その背中を継ぐもの   作:なかにし

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枯れたひまわりとの約束

あの日、俺は強くなると決めた。

 

ヴィクトルの兄貴のように、家族を守れる男になる。

 

そう誓ってから、どれほどの月日が流れただろうか。

 

かつて鎖を握ることすら満足にできなかった俺は、今では兄貴たちと肩を並べて戦えるようになっていた。

 

もちろん、まだまだ敵わない相手は多い。

 

ヴィクトルの兄貴と手合わせをすれば、十回挑んで十回とも地面に転がされる。

 

それでも、昔とは違った。

 

「ガルド! 右ががら空きだ!」

 

「分かってる!」

 

振り下ろされた鉄棒をかわし、鎖を相手の腕に絡ませる。

 

そのまま引き寄せ、拳を叩き込んだ。

 

男が地面に倒れた。

 

「よし!」

 

「おい、ガルド! 油断すんな!」

 

背後から兄貴の怒声が飛ぶ。

 

振り返ると、別の男が刃物を振り上げていた。

 

「っ!」

 

咄嗟に腕を上げる。

 

刃が皮膚を裂いた。

 

だが、俺は構わず相手の腹を蹴り飛ばした。

 

「ぐあっ!」

 

男が倒れる。

 

俺は息を整えながら、傷ついた腕を見つめた。

 

また一つ、傷が増えた。

 

「……ったく、危なっかしい奴だな」

 

兄貴が呆れたように近づいてきた。

 

「すまねぇ。でも、ちゃんと倒しただろ?」

 

「そういう問題じゃねぇよ」

 

兄貴は俺の腕を見て眉をひそめた。

 

「お前、自分の身体をもう少し大事にしろ」

 

「これくらい平気だって」

 

「……誰に似たんだか」

 

兄貴はため息をついた。

 

俺は少しだけ笑った。

 

傷が増えることは、嫌いじゃなかった。

 

その傷が、家族を守れた証のように思えたからだ。

 

仕返しを終えて家に帰ると、姉貴が俺の腕を見て顔をしかめた。

 

「ガルド! また怪我してるじゃない!」

 

「……ちょっと切っただけだ」

 

「この前も同じこと言ってたでしょう!」

 

「いや、今回は本当に……」

 

「いいから座りなさい!」

 

結局、いつものように椅子へ座らされた。

 

姉貴は慣れた手つきで傷を洗い、包帯を巻いていく。

 

「いっ……!」

 

「ほら、痛いんじゃない」

 

「……ちょっと染みただけだって」

 

「まったく……」

 

そのとき、背後から笑い声が聞こえた。

 

「ははは。また叱られているのか、ガルド」

 

「……兄貴」

 

ヴィクトルの兄貴だった。

 

俺は少し気まずくなって、視線を逸らした。

 

「別に、叱られてねぇよ」

 

「そうか。それならよかった」

 

兄貴は隣の椅子に腰を下ろした。

 

「今日も頑張ったそうだね」

 

「……ああ」

 

俺は少し胸を張った。

 

「兄貴たちの役に立てたぜ」

 

「それは立派だ」

 

兄貴は優しく微笑んだ。

 

だが、すぐに俺の腕へ視線を落とした。

 

「ただ、ガルド。傷を負うことが強さではないんだよ」

 

「……ん?」

 

「家族を守ることも大切だ。だが、自分も無事に帰ってこなければいけない」

 

俺は首をかしげた。

 

「でもよ、家族を守れるなら、怪我くらい仕方ねぇだろ?」

 

「そういうときもあるだろうね」

 

兄貴は否定しなかった。

 

「だが、お前が傷つけば、お前を大切に思っている家族も悲しむんだ」

 

「……分かってるよ」

 

そう答えた。

 

だが、正直なところ、まだ十分には理解できていなかった。

 

俺にとって傷は、家族を守れた証だった。

 

誰かを守るためについた傷なら、悪いものではない。

 

そう思っていた。

 

数日後。

 

ヴィクトルの兄貴から、一冊の帳簿を渡された。

 

「ガルド。これからは、お前にも自分の仕返し帳簿を持ってもらおうと思う」

 

「……俺に?」

 

「ああ」

 

兄貴は頷いた。

 

「お前も、もう立派な家族の一員だからね」

 

俺は帳簿を受け取った。

 

まだ何も書かれていないページが続いている。

 

