朝の食卓は、今日も騒がしかった。
「おい、ガルド! そっちのパン取ってくれ!」
「自分で取れよ!」
「冷たいこと言うなって! 俺たち家族だろ?」
「都合のいいときだけ家族って言うな!」
そのやり取りに、周囲から笑い声が上がった。
ガルドも呆れながらパンの入った籠を渡す。
この家に来たばかりの頃は、こんな騒がしさが苦手だった。
誰かが近づくだけで身構え、笑い声が聞こえれば自分が馬鹿にされているのではないかと疑っていた。
だが、今は違う。
誰かと食卓を囲むことも、くだらないことで言い合うことも、少しずつ当たり前になっていた。
「ほら、ガルド。あんたもちゃんと食べなさい」
隣に座る姉が、皿に肉を一切れ乗せてくれた。
「……自分で取れるって」
「そう言いながら、いつも遠慮するじゃない」
「してねぇよ!」
「はいはい」
姉は楽しそうに笑った。
ガルドは顔を背けながらも、肉を口に運んだ。
温かい。
料理も、周囲の声も。
何もかもが、以前の生活とは違っていた。
そんなときだった。
「皆、少しいいか」
食堂の入り口から、ヴィクトルの声が響いた。
いつものように穏やかな表情を浮かべている。
しかし、その手には一冊の分厚い帳簿が握られていた。
それを見た途端、食卓の空気がわずかに変わった。
先ほどまで笑っていた兄や姉たちが、静かにヴィクトルへ視線を向ける。
「先日、うちの弟が襲われた件だが、相手の居場所が分かった」
ガルドは顔を上げた。
先日、血まみれになって帰ってきた兄。
皆が必死になって手当てをし、無事だと分かったときには涙を流して喜んでいた。
あのときの光景は、今でも鮮明に覚えている。
「……見つかったんですね、兄貴」
一人の男が静かに尋ねた。
「ああ」
ヴィクトルは帳簿を開いた。
そこには、いくつもの名前と出来事が細かく記されていた。
「向こうは、俺たちの家族だと知ったうえで手を出したらしい」
その言葉に、誰かが舌打ちした。
「随分と舐めた真似をしてくれるじゃねぇか」
「兄貴、いつ行きます?」
「今日だ」
ヴィクトルは静かに答えた。
「家族が受けた仕打ちを、そのままにしておくわけにはいかないからな」
ガルドは眉をひそめた。
「……なあ、兄貴」
「ん? どうした、ガルド」
「その帳簿、何なんだ?」
ヴィクトルは手元の帳簿へ目を落とした。
「ああ。これは仕返し帳簿だ」
「仕返し……?」
「俺たち中指は、家族への恩も、家族が受けた仕打ちも忘れない」
ヴィクトルは帳簿の一ページを指でなぞった。
「誰が、いつ、何をしたのか。すべて記しておくんだ」
「……それで、どうするんだよ」
「仕返しをする」
あまりにも当然のことのように、ヴィクトルは答えた。
「家族を傷つけた相手には、その行いに見合った報いを受けてもらう。それが俺たちの流儀だ」
ガルドは黙り込んだ。
仕返し。
その言葉自体は知っている。
路地裏で生きていた頃にも、恨みを買った人間が殴られたり、殺されたりする光景を見たことがあった。
だが、目の前にいる人たちは違う。
普段は笑い合い、食事を分け合い、自分のことを家族と呼んでくれる。
そんな人たちが、今は誰一人笑っていなかった。
「……俺も行く」
気づけば、そう口にしていた。
ヴィクトルがこちらを見る。
「ガルド?」
「俺も、ついていく」
周囲が静かになった。
「おいおい、ガルド。遊びに行くんじゃねぇんだぞ」
先ほどまでパンをねだっていた兄が、困ったように笑った。
「分かってるよ!」
「なら、危ないことも分かるだろ?」
「……分かってる」
ガルドは拳を握った。
「でも、俺だって中指の家族なんだろ?」
ヴィクトルは何も言わなかった。
「だったら、俺たちが何をするのか、ちゃんと知りたい」
しばらくの沈黙。
やがて、ヴィクトルが小さく息を吐いた。
「……そうか」
そして、ガルドの前にしゃがみ込んだ。
「一つ、約束してくれるか?」
「……何だよ」
「俺が下がれと言ったら、必ず下がること。勝手に戦いへ加わらないことだ」
ガルドは少し不満そうな顔をした。
