雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
四月に入って間もなく、私たちは家へ戻った。
戸を開ける前に、姉が鍵を落とした。私が拾おうとして野太刀の鞘を柱へ当て、家主の女に、帰ってくるなり壊さないでおくれと言われた。
姉はひどく笑った。
私は笑っている人の荷まで持って、中へ入った。
竹の椅子は、同じ声で鳴いた。
姉はそこへ座ると、二度と立たないような顔をした。私は布を外し、窓を開け、本と水を運んだ。三つ目の用を言いつけられたところで、さすがに立ち止まった。
「姉さま。脚をお怪我では、ありませんよね」
「長い道を歩いた」
「私もです」
「よく歩いたな。では、茶を持ってこい」
私は茶を持ってきた。
姉は受け取る前に、自分の隣の敷物を足で寄せた。私が座る場所だった。
腹を立てるのが遅れた。
*
翌朝、庭に子供が六人いた。
出掛ける前には三人だった。
「増えておる」
姉が言った。
もともとの三人は、いい仕事をした顔で胸を張った。
「毎日やったよ」
「友達にも教えた」
「先生が帰ってくるって言ったら、みんな来た」
姉は三人を順に見た。
「私が留守の間に、お前たちはもう先生になったのか。これは大したものだ。では私も教わろう」
最初の子の顔が、みるみる固まった。
姉はその前へ両足を揃えて立ち、お師匠さま、どう立てばよいのですか、と丁寧に聞いた。子供は後ろの友達を見た。友達は全員、あまり関係がないような顔をした。
私は戸口で笑いをこらえた。
「晴さんも、見せるんだよね」
別の子が言った。
私の笑いだけが止まった。
「そうだったな」
姉が振り返った。
子供たちは助けが来たように左右へ分かれ、私を通した。
道中でも稽古はした。宿の庭でも足を動かした。だから出来るはずだった。
出来た。
だが、姉が途中で右と言い、子供が自分の右へ動き、私はその子を見て左へ踏んだ。
「逆!」
三人が同時に叫んだ。
新しく来た子まで、事情を知らないまま一緒に笑った。
「先生、晴さん、間違えた!」
「目がよいな。見抜いた者は、次に前へ出ろ」
笑い声が急に細くなった。
私は姉を見た。姉は愉快そうに顎を上げた。
「教える者は楽しいぞ。晴もやるか」
私は真面目に考えた。
子供たちが一歩、私から遠ざかった。
*
廖平が来たのは、子供たちが三度ずつ転がされた頃だった。
近くまで荷を届けた帰りだという。彼は庭の様子を見て、持ってきた包みを私へ渡した。
「これ、あとで見てくれ」
道具の用だと思ったら、中身は菓子だった。
私が驚くと、廖平は、遊んでるところへ仕事を持ってくるほど野暮じゃない、と言った。その直後、車輪も鳴るんだけどな、と付け足した。
「結局、仕事ではありませんか」
「菓子が先だ」
姉が包みを覗いた。
子供も覗いた。
廖平が慌てて高く掲げたが、一番小さい子が、みんなの? と聞いた。
彼は私を見た。
私は何も言わず笑った。
「……みんなのだ」
歓声が上がった。
廖平は姉へ恨めしそうな目を向けた。姉は、私にまで買ってこいとは頼んでおらんぞ、と逃げた。
昼には少し早かった。
子供の一人が、菓子が出るまで稽古をやめたくないと言い出した。足の稽古は嫌だったはずだ。姉が問い返すと、足ではなく剣なら、と答えた。
そこで私が、遊びならどうかと提案した。
「影を踏みます」
全員が足元を見た。
姉だけが、すぐ私を見た。
「お前は妙な遊びをよく知っておるな」
「勝てますから」
言ってから、少し言いすぎたと思った。
姉はもう、その言葉を覚えた顔をしていた。
*
畑の外れの空き地を借りた。
踏むのは影の頭。身体へ触らない。走らない。跳ばない。内功も使わない。私は最後の三つを、主に姉へ向けて言った。
「まだ何もしておらん!」
「念のためです」
「お前にそれを言われると、腹立たしいな」
廖平が横で笑い、審判を押しつけられた。
私と姉が三人ずつ子供を受け持つことになった。
相手の影を取れば外へ出す。最後まで残った方が勝ち。菓子は勝敗と関係なく分けると言ったら、子供たちが少し不満そうになった。勝って多く貰うつもりだったらしい。
「負ける方は、少なくてもよいのですか」
私が聞くと、姉の組へ入った子が真顔で頷いた。
「先生がいるから」
こちらの三人が、私を見た。
私は余計なことを聞いた。
始め、と廖平が言った。
