雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
与えられた席
水の音がした。
寝床の脇に、姉の上着が丸めてあった。腕を伸ばすと布だけが潰れた。まだぬくかった。それなのに、どこをつかんでも手がない。
戸は閉まっている。向こうで椀が触れ合い、誰かが笑った。姉さまと呼んだつもりで、口からは息しか出なかった。
床へ下りようとして、脚が布団に絡まった。膝を打った。痛みの遅れてくる間に戸まで這い、下の隙間へ指を入れた。三つの子供の指で、戸を引き上げることなどできない。知っているのにやめられなかった。
「晴、そこにいる? 開けるから、ちょっと――」
戸が私の肩に当たった。
姉だった。片手に椀、もう片方に小さな水差し。私はその脚へしがみついた。椀から水があふれ、頭へ落ちた。
「どうしたの! 水をもらっただけよ。すぐそこ、ほら、あの――晴、息をして」
顔を上げろと言われてもできなかった。姉が膝を折ると、その首へ両腕を回した。椀は床へ転がった。姉の服を濡らした水が冷たい。唇を開いて吸っても、胸の奥へ入ってこなかったものが、姉の顎に額を押しつけた途端、咳になって飛び出した。
姉も驚いていた。背中を撫でる手が行ったり来たりする。
「何もされてないでしょう。誰も来てないでしょう? 晴、私、ここ。ここにいるから」
私は右手を探した。首から手を下ろし、姉の指を握る。左も欲しかった。姉が床の椀を拾おうとすると、そちらへ身体ごと倒れた。
「両方では、お水を飲めないわ」
飲まなくていい。
言えずに首を振った。姉は困ったように笑いかけ、その顔のまま私の手を両方とも包んだ。
「……あの時、ちゃんと持っていればよかった」
何を、とは聞けなかった。母の手か、私の手か。姉は袖で私の鼻を拭き、床の水を見て、それから戸の向こうを見た。片づけなければ叱られると考えたのだろう。六つの姉は座ったままでいた。
やがて外から女の人が覗き、あらまあ、と言った。
私はそのときには、姉のお腹に頬をつけて、水が欲しいと頼めた。
*
午前のうちに、
一番前の座布団に少女が座っていた。こちらを見るなり眉を寄せたが、案内の男が通ると膝をそろえた。姉は私を抱え直した。歩けるとは言わなかった。
「夏侯蘭。前へ」
呼ばれた姉は動かない。
男がもう一度呼ぶと、小さな声で「梅です」と言った。男は聞かなかったことにして、たたんだ衣を持ち上げる。
「奪魄門の
少女が座布団を押さえた。
「ここですか?」
「
「済んでません! お伝えすると言ったでしょう。私は、お返事を待って――なぜ、衣まで」
立ち上がった拍子に、彼女の膝の下から薄い本が滑った。男は拾わず、姉へ衣を渡そうとした。
「師父のお考えだ。無礼をするな」
「それなら師父に言わせてよ。昨日まで私に覚えろと、全部、間違えずに言えるまで、あんなに……」
荊紅は床の本を拾い、男へ突き出した。開いた頁に細かい字が並んでいる。自分の覚えた箇所を見せたいようだった。男が受け取らないので、今度は姉の前へ押し出した。
「読める? あんた、これが読めるの?」
姉は首を振った。私の足が彼女の腰から滑り、姉は抱え直す。それだけで、荊紅の顔がひどく歪んだ。
「じゃあ何をしに来たの。何もできないくせに、そこへ座るの? 泣いていれば着物まで出てくるんだ!」
「座らない。帰るの」
「帰りなよ!」
私は姉の襟をつかんだ。
帰る家がないと言われるより、帰れと言われた方が怖かった。姉は荊紅へ何か言いかけ、口を閉じた。男が私を下ろすよう命じ、腕を伸ばした。
「その子は席を持たぬ。下へ――」
「いや!」
姉が身を捻った。私の踵が男の衣を蹴り、男は眉を吊り上げた。荊紅が甲高く笑った。
「ほら。礼もできない。私がやったら、その場で叩くくせに!」
「荊紅!」
男の声に、廊下を歩いていた少女が引き返してきた。
