雪山の娘   作:雪山派外姓弟子

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迎えの来ない夕方

 九つの秋、私は宿の仕切りを直し、立派に代金を受け取るはずだった。

 その朝、陳絮(ちんじょ)は私の図を一枚ずつ広げた。三枚を眺めてから、全部まとめて裏返した。

 

「描き直せ」

「まだ説明していません」

「物を見てもいないだろう」

「割れたところは見ました」

「それなら客でも見た」

 

 陳絮は山裾で修理の店を営む女職人だった。今日は宿の女将に呼ばれ、鉄拳門(てっけんもん)に貸していた道具を取り戻して来たところだった。私はその脇で紙を抱えている。前の人生で設備の不具合を探した癖は残っていたが、癖だけが先に働いた。動かなくなった仕切りと割れた留めを見て、留めを強くする案を三つも描いたのだ。

 女将が腰へ手を当てた。

 

「その紙で風が防げるなら、そっちを立てておくれよ。今夜は向こうとこっち、別のお客だからね」

 

 奥の部屋から泊まり客が覗いた。私は紙を畳んだ。

 

 仕切りは、折って脇へ寄せる四枚続きのものだった。床に下ろすと真っすぐだ。動かしても引っかからない。ところが元の場所へ戻すと、途中で止まった。

 私は継ぎ目へ膝をつき、そっと押した。陳絮が黙って見ている。強く押そうとしたところで、女将が大声を出した。

 

「それで前のお客が壊したんだよ!」

 

 手を引いた。陳絮が笑った。私は腹が立って、いっそう近くから継ぎ目を覗いた。

 

「そこへ住む気か。下を見ろ」

 

 床板の一枚が、隣より浮いていた。

 雨の続いた後から動きが悪かった、と女将は言った。私が尋ねもしないので、今まで黙っていたらしい。前の職場の床は平らなものとして話を始められた。ここの宿は、雨にも夏にも、泊まった客の重さにも、少しずつ形を変える。

 私は裏返した紙を開き直した。

 

「留めを強くしていたら、次は板が割れますか」

「板か、客の腰か。どっちでも私の手間だ」

 

 陳絮は私の頭の上から道具を取った。私は紙を押さえたまま、まだ描かずに待った。

 床を直す手を手伝い、傷んだ箇所を取り替える。大きな板を持つのは大人の役で、私は押さえる位置を言われ、端材を片づけた。鉄拳門から荷を運んできた雷謙(らいけん)が、入口に積まれた木屑の山で足を止める。

 

「てめえら、宿を直して宿を塞ぐなよ。こっちは油も運んでるんだ」

 

 私は慌てて籠を引いた。

 雷謙は通りながら陳絮へ、裏の戸も見てこいと言った。女将がもう一つ頼んでいたらしい。

 

「一度呼ぶと、あれもこれもだ。武功より戸の直し方を習いたい奴が、この山には多すぎる」

「お代はまとめて後からだよ」

「そこは別々に、今すぐにしろ!」

 

 女将が笑った。陳絮は笑わず、私に木屑を指した。

 私は仕事へ戻った。ここでは誰も、私が思いつくのを待って仕事を始めてはくれなかった。

 

     *

 

 昼の前、仕切りが初めて端まで動いた。

 私が押し、陳絮が反対側で受けた。途中で音が変わったので身構えたが、それきり止まらず、隣の部屋が一息に隠れる。

 もう一度開いた。

 女将は腕を組んだまま、私の代わりに力いっぱい引いた。

 

「そんなにしたら、また――」

「お客は遠慮してくれないよ」

 

 仕切りは耐えた。女将が口の端を上げ、三度目には勢いを弱めた。

 

「いいね。これなら今夜、喧嘩にならない」

 

 私は笑っていた。止められずに笑った。陳絮が代を受け取る間に、開けていいですか、とまた聞いた。もういい、と言われても、手は仕切りの縁へ行っていた。

 

「自分で直した物を、最初に壊すな」

 

