雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
四人分の荷
祝いから三日後、父は食卓を蹴った。
蹴ろうとしたのではない。勢いよく立った膝が当たり、椀が一つ倒れた。
「剣を抜いたのか!」
門弟の肩が跳ねた。
私は落ちる椀を見ていた。床へ着く前に、母が取った。汁だけが父の裾へ飛んだが、誰も拭こうとしなかった。
「向こうが先に、梁師兄を殴りました。俺たちは止めようとしたんです。なのに、あいつが――」
「お前の剣を、誰が抜いたと聞いている!」
男は腰を押さえた。
鞘に血がついていた。濡れた赤ではなく、茶色い筋だった。
私は父の膝から下りようとした。さっき立ち上がった時に椅子へ移されていたのを忘れて、足が床へ届かなかった。
酒場で、どちらの土地の冬が寒いかという話をした。
初めは笑い合っていた。誰かが大袈裟に言い、誰かが嘘つきと返した。
相手は
崆峒。
冬の寒さ。
その二つが重なった途端、ばらばらだった記憶が、ひと続きになった。
雪山派は滅ぼされる。父母は殺され、姉は連れていかれる。
今、話しているのが、その始まりだった。
「行きます!」
椅子から落ちるように下りた。
私は父の腰へ飛びつき、服を引いた。
「父さま、南へ。今。お荷物、あります。母さま!」
母が来た。私を抱こうとしたので、その袖もつかんだ。
「晴、いまは父さんたちの話を――」
「今なの!」
喉が裏返った。
姉が椅子から立った。私の頭の中では、血のついた鞘と、母の横顔と、名前を変えられる姉が、順番もなく重なっていた。
「みんな死ぬ。父さまも、母さまも、ここにいたら、だめです!」
門弟が顔を背けた。
父は私の手首を取った。服を離されると思い、私はなお強く引いた。
「晴、こちらを見ろ。誰から、何を聞いた」
言えなかった。
前の人生で遊んだ物語だと言って、この父に何を信じてもらえばよいのだろう。記憶では父に顔も声もなかった。今の父は私を抱けるし、怒れば卓も揺れた。
「崆峒の人が、いっぱい来ます。みんなで、父さまを。姉さまを連れて――」
息が続かない。
母が私の背をさすった。私はその手まで逃がしたくなくて、身をひねった。
「晴、聞いてる。聞いているわ。さっきから、一つも聞き流してない」
母の声も大きかった。
私は母を見た。笑ってはいなかった。
父は門弟へ向き直った。
「双方、何人死んだ」
男が答えた。
私は数を聞き取れなかった。死んだ、という言葉のところで耳の奥が鳴った。
父は、剣を抜いた者を全員ここへ集めろと言った。ほかの者は山を下りるな。仇討ちに出たら、戻ってきても門をくぐらせない。
男が反発しかけると、父はその鞘を指した。
「腹が立っているのは、お前だけか! 死んだ奴の家へ、俺は今から何を言いに行く!」
私は父の服を抱え直した。
父は、すぐには私の指を外さなかった。
*
母は、その夜から人を動かした。
雪がひどくなる前に麓へ下りられる家は下りる。身寄りがなければ、先に行く者が泊まる所を探す。
里には五千近い人がいた。雪山派の門弟だけの家ではない。関係のない人にまで、父が逃げろと命じられるわけでもなかった。それでも、子供や病人のいる家へ、門弟が一軒ずつ声を掛けに行った。
門を閉じれば争いを防げる、と私は思った。
来る者を入れず、こちらからも出なければ。
父へそう言うと、父は私の頭越しに門を見た。
「門の外にも、うちの者がいる。今、皆を戻しているところだ」
誰も出ない、と私は小さな板へ描いた。
字はうまく書けなかったから、門と、その前に横棒を三本描いた。姉は絵を見て、柵だと言った。
私は父の部屋へ持っていき、出入り口へ立てた。
父はそれを拾い、机へ置いてから外へ出た。
次に、荷を四人分作った。
母の袋には服が入っていた。姉の袋にも、私の袋にも入っている。父のものだけがなかったので、自分で上着を引き出した。
大きくて重く、廊下を引きずった。
母に見つかると、取り上げられる前に言った。
「これが、なかったからです」
母は上着を受け取り、袖についた埃を払った。
「父さんのも入れるわ。ちゃんと、これを」
私は袋の口を持った。
服が入るところを見届けて、ようやく次のものを取りにいけた。
前には、機械を止める前に、必要なものを揃えた。手順が抜ければ、終わるはずの作業が終わらなくなる。今も、何かが足りないから父が来ないのだと思いたかった。
食べ物。靴。父の服。母の櫛。
四人分を並べた。
姉はその隣で、燕の凧を畳もうとして骨を曲げた。
母が止めると、姉が怒鳴った。
「だって、入らないんだもん!」
母は姉の腕を抱いた。姉は凧を持ったまま、母の胸へ額をぶつけた。
私は二人の横で、四つの包みをもう一度数えた。
*
朝、父は二通の手紙を出した。
一通は崆峒へ。争いの始めから、双方の生き残りの話を聞きたいというものだった。
もう一通は
使者が三日分の食べ物を受け取るのを見て、私は父を見上げた。
「今日、来ませんか」
父は首を振った。
私は手紙へ触ろうとした。これを書いている間にも、もっと荷を作れる。けれど父は封をし、使者へ渡した。
「返事を待つために、ここへ残るのではない。晴、母さんから聞いたか。お前たちは、薬屋の荷車で出る」
「父さまも?」
父は答える前に私を抱き上げた。
