雪山の娘   作:雪山派外姓弟子

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第二章 知っていた結末
四人分の荷


 祝いから三日後、父は食卓を蹴った。

 蹴ろうとしたのではない。勢いよく立った膝が当たり、椀が一つ倒れた。

 

「剣を抜いたのか!」

 

 門弟の肩が跳ねた。

 私は落ちる椀を見ていた。床へ着く前に、母が取った。汁だけが父の裾へ飛んだが、誰も拭こうとしなかった。

 

「向こうが先に、梁師兄を殴りました。俺たちは止めようとしたんです。なのに、あいつが――」

「お前の剣を、誰が抜いたと聞いている!」

 

 男は腰を押さえた。

 鞘に血がついていた。濡れた赤ではなく、茶色い筋だった。

 私は父の膝から下りようとした。さっき立ち上がった時に椅子へ移されていたのを忘れて、足が床へ届かなかった。

 

 酒場で、どちらの土地の冬が寒いかという話をした。

 初めは笑い合っていた。誰かが大袈裟に言い、誰かが嘘つきと返した。

 相手は崆峒(こうどう)派の門人だった。

 

 崆峒。

 冬の寒さ。

 その二つが重なった途端、ばらばらだった記憶が、ひと続きになった。

 雪山派は滅ぼされる。父母は殺され、姉は連れていかれる。

 今、話しているのが、その始まりだった。

 

「行きます!」

 

 椅子から落ちるように下りた。

 私は父の腰へ飛びつき、服を引いた。

 

「父さま、南へ。今。お荷物、あります。母さま!」

 

 母が来た。私を抱こうとしたので、その袖もつかんだ。

 

「晴、いまは父さんたちの話を――」

「今なの!」

 

 喉が裏返った。

 姉が椅子から立った。私の頭の中では、血のついた鞘と、母の横顔と、名前を変えられる姉が、順番もなく重なっていた。

 

「みんな死ぬ。父さまも、母さまも、ここにいたら、だめです!」

 

 門弟が顔を背けた。

 父は私の手首を取った。服を離されると思い、私はなお強く引いた。

 

「晴、こちらを見ろ。誰から、何を聞いた」

 

 言えなかった。

 前の人生で遊んだ物語だと言って、この父に何を信じてもらえばよいのだろう。記憶では父に顔も声もなかった。今の父は私を抱けるし、怒れば卓も揺れた。

 

「崆峒の人が、いっぱい来ます。みんなで、父さまを。姉さまを連れて――」

 

 息が続かない。

 母が私の背をさすった。私はその手まで逃がしたくなくて、身をひねった。

 

「晴、聞いてる。聞いているわ。さっきから、一つも聞き流してない」

 

 母の声も大きかった。

 私は母を見た。笑ってはいなかった。

 

 父は門弟へ向き直った。

 

「双方、何人死んだ」

 

 男が答えた。

 私は数を聞き取れなかった。死んだ、という言葉のところで耳の奥が鳴った。

 父は、剣を抜いた者を全員ここへ集めろと言った。ほかの者は山を下りるな。仇討ちに出たら、戻ってきても門をくぐらせない。

 男が反発しかけると、父はその鞘を指した。

 

「腹が立っているのは、お前だけか! 死んだ奴の家へ、俺は今から何を言いに行く!」

 

 私は父の服を抱え直した。

 父は、すぐには私の指を外さなかった。

 

     *

 

 母は、その夜から人を動かした。

 雪がひどくなる前に麓へ下りられる家は下りる。身寄りがなければ、先に行く者が泊まる所を探す。

 里には五千近い人がいた。雪山派の門弟だけの家ではない。関係のない人にまで、父が逃げろと命じられるわけでもなかった。それでも、子供や病人のいる家へ、門弟が一軒ずつ声を掛けに行った。

 門を閉じれば争いを防げる、と私は思った。

 来る者を入れず、こちらからも出なければ。

 父へそう言うと、父は私の頭越しに門を見た。

 

「門の外にも、うちの者がいる。今、皆を戻しているところだ」

 

