その背中を継ぐもの   作:なかにし

1 / 1
名もなき孤児

都市の片隅。

 

日の光すらまともに届かない薄暗い路地裏に、一人の少年がうずくまっていた。

 

薄汚れた服はところどころ破れ、露出した腕には古い傷と新しい痣が入り混じっている。

 

少年は壁に背中を預けながら、通りを行き交う人間たちを睨みつけていた。

 

「……腹減った」

 

最後にまともな食事をしたのは、いつだっただろうか。

 

昨日か、それとも三日前か。

 

もはや思い出すことすら面倒だった。

 

少年は親というものを知らなかった。

 

顔も、声も、名前さえも。

 

物心ついた頃から、ずっと一人だった。

 

この都市では、弱い者から奪うことなど珍しくない。

 

食べ物を奪われたこともあった。

 

寝床を追い出されたこともあった。

 

親切そうに声をかけてきた大人に騙され、危うく売り飛ばされそうになったこともある。

 

そのたびに少年は学んだ。

 

他人を信用してはいけない。

 

誰かに期待してはいけない。

 

頼れるのは自分だけだ。

 

「……くそっ」

 

腹が鳴る。

 

少年は舌打ちすると、さらに深く膝を抱えた。

 

そんなときだった。

 

「おや?」

 

不意に、頭上から声が降ってきた。

 

「こんなところに子供がいるとはな」

 

少年は弾かれたように顔を上げた。

 

目の前には、一人の大柄な男が立っていた。

 

黒い外套を羽織り、腰には鎖を下げている。

 

その男は少年の姿を見ると、少しだけ眉を下げた。

 

「ずいぶん腹を空かせているようだな」

 

「……あ?」

 

少年は即座に身構えた。

 

男はそんな反応にも動じず、穏やかに笑った。

 

「そんなに睨まなくてもいいさ。何もしないよ」

 

「……あっち行け」

 

「そうか。邪魔をしたなら悪かったな」

 

男は素直に謝った。

 

しかし、その場を離れる代わりに懐から小さな包みを取り出した。

 

「よかったら、これを食べてくれ」

 

「……いらねぇ」

 

「そうか」

 

男はそれ以上勧めようとはしなかった。

 

ただ、少年の近くに包みを置こうとした。

 

その瞬間。

 

「近づくなって言ってんだろ!」

 

少年は懐から錆びついたナイフを抜き、男に飛びかかった。

 

狙いは腹部。

 

ためらいはなかった。

 

この都市で生き残るには、先に動かなければならない。

 

そう信じていた。

 

だが。

 

「おっと」

 

男は驚くほどあっさりと少年の手首をつかんだ。

 

刃先が逸れる。

 

次の瞬間、少年の身体は軽く押し返されていた。

 

「ぐっ……!」

 

少年はよろめきながらも、すぐに体勢を立て直した。

 

「離せ! ぶっ殺すぞ!」

 

「ははは。威勢がいいな」

 

男は笑っていた。

 

少年は困惑した。

 

自分は今、この男を刺そうとしたのだ。

 

普通なら殴られる。

 

蹴られる。

 

下手をすれば、その場で殺されてもおかしくない。

 

なのに。

 

「……なんで笑ってんだよ」

 

「ん?」

 

「俺はお前を刺そうとしたんだぞ!」

 

「ああ、そうだったな」

 

男はあっさりとうなずいた。

 

「だが、何か理由があったんだろう?」

 

「……は?」

 

「話したくないなら、無理に聞かないさ」

 

男は包みを地面に置いた。

 

「腹が減ったら食べてくれ」

 

「……毒でも入ってんじゃねぇのか」

 

「ははは! そんなことをしたら、せっかくの飯がもったいないだろう?」

 

少年は答えなかった。

 

男は立ち上がる。

 

「それじゃあ、またな」

 

そう言って、何事もなかったかのように路地を去っていった。

 

少年はしばらく、その背中を睨み続けた。

 

「……なんなんだよ、あいつ」

 

やがて視線を落とす。

 

地面には、先ほどの包みが置かれていた。

 

恐る恐る開くと、中にはまだ少し温かいパンが入っていた。

 

少年は周囲を確認した。

 

誰もいない。

 

一口だけかじる。

 

妙な味はしなかった。

 

もう一口。

 

そして、もう一口。

 

気づけば、包みの中は空になっていた。

 

---

 

翌日。

 

少年はいつもの路地にいた。

 

昨日の男が置いていったパンのおかげで、少しだけ空腹は和らいでいた。

 

だが、腹が満たされれば、それで終わりというわけではない。

 

今日を生き延びても、明日にはまた腹が減る。

 

それが少年の日常だった。

 

