あの日、俺は強くなると決めた。
ヴィクトルの兄貴のように、家族を守れる男になる。
そう誓ってから、どれほどの月日が流れただろうか。
かつて鎖を握ることすら満足にできなかった俺は、今では兄貴たちと肩を並べて戦えるようになっていた。
もちろん、まだまだ敵わない相手は多い。
ヴィクトルの兄貴と手合わせをすれば、十回挑んで十回とも地面に転がされる。
それでも、昔とは違った。
「ガルド! 右ががら空きだ!」
「分かってる!」
振り下ろされた鉄棒をかわし、鎖を相手の腕に絡ませる。
そのまま引き寄せ、拳を叩き込んだ。
男が地面に倒れた。
「よし!」
「おい、ガルド! 油断すんな!」
背後から兄貴の怒声が飛ぶ。
振り返ると、別の男が刃物を振り上げていた。
「っ!」
咄嗟に腕を上げる。
刃が皮膚を裂いた。
だが、俺は構わず相手の腹を蹴り飛ばした。
「ぐあっ!」
男が倒れる。
俺は息を整えながら、傷ついた腕を見つめた。
また一つ、傷が増えた。
「……ったく、危なっかしい奴だな」
兄貴が呆れたように近づいてきた。
「すまねぇ。でも、ちゃんと倒しただろ?」
「そういう問題じゃねぇよ」
兄貴は俺の腕を見て眉をひそめた。
「お前、自分の身体をもう少し大事にしろ」
「これくらい平気だって」
「……誰に似たんだか」
兄貴はため息をついた。
俺は少しだけ笑った。
傷が増えることは、嫌いじゃなかった。
その傷が、家族を守れた証のように思えたからだ。
仕返しを終えて家に帰ると、姉貴が俺の腕を見て顔をしかめた。
「ガルド! また怪我してるじゃない!」
「……ちょっと切っただけだ」
「この前も同じこと言ってたでしょう!」
「いや、今回は本当に……」
「いいから座りなさい!」
結局、いつものように椅子へ座らされた。
姉貴は慣れた手つきで傷を洗い、包帯を巻いていく。
「いっ……!」
「ほら、痛いんじゃない」
「……ちょっと染みただけだって」
「まったく……」
そのとき、背後から笑い声が聞こえた。
「ははは。また叱られているのか、ガルド」
「……兄貴」
ヴィクトルの兄貴だった。
俺は少し気まずくなって、視線を逸らした。
「別に、叱られてねぇよ」
「そうか。それならよかった」
兄貴は隣の椅子に腰を下ろした。
「今日も頑張ったそうだね」
「……ああ」
俺は少し胸を張った。
「兄貴たちの役に立てたぜ」
「それは立派だ」
兄貴は優しく微笑んだ。
だが、すぐに俺の腕へ視線を落とした。
「ただ、ガルド。傷を負うことが強さではないんだよ」
「……ん?」
「家族を守ることも大切だ。だが、自分も無事に帰ってこなければいけない」
俺は首をかしげた。
「でもよ、家族を守れるなら、怪我くらい仕方ねぇだろ?」
「そういうときもあるだろうね」
兄貴は否定しなかった。
「だが、お前が傷つけば、お前を大切に思っている家族も悲しむんだ」
「……分かってるよ」
そう答えた。
だが、正直なところ、まだ十分には理解できていなかった。
俺にとって傷は、家族を守れた証だった。
誰かを守るためについた傷なら、悪いものではない。
そう思っていた。
数日後。
ヴィクトルの兄貴から、一冊の帳簿を渡された。
「ガルド。これからは、お前にも自分の仕返し帳簿を持ってもらおうと思う」
「……俺に?」
「ああ」
兄貴は頷いた。
「お前も、もう立派な家族の一員だからね」
俺は帳簿を受け取った。
まだ何も書かれていないページが続いている。
「家族が受けた仕打ちを忘れないこと。そして、仕返しを果たしたなら、それも記しておくこと」
「……分かった」
「ただし、ガルド」
兄貴は俺の目を見つめた。
「仕返しは、怒りに任せて暴れるためのものじゃない」
「……ああ」
俺は帳簿を抱え直した。
「ちゃんと分かってるよ、兄貴」
兄貴は穏やかに笑った。
「ははは。それなら安心だ」
その日から、俺も自分の帳簿を持つようになった。
家族のために戦う。
家族が受けた仕打ちを忘れない。
