雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
十日は、傷の治る長さではなかった。
洗った衣は乾いたが、その衣を着る肩の方は、まだ動かすと痛む。趙活は平気な顔で荷を持ち、小梅に見つかり、取り上げられた。次の日には別の荷を持っていた。
「手が二本あるから、つい」
「足も二本あるわね。一本ずつ使えなくしてみる?」
「怖いことを、数える練習みたいに言うな!」
小梅は笑った。
彼女の笑う時刻が、前より少なくなっていた。
荷受け場の三日間を終え、私は仕事を引き継いだ。直した戸、壊してよい箱、まだ荷車の通らない道。帳面の女と確かめ、次の者へ道具を渡した。
それから唐門へ戻った。
小竹も、手伝えることがあるはずだと言って崆峒から来ていた。姉は庭の端で、その小竹と話していた。鉢植えのことだと思って近づくと、小竹が顔を赤くして、だから底に穴を空けろと言ったのだ、と怒っていた。
「私の植え方が悪いというのか」
「そうなのだ!」
姉が笑った。
小竹は笑わなかった。花を枯らされかけたことを本気で怒っていて、姉はその怒りを少し喜んでいるようだった。
私は二人の間へ入りかけ、姉の横へ座った。
小竹の話は、私が来ても終わらなかった。
その夜も、姉へ手を伸ばして眠った。
隣にいれば眠れる。何度も目を覚まし、指へ触れ、また眠る。そのくらいの眠りだったが、私は翌朝起きて仕事が出来た。
小梅の部屋が何時まで明るかったかは、知らない。
*
出立の朝、趙活は食べ終えた椀を長く見ていた。
小梅がその横に座り、箸を揃えた。一本の向きが少しずれ、彼女はもう一度揃えた。
「まだ食べるか」
趙活が聞いた。
小梅は笑顔を作った。
「活くんがもう一杯食べるなら、本梅が付き合ってあげてもいいわ」
「お前、俺の分まで半分取っただろ」
「覚えてたの? こんな大事な日に、せこい男ね」
軽口のあとに、いつもの大笑いは来なかった。
小梅が彼の袖を取った。趙活は椀を置いた。
姉は私の肩を叩き、先へ行くぞと言った。
私たちは二人より前に出た。振り返ると、小梅と趙活が並んで歩き始めていた。
遅かった。
怪我人に合わせているだけなら、あそこまで遅くはならない。小梅が何か言うたび、趙活は足を止めかけ、その顔を覗いた。
私は聞こうとすれば近づけた。
姉に袖を引かれた。
「足元を見ろ。お前まで転ぶと、朝から縁起が悪い」
私は前を向いた。
少し後ろで、旅に、という言葉が聞こえた。返事は聞こえなかった。
眉山へ上がる道には、同じ方角へ向かう者がいた。
笑う者もいた。勝つ方へ賭けたような顔の男たちが、二人の名を並べ、軽い声で強い弱いを言い合っている。
私はその声が嫌いだった。
姉は一度そちらを見た。男の一人が目を逸らした。
山上へ入る手前で、小梅が趙活の腕を引いた。
急な動きだった。彼が振り返るより先に、胸へ顔を押し当てた。
「やだ」
聞こえたのは、その声だった。
小梅は顔を上げず、何か続けて言った。強い風に消され、私には言葉にならなかった。
趙活の手が、彼女の後頭部へ回った。髪を撫で、背を抱いた。小梅はその衣を両手で握ったまま動かない。
やがて顔を上げた。
笑おうとして、出来なかった。
「嘘ついたら、許さないからね」
趙活が何か答えた。
彼女は首を振った。頷くのではなく、何かを拒むように振り、それから急に彼の肩を叩いた。
「早く行きなさいよ! 行くんでしょ!」
大きな声になった。
近くの者が振り返った。小梅はその者たちを睨んだ。
「何を見てるの。道、空けなさい!」
趙活は離れた。
小梅の手から、袖が抜けた。
私はその瞬間を見ていた。自分なら離せないと思った。彼女も離したかったのではないことが、指の形だけで分かった。
姉が小梅のそばへ行った。