「……子供扱いすんなよ」
「子供だから言っているんじゃない。まだ戦い方を知らないお前を、危険な場所へ連れていくんだ。俺にはお前を守る責任がある」
ヴィクトルの眼差しは真剣だった。
ガルドは少し迷ってから、うなずいた。
「……分かった」
「よし」
ヴィクトルはいつもの笑顔に戻った。
「なら、一緒に行こう」
目的地は、都市の外れにある古びた倉庫だった。
錆びついた鉄骨がむき出しになり、壁には無数の落書きが残されている。
周囲には人通りがほとんどなかった。
ガルドはヴィクトルの後ろを歩きながら、辺りを見回した。
普段の街並みとは違う。
静かすぎる。
その静けさが、かえって不気味だった。
「……兄貴」
「ん?」
「本当に、ここにいるのか?」
「ああ。間違いない」
ヴィクトルは穏やかに答えた。
その隣では、兄や姉たちが鎖を手にしていた。
いつもの笑顔はない。
誰もが倉庫の入り口を見据えている。
ガルドは無意識に自分の腕をさすった。
そこには、まだ新しい中指の刺青が刻まれていた。
「ガルド」
ヴィクトルが振り返る。
「俺の後ろにいなさい」
「……ああ」
短く答える。
ヴィクトルはうなずくと、倉庫の扉を押し開けた。
重たい金属音が響いた。
中にいた男たちが、一斉に振り返る。
「……あ?」
「何だ、てめぇら」
一人の男が立ち上がった。
だが、ヴィクトルの姿を見るなり、その表情が変わった。
「なっ……!」
ヴィクトルは静かに口を開いた。
「少し、話をしに来た」
「……中指!?」
男たちが慌てて武器を手に取る。
ヴィクトルは懐から帳簿を取り出した。
「先日、うちの弟を襲ったそうだな」
「し、知らねぇよ!」
「そうか」
ヴィクトルは帳簿を開いた。
「だが、こちらには記録が残っている」
男たちの顔色が変わった。
「俺たちの家族だと知りながら、傷つけた」
ヴィクトルの声は穏やかだった。
それが、かえって恐ろしかった。
「その仕打ちを、忘れるわけにはいかないんだ」
「ま、待て! 金なら払う!」
一人の男が慌てて叫んだ。
「いくら欲しい!? 言い値で払ってやる!」
ヴィクトルは首を横に振った。
「金の話をしているんじゃない」
「じゃあ、どうしろってんだ!」
「俺たちが何をしに来たのか、もう分かっているだろう?」
男たちは顔を見合わせた。
そして、そのうちの一人が怒鳴った。
「くそっ! やっちまえ!」
次の瞬間、男たちが一斉に襲いかかってきた。
「ガルド、下がっていなさい」
ヴィクトルが静かに告げる。
ガルドが一歩後ずさった、その直後。
鎖の音が響いた。
金属がぶつかり合う甲高い音。
床を蹴る足音。
怒号。
悲鳴。
目の前の光景に、ガルドは息を呑んだ。
いつも自分に飯を分けてくれる兄が、鎖を振るって敵を叩き伏せる。
服を繕ってくれる姉が、鋭い眼差しで相手の攻撃をかわし、その身体を床へ叩きつける。
そして、ヴィクトル。
普段は穏やかに笑い、誰に対しても優しく接してくれる男。
そのヴィクトルが、敵を前にして一切の容赦を見せなかった。
「ぐあっ!」
男が吹き飛ばされる。
「ま、待ってくれ!」
倒れた男が命乞いをする。
しかし、ヴィクトルは表情を変えなかった。
「お前たちは、うちの弟が助けを求めたとき、手を止めてくれたのか?」
男は答えられなかった。
「そうか」
ヴィクトルは静かに鎖を構え直した。
「ならば、こちらも仕返しを終えるわけにはいかないな」
ガルドは震えていた。
怖かった。
路地裏で何度も暴力を見てきた。
自分だって、殴られたことも、刃物を向けられたこともある。
それでも、目の前で繰り広げられている戦いは、今まで見てきたものとは違っていた。
逃げようとする男。
追い詰める兄たち。
容赦なく振るわれる鎖。
これが、中指。
自分が家族になりたいと願った人たちの、もう一つの姿だった。
「……っ」
ガルドは思わず目を逸らした。
そのときだった。
「兄貴! 後ろ!」
姉の叫び声が響いた。
ヴィクトルの背後から、一人の男が刃物を振り上げていた。
ガルドは顔を上げる。
