スイート ラブリー セブンティーン   作:紅葉崎もみじ

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 ある日。

 授業合間の5分休憩中、トイレに立っていた彩香が教室に入ると。

 

「わっ」

「きゃっ」

 

 彼女と同じタイミングで退室した男子と出合い頭に追突する。

 それほどの衝撃があったわけではないが、相手はその手に持ったプリントを床にばらまいた。

 

「ああ、ごめん」

 

 彩香は自然と落ちたプリントを拾い始める。

 粗方拾い終えると、同じく紙を集めていた男子に自分の分を渡す。

 

「はい。次は気を付けてね、危ないから」

「は、はい…」

 

 若干呆けている男子を置いて、彩香は自席に着いた。

 と、友人たちが物珍し気な視線を向けてくる。

 

「なによ」

「いやー、なんか最近のあんた変ていうか」

「え、なに? 喧嘩売ってんの」

「いやいや、そゆんじゃないけど。最近、やけに気がきくっていうか」

「あー、それ分かる。彩香、なんか優しくなったよね」

「そう…かな」

 

 自覚はなかった。

 しかし、そう面と向かって言葉にされると思い当たる節はなくもない。

 

 先のやりとりだってそうだ。

 以前の彩香なら、男子が落としたプリントを一緒に拾うどころか。謝罪の言葉すら無かっただろう。

 もしかしたら、憎々し気に舌打ちしても全く不思議ではないと本人は思う。

 

 ただ、確かに対応は柔和になったかもしれないが。これはあのアプリのミッションを達成するための計算ずくな行動で…。

 

「あっ」

 

 ──そういえば、もうタケルにミッションの限定化をしたから。もう周りの男に優しくする意味なんてないのか…。

 

 忘れていた…訳ではないのだが。どういうわけかその事実が意識の外にあった。

 習慣になっている…いや、行動が馴染んだという表現が適切か。

 

 特に理由も得もなくても、誰かに親切にするのが「当たり前」になったのだ。

 当たり前のことだから、意識もしなければ意図もない。

 それを自覚しても、特に何の感慨もなければ抵抗もない。

 

 

 それもそのはず。

 

 それは「当たり前」で。「当然」で。「普通」だからだ。

 

 

 少なくとも彩香は普通にいちいち疑問を挟むような暇人ではなかったし。

 普通なことすら面倒くさがるほど自堕落な性分でもなかったというだけの話だ。

 

 

 事実、この自身の変化を「まあ、いっか」で流すくらいには。彩香にとってウエイトの低い事象であった。

 そんなことより放課後、健の家に行く際。今日は何をするかを考える方がずっと重要だった。

 一緒にアニメやゲームというものそろそろ飽きてきた。結構な付き合いとなり、彼が存外人に気を使う質(タチ)だと分かってきたため。惰性で相手の趣味に付き合っていると気づかれては、無駄に恐縮させて…むしろこちらの方が申し訳なくなる。

 かといって、逆に自分の趣味に付き合わせるというのも難しいだろう。失礼な話、あの男がファッションやメイクの話について来れるとはとても思えん。

 なにか無難な話題はないものかと、SNSを適当に回覧し始めた。

 

 回覧していたから、友人からの言葉を聞き逃した。

 

「やっぱり、──の影響?」

 

 ──ん?

 

「あー、例の?」

「そーそー、一緒に出かけてるの見たって人」

「最近放課後に付き合い悪かったもんね」

 

 ぞくり、と。背筋が震えた。

 

 まだ決定的な部分を聞いてはいない。しかし、友人らの言葉端からの情報を元に最悪の想定が組み上がっていく。

 

「ちょ、ちょっと。なんの話よ」

 

 努めて、声が震えないよう気をつけた。

 今現在出来る、精一杯の虚勢だった。ともすれば威嚇とも表現できた。

 

 しかし、そのどちらも弱い立場。劣勢な場合に行う行為だと彩香は思い至れない。

 

「だから、

 

 

 彩香の彼氏の話。

 

 放課後とかに会ってんでしょ?」

 

 

「────────────」

 

 世界がぐらりと揺れた。

 もちろん錯覚である。

 

 ──バレた。

 

 心臓は跳ね、脂汗がジワリと全身の毛穴から滲み出す。

 しかし逆に、口の中は舌の根まで渇いてしまったかのようにカラカラだった。

 

 頭の中に、益体もない思考があふれ。さながら台風のようにぐるぐると駆け巡る。

 

 なぜ? どうして?

