雪山の娘   作:雪山派外姓弟子

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第三章 姉のいる他所の家
与えられた席


 水の音がした。

 寝床の脇に、姉の上着が丸めてあった。腕を伸ばすと布だけが潰れた。まだぬくかった。それなのに、どこをつかんでも手がない。

 戸は閉まっている。向こうで椀が触れ合い、誰かが笑った。姉さまと呼んだつもりで、口からは息しか出なかった。

 床へ下りようとして、脚が布団に絡まった。膝を打った。痛みの遅れてくる間に戸まで這い、下の隙間へ指を入れた。三つの子供の指で、戸を引き上げることなどできない。知っているのにやめられなかった。

 

「晴、そこにいる? 開けるから、ちょっと――」

 

 戸が私の肩に当たった。

 姉だった。片手に椀、もう片方に小さな水差し。私はその脚へしがみついた。椀から水があふれ、頭へ落ちた。

 

「どうしたの! 水をもらっただけよ。すぐそこ、ほら、あの――晴、息をして」

 

 顔を上げろと言われてもできなかった。姉が膝を折ると、その首へ両腕を回した。椀は床へ転がった。姉の服を濡らした水が冷たい。唇を開いて吸っても、胸の奥へ入ってこなかったものが、姉の顎に額を押しつけた途端、咳になって飛び出した。

 姉も驚いていた。背中を撫でる手が行ったり来たりする。

 

「何もされてないでしょう。誰も来てないでしょう? 晴、私、ここ。ここにいるから」

 

 私は右手を探した。首から手を下ろし、姉の指を握る。左も欲しかった。姉が床の椀を拾おうとすると、そちらへ身体ごと倒れた。

 

「両方では、お水を飲めないわ」

 

 飲まなくていい。

 言えずに首を振った。姉は困ったように笑いかけ、その顔のまま私の手を両方とも包んだ。

 

「……あの時、ちゃんと持っていればよかった」

 

 何を、とは聞けなかった。母の手か、私の手か。姉は袖で私の鼻を拭き、床の水を見て、それから戸の向こうを見た。片づけなければ叱られると考えたのだろう。六つの姉は座ったままでいた。

 やがて外から女の人が覗き、あらまあ、と言った。

 私はそのときには、姉のお腹に頬をつけて、水が欲しいと頼めた。

 

     *

 

 午前のうちに、奪魄門(だっぱくもん)の広間へ呼ばれた。崆峒には四つの門があり、私たちを引き取ったのが、この奪魄門だった。

 一番前の座布団に少女が座っていた。こちらを見るなり眉を寄せたが、案内の男が通ると膝をそろえた。姉は私を抱え直した。歩けるとは言わなかった。

 

「夏侯蘭。前へ」

 

 呼ばれた姉は動かない。

 男がもう一度呼ぶと、小さな声で「梅です」と言った。男は聞かなかったことにして、たたんだ衣を持ち上げる。

 

「奪魄門の嫡伝(ちゃくでん)女弟子として迎える。そこへ座りなさい」

 

 少女が座布団を押さえた。

 

「ここですか?」

「荊紅(けいこう)。話は済んでいる」

「済んでません! お伝えすると言ったでしょう。私は、お返事を待って――なぜ、衣まで」

 

 立ち上がった拍子に、彼女の膝の下から薄い本が滑った。男は拾わず、姉へ衣を渡そうとした。

 

「師父のお考えだ。無礼をするな」

「それなら師父に言わせてよ。昨日まで私に覚えろと、全部、間違えずに言えるまで、あんなに……」

 

 荊紅は床の本を拾い、男へ突き出した。開いた頁に細かい字が並んでいる。自分の覚えた箇所を見せたいようだった。男が受け取らないので、今度は姉の前へ押し出した。

 

「読める? あんた、これが読めるの?」

 

 姉は首を振った。私の足が彼女の腰から滑り、姉は抱え直す。それだけで、荊紅の顔がひどく歪んだ。

 

「じゃあ何をしに来たの。何もできないくせに、そこへ座るの? 泣いていれば着物まで出てくるんだ!」

「座らない。帰るの」

「帰りなよ!」

 

 私は姉の襟をつかんだ。

 帰る家がないと言われるより、帰れと言われた方が怖かった。姉は荊紅へ何か言いかけ、口を閉じた。男が私を下ろすよう命じ、腕を伸ばした。

 

「その子は席を持たぬ。下へ――」

「いや!」

 

 姉が身を捻った。私の踵が男の衣を蹴り、男は眉を吊り上げた。荊紅が甲高く笑った。

 

「ほら。礼もできない。私がやったら、その場で叩くくせに!」

「荊紅!」

 

