雪山の娘 作:雪山派外姓弟子
「入らないようにするのだ!」
「入るって言わなきゃ、誰も金を払わないでしょ!」
小竹と小梅は、まだ客も来ないうちから揉めていた。
市の端に借りた場所で、私は台の傾きを直していた。小竹の作った木の鳥が三羽並んでいる。輪を投げて鳥の首へ掛けると、景品がもらえる。小竹はその台を、子供の手にも届く高さへ直したかった。小梅は鳥をもっと遠ざけたかった。
「簡単すぎるのだ。これではすぐ景品がなくなる」
「今、アタシが言ったの、それ」
「小梅は入ると言った!」
「お客に言うの。あんたじゃないの!」
菊が二人の頭の間へ銭袋を突き出した。
「どっちでもいいよ。終わった時に、これが重くなってりゃね」
冬靴の底を張り替える代が足りないのだった。私が十四になったその年、皆の足が一斉に大きくなったわけではない。姉が古い靴で石段を踏み外し、菊が自分の分まで小梅に回し、小竹は仕事中に濡らした靴を乾かさず履いていた。話しているうちに、誰の靴も駄目だと分かった。門から出る物だけでは足りず、余分に欲しい分は自分たちで工面する。今日はそのために、材料代を引いた売上を分けることにしたのだ。
小竹は売り物の木杓子も作った。こちらが本業だと言って、鳥より丁寧に布を敷いた。その上へ小梅が大きな札を置く。
『木杓子、おまけつき』
小竹は無言で札を裏返した。
小梅も無言で戻した。
私は吹き出し、台を持つ手を離しかけた。隣から姉に足を踏まれた。
「晴、鳥を全部逃がすつもり?」
姉は髪を結い上げ、新しい紐を使っていた。私が昨日渡したものではない。第三香が見繕った紐だと、朝から知っている。
私は台を持ち上げた。
十七になった姉の声は、私を叱る時と彼に礼を言う時で、驚くほど違った。
「三香、こちらもお願いします。私では字が窮屈になってしまって」
第三香は刷毛を持っている。菊が仕事を押しつけた時には嫌がったのに、姉が頼むと札を受け取った。
「場所が足りないだけでしょう」
「では、広く見せてください。できませんか?」
「……煽てても景品は増えないよ」
彼は結局、書いた。
梅、蘭、竹、菊。四つの大きな字が風に揺れる。その隅に、晴と小さく足された。
私は自分の字を指した。
「余りですか」
「五つでは収まりが悪い」
「私の靴代も、この店に入っているのですが」
第三香が筆を持ち直した。姉が私の肩を抱き、あら、と言った。
「晴だけ値段かと思った。こんなに安く売られるなら、私が買うわ」
小梅が即座に手を叩いた。
「お買い上げ! 返品は受け付けないからね」
私は文句を言うのを忘れた。姉が楽しそうなので、札を外させるのも惜しくなった。
第三香は足そうとしていた線をやめた。
*
客が来ると、小梅はまったく違う子供になった。
輪を持つ少年へ、初めてですかと首を傾げる。少年が胸を張ると、さすがと褒めて近い位置へ誘導した。その母親が後ろから見ているのを確かめ、わざと一投で鳥へ掛けてみせる。
「ほら、アタシでもできた!」
少年は一枚払った。三つ投げ、三つ外した。
小梅は心から悔しそうな顔をした。
「あっ、惜しい! いま、風! 風が悪い!」
「吹いてないのだ」
小竹の声が飛んだ。
客の母親が笑った。小梅は振り返らず、小竹の足を踏んだ。小竹は痛いと言い、二人で蹴り合いになりかけたところへ、菊が景品を一つ投げた。
「その子にやりな。腕のせいにして黙って金を取るならまだしも、風に恨まれたら店が飛ぶ」
少年は笑って景品を受け取り、今度は母親が輪を買った。