それは俺にとって、誇らしいことだった。
ある日の夕方。
俺は中庭で鎖の手入れをしていた。
少し離れた場所では、ヴィクトルの兄貴も自分の鎖を確かめていた。
ふと、その鎖に目が留まった。
以前から気になっていたことがある。
兄貴の鎖は、俺たちが使っているものとは少し違っていた。
ところどころに、不揃いな輪がつながれている。
大きさも、形も、古さも違う。
「……なあ、兄貴」
「ん? どうした、ガルド」
「その鎖、何でそんなに継ぎ目があるんだ?」
兄貴は自分の鎖へ目を落とした。
「ああ。これか」
「普通の鎖じゃねぇよな?」
「そうだね」
兄貴は鎖の一部分を持ち上げた。
「これは、昔一緒に戦った弟の鎖なんだ」
「……弟?」
「ああ。そして、こっちは姉さんのものだ」
兄貴は別の輪に指を触れた。
「ほかにも、何人もの家族の鎖がつながっている」
俺は思わず目を丸くした。
「へぇ……そいつら、今はどこにいるんだ?」
兄貴は少しだけ目を伏せた。
「……もう、いないんだ」
「……そうか」
俺は口を閉じた。
この都市では、人が死ぬことなど珍しくない。
路地裏で暮らしていた頃から、嫌というほど見てきた。
だから、兄貴の言葉を聞いても、それほど驚かなかった。
「俺はね、ガルド」
兄貴が静かに口を開いた。
「亡くなった家族のことを、忘れたくないんだ」
兄貴は鎖をそっと撫でた。
「一緒に笑ったことも、喧嘩したことも、共に戦ったことも。どれも大切な思い出だからね」
「……だから、つないでるのか?」
「ああ。せめて、これからも一緒に歩いていけるようにと思ってな」
俺は改めて鎖を見つめた。
「でもよ、それだけつなげたら随分重いだろ?」
「……ああ」
兄貴は小さく笑った。
「重いよ」
「だったら、少し外せばいいじゃねぇか。戦いづらいだろ?」
その言葉に、兄貴は怒らなかった。
ただ、穏やかに微笑んだ。
「ははは。そうかもしれないな」
そして、鎖を握り直した。
「でも、俺には大切なものなんだ」
「……ふーん」
俺は首をかしげた。
正直、よく分からなかった。
死んだ家族を忘れたくないという気持ちは、何となく理解できる。
だが、わざわざ武器を重くしてまで持ち歩く理由までは分からなかった。
兄貴はそんな俺を見て、優しく笑った。
「今は分からなくてもいいさ」
「……何だよ、それ」
「ははは。気にしないでくれ」
兄貴は鎖を肩に担いだ。
その背中を、俺はしばらく見つめていた。
それからしばらく経ったある日。
ヴィクトルの兄貴が、一人の少女を連れて帰ってきた。
「皆、少しいいか」
兄貴の声に、食堂にいた家族たちが振り返る。
その後ろには、小さな少女が立っていた。
年はまだ幼く、身体も細い。
着ている服は汚れ、ところどころ破れていた。
少女は兄貴の服の裾を握りしめ、周囲を警戒するように見回していた。
「今日から、しばらくこの子を預かることになった」
「おっ! 新しい家族か!」
「まあ、可愛い子ね!」
「お腹空いてない? 何か食べる?」
兄や姉たちが次々に声をかける。
しかし、少女は怯えたように兄貴の背後へ隠れた。
「……近づかないで」
小さな声だった。
だが、はっきりと拒絶していた。
その姿を見て、俺は思わず笑った。
「……ははっ。何だ、昔の俺みてぇじゃねぇか」
少女がびくりと肩を震わせた。
「……誰?」
「俺はガルドだ」
俺は胸を張った。
「お前より先にここに来た、兄貴分ってやつだな」
「……知らない」
「……そりゃそうか」
思わず苦笑する。
周囲から小さな笑い声が上がった。
ヴィクトルの兄貴も、楽しそうに笑っていた。
「ははは。ガルド、あまり驚かせないでやってくれ」
「分かってるよ、兄貴」
俺は少女の前にしゃがみ込んだ。
「おい、チビ。腹減ってんだろ?」
少女は答えなかった。
だが、その視線が食卓のパンへ向いたのを、俺は見逃さなかった。
「ほら」
俺はパンを一つ取り、差し出した。
