雪山の娘   作:雪山派外姓弟子

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帰る人がいない

 母が男の上着を開くと、胸が不自然にへこんでいた。

 息を吸おうとするたび、喉の奥が鳴る。

 私は袋を持ったまま、その音を聞いていた。

 

「峠に、崆峒が……もう、越せません」

 

 男はそれだけ言い、横向きに咳き込んだ。

 母が布を当てた。すぐに赤くなった。

 父は門弟を二人呼び、裏の山腹を見に行かせた。峠ではなく、石垣を回って林へ入る道だ。

 私は、まだ道があることに飛びついた。

 

「そちらへ、行きます。父さまも」

 

 父は私の頭を撫でた。

 その手へ頬を押しつける前に、外で鐘が鳴った。

 

 一度目の音は高かった。

 二度目に続いて、鐘ではない音がした。門板が割れ、人が叫んだ。父が走り出す。

 私は戸口の四人分の靴を見た。父のものが、まだあった。

 父は違う靴を履いていた。

 用意したものを全部置いて、行ってしまった。

 

     *

 

 母は剣を抜いた。

 稽古で見た剣と同じだった。けれど、いつもの布で包まれた木ではない。戸口から入る光を受け、白い線が走った。

 母はそれを右手に持ち、左腕で私を抱いた。

 

「梅、帯をつかんで。絶対に先へ走らない」

 

 姉が母の帯を握った。

 荷は持たなかった。私は袋を指したが、母は見なかった。

 裏廊下へ出ると、朝の雪に、靴跡がいくつもついていた。こちらへ向かう跡だった。

 先導する門弟が石垣の角へ出た。その体が、いきなり後ろへ跳ねた。

 母が姉を引き寄せる。

 男の剣が石へ当たり、火花が散った。

 

「奥へ! 戻ってください!」

 

 母は庭を見た。

 そちらにも人がいた。見慣れない帯、知らない顔。二人、三人。まだ出てくる。

 私は目で数えた。前の仕事で、止めるべき所と、まだ動いている所を分けるように。

 石垣の横だけが空いている。

 

「そっち――」

 

 言うより先に、細い影がそこから飛び出した。

 

「梅師姉、こっちです! は、早く!」

 

 第三香だった。

 崩れた石の向こうに、子供の通れる隙間があった。彼は枝を押し上げ、こちらへ手を伸ばした。

 姉が一歩出た。

 母がその襟をつかんで引き戻す。

 木の上から、別の人影が下りてきた。

 

 第三香の体が横へ折れた。

 枝が跳ね、少年の姿が石垣の向こうへ消えた。

 土の落ちる音が、長く続いた。

 

「三香!」

 

 姉が叫んだ。

 母は返事を待たず走った。私の顔が胸へ押しつけられ、見えていた場所が全部なくなった。

 空いていたのではなかった。

 私には、そこにいる人間が見えなかっただけだった。

 

 物置の横で、父と会った。

 私は両腕を伸ばした。父が見えれば、抱いてもらえると思った。

 父は私たちの前を横切り、追ってきた男へ掌を出した。

 男の肩が大きく揺れる。剣先が地面へ落ち、父の足が、その膝を払った。

 一人が倒れた。

 二人目の刃を父が避ける。その後ろから、三人目の掌が来た。

 父は腕で受けたが、足元の雪が深くえぐれた。

 咳と一緒に、口から赤いものが落ちた。

 

 私は母の肩から下りようともがいた。

 下りたら父へ行ける。何をすれば助かるかは分からなかったが、ここで抱かれていることだけは間違っている気がした。

 母は私を姉へ渡した。

 

「二人で、物置の裏へ。梅、晴を連れていって」

 

 姉の腕が私の胴へ回った。重くて抱え切れず、二人とも地面へ膝をつく。

 母はその前へ立った。

 知らない男の剣と、母の剣がぶつかった。

 

「行きなさい!」

 

 私は姉に引かれた。

 足が雪へ刺さる。三歩で靴が脱げかけ、しゃがもうとすると、姉に腕を引き上げられた。

 店を出していた縁側が見えた。

 敷物はなく、腰掛けだけが横倒しになっていた。私はそれを踏んで転び、姉も一緒に倒れた。

 

 後ろで母が叫んだ。

 私たちを呼んだのではない。

 姉が先に振り返り、私も見た。

 

 母の剣が、男の肩へ食い込んでいた。

 男は退かず、左手で母の腕をつかんだ。もう一人が、その脇へ回る。

 母は体をひねった。

 間に合わなかった。脇から突き出された剣が、母の胸を貫いた。

 母の膝が雪へつき、剣先が下がった。

 