「家族が受けた仕打ちを忘れないこと。そして、仕返しを果たしたなら、それも記しておくこと」

 

「……分かった」

 

「ただし、ガルド」

 

兄貴は俺の目を見つめた。

 

「仕返しは、怒りに任せて暴れるためのものじゃない」

 

「……ああ」

 

俺は帳簿を抱え直した。

 

「ちゃんと分かってるよ、兄貴」

 

兄貴は穏やかに笑った。

 

「ははは。それなら安心だ」

 

その日から、俺も自分の帳簿を持つようになった。

 

家族のために戦う。

 

家族が受けた仕打ちを忘れない。

 

それは俺にとって、誇らしいことだった。

 

ある日の夕方。

 

俺は中庭で鎖の手入れをしていた。

 

少し離れた場所では、ヴィクトルの兄貴も自分の鎖を確かめていた。

 

ふと、その鎖に目が留まった。

 

以前から気になっていたことがある。

 

兄貴の鎖は、俺たちが使っているものとは少し違っていた。

 

ところどころに、不揃いな輪がつながれている。

 

大きさも、形も、古さも違う。

 

「……なあ、兄貴」

 

「ん? どうした、ガルド」

 

「その鎖、何でそんなに継ぎ目があるんだ?」

 

兄貴は自分の鎖へ目を落とした。

 

「ああ。これか」

 

「普通の鎖じゃねぇよな?」

 

「そうだね」

 

兄貴は鎖の一部分を持ち上げた。

 

「これは、昔一緒に戦った弟の鎖なんだ」

 

「……弟?」

 

「ああ。そして、こっちは姉さんのものだ」

 

兄貴は別の輪に指を触れた。

 

「ほかにも、何人もの家族の鎖がつながっている」

 

俺は思わず目を丸くした。

 

「へぇ……そいつら、今はどこにいるんだ?」

 

兄貴は少しだけ目を伏せた。

 

「……もう、いないんだ」

 

「……そうか」

 

俺は口を閉じた。

 

この都市では、人が死ぬことなど珍しくない。

 

路地裏で暮らしていた頃から、嫌というほど見てきた。

 

だから、兄貴の言葉を聞いても、それほど驚かなかった。

 

「俺はね、ガルド」

 

兄貴が静かに口を開いた。

 

「亡くなった家族のことを、忘れたくないんだ」

 

兄貴は鎖をそっと撫でた。

 

「一緒に笑ったことも、喧嘩したことも、共に戦ったことも。どれも大切な思い出だからね」

 

「……だから、つないでるのか?」

 

「ああ。せめて、これからも一緒に歩いていけるようにと思ってな」

 

俺は改めて鎖を見つめた。

 

「でもよ、それだけつなげたら随分重いだろ?」

 

「……ああ」

 

兄貴は小さく笑った。

 

「重いよ」

 

「だったら、少し外せばいいじゃねぇか。戦いづらいだろ?」

 

その言葉に、兄貴は怒らなかった。

 

ただ、穏やかに微笑んだ。

 

「ははは。そうかもしれないな」

 

そして、鎖を握り直した。

 

「でも、俺には大切なものなんだ」

 

「……ふーん」

 

俺は首をかしげた。

 

正直、よく分からなかった。

 

死んだ家族を忘れたくないという気持ちは、何となく理解できる。

 

だが、わざわざ武器を重くしてまで持ち歩く理由までは分からなかった。

 

兄貴はそんな俺を見て、優しく笑った。

 

「今は分からなくてもいいさ」

 

「……何だよ、それ」

 

「ははは。気にしないでくれ」

 

兄貴は鎖を肩に担いだ。

 

その背中を、俺はしばらく見つめていた。

 

それからしばらく経ったある日。

 

ヴィクトルの兄貴が、一人の少女を連れて帰ってきた。

 

「皆、少しいいか」

 

兄貴の声に、食堂にいた家族たちが振り返る。

 

その後ろには、小さな少女が立っていた。

 

年はまだ幼く、身体も細い。

 

着ている服は汚れ、ところどころ破れていた。

 

少女は兄貴の服の裾を握りしめ、周囲を警戒するように見回していた。

 

「今日から、しばらくこの子を預かることになった」

 

「おっ! 新しい家族か!」

 

「まあ、可愛い子ね!」

 

「お腹空いてない? 何か食べる?」

 

兄や姉たちが次々に声をかける。

 

しかし、少女は怯えたように兄貴の背後へ隠れた。

 