「食えよ」
少女はじっとパンを見つめていた。
「……いらない」
「そうか」
俺はパンを近くの皿に置いた。
「なら、ここに置いとく。食いたくなったら食えよ」
それだけ言って、俺は立ち上がった。
背後で、ヴィクトルの兄貴が小さく笑った気がした。
少女は、なかなか俺たちに心を開かなかった。
食事の時間になっても隅に座り、誰かが近づけば身構える。
話しかけても、返事は短い。
時には、差し出された手を払いのけることさえあった。
だが、俺は不思議と腹が立たなかった。
かつての自分を見ているようだったからだ。
誰も信じられない。
優しくされても、何か裏があるのではないかと疑ってしまう。
その気持ちは、よく分かった。
だから俺は、無理に仲良くなろうとはしなかった。
ただ、毎日声をかけた。
「おう、チビ。飯食ったか?」
「……食べた」
「そうか。ならいい」
別の日には、余った菓子を渡した。
「ほら、やるよ」
「……何で?」
「余ったからだ」
「……変なの」
「……よく言われる」
また別の日には、庭で一人座っている少女の隣に腰を下ろした。
「……何?」
「別に?」
「……あっち行って」
「分かったよ」
俺が立ち上がると、少女は少しだけ驚いた顔をした。
「……本当に行くの?」
「……嫌なんだろ?」
少女はしばらく黙っていた。
そして、小さく呟いた。
「……別に、いてもいい」
「……そうか」
俺は笑って、もう一度腰を下ろした。
その日、少女は初めて自分から話しかけてくれた。
本当に、どうでもいい話だった。
庭に咲いている花のこと。
食堂の料理のこと。
夜になると、少しだけ怖いこと。
俺はその話を聞きながら、昔のことを思い出していた。
路地裏で一人だった俺に、何度も声をかけてくれた男。
拒絶しても、刃物を向けても、見捨てなかった男。
ヴィクトルの兄貴。
あの人も、こんな気持ちだったのだろうか。
それから少女は、少しずつ変わっていった。
食卓で笑うようになった。
姉貴たちの手伝いをするようになった。
兄貴たちの冗談に、呆れた顔をするようになった。
そして、いつしか正式に中指の家族となった。
俺にとって、初めての妹分だった。
「おい、ガルド!」
ある日の夕方、兄貴が俺の肩を叩いた。
「お前、随分あの子に懐かれたな!」
「……まあな」
「何だ、照れてんのか?」
「照れてねぇよ!」
周囲が笑う。
そのときだった。
「……兄ちゃん」
背後から小さな声が聞こえた。
振り返ると、妹分が立っていた。
「……ん?」
「これ、落としてた」
少女が差し出したのは、俺が腰につけていた小さな金具だった。
「ああ。悪いな」
受け取ろうとして、俺は動きを止めた。
「……おい、今何て言った?」
「……何が?」
「俺のことだよ」
少女は少し首をかしげた。
「……兄ちゃん?」
その瞬間、俺は思わず笑った。
「……へへっ。そうか、俺も兄ちゃんか」
「……うるさい」
「別に、何も言ってねぇだろ」
「……顔、にやけてる」
「うるせぇ!」
少女は頬を膨らませた。
その姿が可笑しくて、俺はさらに笑った。
初めてだった。
誰かに、兄と呼ばれるのは。
今までは、俺が兄貴や姉貴たちの背中を追いかけていた。
だが、今は違う。
俺にも、守ってやりたい妹ができた。
――こいつは、俺が守ってやろう。
かつてヴィクトルの兄貴が俺を守ってくれたように。
兄貴や姉貴たちが、いつも俺を助けてくれたように。
今度は俺が、この小さな家族を守る番だ。
ある日、俺は妹分と一緒に中庭を歩いていた。
そのとき、少女が一輪の花の前で足を止めた。
「……兄ちゃん、見て」
「ん?」
少女が指さした先には、黄色い花が咲いていた。
大きな花びらが、太陽に向かって広がっている。
「……ひまわりか」
「知ってるの?」
「ああ。昔、どっかで見たことがある」
少女は花をじっと見つめていた。
「……きれい」
「そうか?」
「うん。太陽みたい」
少女は小さく笑った。