彼女は戸口へ肘をかけ、三人を眺めた。姉の膝から落ちかけていた衣を取り、男の胸へ押し戻した。
「先に座らせたらどうだい。そいつ、妹の下敷きになって潰れるよ」
「呼延のお嬢様には関わりのない――」
「じゃあ外まで聞かせるんじゃないよ。父さんの客まで振り返ってた」
男が口をつぐんだ。
少女は座布団を足で寄せた。一番前ではなく、窓の下の、誰も使っていない一枚だった。姉をそこへ座らせ、自分は荊紅の本を覗き込む。
「それ、しまいな。破れたらあんたが損だ」
「どいて」
「はいはい」
荊紅は本を抱きしめた。姉へ向けた目は、もう先ほどのように笑っていなかった。男に出ていくよう言われると、座布団を蹴った。入口で足を止める。
「私の物、勝手に使わないで」
誰も返事をしなかった。姉は私を抱いている。荊紅はそれを睨んで出ていった。
*
助けてくれた少女は、昼になるとまた来た。今度は手に盆があった。
姉が受け取らずにいると、少女は自分で椀へ口をつけた。
「うまいよ。今のうちだ。下の連中に先を越されると、底の豆しか残らない」
「毒かもしれない」
姉は戸のそばに立ったまま言った。
少女はもう一口飲んだ。
「これでも?」
「あなたには、効かないのかも」
「……ずいぶん都合のいい毒だね!」
盆を置く音に、私の肩が跳ねた。少女はその動きを見たが、優しい声に直してはくれなかった。椀を姉の鼻先へ突きつける。
「それなら台所へ来な。鍋から自分で取ればいい。鍋全部に毒があるって言うなら、あたしはもう知らない。山中みんなで死んでやるよ」
姉の喉が鳴った。泣くのかと思ったが、空腹だった。
少女は勝った顔をした。
「あたしは
菊。
その名には、覚えがあった。部屋も、椀も、目の前の顔も知らないのに、姉がこの人を失うことだけが、ひどく古い悲しみの形で残っていた。
前の人生で画面を読み進めた私には、そこで止めることができた。今は、姉のお腹がまた鳴った。
「晴も、一緒に」
「連れてきな。あんた一人で二人分食べる気なら、それでもいいけど」
姉は私を下ろした。私の両手を持って立たせ、それから片方だけを離した。離された手は、すぐ姉の袖をつかんだ。
菊は先に歩き、途中で振り返って舌打ちした。
「遅い! ちっちゃい方、抱いてやろうか」
「いやです」
「そりゃどうも」
置いていくかと思ったら、壁へ背をつけて待った。私は姉に引かれながら、その人の前を通った。
台所では大きな鍋が湯気を立てていた。姉は自分で椀へ粥をよそい、ひと口食べ、私にも飲ませた。
父を殺した側の山で、腹が温かくなった。
菊は私たちより先に二杯目を取りに行った。
菊の父は、四門を束ねる
姉に押しつけられた嫡伝の席は、門の秘伝を継ぐ者の席であり、やがて掌派人に選ばれた男へ嫁ぐ席でもあった。荊紅が返せと訴えるたび、大人は姉の将来を話した。姉はまだ、母に決めてもらっていた着物さえ、一人で選べなかった。
*
第三香が窓を叩いたのは、それから幾晩か後だった。
姉は私の頭を腕からずらしかけていた。音に気づいて窓を開けると、外の少年を見たまま固まった。
「師姉。声を、声を小さくしてください。僕です」
第三香は窓枠を越えようとして、脚を引っかけた。姉が慌てて支える。その手に泥と血がついた。
「生きて……三香、生きてたの」
「はい。谷へ落ちて、向こうの斜面に。追っ手も、それで……あの、泣かないで。僕、ここまで来られましたから」
それで姉は余計に泣いた。
自分でも止まらないのか、袖を目へ押しつけたまま、同じ名を何度も呼ぶ。第三香の頬を拭こうとして、自分の涙で布を濡らした。
「ごめんなさい。拭いてあげたいのに、私、これしか」
第三香は困り切って、懐から包みを出した。
「た、食べますか。餅です。盗んだんじゃありません。途中で運ぶのを手伝って、それで……師姉?」
姉が彼の肩へ顔を埋めた。