「……近づかないで」

 

小さな声だった。

 

だが、はっきりと拒絶していた。

 

その姿を見て、俺は思わず笑った。

 

「……ははっ。何だ、昔の俺みてぇじゃねぇか」

 

少女がびくりと肩を震わせた。

 

「……誰?」

 

「俺はガルドだ」

 

俺は胸を張った。

 

「お前より先にここに来た、兄貴分ってやつだな」

 

「……知らない」

 

「……そりゃそうか」

 

思わず苦笑する。

 

周囲から小さな笑い声が上がった。

 

ヴィクトルの兄貴も、楽しそうに笑っていた。

 

「ははは。ガルド、あまり驚かせないでやってくれ」

 

「分かってるよ、兄貴」

 

俺は少女の前にしゃがみ込んだ。

 

「おい、チビ。腹減ってんだろ?」

 

少女は答えなかった。

 

だが、その視線が食卓のパンへ向いたのを、俺は見逃さなかった。

 

「ほら」

 

俺はパンを一つ取り、差し出した。

 

「食えよ」

 

少女はじっとパンを見つめていた。

 

「……いらない」

 

「そうか」

 

俺はパンを近くの皿に置いた。

 

「なら、ここに置いとく。食いたくなったら食えよ」

 

それだけ言って、俺は立ち上がった。

 

背後で、ヴィクトルの兄貴が小さく笑った気がした。

 

少女は、なかなか俺たちに心を開かなかった。

 

食事の時間になっても隅に座り、誰かが近づけば身構える。

 

話しかけても、返事は短い。

 

時には、差し出された手を払いのけることさえあった。

 

だが、俺は不思議と腹が立たなかった。

 

かつての自分を見ているようだったからだ。

 

誰も信じられない。

 

優しくされても、何か裏があるのではないかと疑ってしまう。

 

その気持ちは、よく分かった。

 

だから俺は、無理に仲良くなろうとはしなかった。

 

ただ、毎日声をかけた。

 

「おう、チビ。飯食ったか?」

 

「……食べた」

 

「そうか。ならいい」

 

別の日には、余った菓子を渡した。

 

「ほら、やるよ」

 

「……何で?」

 

「余ったからだ」

 

「……変なの」

 

「……よく言われる」

 

また別の日には、庭で一人座っている少女の隣に腰を下ろした。

 

「……何?」

 

「別に?」

 

「……あっち行って」

 

「分かったよ」

 

俺が立ち上がると、少女は少しだけ驚いた顔をした。

 

「……本当に行くの?」

 

「……嫌なんだろ?」

 

少女はしばらく黙っていた。

 

そして、小さく呟いた。

 

「……別に、いてもいい」

 

「……そうか」

 

俺は笑って、もう一度腰を下ろした。

 

その日、少女は初めて自分から話しかけてくれた。

 

本当に、どうでもいい話だった。

 

庭に咲いている花のこと。

 

食堂の料理のこと。

 

夜になると、少しだけ怖いこと。

 

俺はその話を聞きながら、昔のことを思い出していた。

 

路地裏で一人だった俺に、何度も声をかけてくれた男。

 

拒絶しても、刃物を向けても、見捨てなかった男。

 

ヴィクトルの兄貴。

 

あの人も、こんな気持ちだったのだろうか。

 

それから少女は、少しずつ変わっていった。

 

食卓で笑うようになった。

 

姉貴たちの手伝いをするようになった。

 

兄貴たちの冗談に、呆れた顔をするようになった。

 

そして、いつしか正式に中指の家族となった。

 

俺にとって、初めての妹分だった。

 

「おい、ガルド!」

 

ある日の夕方、兄貴が俺の肩を叩いた。

 

「お前、随分あの子に懐かれたな!」

 

「……まあな」

 

「何だ、照れてんのか?」

 

「照れてねぇよ!」

 

周囲が笑う。

 

そのときだった。

 

「……兄ちゃん」

 

背後から小さな声が聞こえた。

 

振り返ると、妹分が立っていた。

 

「……ん?」

 

「これ、落としてた」

 

少女が差し出したのは、俺が腰につけていた小さな金具だった。

 

「ああ。悪いな」

 

受け取ろうとして、俺は動きを止めた。

 

「……おい、今何て言った?」

 

「……何が?」

 

「俺のことだよ」

 

少女は少し首をかしげた。

 

「……兄ちゃん?」

 

