ヴィクトルに連れられ、少年は一軒の建物の前に立っていた。
路地裏に並ぶ薄汚れた廃屋とは違い、その建物はきちんと手入れがされていた。窓からは温かな明かりが漏れ、扉の向こうからは何人もの笑い声が聞こえてくる。
「……ここが、お前の家か?」
「ああ。俺たちの家だ」
「……俺たち?」
少年が聞き返すと、ヴィクトルは穏やかに微笑んだ。
「入れば分かるさ」
そう言って扉を開ける。
「ただいま!」
その瞬間、室内からいくつもの声が返ってきた。
「おかえりなさい、兄貴!」
「お疲れ様です!」
「兄貴! 今日は随分遅かったですね!」
次々と人が集まってくる。
少年は思わずヴィクトルの背後に身を隠した。
建物の中には大勢の男女がいた。誰もがヴィクトルを親しげに迎え、その顔には笑みが浮かんでいる。
しかし、少年が気になったのはそれだけではなかった。
彼らの身体には、見覚えのある刺青が刻まれていた。
そして、その多くが鎖を身につけている。
「……なんだよ、ここ」
少年が小さく呟くと、一人の女性がこちらに気づいた。
「あら? 兄貴、その子は?」
「ああ。今日からしばらく、ここで面倒を見ようと思ってな」
「まあ!」
女性の顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ、新しい家族になるかもしれない子なのね!」
「……は?」
少年は思わず声を漏らした。
家族。
聞き慣れない言葉だった。
「ちょっと待てよ! 俺はまだ――」
「おいおい、兄貴! こんな小さい奴をどこで拾ってきたんですか!」
今度は大柄な男が近づいてきた。
「お前、腹減ってないか? ちょうど飯ができたところだぞ!」
「……近づくな!」
少年は反射的に身構えた。
男は驚いて足を止める。
「おっと、悪い悪い!」
「ちょっと、あんた。顔が怖いのよ」
隣にいた女性が男の肩を小突いた。
「まずは安心させてあげなさいよ」
「俺の顔は生まれつきだ!」
その言葉に、周囲から笑い声が上がった。
少年は困惑した。
誰も怒らない。
突然現れた自分を邪魔者扱いする者もいない。
むしろ、歓迎されているようにさえ感じた。
「さあ、まずは飯にしよう」
ヴィクトルに促され、少年は警戒しながらもその後についていった。
食卓には、温かな料理が並んでいた。
肉の入ったスープに、焼きたてのパン。さらに、少年がこれまで見たこともないほど大きな肉料理まで置かれている。
「……これ、全部食っていいのか?」
「もちろん!」
先ほどの女性が笑った。
「遠慮しなくていいのよ。足りなかったらおかわりもあるから」
少年は料理を見つめた。
毒が入っているかもしれない。
何かの見返りを求められるかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
しかし、目の前では他の者たちが同じ料理を食べていた。
「ほら、冷めるぞ」
ヴィクトルに促され、少年は恐る恐るスプーンを手に取った。
一口。
温かなスープが喉を通る。
「……うまい」
思わず言葉が漏れた。
「そう? よかった!」
女性が嬉しそうに笑う。
少年は慌てて顔を伏せた。
「……別に、普通だし」
「ははは! そうか、そうか!」
ヴィクトルが楽しそうに笑った。
食卓では、あちらこちらで会話が弾んでいた。
仕事の失敗をからかわれる者。
隣の皿から肉を奪おうとして怒られる者。
くだらない冗談に大声で笑う者。
騒がしい。
落ち着かない。
それなのに、不思議と嫌な気分にはならなかった。
少年はスープをもう一口飲みながら、胸の奥に広がる奇妙な温かさに戸惑っていた。
食事を終えた後、少年はヴィクトルの隣に座っていた。
「……なあ」
「ん?」
「お前、何者なんだよ」
ヴィクトルは少年へ視線を向けた。
「どうした、急に」
「みんなお前のこと兄貴って呼んでるし、変な刺青もあるし……」
少年はヴィクトルの腰に下がった鎖を指さす。
