「‥‥」
夜。
自室のベッドに横になる真希は、普段寝巻きとして使用しているTシャツとハーフパンツ姿。既に夕飯入浴を済ませ、宿題も手早く終わらせているので。あとは寝るだけ…という状態だ。
寝るだけ、というか普段ならばもう眠っているところだろう。
アスリートは長時間の睡眠を推奨されてるが、彼女もその例にもれず睡眠を多くとるために就寝時間が早い。
基本は10時。どれだけ遅くても夜11時には床に就くようにしている。
「‥‥」
だというのに。
今日は眠りにつかず、布団にもぐった状態でスマホを操作していた。
まるで翌日の仕事から逃避している、自堕落な会社員のような様相だが。その例えと、ストイックな真希とのギャップから彼女にとってこの状態がいかに異様かが察せられるだろう。
「…んん?」
眉間にしわが寄る。
普段陸上一筋で、スマホは親との電話と部活の連絡用のメッセージアプリしか基本使わない。昨今では確実に少数派となっているであろう現代人のため。
『友人』に教えてもらったアプリの操作に戸惑っているのだった。
──見栄を張らずに、直接教えてもらえばよかったかなあ…。
液晶の光にも慣れていないため、眼疲労も覚え始めたところで。
ようやくユーザー登録と規約の確認が終わり。一通りの仕様を把握…したような気がした。
Sweet Lovely 7teen.
アプリ内のリストに載った相手に優しく接するとポイントを稼ぐことが出来るアプリ。
獲得したポイントは決済アプリの残高や現金に変更できる。
1ポイントを1円に変換が出来、アプリに指定された行動…ミッションを達成すれば最低100ポイントを稼ぐことが出来る。
上手く使えば、学生の身分では不釣り合いな金額を得ることも可能。
そして、リストに載った人物の特徴は「17歳以上」であることと「人付き合いが苦手で、モテない」こと。
つまりはモテない陰キャに優しくすると金を稼げるアプリということである。
「誰が作ったの、これ…?」
制作目的が不明なソフトウェアを前に、呆れだか困惑だか。よく分からない感情を覚える。
しかし『不思議と』そんな疑問はすぐに思考の隅へと追いやられ、真希は淡々とアプリを操作していく。
表示するのはミッション一覧。
対象者に行う指定の行動と、達成によって獲得できるポイント量が確認できる。
その内容は、
『相手を褒める、300P』
『ギャグで笑わせる、600P』
『悩みを聞く、3000P』
‥‥などなど。
達成がそう難しくもないものから、ある程度の親密度が必要なものまでさまざまだ。
しかしユーザーにとって一番ネックになる部分は、ミッションの内容ではなく。その対象者となるだろう。
事実、真希もミッションも確認し。達成自体はそう難しくないと考えていた。
問題はそれを対象者…モテない陰キャ男に実行できるかということ。
「‥‥」
画面を切り替え、今度はミッション対象者のリストを開く。
謎の技術でユーザーに近しい人物が選出されているらしい名簿を、ざっと流し見していく。
画面をスワイプしていくと、確かに普段通う学校で見た覚えのある顔と名前がちらほら存在した。
失礼ながら。真希の記憶を照らし合わせても、確かに彼らは普段女子と関わっている様子は思い浮かばない。
よって、モテないという条件は間違いなく当てはまっているのだろう。
「…ふむ」
真希は思考する。
自分が彼らに対して、ミッションで指定された行為を行う状況を。
数分、思考の渦でのクルージングで脳内バカンスをエンジョイし出した結論は…。
──うん、問題ないかなあ…。
で、あった。
元々、所謂ネットスラングでいうところの弱者男性と表わされる人種への差別意識が薄いうえ。
長年、スポーツに打ち込んできた経験から。彼女の根幹には「実力主義」という強固な価値観の大樹が根を張っているのだ。
実力があれば、どんな人間でも敬意を表し。
逆に実績がなければ、どんなに周りからもてはやされた人間でも。彼女の中で賞賛に値しない。
もちろんこれは、価値観の根源であり。
実力・実績があっても、人間性が伴わなければ尊敬できないと思っている。
それくらいの融通は持っている。
ともかく、真希という少女にとって他人を測る基準は「どんな人間なのか」ではなく。
「何をした人間なのか」、はたまた「何をしようとしている人間なのか」であったということだ。
そんな彼女に、リストに載った人間に対する嫌悪感はなかった。
どんな人間なのか、そもそも知らないのだ。嫌悪感を抱く以前の問題であろう。
よく言えばフラットな感情を持ち。
悪く言えば、どうでもよかった。
他人に対する感情なんてそんなものだろう。と、真希は考える。
相手の人となりをまず知らなければ何も始まらない。
いい人間なのか、悪い人間なのか。親しい者がやっと評せるものだ。
今現在容姿と名前しか知らない自分に彼らを査定する権利はない。
──むしろ、そんなことでお金貰っていいのかなあ…?