私はすぐ一人を取った。足元ばかり見ていた子の横へ回り、本人から離れた影の頭を踏んだのだ。子供は驚いて、自分の頭を両手で押さえた。
「影ですから、痛くは――」
「晴、こっちへ来い」
姉が呼んだ。
私は振り向き、一歩、そちらへ出た。
「取った」
姉の靴が、私の影の頭に載っていた。
廖平が顔を背けた。肩が揺れている。
「今のは、駄目です」
「なぜだ。走っても跳んでもおらん」
「呼ばれれば、参ります」
「実に素直だった。今後もそうあれ」
私の組の三人が、揃って私を睨んだ。
さっき取られた子が、外で場所を空けてくれた。彼女だけは優しかった。
「勝てるって、言ったよ」
優しくはなかった。
私は地面へ座り、姉の背を睨んだ。
ところが姉も負けた。
私の組の子が、影を追う途中で足を交差させ、転びそうになった。姉が癖で足の置き方を指示した。その子は言われた通りに直し、たった今教わった一歩で姉の影を踏んだ。
「先生、取った!」
私は立った。
「見ました! 踏みました、頭です!」
廖平も笑いながら頷いた。
姉は教えた足と自分の影を見比べた。子供が怖くなって靴を引こうとすると、姉が手で止めた。
「引くな。取ったなら、そのまま見せびらかせ」
子供は靴をぐりぐり動かした。
姉は、そのくらいでよい、と言った。
私の隣へ座った時、姉はまだ口元を曲げていた。
「覚えが早い」
「教え方が、よろしかったのでしょう」
「嬉しそうだな、お前」
私は頷いた。
姉は私の額を指で押した。私はその指を取り、彼女が振りほどく前に両手で握った。
次の勝負が始まるまで、返さなかった。
*
今度は廖平が入った。
彼は大股で歩けば勝てると思ったらしい。足が大きく、影も大きい。いちばん小さい子が、彼の一歩の間へ自分の足を差し出し、あっさり頭を取った。
「今の、届くのか」
「届いたよ」
子供はもう一度踏んでみせた。
廖平は姉を見た。姉は何も助けず、腹を抱えた。私は笑いすぎて、膝へ手をついた。
「二回取ったから、お菓子二つ?」
子供が聞いた。
廖平の顔がひどく真剣になった。
「勝ち負けは菓子に関係ない。最初にそう決めた」
審判の時より、ずっと立派な声だった。
私の左眼に気づいたのは、別の子だった。
左から呼ばれて返事が遅れたので、不思議に思ったらしい。傷を見るために近づいたのではなく、私の横を歩いて、どこからなら振り返るか確かめていた。
「こっち、見えないの?」
「顔を向けるまでは」
「じゃあ、こっちへ行けば勝てる?」
私はその顔を見た。
心から試したそうだった。
「どうぞ」
子供は笑い、左へ回った。
私も足ごと向きを変えた。姉との稽古で覚え直した動きだった。けれど、この遊びでは刀も持てず、逃げ道を塞ぐために勁を出すことも出来ない。子供が身体を止めると、私は勢いだけで向きすぎた。
見える方へ戻そうとする間に、影を踏まれた。
「勝った!」
私は下を見て、敗北を認めた。
少し悔しかった。目が見えないせいにすれば、その子の得意顔を小さく出来る。言わなかった。そういう口実を使いたくなる自分の方が、よほど情けなかった。
姉のところへ戻ると、右の目元に汗が流れた。
「強かったな」
姉が子供を見て言った。
私は返事をせず、姉の袖で汗を拭こうとした。
「こら! 自分の布を使え!」
私は笑って逃げた。
逃げてから、前の男の身体ならこんな真似はしなかったと気づいた。子供のように振る舞ってよい歳では、今もない。それでも姉へ悪戯をして、追って怒られるのが、ひどく楽しかった。
最後は姉と一対一になった。
「呼ぶのはなしです」
「分かった」
「私の後ろを見て、誰か来たふりをするのも」
「まだ思いついてもおらんことまで、教えてくれるな」
姉が笑った。
私は足を置き直した。
歩くだけ。押せない。つかめない。いつもの稽古なら出来ることを、ここでは全部我慢する。姉の影の長い側へ回ると、姉は半歩退いた。追うと、今度は影が自分の影へ重なった。
分からなくなる。
私は首を回し、頭の形を探した。
その時、姉の足が伸びた。
私は踏み込んだ。あと少しで髪の影へ届く。
地面から、二人とも消えた。
雲だった。
子供たちが一斉に空へ文句を言った。廖平は両手を広げ、全員負けだと宣告した。
「何だ、その判定は!」
姉が真っ先に怒った。
「なら全員勝ちで」
「初めからそう言え!」
私は息が続かなくなるまで笑った。
廖平が、勝った者から菓子だと言うと、全員が大人しく並んだ。姉も並んだ。