その笑顔を見て、俺も思わず笑った。
「……へへっ。そうだな」
「……兄ちゃん」
「何だ?」
「この花、もっと増やせないかな」
「増やす?」
「うん。いっぱい咲いたら、みんな喜ぶと思う」
俺は少し考えた。
「……じゃあ、今度種でも探してくるか」
「本当?」
「ああ」
少女の顔がぱっと明るくなった。
「約束だよ!」
「分かったって」
少女は嬉しそうに笑った。
俺はその笑顔を見ながら、思った。
こんな顔を、ずっと見ていたい。
そのためなら、何だってしてやろう。
それから、妹分は時々俺の仕返しに同行するようになった。
もちろん、戦うためではない。
荷物を運んだり、帳簿を持ったり、兄貴たちの手伝いをしたり。
危険な場所へは近づけない。
そういう約束だった。
「兄ちゃん、これ持っていけばいいの?」
「ああ。悪いな」
「……私も、少しは役に立ってる?」
俺は少女の頭を軽く撫でた。
「当たり前だろ。助かってるぜ」
「……えへへ」
少女は嬉しそうに笑った。
その姿を見て、俺も少しだけ笑った。
だが、ある日の仕返しで、事件が起きた。
その日は、家族を傷つけた連中の居場所が判明したため、兄貴たちと共に向かっていた。
妹分も荷物持ちとして同行していたが、戦いが始まる前に安全な場所で待たせていた。
「いいか。絶対にここから動くなよ」
「……うん」
「何かあったら、すぐに逃げろ」
「分かった」
俺は少女の頭を軽く撫で、兄貴たちのもとへ向かった。
戦いは、思ったより長引いた。
敵の数が多かったのだ。
「ガルド! そっちを頼む!」
「分かった!」
俺は鎖を振るい、敵の一人を倒した。
だが、そのときだった。
「……兄ちゃん!」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、妹分が立っていた。
どうやら、俺たちの様子が気になって近づいてきたらしい。
「……おい! 何で来た!」
俺が叫んだ瞬間、倒れていた敵の一人が起き上がった。
男の手には、刃物が握られていた。
「……っ!」
男が妹分へ向かって走り出す。
俺は咄嗟に鎖を振るった。
だが、間に合わなかった。
「きゃっ!」
少女の腕に、刃がかすめた。
赤い血が流れる。
「……お前!」
頭に血が上った。
俺は男へ飛びかかり、拳を叩き込んだ。
「ぐあっ!」
男が倒れる。
俺はさらに拳を振り上げた。
「ふざけんな……!」
そのとき、背後から声がした。
「……兄ちゃん」
俺は動きを止めた。
振り返ると、妹分が腕を押さえて立っていた。
その顔は、痛みに歪んでいた。
「……お前、大丈夫か!」
俺は慌てて駆け寄った。
少女の腕から血が流れている。
「……ごめん」
「……何で謝るんだよ!」
「……約束、破っちゃった」
俺は言葉を失った。
少女は、俺を見上げていた。
「……兄ちゃんが心配で……」
「……馬鹿野郎」
俺は震える手で、少女の腕を押さえた。
「……心配させんじゃねぇよ」
その声は、自分でも驚くほど弱かった。
家へ帰ると、すぐに姉貴が妹分の手当てをした。
幸い、傷は深くなかった。
命に別状もない。
だが、俺は少女の腕に巻かれた包帯から目を離せなかった。
「……兄ちゃん」
「……何だ」
「……怒ってる?」
「……別に」
少女は少し困ったように笑った。
「……ごめんね」
「……だから、何でお前が謝るんだよ」
俺は拳を握りしめた。
「……俺が、ちゃんと守れなかったんだ」
少女は首を横に振った。
「……違うよ」
「……何がだよ」
「兄ちゃん、ちゃんと守ってくれたよ」
俺は顔を上げた。
少女は小さく笑っていた。
「……ほら、私、こうして帰ってこられたもん」
「……でも、怪我させちまった」
「……気にしなくていいよ」
少女は包帯の巻かれた腕を持ち上げた。
「……兄ちゃんだって、いつも怪我してるでしょ?」
「……それとこれとは違うだろ」
「……同じだよ」
少女は笑った。
