都市の片隅。
日の光すらまともに届かない薄暗い路地裏に、一人の少年がうずくまっていた。
薄汚れた服はところどころ破れ、露出した腕には古い傷と新しい痣が入り混じっている。
少年は壁に背中を預けながら、通りを行き交う人間たちを睨みつけていた。
「……腹減った」
最後にまともな食事をしたのは、いつだっただろうか。
昨日か、それとも三日前か。
もはや思い出すことすら面倒だった。
少年は親というものを知らなかった。
顔も、声も、名前さえも。
物心ついた頃から、ずっと一人だった。
この都市では、弱い者から奪うことなど珍しくない。
食べ物を奪われたこともあった。
寝床を追い出されたこともあった。
親切そうに声をかけてきた大人に騙され、危うく売り飛ばされそうになったこともある。
そのたびに少年は学んだ。
他人を信用してはいけない。
誰かに期待してはいけない。
頼れるのは自分だけだ。
「……くそっ」
腹が鳴る。
少年は舌打ちすると、さらに深く膝を抱えた。
そんなときだった。
「おや?」
不意に、頭上から声が降ってきた。
「こんなところに子供がいるとはな」
少年は弾かれたように顔を上げた。
目の前には、一人の大柄な男が立っていた。
黒い外套を羽織り、腰には鎖を下げている。
その男は少年の姿を見ると、少しだけ眉を下げた。
「ずいぶん腹を空かせているようだな」
「……あ?」
少年は即座に身構えた。
男はそんな反応にも動じず、穏やかに笑った。
「そんなに睨まなくてもいいさ。何もしないよ」
「……あっち行け」
「そうか。邪魔をしたなら悪かったな」
男は素直に謝った。
しかし、その場を離れる代わりに懐から小さな包みを取り出した。
「よかったら、これを食べてくれ」
「……いらねぇ」
「そうか」
男はそれ以上勧めようとはしなかった。
ただ、少年の近くに包みを置こうとした。
その瞬間。
「近づくなって言ってんだろ!」
少年は懐から錆びついたナイフを抜き、男に飛びかかった。
狙いは腹部。
ためらいはなかった。
この都市で生き残るには、先に動かなければならない。
そう信じていた。
だが。
「おっと」
男は驚くほどあっさりと少年の手首をつかんだ。
刃先が逸れる。
次の瞬間、少年の身体は軽く押し返されていた。
「ぐっ……!」
少年はよろめきながらも、すぐに体勢を立て直した。
「離せ! ぶっ殺すぞ!」
「ははは。威勢がいいな」
男は笑っていた。
少年は困惑した。
自分は今、この男を刺そうとしたのだ。
普通なら殴られる。
蹴られる。
下手をすれば、その場で殺されてもおかしくない。
なのに。
「……なんで笑ってんだよ」
「ん?」
「俺はお前を刺そうとしたんだぞ!」
「ああ、そうだったな」
男はあっさりとうなずいた。
「だが、何か理由があったんだろう?」
「……は?」
「話したくないなら、無理に聞かないさ」
男は包みを地面に置いた。
「腹が減ったら食べてくれ」
「……毒でも入ってんじゃねぇのか」
「ははは! そんなことをしたら、せっかくの飯がもったいないだろう?」
少年は答えなかった。
男は立ち上がる。
「それじゃあ、またな」
そう言って、何事もなかったかのように路地を去っていった。
少年はしばらく、その背中を睨み続けた。
「……なんなんだよ、あいつ」
やがて視線を落とす。
地面には、先ほどの包みが置かれていた。
恐る恐る開くと、中にはまだ少し温かいパンが入っていた。
少年は周囲を確認した。
誰もいない。
一口だけかじる。
妙な味はしなかった。
もう一口。
そして、もう一口。
気づけば、包みの中は空になっていた。
---
翌日。
少年はいつもの路地にいた。
昨日の男が置いていったパンのおかげで、少しだけ空腹は和らいでいた。
だが、腹が満たされれば、それで終わりというわけではない。
今日を生き延びても、明日にはまた腹が減る。
それが少年の日常だった。