「母さま!」

 

 私は走り戻った。

 姉の指が肩へ掛かったが、服が滑った。

 母は私を見て、口を開いた。大きく、はっきりと動かした。

 来るな、と言っていた。

 私は止まらなかった。

 

 背中から持ち上げられた。

 知らない腕が腹へ食い込み、息が出た。私はその腕を叩き、噛んだ。苦い布の味がした。

 男が舌打ちし、私の首の後ろをつかんだ。

 

「父さま! 離して、父さま!」

 

 父がこちらへ来た。

 来てくれた。

 黒い袖の男が前へ入り、父の掌を受けた。袖が肘まで裂け、男の顔が歪む。

 父はその体を押し退けた。

 別の男が横から剣を突き出す。

 父が私へ伸ばしていた手を引き戻した。刃を避けるためではない。こちらへ向けさせないために、その腕をつかんだ。

 黒い袖の男が、父の胸へ踏み込んだ。

 

 鈍い音がした。

 父の足が、雪の上を後ろへ滑った。

 それでも私を見ていた。口を開けたが、声より先に血が出た。

 父が膝をつき、横へ倒れた。

 私は手を伸ばした。

 父の指も、動いた。

 届かなかった。

 

 姉が、父を呼ぶ声をやめなかった。

 私は呼べなくなった。男の腕を叩くと、自分の手だけが痛んだ。

 母のそばへ誰かが行き、剣を拾った。母は動かなかった。

 父の手も、もう動かなかった。

 二人とも、死んでしまった。呼んでも、もうこちらを向いてくれなかった。

 

「娘は生かせ。二人とも連れていく」

 

 命令する声がした。

 姉が腕をねじられて立たされた。私は母のほうへ体を向けた。抱えている男が、反対を向いた。

 最後に見えたのは、母の靴だった。

 台所へ急ぐ時に、よく踵を踏んでいた靴だった。

 

     *

 

 荷車で、私は何度も同じことを言った。

 

「戻ります」

 

 父を呼ぶ時の声ではなく、道を間違えた人へ言う声で言った。

 返事がなかったので、立った。

 姉が服を引いた。私はその手を払おうとして、姉の手首に青い指跡があるのを見た。

 それでも、車の縁へ足を掛けた。

 

「晴、だめ!」

 

 姉が抱きついてきた。二人で藁へ倒れた。

 車を引く男が振り返る。

 

「一緒にすると騒ぐなら、分けるぞ」

 

 姉の腕が強くなった。

 私はその腕をつかみ、男の顔を見た。

 分ける。

 父と母がいない場所で、姉まで。

 さっきまで見ていた山道が見えなくなった。喉が閉じ、息を吸っているのに入ってこない。私は姉の服へ顔を押しつけた。肩をつかみ、背へ腕を回し、どうしても届かない所へ爪を立てた。

 

「離さない! 晴、離さないから!」

 

 姉が男へ叫んだ。

 その声で男は前を向いた。姉は私を自分の膝へ引き上げ、髪へ頬を押しつけてきた。

 私は姉の手を取り、頬へ当てた。布では足りなかった。指が直接頬に当たると、やっと一息、空気が入った。

 姉の袖は濡れていた。

 私のせいだと思ったが、顔を上げると姉も泣いていた。

 

「母さん、まだ、そこに……父さんも、置いてきちゃった」

 

 姉の声が急に細くなった。

 私は何も言えず、姉へ体を押しつけた。姉の泣く息が頬へ当たった。

 止まってほしいのか、続いてほしいのか、自分でも分からなかった。

 

 車の前で、町の者は追わないという話をしていた。

 もう散ってしまった者を追っても仕方がない、と別の男が言った。

 阿秀は先に下りた。廖平は看板と旗を持っていった。

 私はその二つを思い浮かべ、母へ話そうとして顔を上げた。

 知らない男の背中しかなかった。

 

     *

 

 崆峒へ着くまで、何晩も外で寝た。

 私たちは食べさせられ、寒ければ布を投げて寄越された。死なせるつもりはないらしかった。

 だから安全なのだと、自分へ何度も言った。

 言っている途中で姉が水をもらいに立つと、私はその足へ抱きついた。姉が転び、椀の水が藁へ染みた。

 別の水が来るまで、私は飲めなかった。

 姉の膝に座り直し、腕へ片手を掛けると、ようやく椀を持てた。

 私の手を見て、姉は次から先に自分の腕を差し出した。

 