 

 決まっている。見られていたのだ。

 誰に、なんて確認はもはや重要じゃない。

 周りに、グループ内にこの情報がすでに浸透している状態でそんなことに思考を費やしている場合ではない。

 

 しかし、どうする? どうすればいい?

 

 決まっている。否定しろ。

 誤解が生じる隙もなく否定しろ。完膚なきまでに否定しろ。確実確定が確立するまで否定しろ。

 

 でなければ、自分は終わる。

 

 大げさ。

 と笑われるような思考だが。

 彩香のこれまでの人生で培った、強固な価値観の上では自明の理となっていた。

 

 自分の容姿も、

 

 身に着ける装飾品も、

 

 そして恋をする男の子も、

 

 全て周りに自慢するための道具であり、見下すための武器だった。

 

 そのうちの一つが、みすぼらしく貧弱であると知れ渡った。

 否、誤解された。

 

 少なくとも、自分であればそんな相手に攻撃しないわけがなかった。

 貶して、否定して。蹴落としていた。

 

「違うって」

 

 その理屈が今、己に降りかかる。そんな幻影に突き動かされ否定が飛び出す。

 そして矢継ぎ早に、言い逃れの言葉をつむぐのだが…。

 

「あいつは彼氏とかじゃなくてっ。ただの…」

「ただの?」

「ただ…」

 

 否定の言葉が止まる。

 しかし、これは言葉に瀕した訳でも。自分と彼の関係性が不明瞭だった訳でもない。

 

 何も考えず、あんな低レベルな男と蔑み。

 気まぐれか、おちょくって遊んでいるだけ等。簡単に浮かんでくる言い訳を宣えばいいだけのはずだ。

 

 しかし、今に彩香にそれは言えなかった。

 

「ただの、友達よ。最近ちょっと仲良くなった…」

 

 結局、彼女の口から出てきたのはそんな言葉。

 何の言い訳にもならない。

 関係を否定するだけで、関係性は肯定する言葉。

 

 ともすれば照れ隠し、なんて殺意も抱ける誤解を受ける可能性もある回答だった。

 

 間違った、と思った。

 と同時に。

 間違っていない、とも思った。

 

 矛盾した思考。

 しかし事実だ。

 

 言葉選びは確かに間違った。

 でも、自分と彼の関係性は何も間違っていなかった。

 

 親しくなった。

 彼の事に詳しくなった。

 一緒に居て、楽しかった…ような気がする。

 

 少なくとも、その感情だけは間違いないし。

 それだけは否定できなかった。

 

 たとえどんな誹(そし)りを受けたとしても。

 

「‥‥」

 

 唇をかむ。

 まるで判決を受ける罪人のように、周りの反応を待つ。

 

「ふーん、そうなの」

「なーんだ」

 

 ──はえ?

 

 しかし、自分の中で想定していた反応はやって来なかった。

 彼女たちは彩香の下手な言い訳を特に疑うこともなく受け入れた。

 

 やがて、友人たちの話題は次の授業から担当教諭の悪口など細々しく移ろいでいき。

 彩香と健の話を再度蒸し返すものは誰もいなかった。

 

 

 ──あれえ?

 

 * * *

 

 放課後、彩香は女子グループの友人たちと学校の最寄りにある駅ビルを散策していた。

 

 駅ビル。というと都会都心に建てられた、オフィスやホテル…果てには映画館などが入居した大規模な建物をとっさに想像してしまうが。

 彼女たちがいるのは、業界最大手の100円ショップや小規模なアパレル店。ローカルスーパーなどが並んでいる大分年季の入ったこじんまりとしたな施設だった。

 これを駅ビルと呼ぶのは甚(はなは)だ名前負けな気がしないでもないが、その定義は「鉄道駅に商業施設などを併設した複合施設」なので一応間違ってはいない。

 

 まあ、そんな場所も放課後の女子高生たちには十二分な遊び場だ。

 時間はつぶせる。

 それが有り余っている学生に、この要点は大きいのである。

 

 閑話休題。

 

 ここ最近、放課後はずっと健と過ごしていた彩香だったが。

 本日は委員会だかの仕事で帰りが遅くなると連絡があったため、久しぶりに別行動だ。

 別に仕事が終わるまで待ってもよかったのだが、それは向こうが遠慮するだろうし。まるで自分があいつとの時間を心待ちにしているようで、なんとなく抵抗があった。

 まあ、時には引くことも重要なのだ。なんて、分かったような事を思考しつつ。

 よくよく考えてみれば、久しぶりな友人たちとの時間を楽しもうと気持ちを切り替え…。

 