「……あ」
声が出なかった。
逃げろ。
危ない。
そう叫ぼうとした。
だが、喉がひきつった。
足が動かない。
自分が飛び込めば、簡単に殺される。
それが分かってしまった。
「くそっ……!」
その瞬間。
「兄貴に手ぇ出すんじゃねぇ!」
一人の兄がヴィクトルと敵の間へ割って入った。
刃が腕をかすめ、血が飛び散る。
「ぐっ……!」
「馬鹿! 無茶するんじゃないよ!」
姉が駆け寄り、兄を狙っていた敵を鎖で薙ぎ払った。
「お前こそ前に出すぎだ!」
「うるさいね! 家族を放っておけるわけないだろ!」
二人は傷を負いながらも、互いの背中を守るように立っていた。
ヴィクトルもまた、すぐさま二人の前へ出る。
「よくやった。後は任せろ」
その声は低く、静かだった。
だが、二人を見る眼差しには、確かな温かさが残っていた。
「兄貴、俺たちもまだ戦えます!」
「無理はするな。お前たちが倒れたら、俺が困る」
「ははっ! 兄貴にそんなこと言われちゃ、無茶できませんね!」
兄が笑う。
姉も小さく笑った。
ガルドは、その光景を見つめていた。
理解できなかった。
どうして、そこまでできるのだろう。
傷つくことが怖くないはずはない。
死ぬことが怖くないはずもない。
それなのに、誰かが危険に晒されれば、迷わず前へ出る。
自分の身を顧みず、家族を守ろうとする。
――家族だから。
ふと、ヴィクトルの言葉が頭をよぎった。
家族とは、血のつながりだけで決まるものではない。
互いを大切に思い、助け合う存在。
あのとき、ヴィクトルはそう教えてくれた。
そして今、兄や姉たちはその言葉を行動で示していた。
ガルドは自分の腕に刻まれた刺青を見つめた。
同じ印がある。
同じ家族だと言ってもらえた。
なのに。
今の自分には、何もできない。
ヴィクトルが危険に晒されても。
兄が傷ついても。
姉が助けを求めても。
ただ、見ていることしかできなかった。
「……嫌だ」
小さく声が漏れた。
「こんなの……嫌だ」
怖いから逃げる。
弱いから隠れる。
今までは、それでよかった。
自分一人が生き延びられれば、それでよかったのだから。
だが、今は違う。
失いたくない人たちがいる。
守りたい家族がいる。
ガルドは震える拳を、強く握りしめた。
戦いが終わった頃には、倉庫の中は静まり返っていた。
床には倒れた男たちが転がり、辺りには血と埃の臭いが漂っている。
ヴィクトルは帳簿を開き、記されていた項目を確認した。
「……これで、仕返しは済んだな」
静かに帳簿を閉じる。
「皆、怪我はないか?」
「俺は平気です!」
「こっちも問題ありません!」
「ちょっと腕を切られただけですよ、兄貴!」
先ほど負傷した兄が、笑いながら答えた。
ヴィクトルはその腕を見て、眉をひそめる。
「まったく。無茶をするなと言っただろう」
「すみません!」
「帰ったら、きちんと手当てをしてもらいなさい」
「はい!」
そのやり取りを、ガルドは黙って見つめていた。
「……ガルド」
不意に名前を呼ばれた。
顔を上げると、ヴィクトルが目の前に立っていた。
「大丈夫か?」
「……ああ」
ガルドは短く答えた。
だが、握りしめた拳はまだ震えていた。
ヴィクトルはそれに気づいたのだろう。
何も言わず、そっとガルドの肩に手を置いた。
「帰ろうか」
「……うん」
ガルドは小さくうなずいた。
家に戻ると、何人もの家族が出迎えてくれた。
「兄貴! おかえりなさい!」
「みんな、無事だった?」
「ああ。全員帰ってきたよ」
ヴィクトルが答えると、皆が安堵したように息を吐いた。
「ちょっと! その腕、怪我してるじゃない!」
「大したことねぇって!」
「そういうこと言って、いつも悪化させるんだから!」
負傷した兄が姉に引っ張られていく。
その様子に、周囲から笑い声が上がった。
先ほどまでの戦場が嘘のようだった。
ガルドは少し離れた場所から、その光景を見つめていた。
すると、奥の部屋から一人の男が姿を現した。
先日、敵に襲われて大怪我を負った兄だった。