「……私も、家族を守りたかったんだもん」
俺は何も言えなかった。
かつて、自分がヴィクトルの兄貴に言った言葉を思い出した。
家族を守りたい。
強くなりたい。
誰かの役に立ちたい。
その気持ちは、目の前の少女も同じだった。
「……兄ちゃん」
少女が俺の手を握った。
「……そんな顔しないで」
「……どんな顔だよ」
「……泣きそうな顔」
「……泣いてねぇよ」
「……うん」
少女は優しく笑った。
「……じゃあ、笑って」
俺は少しだけ口元を緩めた。
「……へへっ。これでいいか?」
「……うん!」
少女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は心の中で誓った。
次こそは、絶対に守ってやる。
もう二度と、こいつを傷つけさせない。
それから数ヶ月が過ぎた。
妹分の腕の傷も、すっかり治っていた。
俺たちは、以前と変わらない日々を過ごしていた。
食堂で一緒に飯を食い。
庭でひまわりの世話をし。
時には喧嘩をして、すぐに仲直りした。
「兄ちゃん! 見て!」
ある日の朝。
妹分が嬉しそうに俺を呼んだ。
庭へ出ると、そこには小さなひまわりが咲いていた。
以前、二人で植えた種から育ったものだった。
「……おお」
俺は思わず笑った。
「ちゃんと咲いたな」
「うん!」
少女は嬉しそうに頷いた。
「……兄ちゃんが種を探してくれたからだよ」
「……大げさだって」
「そんなことない!」
少女はひまわりを見つめた。
「……来年も、いっぱい咲かせたいな」
「……ああ」
俺は頷いた。
「また一緒に植えようぜ」
少女は顔を上げた。
「……約束?」
「……ああ。約束だ」
少女は小指を差し出した。
俺は苦笑しながら、その小指に自分の指を絡めた。
「……ほんと、約束が好きだな」
「……だって、兄ちゃんが守ってくれるもん」
俺は少し照れくさくなって、顔を背けた。
「……へへっ。まあな」
少女は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、ひまわりのように明るかった。
その日は、いつもと変わらない一日になるはずだった。
朝、妹分は食堂で姉貴の手伝いをしていた。
「兄ちゃん! また寝坊したの?」
「……ちょっと寝過ごしただけだ」
「……それを寝坊って言うんだよ」
「生意気になったな、お前」
俺が笑うと、妹分も笑った。
それが、その日に見た最後の笑顔だった。
夕方。
妹分が帰ってこなかった。
最初は、誰も大して気にしていなかった。
少し外へ出ているだけだろう。
どこかで知り合いと話しているのかもしれない。
だが、日が沈んでも姿を見せなかった。
「……おかしいわね」
姉貴が窓の外を見つめた。
「いつもなら、とっくに帰ってくる時間なのに」
俺は立ち上がった。
「……ちょっと探してくる」
「ガルド、待ちなさい」
ヴィクトルの兄貴が声をかけた。
その表情は、いつになく真剣だった。
「皆にも声をかけよう」
「……兄貴?」
「念のためだ。手分けして探そう」
胸の奥に、嫌なものが広がった。
理由は分からない。
だが、何かがおかしい。
俺はその感覚を振り払うように、家を飛び出した。
「おーい!」
路地裏に、俺の声が響いた。
「どこにいるんだ! 返事しろ!」
何度呼んでも、返事はない。
いつも一緒に歩いた道。
菓子を買ってやった店。
庭で見つけた花を自慢してきた場所。
思いつく限りの場所を探した。
だが、見つからなかった。
「……くそっ」
胸騒ぎが、どんどん大きくなっていく。
俺は走った。
暗い路地を抜け、廃屋の並ぶ一角へ向かう。
そのときだった。
視界の端に、見覚えのある布が映った。
「……ん?」
足を止める。
路地の奥。
積み上げられた廃材の陰に、小さな人影があった。
見慣れた服。
見慣れた髪。
何度も見てきた、小さな背中。
「……おい」
ゆっくりと近づく。
少女は地面に倒れていた。