 切り替え…。

 

 いや、無理だった。

 

「‥‥」

 

 表面上はいつも通りを装ってはいたが、内心は激しい困惑でいっぱいだ。

 理由はもちろん、先のやりとり。

 

 健との関係がグループにバレたにも関わらず、一向に嘲笑に晒されることもなければ弱い立場に蹴落とされることもなかった。

 もちろん、そんな対応をされたかったという訳では決してない。

 ないのだが…。

 予想されていた反応が返って来ないとそれはそれで困惑するというか。

 なんだか、釈然としない気分が湧き上がってくるのはどういう訳なのか。

 

 心とはかくも複雑だ。

 

 半ば放心したような、注意力散漫な状態でグループに追従して歩く。

 ほとんど周りを見ていないし、友人たちの声も聞こえていないのに。一定の距離感を保って自動で足が動いてくれる。

 人の間に立つから人間とは言うが。こういう集団行動に適応した本能のようなものを見せられると、人間はまごう事なき社会的動物なのだと実感してしまう。

 

 彩香の意識が現世に戻ってきたのは、十数分後。

 いつの間にかビル内のアパレル店に入っており、友人たちがウィンドウショッピングをしていたときだった。

 

 いや、正確にはウィンドウショッピングが終わったときだ。

 あれこれとラックに掛けられた洋服やワゴンのセール品を物色していた少女たちだが、結局何も購入せず退店することにしたらしい。

 

 その際、一人が彩香に向かって声をかける。

 

「彩香は? 何か買わないの」

「えっ?」

 

 声をかけられたことが起点となり、意識が浮上する。

 はっと、顔を上げると集団がこちらに注目している。どうやら、退店の意思を示していないのが自分だけのため全員を待たせている状態のようだ。

 

 そんな状況に焦りつつ、彼女はぐるりと店内を見渡し商品をざっと確認する。

 いつもならば、何点か必ず見繕って購入していたのだが。

 

「あー、私も今日はいいや」

 

 慌てていたという理由もあるが、何故だか何も買う気が起きなかった彼女はそう宣言した。

 

 

 店を出た彼女たちはその足でファストフード店でリーズナブルなティータイムに洒落込む。

 最近はSNS映えを意識しているのか、こういう場所でもオシャレ(とギリギリ形容できるかもしれない)なスイーツやドリンクがメニューに置かれている。

 とはいっても、そういうメニューは金額が高めに設定されているので。学生である彼女たちは手頃なハンバーガーやポテトなどを注文するのが定番だった。

 

 そんな中、彩香はアプリで稼いだポイントを利用し。自分だけがマカロンだのスムージーだの高価なメニューを頼み。

 これ見よがしに食べたり、時には周りに恵んだりして優越感を味わうのが常だった。

 

 しかし、今日頼んだのはソフトドリンクのアイスティー。

 なんだか食欲はなかったし。くどい飲み物を飲む気にもなれなかった。

 

「‥‥」

 

 テーブルを囲み、姦しく話をする友人たちの傍ら彩香は無言。

 聞き役に徹しているわけでもない。

 わざわざ店員に指定してまでもらったプラストローを指で持て遊ぶ彼女に、その声は右から左に流れるのみだ。

 

 それ自体は、何ら変哲もない。

 彼女が友人たちの話をまともに聞いた試しなどない。

 彼女にとって友人とは自慢をする相手であり。

 優越感を覚えるための対象であり。

 ただのNPCだ。

 

「‥‥」

 

 そして、自分は主人公…。

 

 主人公…の、はずだった。

 

 彩香はアイスティーを舐めるのを止め、顔を上げた。

 周りにいる女子の顔をひとりひとり、しっかりと眺め始める。

 

 当たり前だが、自分とは違う顔。

 そしてその他の誰とも違う顔。

 その人唯一の顔。

 

 同じクラスで、毎日毎日眺めているはずだった。

 しかし、確かに今日彼女たちの「表情」を初めて見たのだ。

 

 表情を見る、ということは感情を理解しようとすることだ。

 

 感情を理解するということは、思考に寄りそおうとすることだ。

 

 思考に寄りそうということは、

 

 

 他人の心を認識するということだ。

 

 

 ともすれば当たり前のことかもしれない。

 人間ひとりひとりに心があって、喜んだり悲しんだり。それぞれの考えがあり、それぞれの行動を起こし。

 全員が違う人生を送っていることなど。

 当たり前に理解している。

 