第三香の腕はしばらく宙にあった。やがて姉の背へ置かれる。私は寝床で膝を抱えた。姉の手を取り返したかったが、雪山から来たその泥だらけの手を、どかせとは言えなかった。
「師姉、逃げましょう。見張りが交代します。そこを、僕、見ていたんです」
「晴も」
「はい。僕が背負います」
第三香の背は狭かった。前の私は、こんな子供なら自分が背負う方だった。腕をどう回すか一瞬ためらい、少年の肩が痛みに揺れると、その首へ慌ててしがみついた。
私は女の子で、蘭の小さな妹で、置いていかれないようにつかまる方だった。
第三香は私の脚を抱え、窓を越えた。
庭の出口で菊が待っていた。
「へえ。寝てる時しか、人を連れ出せないのかい」
第三香が足を止めた。姉はその前へ立ち、通してほしいと頼んだ。菊は姉を見ず、少年の汚れた靴を眺めた。
「崆峒の嫡伝を盗んでいくには、泥棒の腕が粗末すぎるね。あたし一人もどかせないくせに」
「どいてください」
「どかせば?」
第三香が私を下ろした。
姉の手がいったん私の肩へ置かれ、離れた。第三香が踏み込むと同時に、姉も菊の脇へ回った。二人で道を開けようとしたのだ。
菊の袖が跳ねた。少年の腕が外へ流され、次の瞬間には姉が私の方へ押し戻されていた。私は姉の腰を受けようとして、二人で尻餅をついた。
第三香は立っていた。立っているだけだった。菊に肩を押され、膝が折れる。
「まだやる? いいよ。次はその――」
「だめ、菊ちゃん、だ、だめ!」
姉が飛び出した。
菊の膝へすがり、頭を下げようとする。
「お願い、三香を、叩かないで。私が帰りたいって、私が……私、ここにいるから。晴も、連れていかないから、お願い」
「あたしに跪くんじゃないよ!」
菊は第三香から手を離した。姉の両脇へ手を入れ、無理に立たせる。姉がなおも膝を折ろうとすると、菊もがくんと膝を折った。
「ほら! これでいいかい。あんたがやるなら、あたしだってやる。二人で地面に頭をこすって、何の役に立つんだ!」
姉がびっくりして顔を上げた。
菊は怒っていた。慰めている顔ではなかった。
第三香は片膝をつき、土を握っていた。菊はそちらへ顎をしゃくる。
「立ちな。名前は」
「……第三香です」
「第三香。明日、父さんのところへ来な。腕を上げたいなら食いつきなよ。嫌だって言うなら、その脚でまた挑んでくるんだね」
「僕は、雪山の者です。仇の武功を、ここで習えと――」
「知ってるよ! 今、言わなきゃ忘れることかい!」
少年は唇を噛んだ。
菊の方が先に背を向けた。勝手についてこいと言わんばかりに歩き出し、数歩先で私を振り返る。
「ちっちゃいのまで庭で凍らせるんじゃないよ」
姉が私のところへ戻ってきた。今度は手を離さなかった。
第三香は落とした餅を拾い、泥のついた包みを裏返した。
*
夜更けの部屋で、姉は餅を二つに割った。
大きい方を渡されたので、私は小さい方を取ろうとした。姉がむきになって押しつける。受け取らずにいると、とうとう二つを重ねた。
「両方あげる」
「姉さまのが、なくなります」
「じゃあ、ちゃんと取って」
私は大きい方へかじりついた。硬かった。姉も自分の分を口へ運び、同じような顔をする。二人でしばらく黙って噛んだ。
母なら温めてくれた。父なら歯が折れると騒いで、母に笑われただろう。
姉の頬が餅で膨れている。私はそこへ額を寄せた。
「食べにくいわ」
言いながら、姉は避けなかった。
布団に入っても、私はその腕を自分の頭の下へ引いた。姉が指を開いたり閉じたりするので、痛いのかと聞いた。
「痺れただけ。晴が重いから」
少し動こうとした。姉の手が先に私を抱き直した。
「そこにいていい。動いたら、また最初から寝かせるでしょう」
姉は得意そうな顔をした。そんな言い方で腕を貸してもらえることが嬉しくて、私は重くならないよう息を細くした。
戸の外を見回りの足音が通った。
姉はその足音が聞こえなくなるまで、私の頭を抱いていた。