 誰も出ない、と私は小さな板へ描いた。

 字はうまく書けなかったから、門と、その前に横棒を三本描いた。姉は絵を見て、柵だと言った。

 私は父の部屋へ持っていき、出入り口へ立てた。

 父はそれを拾い、机へ置いてから外へ出た。

 

 次に、荷を四人分作った。

 母の袋には服が入っていた。姉の袋にも、私の袋にも入っている。父のものだけがなかったので、自分で上着を引き出した。

 大きくて重く、廊下を引きずった。

 母に見つかると、取り上げられる前に言った。

 

「これが、なかったからです」

 

 母は上着を受け取り、袖についた埃を払った。

 

「父さんのも入れるわ。ちゃんと、これを」

 

 私は袋の口を持った。

 服が入るところを見届けて、ようやく次のものを取りにいけた。

 

 前には、機械を止める前に、必要なものを揃えた。手順が抜ければ、終わるはずの作業が終わらなくなる。今も、何かが足りないから父が来ないのだと思いたかった。

 食べ物。靴。父の服。母の櫛。

 四人分を並べた。

 姉はその隣で、燕の凧を畳もうとして骨を曲げた。

 母が止めると、姉が怒鳴った。

 

「だって、入らないんだもん!」

 

 母は姉の腕を抱いた。姉は凧を持ったまま、母の胸へ額をぶつけた。

 私は二人の横で、四つの包みをもう一度数えた。

 

     *

 

 朝、父は二通の手紙を出した。

 一通は崆峒へ。争いの始めから、双方の生き残りの話を聞きたいというものだった。

 もう一通は上官隼(じょうかんじゅん)へ。古い友人だという。

 使者が三日分の食べ物を受け取るのを見て、私は父を見上げた。

 

「今日、来ませんか」

 

 父は首を振った。

 私は手紙へ触ろうとした。これを書いている間にも、もっと荷を作れる。けれど父は封をし、使者へ渡した。

 

「返事を待つために、ここへ残るのではない。晴、母さんから聞いたか。お前たちは、薬屋の荷車で出る」

「父さまも?」

 

 父は答える前に私を抱き上げた。

 それだけで、答えが分かった。

 私は肩を叩いた。強く叩いたが、父は痛がらなかった。

 

「四人です。四人の、作りました!」

「分かっている。怪我をした門弟を運び出したら、俺も下りる」

「先に、来て!」

 

 父の耳元で叫んだ。

 父は私を抱いたまま廊下へ出た。そこに、戸板へ寝かされた男がいた。昨日まで店の前を歩いていた人だった。片足が太く巻かれ、運ぶ者へ、金を貸したままだと何度も言っていた。

 父はそちらへ膝をつき、笑って答えた。

 

「下で取り立てろ。俺より先に着くぞ」

 

 男も笑おうとした。

 私には、それが嫌だった。

 この人を置いてくればいい、と、口のすぐ近くまで言葉が来た。

 言わなかった。父に叱られるのが分かっていたからだ。

 私は男を見ず、父の襟へ顔を押しつけた。

 

 阿秀は最初の荷車で出た。

 姉は青い紙船を渡した。今度は、潰れていない船だった。

 

「帰ってきたら、また流すの。それまで、濡らさないでね」

「麓の川のほうが、大きいって」

「そこで、流しちゃだめ!」

 

 姉の声に、阿秀が驚いた。

 姉は船を取り返しかけ、やめた。阿秀は胸へ抱え、うなずいた。

 荷車が行くと、姉は私の手を痛いほど握った。

 私は文句を言わなかった。姉のほうから強く握るのは、嫌ではなかった。

 

     *

 

 薬屋の荷車へ、私たちの袋を積んだ。

 母が怪我人の手当てを終え、姉が靴を履き直す。私も荷台へ上げられた。

 荷は四人分あった。

 私は父の上着が入った袋に、跨がるようにして座った。

 

 その時、門の外で怒鳴り声が上がった。

 

「子を逃がすより先に、殺した奴を出せ!」

 

 母が振り返った。

 剣を持った男たちが門前にいた。どこからか、私たちが出る話を聞いたらしい。

 母は私を荷台から下ろし、姉と一緒に壁の陰へ押し込んだ。

 父は門を開けさせ、自分で出た。

 