 だが、彩香は。

 少なくとも、これまでの彼女はそんな当たり前の理屈を本当の意味で解かっていなかった。

 

 だから──、

 

「あれ?」

 

 友人の一人が、足元に置いたカバン。

 何の変哲もないスクールバッグだ。細かなデザインや色味に差異はあろうが、十人が十人とも大まかに似たようなものを想像するであろうありふれたカバンだ。

 事実、自分の足元に置かれたものと瓜二つで。各々が識別するためにつけたストラップやステッカーなどがなければどちらがどちらだが判別できないだろう。

 

 そのカバンに違和感を覚えた。

 いや、カバン自体に違和感はない。

 そのカバンがそこにあることに違和感を覚えたという意味だ。

 

「あの、さ」

 

 彩香の声に、姦しい談笑が止まる。

 皆の前で発言することなど慣れているはずなのに、全員から向けられる視線。その先にある各々各人の意識や意思を認識した途端、なんだか今までにない緊張を覚る。

 

 彼女は「初めて」友人に話しかけた。

 

「あ、えと。そのカバンさ…」

「ん、あたし?」

「そう。その…前もって来たやつはどうしたの?」

 

 前。

 広義的に見れば、彩香の行動を変えるきっかけともいえる。あのブランドバッグのことである。

 

 あの屈辱は忘れもしない…ハズだったのに。

 今の今まで、彼女のバッグが普通のスクールバッグに戻っていることに気付きもしなかった。

 

 それだけ自分は周りのことを見ていなかったのかと、彩香は内心で愕然とする。

 

「ああ、それ私も気になってた」

「どうしたのあれ?」

 

 数人が彩香の発言に同調し、視線の方向が変わる。

 件の彼女はそんな視線に対しあっけらかんと言う。

 

「ああ、親に怒られちゃってさ。あんな高価なモン学校なんかに持ってくなーって」

 

 なんてことはない理由。納得だ。

 学校なんて多数の人間が集まる場所に持ち込めば、盗難など何かしらのトラブルに見舞われる可能性はある。

 そうでなくとも周りの人間関係にいい影響はない、と考えるのがまっとうな大人の思考だ。

 

 現に彩香など、もろに悪い影響を受けてしまったのだから。

 

「そ、そもそもさ」

 

 その答えを聞いた彩香は続けて質問する。

 

「あれ、どうやって買ったの…?」

 

 口に出した瞬間、しまった。と、うかつな発言に後悔した。

 

 どうやって?

 市販されている物を購入するのに、どうやったもこうやったもないだろう。

 

 それは言外に「お前は何か汚い方法を使っただろう?」と聞いているのと変わらない。

 逆の立場だったら間違いなく激怒する。

 図星だろうと、図星じゃなかろうと。

 

 相手は自分がそんなことをするような人物として見ているということなのだから。

 

「ぁっ、いや別に変な意味じゃ…」

「親が宝くじ当てたんだよ。3等くらいだったけど。そしたらちょー上機嫌になって好きなものなんでも買ってあげる―、って言うから買ってもらった」

「あ…」

 

 しかし彼女は再度あっけらかんと答えた。

 なんてこともないように、いや事実彩香の質問に何の裏も感じていない。

 

 聞かれたことを、ただ聞かれたままに答えたまでだった。

 

「えー、それであんなもんねだったの?」

「ひどー、絶対宝くじのお金ほとんど使ったでしょ」

「親かわいそー」

 

 再び周りがワイワイ姦しくなるのを尻目に、彩香はぼうっと呆けたままだった。

 

 ──親に買ってもらった、か。

 

 無論、それが事実とは限らない。

 彼女が想像したように、本当に汚い手段を使っていて。ごまかすために当たり障りのない説明をしただけかもしれない。

 以前までなら、そう思い至っただろう。

 

 疑って。蔑んで。勝手に怒っていただろう。

 

 でも今は、友人の言葉がすとんと胸に落ちた。

 

「てか、そういう彩香はどうなの?」

「えっ」

「ほら彩香って最近羽振りがいい感じじゃん。どうやって稼いでんの?」

 

 返す刀で質問が戻ってくる。

 その瞬間、身体がかあっと熱くなるほど強烈な羞恥を覚えた。

 

 友人とは違い、自分がアプリというずるい行いを実際に行っている自覚があったからだろうか?