「それに、その鎖。あいつらもつけてた」
「なるほどな」
ヴィクトルは静かにうなずいた。
「俺たちは、中指と呼ばれる組織の人間だ」
「……中指?」
「ああ。この都市に存在する五本指の一つだ」
少年は目を細めた。
組織。
その言葉には、嫌な思い出しかなかった。
路地裏で弱者から金を巻き上げる連中。気に入らない相手を平然と殴りつける連中。
自分を売り飛ばそうとした大人たちも、そうした連中とつながっていた。
少年は無意識に身体を強張らせた。
ヴィクトルはそれに気づいたのか、穏やかな声で続けた。
「俺たちは、何よりも家族との絆と義理を大切にしている」
「……家族?」
「ああ。ここにいる者たちは、皆俺の大切な家族だ」
少年は首をかしげた。
「……でも、全員兄弟ってわけじゃねぇだろ」
「もちろんだ」
ヴィクトルは微笑んだ。
「家族というのは、血のつながりだけで決まるものじゃない」
「……どういう意味だよ」
「共に飯を食い、笑い合い、困ったときには助け合う。誰かが傷つけば心配し、悲しみ、時には怒る」
ヴィクトルは部屋の向こうで騒いでいる者たちへ目を向けた。
「血がつながっていなくても、互いを大切に思い合える。俺は、それも立派な家族だと思っている」
少年は黙り込んだ。
「……そんなの、綺麗事だろ」
「そう思うか?」
「当たり前だ。誰だって自分が一番大事に決まってる」
ヴィクトルは否定しなかった。
ただ、少し寂しそうに笑った。
「そうだな。そういう人間もいるだろう」
そして、少年の肩にそっと手を置いた。
「だが、そうではない人間もいる。それだけは覚えておいてくれ」
少年は何も答えなかった。
それから、しばらくの時が過ぎた。
少年は相変わらず、誰かを信用することが苦手だった。
食事を出されても、最初は必ず周囲を確認した。
寝床を与えられても、すぐ逃げられるよう靴を脱がずに眠った。
誰かに近づかれると、反射的に身構えた。
それでも、家の者たちは少年を責めなかった。
「おい、チビ! 飯だぞ!」
「チビじゃねぇ!」
「おう、元気で何よりだ!」
大柄な男は、毎日のように少年を食事へ誘った。
「また服が破れてるじゃない」
「……別にいいだろ」
「よくないわよ。ほら、貸して」
女性は何度も少年の服を繕ってくれた。
熱を出した夜には、誰かが額に濡れた布を置いてくれた。
悪夢を見て飛び起きたときには、ヴィクトルが何も聞かずに隣に座ってくれた。
最初は理解できなかった。
どうして、こんなことをしてくれるのか。
自分には何も返せないというのに。
だが、いつしか少年は、食事の時間が来るのを待つようになっていた。
誰かが帰ってくれば、無意識に顔を上げるようになった。
そして、ヴィクトルの笑い声が聞こえると、なぜか安心するようになっていた。
そんなある日。
家の扉が勢いよく開かれた。
「兄貴! 大変です!」
駆け込んできた男の腕には、血が滲んでいた。
その肩を借りるようにして、もう一人の男が運び込まれる。
腹部を押さえ、顔を青白くしていた。
「おい! しっかりしろ!」
「誰か、手当ての準備を!」
それまで賑やかだった室内の空気が、一変した。
少年は壁際で立ち尽くした。
運ばれてきたのは、いつも食事の席でくだらない冗談を言っていた男だった。
昨日も笑っていた。
自分の皿に肉を一切れ分けてくれた。
その男が、今は苦しそうに息をしている。
「……なんで」
少年の声は、誰にも届かなかった。
女性の一人が、傷ついた男の手を握りしめていた。
「お願い……死なないで……!」
その目には涙が浮かんでいた。
別の男は、怒りを押し殺すように拳を握っていた。
「誰がやった……!」
「落ち着け」
ヴィクトルの声が響いた。
いつもの穏やかな笑顔は消えていた。
「まずは、この子を助けることが先だ」
ヴィクトルは傷ついた男の傍らに膝をつき、その肩を支えた。
「よく帰ってきたな。もう大丈夫だ」
その声は優しかった。
だが、少年には分かった。