その瞬間、俺は思わず笑った。

 

「……へへっ。そうか、俺も兄ちゃんか」

 

「……うるさい」

 

「別に、何も言ってねぇだろ」

 

「……顔、にやけてる」

 

「うるせぇ!」

 

少女は頬を膨らませた。

 

その姿が可笑しくて、俺はさらに笑った。

 

初めてだった。

 

誰かに、兄と呼ばれるのは。

 

今までは、俺が兄貴や姉貴たちの背中を追いかけていた。

 

だが、今は違う。

 

俺にも、守ってやりたい妹ができた。

 

――こいつは、俺が守ってやろう。

 

かつてヴィクトルの兄貴が俺を守ってくれたように。

 

兄貴や姉貴たちが、いつも俺を助けてくれたように。

 

今度は俺が、この小さな家族を守る番だ。

 

ある日、俺は妹分と一緒に中庭を歩いていた。

 

そのとき、少女が一輪の花の前で足を止めた。

 

「……兄ちゃん、見て」

 

「ん?」

 

少女が指さした先には、黄色い花が咲いていた。

 

大きな花びらが、太陽に向かって広がっている。

 

「……ひまわりか」

 

「知ってるの?」

 

「ああ。昔、どっかで見たことがある」

 

少女は花をじっと見つめていた。

 

「……きれい」

 

「そうか?」

 

「うん。太陽みたい」

 

少女は小さく笑った。

 

その笑顔を見て、俺も思わず笑った。

 

「……へへっ。そうだな」

 

「……兄ちゃん」

 

「何だ?」

 

「この花、もっと増やせないかな」

 

「増やす?」

 

「うん。いっぱい咲いたら、みんな喜ぶと思う」

 

俺は少し考えた。

 

「……じゃあ、今度種でも探してくるか」

 

「本当?」

 

「ああ」

 

少女の顔がぱっと明るくなった。

 

「約束だよ!」

 

「分かったって」

 

少女は嬉しそうに笑った。

 

俺はその笑顔を見ながら、思った。

 

こんな顔を、ずっと見ていたい。

 

そのためなら、何だってしてやろう。

 

それから、妹分は時々俺の仕返しに同行するようになった。

 

もちろん、戦うためではない。

 

荷物を運んだり、帳簿を持ったり、兄貴たちの手伝いをしたり。

 

危険な場所へは近づけない。

 

そういう約束だった。

 

「兄ちゃん、これ持っていけばいいの?」

 

「ああ。悪いな」

 

「……私も、少しは役に立ってる?」

 

俺は少女の頭を軽く撫でた。

 

「当たり前だろ。助かってるぜ」

 

「……えへへ」

 

少女は嬉しそうに笑った。

 

その姿を見て、俺も少しだけ笑った。

 

だが、ある日の仕返しで、事件が起きた。

 

その日は、家族を傷つけた連中の居場所が判明したため、兄貴たちと共に向かっていた。

 

妹分も荷物持ちとして同行していたが、戦いが始まる前に安全な場所で待たせていた。

 

「いいか。絶対にここから動くなよ」

 

「……うん」

 

「何かあったら、すぐに逃げろ」

 

「分かった」

 

俺は少女の頭を軽く撫で、兄貴たちのもとへ向かった。

 

戦いは、思ったより長引いた。

 

敵の数が多かったのだ。

 

「ガルド! そっちを頼む!」

 

「分かった!」

 

俺は鎖を振るい、敵の一人を倒した。

 

だが、そのときだった。

 

「……兄ちゃん!」

 

聞き慣れた声がした。

 

振り返ると、妹分が立っていた。

 

どうやら、俺たちの様子が気になって近づいてきたらしい。

 

「……おい! 何で来た!」

 

俺が叫んだ瞬間、倒れていた敵の一人が起き上がった。

 

男の手には、刃物が握られていた。

 

「……っ!」

 

男が妹分へ向かって走り出す。

 

俺は咄嗟に鎖を振るった。

 

だが、間に合わなかった。

 

「きゃっ!」

 

少女の腕に、刃がかすめた。

 

赤い血が流れる。

 

「……お前!」

 

頭に血が上った。

 

俺は男へ飛びかかり、拳を叩き込んだ。

 

「ぐあっ!」

 

男が倒れる。

 

俺はさらに拳を振り上げた。

 

「ふざけんな……!」

 

そのとき、背後から声がした。

 

「……兄ちゃん」

 