 友人のその質問に、自分とは違い悪意や疑念が感じられなかったからかもしれない。

 

 とにかく、いたたまれなかった。

 

 自分が卑怯で矮小な、情けない存在だと突き付けられているような気がした。

 

「べ、別に特別なことやってないわよ。普通に…バイトとか、やってるだけ。ほらっ、最近スキマ時間ってやつが流行ってるじゃない。ああいうのよ、ああいうの」

 

 彩香はそんな言い訳をした。

 何故そんなことを言ったのかは本人も分からない。ほとんど無意識に口から出たのだ。

 

 当初は、バイトをすることを周りに知られるのをあんなに嫌がっていたはずなのに。

 

 それ以上に、嫌なことが出来たのか。

 

 

 幸い、友人たちが彩香の下手な誤魔化しを疑うことも追及することもなかった。

 逆に時間の有効活用を賞賛され、恥ずかしくなったくらいだ。

 

 もちろん心の内までは分からない。

 内心、私のことを下劣な行為で金銭を稼ぐ浅ましい女だと断定して蔑んでいるのかもしれない。

 

 それでも、そうだとしても。

 口に出さず、話を流してくれたことは素直にありがたかった。

 

 心の底から、感謝した。

 

 * * *

 

「結局、取り越し苦労だった…ってことか」

 

 友人たちと別れ、一人帰路につく彩香の歩幅は狭かった。

 少しだけ、考えを整理するために長く歩いていたかった。

 だからいつもより時間をかけて、普段は通らない道にわざわざ入って。曲がったことのない交差点に曲がってみたりした。

 

「‥‥」

 

 入ったことのないコンビニ。

 小さな郵便局。

 個人経営の病院。

 

 すぐ近所なのに、今まで存在すら知らなかった建物がいっぱい並んでいる。

 

 そこには自分が顔も名前も知らない人間が毎日出入りしているのだろう。

 そしてそのひとりひとりに、それぞれの家庭があって。

 それぞれの人生がある。

 

 なんだか不思議だ。

 自分と全く関わりのない人間がすぐ近くにたくさんいて。

 自分と全く関係のない生活を送っているなんて。

 

 日々利用している店や交通機関。

 そこで顔を合わせる人間と、よほどのことがない限りこれからの人生で深い関係になることなどないのだろう。

 しかし、その時その瞬間だけ。

 ほんの数分だけ。彼らと私の人生が少しだけ交わった。

 

 その事実、なんて大仰な言葉も使えないほんの小さな事象がなんだか無性に奇跡的なことに思える。

 

 不意に切なくなって、涙が出そうになった。

 

 なんだかおかしい。

 ともすれば当たり前なことなのに。

 

 「当たり前」で。「当然」で。「普通」なことなのに。

 

 

「普通…」

 

 そう、普通。

 その意味の一端を彩香はようやく理解した気がする。

 

 人間、誰しも主人公なんて言葉があるが。

 それは主観的には確かに正しい。

 しかし、中立的には間違っている。

 

 この世には主人公も脇役もいない。

 ヒーローもヴィランもいない。

 ディアストーカー帽をかぶってパイプをふかす名探偵もいなければ、モノクルをつけた天才犯罪者もいない。

 

 …モノクルはアニメ版だけの特徴だったっけ?

 まあ、いい。

 

 ともかく、人自体に上も下もありはしない。

 人間というコミュニティの中で、中心にいるか脇にいるかの差だ。

 

 そのコミュニティさえも、集団の一部を切り取ったものでしかない。

 別の一部を切り取れば、別の人間が中心になる。逆もまた叱り。

 

 結局、その人の価値やイメージなど。

 角度や場所、見る人間の主観によって千差万別に変化するものだ。

 

 つまり、

 

「そっか、私って普通だったんだ」

 

 自分が世界の中心で、世界のすべてが自分のために存在していると。

 心のどこかで本気で信じていた。

 

 でもそれは違った。

 今になってようやく知った。いや、気付いた。

 

 気付いてしまった。

 

 

 友人たちの中で自分はそんなに重要な存在じゃないということを。

 

 

 今日の自分は、自分自身にとっては異常な行為ばかりだったのに。

 地味で冴えない男子と親しくして。

 いつもと違い、買い物では何も買わず。

 これ見よがしに高いものを飲食もしなかったのに。

 

 彼女たちにとっては、そう気にも留めないようなどうでもいい変化だった。

 

 それを自覚し、彩香は頬が紅潮するのを感じる。

 今なら分かる。過去の自分の思想と言動がいかに幼稚だったか。

 

 猛烈に恥ずかしい…。

 

「はあ…」

 