「やあ。また会ったな」

 

聞き覚えのある声。

 

少年は顔をしかめた。

 

「……またお前かよ」

 

「ははは。覚えていてくれたのか」

 

昨日の男だった。

 

相変わらず穏やかな笑顔を浮かべている。

 

「何しに来た」

 

「近くを通ったものでな。腹は減っていないか?」

 

「……別に」

 

ぐぅぅ。

 

腹が鳴った。

 

男は一瞬だけ目を丸くした。

 

そして、楽しそうに笑った。

 

「ははは! どうやら腹の方は正直みたいだな!」

 

「うるせぇ!」

 

少年は顔を赤くした。

 

男は笑いながら、昨日と同じように食べ物を置いた。

 

「無理に食べなくてもいいさ」

 

「……なんでだよ」

 

「ん?」

 

「なんで俺に飯なんか持ってくるんだ」

 

男は少し首をかしげた。

 

「腹を空かせた子供がいたら、食べさせたいと思うものだろう?」

 

「……意味分かんねぇ」

 

「そうか」

 

男は困ったように笑った。

 

「まあ、今はそれでもいいさ」

 

少年は男を睨みつけた。

 

昨日、自分を刺そうとした相手に、今日も食べ物を持ってくる。

 

理解できなかった。

 

この都市に、そんな人間がいるはずがない。

 

きっと何か裏がある。

 

少年はそう自分に言い聞かせた。

 

「……お前、何者だよ」

 

「俺か?」

 

男は少し考えた後、答えた。

 

「ヴィクトルという。よろしくな」

 

「……名前なんか聞いてねぇよ」

 

「ははは! そうだったか」

 

少年は呆れたように顔を背けた。

 

ヴィクトル。

 

変な男だ。

 

そう思った。

 

---

 

それから数日。

 

ヴィクトルは何度か少年の前に現れた。

 

食べ物を置いていく日もあれば、少しだけ話をして帰る日もあった。

 

少年は相変わらず警戒していた。

 

近づかれれば身構え、頭に触れようとされれば手を払いのけた。

 

それでもヴィクトルは怒らなかった。

 

「嫌なら触らないさ」

 

そう言って、いつも笑っていた。

 

少年には、それが不思議で仕方なかった。

 

そして、ある日のこと。

 

「おい、いたぞ!」

 

突然、路地の入り口から怒鳴り声が響いた。

 

少年は顔を上げた。

 

そこには三人の男が立っていた。

 

見覚えがあった。

 

数日前、食べ物を盗んだ相手だった。

 

「ようやく見つけたぜ、このクソガキ!」

 

「……ちっ」

 

少年は立ち上がった。

 

「俺たちの飯を盗んでおいて、ただで済むと思ってんのか?」

 

「……うるせぇ」

 

少年は懐からナイフを取り出す。

 

「近づくな!」

 

だが、相手は大人が三人。

 

しかも少年は、満足に食事も取れていない。

 

勝てるはずがなかった。

 

「生意気なガキが!」

 

男の一人が突っ込んでくる。

 

少年はナイフを振るった。

 

しかし、あっさりと腕をつかまれる。

 

「ぐっ!」

 

そのまま壁へ叩きつけられた。

 

衝撃でナイフが地面に転がる。

 

「調子に乗りやがって!」

 

腹を蹴られる。

 

息が詰まった。

 

「がっ……!」

 

少年は地面に倒れ込んだ。

 

痛い。

 

苦しい。

 

だが、助けを求めるつもりはなかった。

 

誰も助けてくれない。

 

そんなことは、とうの昔に知っていた。

 

「少しは反省しろ!」

 

男が拳を振り上げる。

 

少年は歯を食いしばった。

 

また殴られる。

 

いつもと同じだ。

 

そう思った、そのとき。

 

「そこまでにしてもらえるかな」

 

聞き覚えのある声がした。

 

男たちが振り返る。

 

少年も顔を上げた。

 

そこには、あの大柄な男が立っていた。

 

ヴィクトルだった。

 

「なんだ、てめぇ!」

 

「悪いが、その子を離してやってくれないか」

 

ヴィクトルは穏やかに告げた。

 

「そいつは俺たちの物を盗んだんだぞ!」

 

「そうか。それは悪いことをしたな」

 

ヴィクトルは少年へ視線を向けた。

 

「腹が減っていたのか?」

 

少年は何も答えなかった。

 

「……そうか」

 

ヴィクトルは男たちに向き直った。

 

「盗んだ物の代金なら俺が払おう。それで許してもらえないだろうか」

 

「ふざけんな!」

 

男の一人がヴィクトルに殴りかかった。

 

だが、その拳は届かなかった。

 