ヴィクトルも怒っている。
誰よりも静かに、そして深く。
「……兄貴、すみません……」
「謝る必要はない。お前が生きて帰ってきてくれた。それで十分だ」
ヴィクトルは男の手を握った。
「後のことは俺たちに任せろ」
少年はその光景を、ただ見つめていた。
不思議だった。
傷ついたのは、彼ら自身ではない。
それなのに、どうしてこんなにも悲しむのだろう。
どうして、自分のことのように怒るのだろう。
少年は以前、ヴィクトルから聞いた言葉を思い出した。
――誰かが傷つけば心配し、悲しみ、時には怒る。
あのときは、綺麗事だと思った。
だが、目の前にいる彼らの涙も、怒りも、嘘には見えなかった。
「……家族」
少年は小さく呟いた。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
傷ついた男が無事だと知らされたのは、それからしばらく後のことだった。
皆が安堵し、涙を拭い、互いの肩を叩き合っていた。
少年もまた、誰にも気づかれないように小さく息を吐いた。
その夜。
少年はヴィクトルの部屋を訪ねた。
「……おい」
「ん? どうした?」
ヴィクトルは机に向かっていた手を止めた。
「眠れないのか?」
「……違う」
少年はうつむいた。
言いたいことはあった。
だが、どう言葉にすればいいのか分からなかった。
「……今日のことなんだけど」
「ああ」
「あいつが怪我して帰ってきたとき……みんな、すげぇ必死だった」
ヴィクトルは静かに耳を傾けていた。
「泣いてる奴もいたし、怒ってる奴もいた」
「そうだな」
「……なんで、そこまでできるんだよ」
ヴィクトルは少し考えてから答えた。
「大切だからだ」
「……それだけ?」
「ああ。それだけで十分な理由になる」
少年は唇を噛んだ。
思い返せば、彼らは自分にも同じように接してくれていた。
食事を用意してくれた。
服を直してくれた。
体調を崩せば心配してくれた。
何も持たず、何も返せない自分を。
「……俺さ」
少年の声が震えた。
「ずっと、一人で生きてきたんだ」
ヴィクトルは何も言わなかった。
「誰かを信じたら、絶対に痛い目を見るって思ってた。だから、誰も信じないって決めてた」
少年は拳を握りしめた。
「でも……ここに来てから、変なんだ」
「変?」
「誰かが帰ってくると、ちょっと安心する。みんなが笑ってると、なんか……嫌じゃない」
言葉がうまく出てこない。
少年は何度も口を開き、閉じた。
「今日だって、あの人が死ぬかもしれないって思ったら……怖かった」
ようやく顔を上げる。
「……俺、あの人に死んでほしくなかった」
ヴィクトルは優しく微笑んだ。
「そうか」
「……なあ、ヴィクトル」
「なんだ?」
少年はまっすぐにヴィクトルを見つめた。
「俺も……家族になれるのか?」
ヴィクトルの目が、わずかに見開かれた。
「血もつながってねぇし、何も持ってねぇ。喧嘩ばっかしてるし、迷惑だってかけると思う」
少年は一度、言葉を切った。
そして、ゆっくりと続けた。
「それでも……」
その声には、もう以前のような敵意はなかった。
「俺も、この人たちみたいになりたい」
ヴィクトルは黙っていた。
「誰かが困ってたら助けて、傷ついたら心配して……大切な人を守れるようになりたい」
少年は深く息を吸った。
「俺も……この人たちの家族になりたい」
しばらくの沈黙が流れた。
やがて、ヴィクトルが立ち上がった。
「……そうか」
その顔には、いつも以上に優しい笑みが浮かんでいた。
「よく言ってくれたな」
ヴィクトルは少年の前に膝をついた。
「もちろんだとも。俺たちは、お前を歓迎するよ」
少年の目が揺れた。
「……本当に?」
「ああ」
ヴィクトルは力強くうなずいた。
「だが、一つだけ覚えておいてほしい」
「……なんだよ」
「家族になるということは、守ってもらうだけではない。お前もまた、家族を大切にし、守る側になるということだ」