 男の声に、廊下を歩いていた少女が引き返してきた。

 彼女は戸口へ肘をかけ、三人を眺めた。姉の膝から落ちかけていた衣を取り、男の胸へ押し戻した。

 

「先に座らせたらどうだい。そいつ、妹の下敷きになって潰れるよ」

「呼延のお嬢様には関わりのない――」

「じゃあ外まで聞かせるんじゃないよ。父さんの客まで振り返ってた」

 

 男が口をつぐんだ。

 少女は座布団を足で寄せた。一番前ではなく、窓の下の、誰も使っていない一枚だった。姉をそこへ座らせ、自分は荊紅の本を覗き込む。

 

「それ、しまいな。破れたらあんたが損だ」

「どいて」

「はいはい」

 

 荊紅は本を抱きしめた。姉へ向けた目は、もう先ほどのように笑っていなかった。男に出ていくよう言われると、座布団を蹴った。入口で足を止める。

 

「私の物、勝手に使わないで」

 

 誰も返事をしなかった。姉は私を抱いている。荊紅はそれを睨んで出ていった。

 

     *

 

 助けてくれた少女は、昼になるとまた来た。今度は手に盆があった。

 姉が受け取らずにいると、少女は自分で椀へ口をつけた。

 

「うまいよ。今のうちだ。下の連中に先を越されると、底の豆しか残らない」

「毒かもしれない」

 

 姉は戸のそばに立ったまま言った。

 少女はもう一口飲んだ。

 

「これでも?」

「あなたには、効かないのかも」

「……ずいぶん都合のいい毒だね!」

 

 盆を置く音に、私の肩が跳ねた。少女はその動きを見たが、優しい声に直してはくれなかった。椀を姉の鼻先へ突きつける。

 

「それなら台所へ来な。鍋から自分で取ればいい。鍋全部に毒があるって言うなら、あたしはもう知らない。山中みんなで死んでやるよ」

 

 姉の喉が鳴った。泣くのかと思ったが、空腹だった。

 少女は勝った顔をした。

 

「あたしは呼延菊(こえんぎく)。呼ぶとき、毎度そこまで息を吸わなくていいからね」

 

 菊。

 その名には、覚えがあった。部屋も、椀も、目の前の顔も知らないのに、姉がこの人を失うことだけが、ひどく古い悲しみの形で残っていた。

 前の人生で画面を読み進めた私には、そこで止めることができた。今は、姉のお腹がまた鳴った。

 

「晴も、一緒に」

「連れてきな。あんた一人で二人分食べる気なら、それでもいいけど」

 

 姉は私を下ろした。私の両手を持って立たせ、それから片方だけを離した。離された手は、すぐ姉の袖をつかんだ。

 菊は先に歩き、途中で振り返って舌打ちした。

 

「遅い! ちっちゃい方、抱いてやろうか」

「いやです」

「そりゃどうも」

 

 置いていくかと思ったら、壁へ背をつけて待った。私は姉に引かれながら、その人の前を通った。

 台所では大きな鍋が湯気を立てていた。姉は自分で椀へ粥をよそい、ひと口食べ、私にも飲ませた。

 父を殺した側の山で、腹が温かくなった。

 菊は私たちより先に二杯目を取りに行った。

 

 菊の父は、四門を束ねる掌派人(しょうはじん)だった。姉が師父と呼ばされる奪魄門の掌門とは別の人で、菊が父を持ち出すと、奪魄の大人まで言葉を呑んだ。

 姉に押しつけられた嫡伝の席は、門の秘伝を継ぐ者の席であり、やがて掌派人に選ばれた男へ嫁ぐ席でもあった。荊紅が返せと訴えるたび、大人は姉の将来を話した。姉はまだ、母に決めてもらっていた着物さえ、一人で選べなかった。

 

     *

 

 第三香が窓を叩いたのは、それから幾晩か後だった。

 姉は私の頭を腕からずらしかけていた。音に気づいて窓を開けると、外の少年を見たまま固まった。

 

「師姉。声を、声を小さくしてください。僕です」

 

 第三香は窓枠を越えようとして、脚を引っかけた。姉が慌てて支える。その手に泥と血がついた。

 

「生きて……三香、生きてたの」

「はい。谷へ落ちて、向こうの斜面に。追っ手も、それで……あの、泣かないで。僕、ここまで来られましたから」

 

 それで姉は余計に泣いた。

 自分でも止まらないのか、袖を目へ押しつけたまま、同じ名を何度も呼ぶ。第三香の頬を拭こうとして、自分の涙で布を濡らした。

 

「ごめんなさい。拭いてあげたいのに、私、これしか」

 

 第三香は困り切って、懐から包みを出した。

 