リストの人間に優しくすることに問題はない。
抵抗がないからこそ、
つまり労力に対する対価が釣り合っていないために、後ろめたさがあった。
これも彼女のアスリートとしての価値観の問題…というより、経験則との齟齬による違和感といったほうがいいか。
結果には努力がつきものであり、努力が必ずしも結果につながるとは限らない。
それが真希のこれまでの陸上に打ち込んだ人生において培われた論理であり。
世の真理だ。
それが全く当てはまらないこの状況は、気持ち悪くてむずがゆくなる。
まるで何をやっても褒められる乳幼児扱いだ。
自分が当たり前に、何の気もなく行っている日常の動作をいちいち褒められ報酬も渡されるような感覚。
自分の心情的に、このアプリを使ってもいいものだろうかとまたしても思考の渦に沈みそうになる前に。
「‥‥お?」
通知音が鳴る。
ちょうどアプリの通知が来たようだった。
特に何の感慨もなく、通知欄を開き。内容を確認する。
内容は機能の解放。
ユーザーとして一定の基準を満たしたため、新しい機能が使えるようになったというものだが…。
──まだロクに使ってないんだけど…?
その基準とやらが明記されていないため、自分の何が認められたのかが分からず首をかしげつつも内容を確認する。
その機能とは『ミッション対象の限定化』であった。
アプリ内にある男性のリスト。
その中から一人を選択し、今後その対象にのみミッションが適応されるようになる代わりに。
ミッション報酬のポイントが5倍となる。
「5倍…」
さすがの真希も、その大きいリターンの前には心情的な抵抗感が薄れ。心が揺らいでしまう。
責められるものではない。
どれだけ品行方正な人間だろうと、目の前に札束が積まれれば魔が差すこともある。
大きな欲の前では、人間の理性など風の前の塵芥同然だ。
まさに、なにがなにやら分からない状態というやつだ。
──まあ、別に悪いこと…って訳でもないもんね。
再びリストを表示させる。
別に限定化する相手を選んだとしても、ミッションの達成を保留することも出来るんだし。
と、自らの行いに予防線を張りつつ名簿に目を通す。
数分間、他人の顔と名前の羅列を眺めていた真希だったが。悩んで対象を選べずにいた。
別に誰でもよかったからだ。
彼女はスポーツ用品を選ぶときなど、自分の中で明確に判断基準が決まっている選択に悩むことはなかったが。
どうでもいい選択肢の中から一つを選ばなければいけない時、ぐだぐだと悩む癖があった。
そして、大抵そういう時は「選択自体をスルーする」という番外の選択肢を忘れ無駄に時間が経ってしまう。
横になりながらスマホを操作しているため、そろそろ眠気が襲ってきて目がしょぼつきだしたとき。
ぴたりと、操作する指が止まった。
「こいつ…」
眠たげだった瞳が見開かれ、視線が固定される。
その先にはとある男子の顔と名前が表示されている。
* * *
翌日。
昨夜いつもより夜更かしをした真希は、強烈な眠気を覚えつついつも通りに朝練をこなした。
そこは素直に習慣の勝利だろう。
そして朝練が終わったのち、いつもならば自身の教室に向かうところ。
校舎正面の昇降口にて、静かにたたずんでいた。
しばしやることがないので、近くにある掲示板に張り出された連絡などを眺め時間をつぶしていると。
目的の人物がやってきた。
「‥‥」
記憶よりも少しやせただろうか?
そんな感想を持ちつつも、全容はそう変わっていない。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、なんと声をかけるか迷ったが。
そんな思考はすぐに脇に放った。
「よっ、おはよ」
久しぶりに会話する相手への定型文なんて、そう選択肢もないものだからだ。
「一年ぶりくらいだっけ? 元気してた?」
真希の言葉に、目の前の少年はびくりと身を震わせ。
まるで蜃気楼でも見たような、いぶかしげな表情を浮かべた。
「真っ…、佐川…。なんだよ、いきなり」
彼の名は
真希との関係を一言で。それも俗っぽく言い表してしまえば。
いわゆる幼馴染、というやつだろう。