 陳絮に襟を引かれた。

 姉に見せたかった。どこが悪いと思って、何を間違えて、本当はどうだったのか。言う順序まで考えていたら、女将が食事を出してくれた。大人の椀に続いて、私にも同じものが来る。

 前の人生で、作業を終えて食べる昼食は、こんなに誇らしいものではなかった。私は椀を少し自分へ寄せた。

 

 姉が顔を出したのは、その椀が空になる頃だった。

 十二になった姉は、もう私をずっと抱いて歩かない。それでも私が椅子から下りると、無意識のように手を出す。私はその指を取り、仕切りの方へ引っ張った。

 

「見てください。ここ、止まらないのです」

「……晴、それは戸でしょう。止まったら困るわ」

「だから、止まっていたのを」

 

 私が言い募るので、姉は笑った。

 全部聞いてくれた。陳絮に叱られたところでだけ口を押さえ、私に睨まれると、まだ何も言っていないと首を振った。

 私は奥の部屋まで姉を入れて、仕切りを閉めた。すぐ開く。

 

「どうですか」

「お前がすぐ開けるから、落ち着けない」

 

 私はやっと、自分も笑った。

 

 帰り支度に姉が道具の脇の木刀を拾った。稽古用で、朝は背に結んで来たものだった。

 

「これ、どうやって抜くの」

「こうして」

 

 背へ戻して、柄に手を伸ばした。少し抜けて、腕が止まる。肩を回しても、最後が鞘代わりの布から出てこない。姉は見る間に顔を赤くした。

 

「笑わないでください」

「笑ってない、まだ……ああ、駄目。晴、頭の上で泳いでいる!」

 

 とうとう声を立てた。女将まで覗いてくる。私は木刀ごと帯を外して、やっと抜いた。

 姉は自分の目尻を拭き、私の頭を撫でた。

 

「背負えば強くなるものなら、父さんは家ごと背負っていたわ」

 

 父の名が出たのに、そのときは二人とも笑っていられた。

 姉が木刀を受け取り、宿の裏庭で少しだけ型を見てくれた。私は大きく振りかぶり、見栄を張ったところを肘で止められた。

 

「刃の先まで、お前の身体のつもりで。腕だけ残してどうするの」

 

 もう一度振ると、今度は姉が避けた。木刀が風を切った。九つの腕へ、握った柄が確かに戻ってきた。

 

     *

 

 今日はまだ、納める道具の手入れが残っていた。

 姉は第三香と町の店へ寄るという。菊も下へ出ているので、用を済ませたら合流する。夕方には迎えに来るから、と私の帯を直した。

 

「この手で大人の真似をしすぎないのよ」

 

 姉の指が私の爪の際をこすった。取れない汚れを見つけ、濡れ布で包む。陳絮にさせられた仕事の説明はできたのに、自分が女の子の手を気遣われていることには、返す言葉がうまく見つからなかった。

 前の私は、油のついた指を誰かに一本ずつ拭いてもらわなかった。

 私はもう片方の手も差し出した。

 

「こちらも」

「自分で拭きなさい」

 

 姉はそう言ってから、結局そちらも拭いた。

 第三香が迎えに来た。姉が立ち上がり、声を変える。

 

「お待たせしました。晴が、自分の仕事を全部見ていただきたいそうで」

「よくできたんですね」

 

 第三香は仕切りを見た。私ではなく、姉へ言った。

 私は自分の手を引っ込めた。姉がまた夕方にと言い、戸を出ていく。二人の影が重なって、角を曲がった。

 

 道具の数を確かめるだけだった。朝は間違えなかった。

 私は小刀を布へ置き、同じ小刀をまた数えた。陳絮が貸した数と合わない。床を探し、籠を覗き、戸を開けた。路地には荷車が一台止まっていた。姉はいなかった。

 まだ夕方ではない。

 分かっているので、戸を閉めた。

 

 数を最初からやり直した。布を巻く向きを間違え、刃へ指を触れさせる直前に気づいた。陳絮が私の前から道具を持っていった。

 