少年はヴィクトルを見つめた。
「……分かってる」
そして、はっきりと答えた。
「俺も、みんなを守りたい」
ヴィクトルは嬉しそうに笑った。
「ならば、明日。皆の前で、お前を正式に家族として迎えよう」
翌日。
少年は大勢の家族たちに囲まれていた。
いつもの食卓とは違う。
皆が少年を見つめ、穏やかな笑みを浮かべている。
その中心には、ヴィクトルが立っていた。
「皆、聞いてくれ」
ヴィクトルの声に、室内が静まり返る。
「今日、俺たちに新しい家族が加わることになった」
一瞬の静寂。
そして。
「おおっ!」
「やっと決めたのね!」
「歓迎するぜ、チビ!」
「だからチビじゃねぇって!」
少年が言い返すと、皆が笑った。
いつもなら腹が立つはずの笑い声。
けれど、今日は違った。
少年も少しだけ、口元を緩めた。
ヴィクトルは少年の肩に手を置いた。
「中指の家族として迎えるにあたり、お前に二つのものを贈ろう」
「……二つ?」
「ああ。一つは、家族の証だ」
ヴィクトルが示したのは、皆の身体にも刻まれている刺青だった。
「この印は、俺たちが同じ家族であることを示すものだ」
少年は自分の腕を見つめた。
これまで、その身体に刻まれていたのは、生き延びるために負った傷ばかりだった。
だが、これから刻まれるものは違う。
自分が選んだ居場所の証。
「……頼む」
少年は腕を差し出した。
刺青を刻む痛みに、思わず歯を食いしばる。
それでも、腕を引くことはなかった。
やがて、少年の肌に中指の印が刻まれた。
周囲から歓声が上がる。
「これでお前も俺たちの弟だな!」
「困ったことがあったら、何でも言いなさいよ!」
少年は腕の刺青を見つめた。
まだ少し痛む。
それなのに、不思議と誇らしかった。
「さて」
ヴィクトルが再び口を開いた。
「もう一つ、贈りたいものがある」
「……まだ何かあるのか?」
「ああ。お前の名前だ」
少年は息を呑んだ。
名前。
自分には、そんなものはなかった。
誰かに呼ばれるときは、いつも「ガキ」か「おい」だった。
「……名前?」
「ああ。これからは、誰かに呼ばれるたびに、自分が一人ではないと思い出せるようにな」
ヴィクトルは少年の目を見つめた。
「ガルド」
その名が、静かな室内に響いた。
「これから、お前はガルドだ」
少年は何度もその名を心の中で繰り返した。
ガルド。
それが、自分の名前。
初めて誰かから贈られた、自分だけのもの。
「……ガルド」
少年が小さく呟く。
ヴィクトルは微笑んだ。
「気に入ってくれたか?」
「……ああ」
少年は顔を伏せた。
目の奥が熱かった。
泣きたくなんかなかった。
こんな大勢の前で泣いたら、絶対にからかわれる。
それでも、こらえきれなかった。
「……ありがとう」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
その瞬間。
「ようこそ、ガルド!」
「今日からよろしくな、弟!」
「困ったら姉ちゃんを頼りなさい!」
次々と声が上がった。
誰もが、自分の名前を呼んでいた。
ガルド。
ガルド。
ガルド。
これまで名前すら持たなかった少年が、初めて自分の名を呼ばれる。
それは、不思議な感覚だった。
嬉しくて。
温かくて。
胸がいっぱいになった。
ヴィクトルがそっと少年の肩を抱いた。
「ようこそ、ガルド」
そして、優しく告げた。
「今日から、お前も俺たちの家族だ」
ガルドは顔を上げた。
目の前には、笑顔を浮かべる兄や姉たちがいた。
その中心で、ヴィクトルが微笑んでいる。
かつて少年は、誰も信じないと決めていた。
誰かに守られることなど、望んでもいなかった。
だが、今は違う。
守ってくれる人がいる。
帰る場所がある。
そして、自分も守りたいと思える人たちがいる。
「……ああ!」
ガルドは涙を拭い、初めて心から笑った。
「よろしくな、みんな!」
その言葉に、家族たちの歓声が響いた。
ここにはもう、名もなき孤児はいない。