何も言わず、少し離れて立った。
*
観戦する者は、脇へ通された。
長老の一人が、盟主の気を散らさず、静かに控えてほしいと告げた。姉は短く頷き、私を自分の右側へ置いた。左から人が押してくる場所を避けたのだ。
私はその手を握った。
握りすぎたのか、姉が指を一度動かした。緩めたつもりでも、まだ離せなかった。
小梅は前を見ていた。
笑っていない顔を、わざわざ隠そうともしなかった。
瑞笙がそこにいた。
白い光が剣の縁に当たっていた。姿勢のよい男だった。趙活が近づくと、自分の側の声へ顔を向け、制した。
趙活は小剣を持っていた。
大きな刀を背負った私より、その刃はずっと小さく見えた。だが、彼は刃の大きさを確かめず、瑞笙の顔を見ていた。
二人は礼をした。
瑞笙の声は、静かによく通った。ここへ来た相手を侮る声ではなかった。
「君と相まみえるなら、ここが武林の最高峰だ」
私は眉山の峰を見上げかけ、やめた。
山の高さの話ではなかった。
趙活が笑った。綺麗な笑顔ではない。口の端を少し歪め、疲れた顔のまま胸を張った。
「俺にも、これ以上の戦場はない」
小梅の指が、衣の端を握った。
私は姉の手へ顔を近づけた。まだ勝敗は分からない。知っていた物語の中の人ではなく、これから勝つか負けるかする男が、そこにいた。
剣が上がった。
風の音が、急に遠くなった。
*
初めの打ち合いは、目で追えた。
瑞笙が正面から入った。趙活は小剣を斜めに当て、相手の刃を身体の外へ流した。足を進める。瑞笙が退き、返す剣が趙活の肩の近くを通った。
衣が切れた。
趙活は止まらず、低く入り直した。
それからは、全部を見られなかった。
剣が合う音で顔を向けると、二人はもう違うところに立っている。片方が退いたと思っても、次には追う足が止まり、追われていた方が前へ出た。
私は位置を変えようとした。
姉の手が引いた。
「ここで見ろ」
前へ出ても、あの速さは変わらない。
私は足を止めた。
趙活が肩を庇ったように見えた。
その一瞬、瑞笙の剣が深く入った。小剣が受ける。刃が跳ねた。
金属の光が、二人から離れた。
趙活の小剣だった。
「勝負あり――」
瑞笙の声がした。
私は息を詰めた。
だが趙活は退かなかった。剣を落とした手を返し、その手の甲で、瑞笙が剣を握る手を打った。
嫌な音がした。
瑞笙の指が開いた。宝剣が落ちる。
趙活が身を起こすより早く、瑞笙の拳がその顔を打った。
「まだ終わってねえ!」
趙活の声が飛んだ。
剣を拾わなかった。瑞笙も拾えなかった。二人の足が、地面の剣を遠くへ蹴り出した。
拳が来る。
肘で受ける。
膝が上がる。
その脚を抱えようとした手が、顔を殴られて外れる。
小梅が一度、大きく息を吸った。
名前を呼ぶのかと思ったが、声は出なかった。
初めはまだ、武芸の打ち合いに見えた。
足の置き方があり、相手の手を外す工夫があった。私は姉の稽古を思い出しながら、次にどちらへ動くかを追おうとした。
それが、途中から分からなくなった。
趙活が瑞笙の顔を殴った。
瑞笙も殴り返した。
趙活は脇を打たれても、まだ顔へ手を出した。口元から血が飛び、どちらのものか分からなかった。瑞笙が彼の腰へ組みつき、二人がよろける。
「噛むな、おい!」
趙活が怒鳴った。
周りがざわついた。
本当に、瑞笙が噛みついていた。
さっきまで天下の最高峰を語っていた男の歯が、敵の身体へ食い込んでいる。趙活はその頭を押し、離れた途端にまた顔を殴った。
「お前は、なぜ顔ばかり!」
「ほかなら痛くないのかよ!」
ひどい返事だった。
私は笑うどころではなかったのに、隣で姉が短く吹き出した。
すぐにその顔が引き締まった。趙活が膝をついたからだった。
瑞笙も片足を引きずっていた。
どちらも、相手が立つのを待つ余裕はなかった。肩をつかみ、腕を外し、もう拳の形もきれいではない手をぶつけ合う。
