のことばかり聞いた。
姉が彼の話を途中で止めた。
「眉山へは、誰と行く」
趙活の顔が変わった。
少しの間、こちらを見た。それから、見に来てくれるかと聞いた。
「大勢に囲まれても、俺の方に知った顔があれば、少しは格好をつけられる。……小梅のそばにも、いてやってほしい」
姉は頷いた。
「お前が頼まずとも、あの子は見る」
「俺の方も、少しは見てください」
「では、目を離せん勝負にしろ」
趙活は困った顔をし、次に笑った。
私は姉の手を取った。
彼の勝負に何を足せば勝てるか、私は知らなかった。前に知った結末には、この顔も、この小梅もいなかった。
それでも、今度は帰った知らせを待つだけではなかった。
残る日を数えるために、私は卓の紙へ最初の印をつけた。