「やあ。また会ったな」
聞き覚えのある声。
少年は顔をしかめた。
「……またお前かよ」
「ははは。覚えていてくれたのか」
昨日の男だった。
相変わらず穏やかな笑顔を浮かべている。
「何しに来た」
「近くを通ったものでな。腹は減っていないか?」
「……別に」
ぐぅぅ。
腹が鳴った。
男は一瞬だけ目を丸くした。
そして、楽しそうに笑った。
「ははは! どうやら腹の方は正直みたいだな!」
「うるせぇ!」
少年は顔を赤くした。
男は笑いながら、昨日と同じように食べ物を置いた。
「無理に食べなくてもいいさ」
「……なんでだよ」
「ん?」
「なんで俺に飯なんか持ってくるんだ」
男は少し首をかしげた。
「腹を空かせた子供がいたら、食べさせたいと思うものだろう?」
「……意味分かんねぇ」
「そうか」
男は困ったように笑った。
「まあ、今はそれでもいいさ」
少年は男を睨みつけた。
昨日、自分を刺そうとした相手に、今日も食べ物を持ってくる。
理解できなかった。
この都市に、そんな人間がいるはずがない。
きっと何か裏がある。
少年はそう自分に言い聞かせた。
「……お前、何者だよ」
「俺か?」
男は少し考えた後、答えた。
「ヴィクトルという。よろしくな」
「……名前なんか聞いてねぇよ」
「ははは! そうだったか」
少年は呆れたように顔を背けた。
ヴィクトル。
変な男だ。
そう思った。
---
それから数日。
ヴィクトルは何度か少年の前に現れた。
食べ物を置いていく日もあれば、少しだけ話をして帰る日もあった。
少年は相変わらず警戒していた。
近づかれれば身構え、頭に触れようとされれば手を払いのけた。
それでもヴィクトルは怒らなかった。
「嫌なら触らないさ」
そう言って、いつも笑っていた。
少年には、それが不思議で仕方なかった。
そして、ある日のこと。
「おい、いたぞ!」
突然、路地の入り口から怒鳴り声が響いた。
少年は顔を上げた。
そこには三人の男が立っていた。
見覚えがあった。
数日前、食べ物を盗んだ相手だった。
「ようやく見つけたぜ、このクソガキ!」
「……ちっ」
少年は立ち上がった。
「俺たちの飯を盗んでおいて、ただで済むと思ってんのか?」
「……うるせぇ」
少年は懐からナイフを取り出す。
「近づくな!」
だが、相手は大人が三人。
しかも少年は、満足に食事も取れていない。
勝てるはずがなかった。
「生意気なガキが!」
男の一人が突っ込んでくる。
少年はナイフを振るった。
しかし、あっさりと腕をつかまれる。
「ぐっ!」
そのまま壁へ叩きつけられた。
衝撃でナイフが地面に転がる。
「調子に乗りやがって!」
腹を蹴られる。
息が詰まった。
「がっ……!」
少年は地面に倒れ込んだ。
痛い。
苦しい。
だが、助けを求めるつもりはなかった。
誰も助けてくれない。
そんなことは、とうの昔に知っていた。
「少しは反省しろ!」
男が拳を振り上げる。
少年は歯を食いしばった。
また殴られる。
いつもと同じだ。
そう思った、そのとき。
「そこまでにしてもらえるかな」
聞き覚えのある声がした。
男たちが振り返る。
少年も顔を上げた。
そこには、あの大柄な男が立っていた。
ヴィクトルだった。
「なんだ、てめぇ!」
「悪いが、その子を離してやってくれないか」
ヴィクトルは穏やかに告げた。
「そいつは俺たちの物を盗んだんだぞ!」
「そうか。それは悪いことをしたな」
ヴィクトルは少年へ視線を向けた。
「腹が減っていたのか?」
少年は何も答えなかった。
「……そうか」
ヴィクトルは男たちに向き直った。
「盗んだ物の代金なら俺が払おう。それで許してもらえないだろうか」
「ふざけんな!」
男の一人がヴィクトルに殴りかかった。
だが、その拳は届かなかった。
ヴィクトルは相手の腕をつかみ、軽く押し返した。
それだけで男は数歩後ずさった。