私の前へ入ろうとしたので、袖を引いて後ろへ戻した。
*
子供たちは、家まで戦果を語った。
回数が歩くほど増え、一度しか取っていないはずの子が三度勝ったことになった。姉は半分だけ訂正し、半分は面白がって聞いていた。
私は姉の反対側へ割り込んだ。
子供と手をつないでいた左手は、空かなかった。私は右手を取った。どちらも姉の手だったが、先に私を見てほしかった。
「晴は、何回だ」
「明日、数え直します」
「負けた数か」
「勝った数です」
子供が笑った。
私は少しだけ強く握った。姉も握り返し、門まで歩いた。
廖平の車輪は、少し鳴っていた。
菓子の包みを空にしてから、私は裏へ回り、持ち上げてもらった車輪を確かめた。姉は戸口へ椅子を出して座っていた。こちらを見たり、本を読んだりしている。
手はよく動いた。
見えない左側へ道具を置く癖だけが残り、一度探した。廖平がこちらだと指した。私は位置を変え、続きを済ませた。
「これで、しばらく走れます」
「助かった。次は雪の前だな」
廖平が荷を締め直した。
その隙間に、小梅から託された包みが見えた。途中で預かってくれたものだった。手紙には、家へ行ったら泊めてね、断ったら屋根から入るから、とあった。
私は姉へ読んだ。
姉は楽しそうに、屋根を壊したら直させろ、と言った。
泊まる部屋は一つ余っている。
道具で埋めたのは私だった。
私は返事の紙をすぐには取りに行かなかった。
*
夕方、家が二人ぶんの音へ戻った。
子供の忘れた布を門へ掛け、庭の道具を片づけた。姉は窓辺で本を読んでいた。
私は外からその顔を眺めた。
今度の家には、その顔があった。
「明日は、町へ行ってくる」
姉が言った。
私は窓へ近づいた。
「朝ですか」
「うむ。本を返して、花を見る。お前は子供らを見ておけ。今日の負けを、稽古で仕返しするなよ」
私は窓枠へ手を置いた。
返事をしなければと思った。いつ帰るか聞けばよい。町は近い。敵はいない。姉は第三香に勝ち、唐門からも帰ってきた。その人が本を返しに行くだけだった。
「朝の、子供は」
自分で言った言葉を忘れた。
姉が顔を上げた。
「子供は、明日も来るぞ」
私は頷こうとした。
爪が木へ当たった。離そうとしても、指だけそこに残った。姉の背が戸の外へ出ていくところを考えた途端、目の前の窓も本も、うまく名前を持たなくなった。
「晴」
姉は本を閉じた。
窓へ身を寄せ、私の手を取ろうとした。一度では外れなかった。
「お前は、ほんに……」
その後が続かなかった。
姉は私の指を一本ずつ木から外し、自分の手を握らせた。私が強く引いたので、窓枠へ肘をぶつけた。
「痛いぞ。中へ入れ」
私は回り込んで戸を開けた。
姉の手が届いた。私は自分からその腕を抱き、肩へ額を寄せた。姉が椅子から立ちかけると、離されると思って追った。
「立たん。座っておる。……まったく、花を見るにも大騒ぎだな」
私の右の頬へ、姉の掌が当たった。
「昼からにする。子供らを帰して、二人で行く。店が閉まるまでぐずぐずするなよ」
私は顔を上げた。
今度は声が出た。
「一緒に、花を選びたいです」
「その顔だ」
姉は笑ってしまった。
呆れている声なのに、掌は私の頬を離れなかった。私はその手へ顔を寄せた。姉の目がまた緩んだ。
「私が言うと、急によく喋る」
私は返事の代わりに、腕を握り直した。
明日の朝を失くした人が、嬉しそうだった。
*
夕餉は、家で作った汁だった。
竈はもう煙を吐かなかった。私が鍋を持つと、姉が椀を並べた。嘴の長い鳥が、今日もこちらへ向いていた。
私は塩を少し入れすぎた。
姉は一口飲み、私を見た。
「父さんを呼ぶ気か」
私は笑った。
薄めようと鍋へ手を伸ばすと、姉が先に水差しを取った。膝が触れる場所へ椅子を寄せ、二人で鍋を覗いた。
左側へ置いた杓子が見つからず、姉に教えられた。私は顔を回し、取った。明日も気をつけなければ、また探すのだろう。
姉が卓を二度叩いた。
私は一度返した。
「まだ、覚えておったか」
忘れるものか。
声に出す前に、姉の手が卓の下へ来た。私はその指を取った。
「今日はお前が負けたから、最後の芋は私だ」
「全員勝ったはずです」
「廖平の判定は当てにならん」
「姉さまが、そう言えとおっしゃいました」
姉はもう食べていた。
私は椀を置いて抗議した。姉が笑い、私もつられて笑った。塩の強い汁は、まだ半分残っていた。