それだけで、答えが分かった。
私は肩を叩いた。強く叩いたが、父は痛がらなかった。
「四人です。四人の、作りました!」
「分かっている。怪我をした門弟を運び出したら、俺も下りる」
「先に、来て!」
父の耳元で叫んだ。
父は私を抱いたまま廊下へ出た。そこに、戸板へ寝かされた男がいた。昨日まで店の前を歩いていた人だった。片足が太く巻かれ、運ぶ者へ、金を貸したままだと何度も言っていた。
父はそちらへ膝をつき、笑って答えた。
「下で取り立てろ。俺より先に着くぞ」
男も笑おうとした。
私には、それが嫌だった。
この人を置いてくればいい、と、口のすぐ近くまで言葉が来た。
言わなかった。父に叱られるのが分かっていたからだ。
私は男を見ず、父の襟へ顔を押しつけた。
阿秀は最初の荷車で出た。
姉は青い紙船を渡した。今度は、潰れていない船だった。
「帰ってきたら、また流すの。それまで、濡らさないでね」
「麓の川のほうが、大きいって」
「そこで、流しちゃだめ!」
姉の声に、阿秀が驚いた。
姉は船を取り返しかけ、やめた。阿秀は胸へ抱え、うなずいた。
荷車が行くと、姉は私の手を痛いほど握った。
私は文句を言わなかった。姉のほうから強く握るのは、嫌ではなかった。
*
薬屋の荷車へ、私たちの袋を積んだ。
母が怪我人の手当てを終え、姉が靴を履き直す。私も荷台へ上げられた。
荷は四人分あった。
私は父の上着が入った袋に、跨がるようにして座った。
その時、門の外で怒鳴り声が上がった。
「子を逃がすより先に、殺した奴を出せ!」
母が振り返った。
剣を持った男たちが門前にいた。どこからか、私たちが出る話を聞いたらしい。
母は私を荷台から下ろし、姉と一緒に壁の陰へ押し込んだ。
父は門を開けさせ、自分で出た。
「俺が掌門だ。家族ではなく、俺と話せ」
相手は父の話を待たなかった。
刃が振られた。父が相手の腕へ触れ、男が前へ崩れる。二人目の掌を受けた時、冬の乾いた空気が、布を裂くように鳴った。
男が膝をついた。
父がその剣を蹴り退ける。
私は勝ったと思った。
今なら出られる。父は強い。ここを通って、四人で下りられる。
脇から突き出された刃が、父の手首を切った。
赤い線が空中に飛んだ。
母が私の顔を胸へ押しつけた。見えなくなった向こうで、父が怒鳴る。
「追うな! 放っておけ、退く者に手を出すな!」
足音が遠ざかっていった。
父は門の内へ戻り、自分で戸を閉めた。手の傷から血が落ち、いつもの土間へ黒い点を作った。
母は私を姉へ預け、父の腕をつかんだ。
「勝った顔をしないで。ここを押さえて」
「勝った顔など、しておらん」
「じゃあ何。その、平気だって顔は」
父は母の言う通りにした。
私は姉の腕から抜け、父の血が落ちた所へしゃがんだ。
指を近づけたが、触れられなかった。
荷車は出なかった。
門前に戻ってきた見張りが、通りを行き来していた。薬屋とその家族は出しても、掌門の妻子を乗せた車は通さないと告げられた。
母は私たちの袋を下ろした。
私は袋へしがみついた。下ろさなければ出られる、とでもいうように。
母は私ごと抱えて下ろした。
*
その晩、父に負けて退いた男が死んだ、と知らされた。
降伏した者を雪山派の掌門が殺した。
そういう話になっていた。
「俺が帰した時には、自分で歩いていた!」
父の声が壁を越えた。
遣わした使者は戻らず、次に来た男は、もう話し合う顔をしていなかった。
死んだ者の師兄弟が来る。その知人も来る。誰に呼ばれたか分からない者まで、雪山を討つために山へ上がっている。
私は戸の隙間から、父の包帯を見ていた。
父が相手へ説明すると、男は言い終わるのを待たず、「皆が納得すると思うか」と言った。
父は、それ以上相手を引き留めなかった。
山を明け渡す。道を分けて、門弟を退かせる。
命令が飛び、夜の家が動き出した。
麓への大道は、もう使えなかった。
裏の峠を越えれば、隣の谷へ出られる。昼に通った門弟がいたので、夜のうちに二人が確かめに行った。
母は荷を二つに減らした。父の上着は残った。私はそれだけを、何度も確かめた。
廖平は町の人と荷を送る役になった。嫌がった。剣を持って父の前へ立ち、俺も門弟です、と叫んだ。
「なら、俺の言うことを聞け!」
父も怒鳴り返した。
母は二人の間へ入らず、雪山の旗を廖平の荷へ押し込んだ。端の裂けた所に、母の古い服の布が縫いつけてあった。荷を減らす合間に、母が繕っていたものだった。
「向こうで立てて。散った人が、どこへ来ればいいか分かるように」
廖平は旗を引き出した。押し戻すかと思ったが、畳み直し、いちばん上へ収めた。
姉が店の看板を持ってきた。
「これも」
四本尾の燕が描かれた、小さな板だった。
廖平はそれを受け取った。今度は、重いとも邪魔だとも言わなかった。
私は門まで追いかけ、彼の袖を引いた。
「父さまも、乗せて」
廖平は私を見た。それから、家のほうを見た。
「下で待ってる。荷を置いて、迎えに戻るからな」
私はうなずかなかった。
彼が歩き出しても袖を引き、母に抱き上げられるまで放さなかった。
空が白くなり始めた頃、峠を見に行った男が戻った。
二人出たのに、一人だった。
門をくぐった途端に倒れ、口から、泡の混じった赤いものを吐いた。
私が用意した四人分の靴は、まだ、戸口に並んでいた。