 着いた先には、広い階段があった。

 姉は私の手を引いて上った。途中から私を抱こうとして、抱けず、また歩かせた。

 私たちは知らない大人の前へ並べられた。

 筆を持つ男が名を聞き、姉は夏侯梅と答えた。

 

「蘭と改める」

 

 上座から声がした。

 姉が顔を上げた。

 

「梅です。母さんが、梅って」

 

 筆は、もう紙へついていた。

 姉は私の手を離しかけ、すぐ握り直した。

 

「書かないで。私、その名前じゃない!」

 

 隣の男が姉の肩を押さえた。

 私はその手へ飛びついた。押してもびくともせず、指を一本つかむと、逆に手首を取られた。

 姉が身をひねった。

 

「妹を触らないで!」

 

 上座から制する声がした。

 男は私を放した。私は姉へしがみついた。

 名を変える話は、取り消されなかった。

 

「妹は」

 

 筆を持つ男が尋ねた。

 姉は私の頭を抱いたまま答えた。

 

「晴。晴です。この子は、晴」

 

 私の名だけが、元のまま書かれた。

 

     *

 

 与えられた部屋には、寝床が二つあった。

 私は片方へ座り、姉がもう片方へ行こうとすると声を上げた。

 

「こちら!」

 

 姉は服を置きに行っただけだった。

 すぐ戻ってきたが、私は立ったまま待ち、袖をつかんでから座った。

 

 手当てに来た女は、柔らかな声で話した。

 姉の擦り傷を洗い、腕の指跡へ薬を塗る。姉が痛がると、子供の扱いに慣れた様子で別の話をした。熱い飯が来ること。明日は着替えを持ってくること。

 姉は、初めて誰かの顔を長く見た。

 

「母さんも……そこを、そうやって」

 

 言い終わらずに泣き出した。

 女は姉の頭を胸へ寄せた。

 私は二人の間へ入った。

 

「姉さま、私を、見て」

 

 女の手を押した。姉を撫でている手だった。

 どかないので、腕の下へ頭を押し込んだ。女が驚き、身を引く。その隙に姉の膝へ座った。

 

「もう、いいです」

「お姉ちゃんの手を、まだ巻いているのよ」

 

 私は姉の手を胸へ抱えた。

 女の顔が見えないほうへ向け、掌へ自分の頬を当てる。

 

「晴、巻いてもらわないと」

 

 姉に言われても、離せなかった。

 女は少し困った顔をし、私の横から布を回した。私の頭が邪魔で巻けなくなると、姉が自分の手を少しずつ持ち上げた。

 私も一緒に動いた。

 最後まで、姉の手から頬を離さなかった。

 

 女が出ていく時、姉は礼を言おうとした。

 私は姉の襟を引いた。

 

「ここ、見て」

 

 姉がこちらを向いた。

 私は姉の目を見た。泣いているのに、私を見て笑おうとした。

 

「いるよ。晴のお姉ちゃん、ここにいる」

 

 その声を聞くと、私はようやく膝から下りた。

 床に置かれた椀を取って、粥を口へ運んだ。姉の腕へ肘が当たっていた。姉が少し動くと、私も椀を持ったままついていった。

 姉は動くのをやめ、自分の椀をこちらへ引き寄せた。

 

 夜、髪を解くと、母の紐が落ちた。

 姉はそれを拾い、両手で握った。

 私は手を出したが、姉はしばらく渡してくれなかった。やがて私の手首へ巻き、ほどけないように結んだ。

 姉の目から、涙が一つ落ちた。

 

 布団へ入ると、姉は壁を向いた。

 私はその背を引いた。

 

「姉さま、こっち」

 

 返事がなかった。肩だけが揺れていた。

 私は起き上がり、壁と姉の間へ膝を入れた。姉は顔を隠し、縮こまった。

 

「せまい。晴、お願い、ちょっと」

 

 私は待てなかった。

 姉の袖を引き、顔を隠す指へ自分の指を重ねた。一本ずつ外そうとすると、姉は袖で乱暴に顔を拭いて、こちらを向いた。

 私はその胸元へ横になった。

 姉の息が、額へ当たった。

 

 しばらくして、姉の目が閉じた。

 私は枕を二度叩いた。

 一度、返ってきた。

 もう一度二度叩くと、姉の指が布の上を探した。

 

「晴、眠いよ……」

 

 私はその指を取った。

 

「もう一度だけ」

 

 姉は返した。

 指が緩み、息が長くなる。

 私は枕へ手を持ち上げた。今日はここでやめればいい。姉は隣にいて、顔も見えている。

 手を下ろした。

 二(・)度(・)、音がした。

 

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