ヴィクトルは相手の腕をつかみ、軽く押し返した。

 

それだけで男は数歩後ずさった。

 

「なっ……!?」

 

「できれば穏便に済ませたいんだ」

 

ヴィクトルは笑っていた。

 

しかし、その目は先ほどまでとは違っていた。

 

「だが、これ以上その子を傷つけるというのなら、俺も黙ってはいられない」

 

男たちは顔をしかめた。

 

「舐めやがって!」

 

別の男が背後へ回り込む。

 

ヴィクトルは正面の男を見ていた。

 

背後から刃物が振り上げられる。

 

少年は思わず叫んでいた。

 

「後ろっ!」

 

ヴィクトルが振り返る。

 

鎖が鳴った。

 

次の瞬間、背後から襲いかかった男は地面に叩きつけられていた。

 

「ぐあっ!」

 

残る男たちは動きを止めた。

 

ヴィクトルの腰に下がる鎖。

 

その男の立ち振る舞い。

 

そして、外套の下からわずかに覗く刺青。

 

「な……中指……!?」

 

男たちの顔色が変わった。

 

ヴィクトルは穏やかに笑った。

 

「分かってくれたようで何よりだ」

 

男たちは慌てて逃げ出した。

 

路地に静けさが戻る。

 

ヴィクトルは少年の前にしゃがみ込んだ。

 

「大丈夫か?」

 

「……なんで」

 

「ん?」

 

「なんで、俺なんかを助けたんだよ……」

 

ヴィクトルは少し首をかしげた。

 

「目の前で子供が傷つけられていたんだ。助けるのは当然だろう?」

 

「……俺は」

 

少年は拳を握りしめた。

 

「俺は、お前を刺そうとしたんだぞ」

 

「ああ、そうだったな」

 

「なのに……なんで……」

 

ヴィクトルはいつものように笑った。

 

「お前が俺を刺そうとしたことと、俺がお前を助けたいと思ったことは、別の話だろう?」

 

少年は何も言えなかった。

 

今まで出会った大人は、みんな何かを奪おうとしてきた。

 

食べ物も。

 

寝床も。

 

わずかに持っていた金も。

 

だが、この男は違った。

 

何も要求しなかった。

 

自分が刃物を向けても、怒らなかった。

 

そして今、自分を守ってくれた。

 

初めてだった。

 

誰かが、自分のために立ちはだかってくれたのは。

 

「……この前は」

 

少年はうつむいた。

 

「……刺そうとして、悪かった」

 

ヴィクトルは少し驚いたように目を見開いた。

 

そして、優しく笑った。

 

「謝ってくれてありがとう」

 

「……怒らねぇのかよ」

 

「反省している相手を、いつまでも責める必要はないさ」

 

ヴィクトルはそう言うと、ふと思い出したように続けた。

 

「それと、さっきはありがとうな」

 

「……は?」

 

「後ろから来た男を教えてくれただろう?」

 

「……別に! 勝手に声が出ただけだ!」

 

「ははは! そうか、そうか!」

 

ヴィクトルは楽しそうに笑った。

 

「それでも、俺を守ろうとしてくれたんだろう?」

 

「ち、違ぇよ!」

 

少年は顔を背けた。

 

だが、不思議と嫌な気分ではなかった。

 

ヴィクトルはゆっくりと立ち上がり、手を差し伸べた。

 

「よかったら、俺と一緒に来ないか?」

 

少年はその手を見つめた。

 

大きな手だった。

 

自分を殴ることも、奪うこともできる手。

 

なのに、その手は自分を守ってくれた。

 

信用できるかなんて、分からない。

 

この男だって、いつか自分を裏切るかもしれない。

 

それでも。

 

――こいつなら、一度くらい信じてみてもいいかもしれない。

 

少年は恐る恐る手を伸ばした。

 

そして、その大きな手を握った。

 

「……飯、食わせてくれるんだろうな」

 

ヴィクトルは笑った。

 

「ははは! もちろんだとも!」

 

「……あと、変なことしたら逃げるからな」

 

「ああ。それで構わないさ」

 

ヴィクトルは少年の手を優しく握り返した。

 

「さあ、行こうか」

 

「……どこに?」

 

「俺たちの家だ」

 

少年は首をかしげた。

 

家。

 

そんなもの、自分にはなかった。

 

けれど。

 

今は、この男についていってみようと思った。

 

少年はヴィクトルの隣を歩き始めた。

 

まだ、家族というものを知らない。

 

誰かを守りたいと思ったこともない。

 

ましてや、この男の背中を追いかける日が来るなど、想像すらしていなかった。

 

だが、この日。

 

名もなき孤児の人生は、確かに動き始めた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。