まだ傷は癒えておらず、身体には包帯が巻かれている。
「……兄貴」
男はヴィクトルの前まで歩いてきた。
「どうだったんですか?」
ヴィクトルは穏やかに微笑んだ。
「ああ。お前を傷つけた連中への仕返しは、きっちり済ませてきたよ」
その言葉を聞いた男は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……兄貴、みんな」
男の声が震えた。
「ありがとう……本当に、ありがとう……!」
「おいおい、何泣いてんだよ!」
隣にいた兄が笑いながら、その肩を叩いた。
「家族が傷つけられたんだ。当然のことをしただけだろ!」
「そうよ。あんたが無事に帰ってきてくれたんだから、それで十分」
姉も笑いながら、男の背中を優しくさすった。
「……でも、みんなだって危険だったんだろ?」
「そんなこと気にするなって!」
「次はあんたが私たちを助けてくれればいいのよ」
男は涙を拭いながら、何度もうなずいた。
ヴィクトルはその様子を見つめ、優しく笑った。
「俺たちは家族だからな。困ったときは、お互い様だ」
その言葉に、皆が笑った。
ガルドはその光景を見つめていた。
仕返しの現場で見た、恐ろしい姿。
家に帰ってきて見せる、温かな笑顔。
どちらも、同じ人たちだった。
家族を傷つけた相手には容赦しない。
だが、傷ついた家族には、誰よりも優しく手を差し伸べる。
ガルドは自分の腕に刻まれた刺青を見つめた。
この人たちと同じ印。
自分も、彼らの家族なのだ。
それなのに、今日の自分は何もできなかった。
怖くて、足が動かなかった。
兄が傷ついても、姉が危険に晒されても、ヴィクトルが敵に囲まれても。
ただ、見ていることしかできなかった。
「……強くなりたい」
小さく呟いた。
今までは、自分が生き延びるために強くなりたいと思っていた。
誰にも奪われないために。
誰にも傷つけられないために。
けれど、今は違う。
自分を守ってくれた人たちがいる。
帰る場所をくれた人たちがいる。
名前をくれた人がいる。
もし、いつかこの人たちが傷ついたら。
もし、誰かが助けを求めたら。
そのときは、自分が手を差し伸べたい。
ガルドは拳を強く握りしめた。
「……兄貴」
ヴィクトルが振り返る。
「ん? どうした、ガルド」
ガルドはまっすぐに、その顔を見上げた。
「俺に、戦い方を教えてくれ」
ヴィクトルは少し驚いたように目を見開いた。
「……どうした、急に」
「今日、俺は何もできなかった」
ガルドは唇を噛んだ。
「兄貴も、姉貴たちも、みんな命懸けで戦ってたのに……俺は怖くて、動けなかった」
ヴィクトルは黙って耳を傾けていた。
「でも、もう嫌なんだ」
ガルドは顔を上げた。
「俺だって、この家族の一員なんだろ?」
「ああ。もちろんだ」
「だったら、俺も守りたい!」
その声に、周囲の家族たちが振り返った。
ガルドは構わず続けた。
「いつか兄貴が傷ついたとき、姉貴たちが危ない目に遭ったとき……俺が助けられるようになりたい!」
ヴィクトルはしばらくガルドを見つめていた。
やがて、その顔に優しい笑みが浮かぶ。
「……そうか」
ヴィクトルはガルドの前にしゃがみ込んだ。
「なら、俺が鍛えてやろう」
「……本当か!?」
「ああ。ただし、一つ約束してくれ」
「……約束?」
ヴィクトルはガルドの肩に手を置いた。
「強くなることばかり考えて、隣にいる家族を見失わないことだ」
ガルドは少し首をかしげた。
その言葉の意味を、今の彼はまだ十分に理解できなかった。
それでも、ヴィクトルの真剣な眼差しを見て、力強くうなずいた。
「分かった!」
そして、まっすぐにヴィクトルを見つめる。
「俺、絶対に強くなるから!」
ヴィクトルは笑った。
「ははは! 期待しているぞ、ガルド」
その言葉に、ガルドも笑みを浮かべた。
もう、ただ守られるだけではいたくなかった。
自分に名前をくれた人を。
家族として迎えてくれた兄や姉たちを。
いつか、この手で守れるようになりたい。
その思いを胸に、ガルドは静かに拳を握りしめた。