 なんだか宙ぶらりんになった気分だ。

 無気力とも違う、燃えつきとも違う。

 今すぐどこかへ逃げ出したいのに、踏みしめるための地面に足がつかないような。

 

 胸中に渦巻く感情をぶつける対象が見当たらない。

 健と一緒に見たアニメ映画に「敵がいない格闘家みたいな目」なんてセリフがあったが。今の自分はそれに近しい表情をしているのだろうと、彩香は思った。

 

 とりあえず、通りかかった公園の入り口に刺さった車止めを蹴りつけてみた。

 

 痛い。

 二度とやんねえ。

 

 痛みが引くまでその場で蹲ること数分。

 醜態を誰かに見られてやしないかと、辺りを睨みつけると…。

 

「あ…」

 

 公園近くのバス停、時刻表に並んで設置された広告が目に入った。

 広告は有名なファッションブランドのもの。友人が持っていた、そして私が購入しようとしていたバッグと同じブランドだ。

 

 こんな時にこの広告を目にするなんて、運命…などと表現するのは抵抗を感じたため。

 ここはしがらみとでも言うべきか。

 

「‥‥」

 

 不思議だ。

 あんなに欲しいと思っていた物のはずなのに。

 今はそんな欲求はかけらも湧いてこず、気持ちが凪いでいる。

 

 以前までの自分なら、この広告を見て何を思うのだろう?

 

 絶対に商品を購入すると熱意に燃えるのか。

 友人に対しての嫉妬に狂うのか。

 

 分からない。

 確かに自分の事なのに、たったの数日前の己の心が見通せない。

 出来るのはおそらく「こうだろう」という推察だけだ。

 

 まるで他人事のようだと、彩香は自嘲する。

 しかし本人に自覚はないが、それこそが精神的な成長の何よりの証拠だった。

 

 彼女は自分の中の固定概念や常識を打ち壊し、精神性を著しく変化させた。

 俗的な言い回しをすれば、人が変わった。といったところか。

 

 要は、精神は本当に別人になったのだ。

 

「‥‥」

 

 ふと、思い立った彩香はスマホを取り出す。

 起動するのは件のアプリ。

 ブランドの広告から、当初の目的だった金額を連想し現在のポイントを確認しようと思い立ったのである。

 

 以前までポイントの増加を強いモチベーションにしていたはずなのに。

 ここ最近…ひと月近くは、アプリの起動すら行っていなかった。

 

 思えば、その時点で私の心は変わり始めていたのかもしれない。

 

「多分、数十万は溜まってるはず…」

 

 ──百までは、いってないと思うケド。

 

 おおよその予想を立ててみる。

 その金額は学生の彩香には目もくらむような大金のはずだが、表情にも声にも喜色は感じられない。

 

 目標にしていたバッグに価値を感じなくなった今。そんなもの完全に持て余してしまうだろうと達観してしまったからだろうか。

 

 まあ、あって困るものではない。

 使い道は追々考えよう、なんて。

 

 漠然とスマホに目を落としていた瞳が、驚愕に見開かれる。

 

 

 ──なんで?

 

 

 ポイントが、ない。

 

 いや、ある。有りはするのだ。

 しかしその額が予想よりもはるかに少ない。

 

 先ほどは持て余す、なんて考えておいて。いざ額が減ると慌てだすのは、文字通り現金なものだが。なにか問題が起こったことは確かだ。

 

 彼女はアプリを再起動したり、ポイント増減の履歴を確認したりと。

 様々な操作を行ってみるも、分かったのは少なすぎるポイントは表示のミスなどではないということだ。

 

 確かにポイントはある時点から増加していない。それは確かだ。

 では何故?

 

 と、ここでようやく彩香はアプリの通知欄についた通知バッチに気が付いた。

 何かの通知が来ている…。

 ポイントが止まっている原因はそこにあると思い至った彼女は急いで通知を開く。

 

 件名は「規約違反の警告」。

 

 規約。

 もはや彩香の記憶から零れ落ちかけていたが、その内容のシンプルさから辛うじて思い起こすことが出来た。

 アプリをダウンロードした際、同意したあれであろう。

 

 ──規約違反って。いやいやいや、私が何やったってーのよ。あん中のどれにも私は…。

 

 本文は──、

 

 

 

『貴方はミッション対象者である木戸 健に対し、好意を抱き始めています。

 これ以上その感情が発展する場合、明確な規約違反と判断し。その場合、アプリからの強制および永久退会処分とすることを警告します』

 

 ────────。

 

「はっ?」

 

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