服は汚れ、身体には傷があった。
動かない。
「……おい、何やってんだよ」
返事はなかった。
「こんなところで寝てんじゃねぇよ」
俺はしゃがみ込んだ。
肩に手を伸ばす。
「……帰るぞ」
身体に触れた瞬間、息が止まった。
冷たい。
あまりにも、冷たかった。
「……おい?」
少女の身体を抱き起こす。
「……なあ」
返事はない。
「……冗談だろ?」
俺は少女の頬に触れた。
いつもなら、鬱陶しそうに手を払いのけるはずだった。
『兄ちゃん、やめてよ』
そう言って、頬を膨らませるはずだった。
だが、少女は動かなかった。
「……起きろよ」
声が震えた。
「帰るぞ……みんな待ってんだぞ……」
何度呼びかけても、返事はなかった。
俺は震える手で、少女を抱きしめた。
「……なあ」
胸の奥が、ひどく痛かった。
「……俺、守るって言っただろ」
あの日、妹分に言った。
お前は俺の大事な妹だから。
俺が守ってやると。
「……約束、したじゃねぇか」
小さな指を絡めた感触が、蘇る。
『……約束』
「……何でだよ」
声が掠れた。
「何で……こんな……」
それ以上、言葉にならなかった。
俺はただ、冷たくなった妹分を抱きしめ続けた。
その後のことは、あまり覚えていない。
駆けつけた兄貴たちの声。
泣き崩れる姉貴。
少女の身体を見つめ、静かに目を伏せるヴィクトルの兄貴。
誰かが俺の肩に手を置いた。
だが、何も感じなかった。
ただ、腕の中にいたはずの温もりが、もう二度と戻らないということだけが分かった。
数日後。
犯人が判明した。
中指に恨みを抱いていた連中だった。
以前、俺たちに仕返しを受けた者たちの関係者。
正面から俺たちに挑んでも勝てないと分かっていた。
だから、狙った。
まだ家族になって数ヶ月しか経っていない少女を。
俺たちの中で、最も弱く、抵抗する力のない家族を。
その話を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
「……何だよ、それ」
声が漏れた。
「……俺たちに勝てねぇから?」
誰も答えなかった。
「だから……あいつを狙ったってのか?」
拳が震えた。
「……ふざけんなよ」
胸の奥で、何かが燃え上がった。
悲しみなのか、怒りなのか。
自分でも分からなかった。
ただ、許せなかった。
何も知らず、ようやく笑えるようになった少女を。
初めて家族というものを知り、幸せそうに暮らしていた妹分を。
そんな小さな命を、腹いせのためだけに奪った連中が。
「……許さねぇ」
俺は自分の部屋へ戻った。
机の上には、ヴィクトルの兄貴から渡された仕返し帳簿があった。
何度も開いてきた帳簿。
家族が受けた仕打ちを記し、その仕返しを果たすためのもの。
俺は震える手で、それを開いた。
新しいページ。
そこに、犯人たちの名前を書き込んでいく。
文字が歪んだ。
手が震えて、上手く書けなかった。
「……くそっ」
涙が一滴、帳簿の上に落ちた。
俺は慌てて拭おうとした。
だが、次から次へと落ちてきた。
『兄ちゃん』
あいつの声が聞こえた気がした。
『ちゃんと帰ってきてね』
『私も、いつか兄ちゃんを守れるようになるかな』
「……俺が、守るって……」
声が震えた。
「……俺が守るって、言ったのに……!」
拳を握りしめる。
爪が掌に食い込んだ。
それでも、痛みなど感じなかった。
「……絶対に」
俺は帳簿を見つめた。
そこには、妹分を殺した連中の名前が並んでいた。
「絶対に……許さねぇ」
あいつは、もう帰ってこない。
どれだけ叫んでも。
どれだけ泣いても。
もう二度と、あの声を聞くことはできない。
それでも。
「……必ず、仕返ししてやる」
俺は帳簿を閉じた。
そして、妹分に巻いてもらった包帯の残る腕を、強く握りしめた。
「あいつらだけは……絶対に許さねぇ」
その夜。
庭に咲いていたひまわりは、静かに頭を垂れていた。
まるで、もう二度と昇らない太陽を待っているかのように。