小梅の大袈裟な拍手を聞きながら、私は小竹と輪を拾った。小竹は怒っていた。
「僕が作った鳥なのだ。投げにくいと言うなら直す。風のせいにするな」
「今夜、風に謝っておきます」
「晴まで馬鹿にする!」
慌てて謝った。小竹は聞かず、鳥の足を確かめ、台の下へ薄い木を足した。次の子供が輪を投げると、首へ綺麗に掛かった。
私が喜ぶと、小竹も笑った。すぐ菊が景品の数を数え直したので、笑顔が引っ込んだ。
昼近く、雷謙が荷を担いで通りかかった。小竹が木杓子を指し、代をどこへ入れればいいのか尋ねたが、雷謙は足を止めなかった。
「帳場へ。端材だろうが銭は銭だ。帰りに油の空き甕を取ってこい。忘れたら明日も同じ道を歩かせるぞ」
小竹は追いかけ、甕はいくつかと大声で聞いた。雷謙が指を立てる。
戻った小竹は、鳥を一羽だけ手元へ引いた。
「それは売らないのですか」
「僕の分」
木肌にはまだ削り跡があった。誰かの仕事の余りで、仕事の合間に作った鳥だった。
私は一羽買いたいと言った。小竹は急に黙り、残り二羽を見比べた。
「こっちにして。そっちは嘴が欠けたのだ」
「こちらの顔が好きなのですが」
「壊れた方を好きと言われても困る」
譲らなかった。
私が代を払うと、取り替えるなら帰るまでだぞ、と二度言った。女将に仕事を認められた日の自分を思い出しかけ、小竹が銭を袋の奥へ隠すのを見て、黙って鳥を受け取った。
姉が第三香と焼き菓子を分けていた。菊も横から取ろうとし、彼に手を叩かれる。
「ひとつ買えばいいだろう」
「あんたのが一番でかい。何を見比べて買ったんだい」
「見れば分かるものを、見なかった方が悪い」
姉が笑う。その声が嫌だった。私は鳥を持ったまま、姉の腕へ自分の腕を差し込んだ。
「姉さま。買いました」
「可愛い。小竹の?」
私がうなずく前に、小竹がこちらを見た。姉が、よくできていると鳥を撫でる。小竹の頬がぱっと赤くなった。
菊がその隙に第三香の菓子を奪った。
第三香が悪態をつく。小梅が笑いながら、いまのをもう一度やってと囃した。
姉は私の腕を抱いたまま、皆の方を向いていた。
*
荊紅は午後に来た。
私は遠くからでも、こちらへ向かっていることが分かった。手に畳んだ布を持ち、客の流れを横切って、姉の前だけで立ち止まる。
「これ、まだ縫っていなかったでしょう」
淡い色の布に、小さな枝が刺繍されていた。姉が開くと、葉の向きが光で変わった。
姉は声を上げた。
「こんなところまで。見て、晴、葉の裏もある」
私にも分かった。綺麗だった。
荊紅は姉の袖へ布を当て、少し離して色を見た。さっきまで尖っていた目が、その時だけ穏やかになる。
「こっちの袖。あの赤い紐とは合わせないで。せっかくの色が、うるさくなるから」
「赤いの、変かしら」
「変よ」
第三香が顔を上げた。荊紅はそちらを見なかった。
姉は困ったように笑い、袖へ当てた布を自分でも押さえた。
「明日、教えてもらってもいい? 針をまっすぐ刺すところから」
「そこからなの?」
荊紅が笑った。姉も笑った。
それは二人だけで成立する笑いで、私は腕を抜かれたまま立っていた。
小竹が紙の竹を運んできた。
鳥の台の飾りとして作ったもので、細く折った葉が幾枚も上へ伸びている。小梅は何の景品にもならないと文句を言ったが、小竹は飾りも店の品だと言い張った。今、姉の袖と一緒に見てもらうつもりだったのだろう。
「蘭姉ちゃん、こっちも。葉の先、前より細く――」
荷車が後ろを通った。