「今日はそれを畳め」

 

 空の布だった。

 私は畳んだ。広げた。さっき姉が指を拭いた布はどれだったか、分からなくなっていた。

 

 日が傾くと、裏庭へ門人が来た。荊紅に稽古をつけてもらうためだった。彼女は宿の用のついでに寄ったらしく、土の上で足の置き場を示している。

 

「そっちじゃない。身体を向けなさい。……そう。今のでいいのよ」

 

 教わった子が笑った。荊紅も目を細めた。

 私は戸を開け、また閉めた。彼女がこちらを見た。

 

「蘭は?」

「まだです」

「何が、まだなの」

「第三師兄と、町へ」

 

 荊紅は土を靴でならした。教わっていた子がもう一度構えると、腕を払った。

 

「今日は終わり」

「いま、できたばかりです。あと一度」

「終わりと言ったでしょう。人の話を聞きなさいよ!」

 

 子供はびくっとして礼をした。

 荊紅が出ていった後も、庭には足を置いた印が残った。私は戸を閉めなかった。

 

 女将が灯を持ってきた。

 夕方だった。

 

「もう帰ってきてもいい時刻だねえ」

 

 何気ない声だった。私は立ち上がった。椅子の脚が床へ引っかかり、倒れた。陳絮が何か言ったが、聞き返せなかった。

 私の手には空の布がある。まだ畳み終えていなかった。

 

「姉さまを、呼んでください」

「店の場所は?」

 

 言われて答えようとした。聞いていたはずなのに、菊の用のある店と姉の寄る店が混ざった。通りの名を二つ言い、違うと首を振った。水を飲め、と椀を渡される。縁へ歯が当たった。

 陳絮が道具を置いた。女将に店の名を確かめ、使いの子を呼んだ。

 私はその子が出ていくところを見ていた。追いかけようとして、陳絮に肩を押さえられた。

 

「ここへ戻ってくるんだ。行き違うな」

 

 それで座った。座れただけだった。

 戸が開くたびに立った。厨房の人が出入りするたび、椀を持ち上げかけ、下ろした。自分が何をしているかは分かった。止める方が、分からなかった。

 

     *

 

 姉が来たとき、私は名前を呼ばなかった。

 走って腕を取り、その掌を自分の頬へ押しつけた。姉が息を切らしている。私は二本の指を耳の後ろへ差し込み、姉の手から顔が外れないよう押さえた。

 

「晴。ごめんなさい、道が混んで、菊ちゃんと――ごめん。そんなに、冷たくなって」

 

 姉の袖に、第三香の手がかかっていた。

 私はそれを見たが、今は目を戻した。姉の脇へ額を入れ、もう片方の腕を腰へ回す。胸の真ん中で固まっていたものが、長い息と一緒に下りた。

 

「仕切り、女将さんが、何度も開けたのです」

 

 急に言葉が出た。

 姉は目を丸くした。それから、そう、と私の背中を撫でる。

 

「壊れませんでした。陳さんが、下を見ろと。私、留めだけを直そうとして」

「うん。聞いたわ。お前が直したの、ちゃんと動いた」

 

 私はうなずいた。さっきまで飲めなかった水を、姉の手をつかんだまま飲んだ。女将が片づけると言うので、道具はもう陳さんが、と答えられた。

 第三香は戸口にいた。姉が振り向いた。

 

「すみません。今日は、もう」

「灯が入るところを、見たいと言っていたでしょう」

「ええ。でも……」

 

 私は姉の手を自分の首の後ろへ引いた。

 第三香がその手を見た。

 

「僕が見てきます」

 

 姉は頼むとも、待ってとも言わなかった。彼は一人で出ていった。

 姉の指は私の髪に残った。私は嬉しかった。どうしようもなく嬉しくて、椀の底に残った水までおいしかった。

 帰り道、姉が何度か町の方を振り返った。私は、そのたびに今日直した仕切りの話を続けた。

 姉は聞いてくれた。

 木刀は私の背で、歩くたびにこつこつ鳴った。

 

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