「なっ……!?」
「できれば穏便に済ませたいんだ」
ヴィクトルは笑っていた。
しかし、その目は先ほどまでとは違っていた。
「だが、これ以上その子を傷つけるというのなら、俺も黙ってはいられない」
男たちは顔をしかめた。
「舐めやがって!」
別の男が背後へ回り込む。
ヴィクトルは正面の男を見ていた。
背後から刃物が振り上げられる。
少年は思わず叫んでいた。
「後ろっ!」
ヴィクトルが振り返る。
鎖が鳴った。
次の瞬間、背後から襲いかかった男は地面に叩きつけられていた。
「ぐあっ!」
残る男たちは動きを止めた。
ヴィクトルの腰に下がる鎖。
その男の立ち振る舞い。
そして、外套の下からわずかに覗く刺青。
「な……中指……!?」
男たちの顔色が変わった。
ヴィクトルは穏やかに笑った。
「分かってくれたようで何よりだ」
男たちは慌てて逃げ出した。
路地に静けさが戻る。
ヴィクトルは少年の前にしゃがみ込んだ。
「大丈夫か?」
「……なんで」
「ん?」
「なんで、俺なんかを助けたんだよ……」
ヴィクトルは少し首をかしげた。
「目の前で子供が傷つけられていたんだ。助けるのは当然だろう?」
「……俺は」
少年は拳を握りしめた。
「俺は、お前を刺そうとしたんだぞ」
「ああ、そうだったな」
「なのに……なんで……」
ヴィクトルはいつものように笑った。
「お前が俺を刺そうとしたことと、俺がお前を助けたいと思ったことは、別の話だろう?」
少年は何も言えなかった。
今まで出会った大人は、みんな何かを奪おうとしてきた。
食べ物も。
寝床も。
わずかに持っていた金も。
だが、この男は違った。
何も要求しなかった。
自分が刃物を向けても、怒らなかった。
そして今、自分を守ってくれた。
初めてだった。
誰かが、自分のために立ちはだかってくれたのは。
「……この前は」
少年はうつむいた。
「……刺そうとして、悪かった」
ヴィクトルは少し驚いたように目を見開いた。
そして、優しく笑った。
「謝ってくれてありがとう」
「……怒らねぇのかよ」
「反省している相手を、いつまでも責める必要はないさ」
ヴィクトルはそう言うと、ふと思い出したように続けた。
「それと、さっきはありがとうな」
「……は?」
「後ろから来た男を教えてくれただろう?」
「……別に! 勝手に声が出ただけだ!」
「ははは! そうか、そうか!」
ヴィクトルは楽しそうに笑った。
「それでも、俺を守ろうとしてくれたんだろう?」
「ち、違ぇよ!」
少年は顔を背けた。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
ヴィクトルはゆっくりと立ち上がり、手を差し伸べた。
「よかったら、俺と一緒に来ないか?」
少年はその手を見つめた。
大きな手だった。
自分を殴ることも、奪うこともできる手。
なのに、その手は自分を守ってくれた。
信用できるかなんて、分からない。
この男だって、いつか自分を裏切るかもしれない。
それでも。
――こいつなら、一度くらい信じてみてもいいかもしれない。
少年は恐る恐る手を伸ばした。
そして、その大きな手を握った。
「……飯、食わせてくれるんだろうな」
ヴィクトルは笑った。
「ははは! もちろんだとも!」
「……あと、変なことしたら逃げるからな」
「ああ。それで構わないさ」
ヴィクトルは少年の手を優しく握り返した。
「さあ、行こうか」
「……どこに?」
「俺たちの家だ」
少年は首をかしげた。
家。
そんなもの、自分にはなかった。
けれど。
今は、この男についていってみようと思った。
少年はヴィクトルの隣を歩き始めた。
まだ、家族というものを知らない。
誰かを守りたいと思ったこともない。
ましてや、この男の背中を追いかける日が来るなど、想像すらしていなかった。
だが、この日。
名もなき孤児の人生は、確かに動き始めた。