「た、食べますか。餅です。盗んだんじゃありません。途中で運ぶのを手伝って、それで……師姉?」

 

 姉が彼の肩へ顔を埋めた。

 第三香の腕はしばらく宙にあった。やがて姉の背へ置かれる。私は寝床で膝を抱えた。姉の手を取り返したかったが、雪山から来たその泥だらけの手を、どかせとは言えなかった。

 

「師姉、逃げましょう。見張りが交代します。そこを、僕、見ていたんです」

「晴も」

「はい。僕が背負います」

 

 第三香の背は狭かった。前の私は、こんな子供なら自分が背負う方だった。腕をどう回すか一瞬ためらい、少年の肩が痛みに揺れると、その首へ慌ててしがみついた。

 私は女の子で、蘭の小さな妹で、置いていかれないようにつかまる方だった。

 第三香は私の脚を抱え、窓を越えた。

 

 庭の出口で菊が待っていた。

 

「へえ。寝てる時しか、人を連れ出せないのかい」

 

 第三香が足を止めた。姉はその前へ立ち、通してほしいと頼んだ。菊は姉を見ず、少年の汚れた靴を眺めた。

 

「崆峒の嫡伝を盗んでいくには、泥棒の腕が粗末すぎるね。あたし一人もどかせないくせに」

「どいてください」

「どかせば?」

 

 第三香が私を下ろした。

 姉の手がいったん私の肩へ置かれ、離れた。第三香が踏み込むと同時に、姉も菊の脇へ回った。二人で道を開けようとしたのだ。

 菊の袖が跳ねた。少年の腕が外へ流され、次の瞬間には姉が私の方へ押し戻されていた。私は姉の腰を受けようとして、二人で尻餅をついた。

 第三香は立っていた。立っているだけだった。菊に肩を押され、膝が折れる。

 

「まだやる? いいよ。次はその――」

「だめ、菊ちゃん、だ、だめ!」

 

 姉が飛び出した。

 菊の膝へすがり、頭を下げようとする。

 

「お願い、三香を、叩かないで。私が帰りたいって、私が……私、ここにいるから。晴も、連れていかないから、お願い」

「あたしに跪くんじゃないよ!」

 

 菊は第三香から手を離した。姉の両脇へ手を入れ、無理に立たせる。姉がなおも膝を折ろうとすると、菊もがくんと膝を折った。

 

「ほら! これでいいかい。あんたがやるなら、あたしだってやる。二人で地面に頭をこすって、何の役に立つんだ!」

 

 姉がびっくりして顔を上げた。

 菊は怒っていた。慰めている顔ではなかった。

 第三香は片膝をつき、土を握っていた。菊はそちらへ顎をしゃくる。

 

「立ちな。名前は」

「……第三香です」

「第三香。明日、父さんのところへ来な。腕を上げたいなら食いつきなよ。嫌だって言うなら、その脚でまた挑んでくるんだね」

「僕は、雪山の者です。仇の武功を、ここで習えと――」

「知ってるよ! 今、言わなきゃ忘れることかい!」

 

 少年は唇を噛んだ。

 菊の方が先に背を向けた。勝手についてこいと言わんばかりに歩き出し、数歩先で私を振り返る。

 

「ちっちゃいのまで庭で凍らせるんじゃないよ」

 

 姉が私のところへ戻ってきた。今度は手を離さなかった。

 第三香は落とした餅を拾い、泥のついた包みを裏返した。

 

     *

 

 夜更けの部屋で、姉は餅を二つに割った。

 大きい方を渡されたので、私は小さい方を取ろうとした。姉がむきになって押しつける。受け取らずにいると、とうとう二つを重ねた。

 

「両方あげる」

「姉さまのが、なくなります」

「じゃあ、ちゃんと取って」

 

 私は大きい方へかじりついた。硬かった。姉も自分の分を口へ運び、同じような顔をする。二人でしばらく黙って噛んだ。

 母なら温めてくれた。父なら歯が折れると騒いで、母に笑われただろう。

 姉の頬が餅で膨れている。私はそこへ額を寄せた。

 

「食べにくいわ」

 

 言いながら、姉は避けなかった。

 布団に入っても、私はその腕を自分の頭の下へ引いた。姉が指を開いたり閉じたりするので、痛いのかと聞いた。

 

「痺れただけ。晴が重いから」

 

 少し動こうとした。姉の手が先に私を抱き直した。

 

「そこにいていい。動いたら、また最初から寝かせるでしょう」

 

 姉は得意そうな顔をした。そんな言い方で腕を貸してもらえることが嬉しくて、私は重くならないよう息を細くした。

 戸の外を見回りの足音が通った。

 姉はその足音が聞こえなくなるまで、私の頭を抱いていた。

 

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