荊紅が避けた。その靴の下へ、紙の竹の先が入った。
小竹が手を止める。
「あ、そこ。踏んでるのだ」
荊紅は下を見た。
私はその目が紙に止まるのを見た。次いで姉の顔を見上げ、もう一度足を動かした。靴の下で、葉が潰れて裂けた。
「あら、ごめんなさい。こんな所へ置いたら危ないでしょう」
小竹は竹を引き寄せた。葉が一枚、地面に残った。
姉がしゃがもうとすると、荊紅は袖の布を落としかけ、あ、と声を上げた。姉はそちらを支えた。
「明日、朝でいい? 遅くなると、また誰かに呼ばれるでしょう」
小竹は地面の葉を拾った。私は紙を押さえ、直せますと言いかけた。
小竹が私の手を払った。
「今、触らないで」
声は小さかったが、怒っていた。
私は手を戻した。菊が鳥の台を持ち上げ、道を広くした。小梅は呼び込みをしていた口を閉じ、荊紅の後ろ姿を見た。
銭が落ちる音がした。
菊が振り返り、代を入れた客へ輪を渡した。市はまだ終わっていなかった。
*
靴代は、三人分と少し貯まった。
菊が銭を並べるそばで、小梅が自分の働き分を言い張り、小竹が材料代を忘れるなと怒った。第三香の札を欲しがる客が最後に来て、少しだけ足しになった。私の小さな晴の字ごと、知らない家へ持っていかれた。
帰りに小竹は空き甕を受け取った。私はひとつ担いだ。長刀の稽古でついた腕の力が、こんなときにも役に立つ。背に結んだ木の鳥は、肩越しには見えなかった。
姉は第三香の横を歩いた。
坂へ入ると、後ろの私たちにも聞こえる声で、今日の髪紐を褒めてくれた礼を言った。彼は何か答え、姉の笑い声だけが夜道へこぼれた。
私は空き甕を持ち直した。重さが偏っていた。
部屋へ戻って、姉は私の髪を梳いた。市の土埃が落ちる。女同士だからと、肩の埃まで平気で払ってくれる姉に、私の方だけが妙な距離を感じた。
前は男だった。仕事帰りに誰かへ背を向け、髪が絡まるからと首まで預けたことはない。昔の自分なら人に見られたくないと思った姿勢のまま、私は少しずつ姉へ寄りかかっていた。
「倒れる。晴、頭をまっすぐ」
私は背を起こした。
姉の手が止まると、すぐに振り返ってしまった。
「さっきのように、言ってください」
「何を?」
「三香に、帰り道で」
姉は櫛を持ったまま、私の顔を見た。
可愛いと言ってほしいのなら、それは何度も言ってもらった。声の高さでも、言葉遣いでもない。あの人の一言を、しばらく待っていても嬉しいというような、あの声だった。
説明したら、もっと醜くなる気がした。
「もう一度、晴、と」
姉は試しに呼んだ。普段の声だった。
私は首を振った。姉の袖をつかみ、自分でも腹が立つほど強く引いた。
「違うのです」
「晴。痛い」
手を離した。今度は胸が痛くて、息を吐く先がなかった。
姉はため息をつき、櫛を置いた。私の頬へ両手を当て、額を近づける。
「晴。今日のお前の鳥、可愛かった。見せに来てくれて、嬉しかったわ」
私は肩から力が抜けた。顔をその手に預けてしまってから、欲しかったものと少し違うと気づいた。
それでも、もう一度と言った。
姉は笑い、今度はもっと甘い声で呼んだ。私は目を閉じた。
しばらくして、姉が小さく言った。
「三香と話すのも、駄目なの?」
目を開けられなかった。
駄目だと言えば、自分の欲しい姉ではなくなる。いいと答えれば、明日もあの声をほかの人へ向ける。
私は返事の代わりに姉の袖をつかんだ。先ほどより弱く、けれど離れるには足りない強さで。
姉は櫛を拾わなかった。
梳き残した私の髪を、長い間、指でほどいていた。