「俺が掌門だ。家族ではなく、俺と話せ」

 

 相手は父の話を待たなかった。

 刃が振られた。父が相手の腕へ触れ、男が前へ崩れる。二人目の掌を受けた時、冬の乾いた空気が、布を裂くように鳴った。

 男が膝をついた。

 父がその剣を蹴り退ける。

 私は勝ったと思った。

 今なら出られる。父は強い。ここを通って、四人で下りられる。

 

 脇から突き出された刃が、父の手首を切った。

 赤い線が空中に飛んだ。

 母が私の顔を胸へ押しつけた。見えなくなった向こうで、父が怒鳴る。

 

「追うな! 放っておけ、退く者に手を出すな!」

 

 足音が遠ざかっていった。

 父は門の内へ戻り、自分で戸を閉めた。手の傷から血が落ち、いつもの土間へ黒い点を作った。

 母は私を姉へ預け、父の腕をつかんだ。

 

「勝った顔をしないで。ここを押さえて」

「勝った顔など、しておらん」

「じゃあ何。その、平気だって顔は」

 

 父は母の言う通りにした。

 私は姉の腕から抜け、父の血が落ちた所へしゃがんだ。

 指を近づけたが、触れられなかった。

 

 荷車は出なかった。

 門前に戻ってきた見張りが、通りを行き来していた。薬屋とその家族は出しても、掌門の妻子を乗せた車は通さないと告げられた。

 母は私たちの袋を下ろした。

 私は袋へしがみついた。下ろさなければ出られる、とでもいうように。

 母は私ごと抱えて下ろした。

 

     *

 

 その晩、父に負けて退いた男が死んだ、と知らされた。

 降伏した者を雪山派の掌門が殺した。

 そういう話になっていた。

 

「俺が帰した時には、自分で歩いていた!」

 

 父の声が壁を越えた。

 遣わした使者は戻らず、次に来た男は、もう話し合う顔をしていなかった。

 死んだ者の師兄弟が来る。その知人も来る。誰に呼ばれたか分からない者まで、雪山を討つために山へ上がっている。

 私は戸の隙間から、父の包帯を見ていた。

 父が相手へ説明すると、男は言い終わるのを待たず、「皆が納得すると思うか」と言った。

 

 父は、それ以上相手を引き留めなかった。

 山を明け渡す。道を分けて、門弟を退かせる。

 命令が飛び、夜の家が動き出した。

 

 麓への大道は、もう使えなかった。

 裏の峠を越えれば、隣の谷へ出られる。昼に通った門弟がいたので、夜のうちに二人が確かめに行った。

 母は荷を二つに減らした。父の上着は残った。私はそれだけを、何度も確かめた。

 廖平は町の人と荷を送る役になった。嫌がった。剣を持って父の前へ立ち、俺も門弟です、と叫んだ。

 

「なら、俺の言うことを聞け!」

 

 父も怒鳴り返した。

 母は二人の間へ入らず、雪山の旗を廖平の荷へ押し込んだ。端の裂けた所に、母の古い服の布が縫いつけてあった。荷を減らす合間に、母が繕っていたものだった。

 

「向こうで立てて。散った人が、どこへ来ればいいか分かるように」

 

 廖平は旗を引き出した。押し戻すかと思ったが、畳み直し、いちばん上へ収めた。

 姉が店の看板を持ってきた。

 

「これも」

 

 四本尾の燕が描かれた、小さな板だった。

 廖平はそれを受け取った。今度は、重いとも邪魔だとも言わなかった。

 

 私は門まで追いかけ、彼の袖を引いた。

 

「父さまも、乗せて」

 

 廖平は私を見た。それから、家のほうを見た。

 

「下で待ってる。荷を置いて、迎えに戻るからな」

 

 私はうなずかなかった。

 彼が歩き出しても袖を引き、母に抱き上げられるまで放さなかった。

 

 空が白くなり始めた頃、峠を見に行った男が戻った。

 二人出たのに、一人だった。

 門をくぐった途端に倒れ、口から、泡の混じった赤いものを吐いた。

 私が用意した四人分の靴は、まだ、戸口に並んでいた。

 

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