趙活の頬が腫れていた。
瑞笙の顔も、さっきとは違っていた。
「少しは、見慣れた顔に、なったな」
趙活が息の間に言った。
瑞笙は返事の代わりに殴った。趙活も殴った。
二人とも、倒れた。
私は身体を前へ傾けた。誰が立つのか、どちらが動けるのか。
どちらも立たなかった。
倒れたまま、何か罵り合っていた。
瑞笙の足が趙活の脛を蹴った。
趙活が地面をつかみ、砂を投げた。
「目に入った!」
「俺の脚にも入ったぞ、今の足が!」
周りの顔が、どうすればよいか分からない顔になった。
小梅は笑わなかった。口元を押さえたまま、目を離さずにいた。
私は姉の手へ爪を立てていることに気づいた。力を抜こうとしても、二人のどちらかが止まるまでは抜けなかった。
瑞笙が何か言い、趙活が答えた。
風に消えて、言葉は聞き取れなかった。
次に聞こえたのは笑い声だった。
二人とも笑っていた。
喉が痛むような、息の足りない笑いだった。笑えば傷に響くらしく、趙活が腹を押さえた。それを見て瑞笙がまた笑い、咳き込んだ。
私はまだ、笑ってよいのか分からなかった。
ここは勝負の場所で、どちらかが死ぬかもしれなかった。
それでも二人は、泥と血にまみれたまま、もう一度笑った。
*
趙活が顔の血を拭った。
袖も汚れていたので、綺麗にはならなかった。
瑞笙は身を起こし、地面へ片手をついた。剣を持っていた方の手は、うまくつけないようだった。
「……僕の負けだ」
聞こえた。
小梅の肩が落ちた。倒れるのかと思って姉が手を伸ばしたが、彼女は自分で立っていた。
私は趙活を見た。
勝った男はすぐには喜ばなかった。膝を立て、瑞笙の顔へ向き直った。
それから交わした言葉は、さっきの喧嘩よりずっと静かだった。
静かだから、近くにいる私たちへ届いた。
瑞笙は、唐門が無実であることを知っていた、と言った。
私のそばで、誰かの息が荒くなった。
私も、顔を上げた。
ならば、なぜ。
瑞笙はそれを自分で続けた。大勢の思惑を恐れ、名声を捨てられず、正しいと知る方へ踏み出せなかったことを、途切れながら話した。さっき互いに笑ったからといって、倒れた者が起き上がるわけではなかった。
趙活は聞いた。
私は聞くのが嫌になった。姉が狙われていたら、話を最後まで聞けただろうか。
趙活が言った。
「あんたは殺さない」
ざわめきが起きた。
趙活はその方へ振り返らず、瑞笙を見ていた。
「逃げて楽になるな。盟主なんだろう。あんたの側で何が行われたか、一つずつ片づけろ。両方で死んだ者も、傷ついた者も、あんたの責めだ。背負えるか」
瑞笙はすぐ答えられなかった。
趙活は急かさず、けれど取り消さなかった。国を守るためにその命を使え、今度は選び損ねるな、と続けた。
誰かが納得しない声を上げた。
武林盟の側からも、不満が聞こえた。どうしてあの男をそのまま行かせるのかと。
瑞笙がそちらを向いた。
「彼は、傷が癒えていなかった」
趙活の肩へ目をやった。
私が十日の間に何度も見た、庇われていた肩だった。
「それでなお、二人とも倒れた。これで勝ったと言えるほど、僕は強くない」
その声は、よく通った。
もう一度戦えとも、味方へ助けろとも言わなかった。
「今日から武林盟は、西武林盟に従う」
はっきりと告げた。
不満の声はすぐ消えたわけではない。それでも、剣を抜く者はいなかった。負けた盟主を支える者が前へ出て、勝った男の方にも人が近づいた。
趙活が立とうとした。
失敗した。
小梅が走った。
*
「動かないで!」
小梅の声が、山上を突き抜けた。
趙活は手をついた姿勢で止まった。小梅が前へ膝をつき、その顔を両手で挟んだ。
「顔は、やめろ。そこ、今、すごく――」
「知ってるわよ! 見てたもの!」
声が震えた。
彼女は片手を離し、袖で血を拭こうとして、汚れたところを避けられなくなった。趙活がその手を取った。
「帰ろう」
小梅の顔が崩れた。
すぐに彼の肩へ顔を埋めたので、私にはそれ以上見えなかった。
趙活は痛そうに目をつぶり、それでも離せと言わなかった。
姉が近づき、布を差し出した。
小梅は受け取った。顔を上げる時には、もう怒った顔を作っていた。
「活くん。あんな綺麗な顔を、よくもそこまで殴ったわね」
「俺の心配じゃないのか」
「後でどう言い訳するか考えてるの。うちの男、顔へ恨みがあるのよ、って言うしかないじゃない」
「事実みたいに言うな!」
彼は言い返し、痛みに顔をしかめた。
小梅は急に笑った。笑い声の途中で息が詰まり、もう一度彼を抱いた。
帰るのに、ひどく時間がかかった。
立てると思って立つと膝が笑い、歩けると言って歩くと肩を庇う。小梅が右へ回り、左へ回り、どちらでも痛いと怒られた。
私たちは急がせなかった。
天下の英雄が、山道で小石を踏んだだけで悪態をついていた。すれ違う人々は、それでも道を空け、頭を下げた。
私はその顔を一つずつ見た。
生まれや顔の醜さを話す声ではなかった。
名前が呼ばれた。
趙活。
勝って、帰る人の名だった。
*
唐門の門が見えた時、迎える人が走ってきた。
小竹もいた。趙活を見た瞬間、泣きそうな顔になり、次に怒った。
「どうして、そんなに顔を腫らして帰ってくるのだ!」
「こっちが知りたい。小梅に聞いてくれ、全部見てた」
「僕が聞いたら、きっと話が増えるのだ!」
小梅は、よく分かってるわね、と笑った。
私たちはその声と一緒に門をくぐった。
その後の数日は、帰ってきた人を寝かせるだけでは済まなかった。
礼に来る者、返事を取りに来る者、勝った側へ急に親しげになる者が、次々に顔を出した。趙活はうんざりしながらも会った。小梅は人を選び、待たせ、笑顔のまま戸を閉めた。
崆峒から来た使いの前では、声が変わった。
「掌派人のお話は、聞いたわね。返事を届けるのがあなたの仕事よ。帰り道で都合のいい言葉へ直して、耳まで切り落としてほしいの?」
男は慌てて首を振った。
小梅はにっこりした。
「なら、その二つ、大切にして帰ってね」
その男が小竹を見て、何か言いかけた。
小梅が間へ入った。
「小竹は、アタシの大事な友達。姉妹みたいなものよ。呼びつける用があるなら、先に本梅へお伺いを立てなさい」
「小梅、僕は自分で――」
「知ってる。だからアタシも、勝手に言うの」
小竹は口を尖らせたが、逃げなかった。
小梅は近くにいた女の方へ手を伸ばした。
私はその人との詳しい来歴を知らなかった。小梅が誰を身内へ入れるかを、私の知っている人数に限る理由もなかった。
姉が戸口で笑った。
「口だけは元気になったな」
「もともとよ。蘭姉さんこそ、帰ったら晴姉さんを少し貸して。戸を閉める音が悪いの。脅す時に、きちんと鳴ってほしいでしょ」
「人の仕事を何だと思っておる」
「役に立つ仕事」
小梅は真面目な顔をしてみせた。
私は修繕の約束をせず、姉の横へ寄った。
*
雪山へ帰る前の日、私は家へ送る荷をまとめた。
刀の鞘を拭き、使わずに済んだ暗器の袋を確かめ、道具を包んだ。刀も暗器も、彼の勝負には使わなかった。それで勝てる保証など、最後までなかった。
勝った。
あの男が、自分で。
姉が旅の袋を持ってきた。
「帰ったら、まず何をする」
私は少し考えた。
「戸を開けます」
「それから」
「姉さまを、椅子へ座らせます」
「よい心がけだ。茶もつけろ」
私は笑い、彼女の腕へ両手を回した。
袖の下に骨があり、血が通っていた。顔を寄せると、姉は好きなだけ寄らせた。外では、明日の荷を積む声が続いていた。
私が知っていた物語は、もう道案内をしなかった。
それでも朝は来る。
私たちには、帰って開ける戸があった。