俺は動きを止めた。

 

振り返ると、妹分が腕を押さえて立っていた。

 

その顔は、痛みに歪んでいた。

 

「……お前、大丈夫か!」

 

俺は慌てて駆け寄った。

 

少女の腕から血が流れている。

 

「……ごめん」

 

「……何で謝るんだよ!」

 

「……約束、破っちゃった」

 

俺は言葉を失った。

 

少女は、俺を見上げていた。

 

「……兄ちゃんが心配で……」

 

「……馬鹿野郎」

 

俺は震える手で、少女の腕を押さえた。

 

「……心配させんじゃねぇよ」

 

その声は、自分でも驚くほど弱かった。

 

家へ帰ると、すぐに姉貴が妹分の手当てをした。

 

幸い、傷は深くなかった。

 

命に別状もない。

 

だが、俺は少女の腕に巻かれた包帯から目を離せなかった。

 

「……兄ちゃん」

 

「……何だ」

 

「……怒ってる?」

 

「……別に」

 

少女は少し困ったように笑った。

 

「……ごめんね」

 

「……だから、何でお前が謝るんだよ」

 

俺は拳を握りしめた。

 

「……俺が、ちゃんと守れなかったんだ」

 

少女は首を横に振った。

 

「……違うよ」

 

「……何がだよ」

 

「兄ちゃん、ちゃんと守ってくれたよ」

 

俺は顔を上げた。

 

少女は小さく笑っていた。

 

「……ほら、私、こうして帰ってこられたもん」

 

「……でも、怪我させちまった」

 

「……気にしなくていいよ」

 

少女は包帯の巻かれた腕を持ち上げた。

 

「……兄ちゃんだって、いつも怪我してるでしょ?」

 

「……それとこれとは違うだろ」

 

「……同じだよ」

 

少女は笑った。

 

「……私も、家族を守りたかったんだもん」

 

俺は何も言えなかった。

 

かつて、自分がヴィクトルの兄貴に言った言葉を思い出した。

 

家族を守りたい。

 

強くなりたい。

 

誰かの役に立ちたい。

 

その気持ちは、目の前の少女も同じだった。

 

「……兄ちゃん」

 

少女が俺の手を握った。

 

「……そんな顔しないで」

 

「……どんな顔だよ」

 

「……泣きそうな顔」

 

「……泣いてねぇよ」

 

「……うん」

 

少女は優しく笑った。

 

「……じゃあ、笑って」

 

俺は少しだけ口元を緩めた。

 

「……へへっ。これでいいか?」

 

「……うん!」

 

少女は嬉しそうに笑った。

 

その笑顔を見て、俺は心の中で誓った。

 

次こそは、絶対に守ってやる。

 

もう二度と、こいつを傷つけさせない。

 

それから数ヶ月が過ぎた。

 

妹分の腕の傷も、すっかり治っていた。

 

俺たちは、以前と変わらない日々を過ごしていた。

 

食堂で一緒に飯を食い。

 

庭でひまわりの世話をし。

 

時には喧嘩をして、すぐに仲直りした。

 

「兄ちゃん! 見て!」

 

ある日の朝。

 

妹分が嬉しそうに俺を呼んだ。

 

庭へ出ると、そこには小さなひまわりが咲いていた。

 

以前、二人で植えた種から育ったものだった。

 

「……おお」

 

俺は思わず笑った。

 

「ちゃんと咲いたな」

 

「うん!」

 

少女は嬉しそうに頷いた。

 

「……兄ちゃんが種を探してくれたからだよ」

 

「……大げさだって」

 

「そんなことない!」

 

少女はひまわりを見つめた。

 

「……来年も、いっぱい咲かせたいな」

 

「……ああ」

 

俺は頷いた。

 

「また一緒に植えようぜ」

 

少女は顔を上げた。

 

「……約束?」

 

「……ああ。約束だ」

 

少女は小指を差し出した。

 

俺は苦笑しながら、その小指に自分の指を絡めた。

 

「……ほんと、約束が好きだな」

 

「……だって、兄ちゃんが守ってくれるもん」

 

俺は少し照れくさくなって、顔を背けた。

 

「……へへっ。まあな」

 

少女は嬉しそうに笑った。

 

その笑顔は、ひまわりのように明るかった。

 

その日は、いつもと変わらない一日になるはずだった。

 

朝、妹分は食堂で姉貴の手伝いをしていた。

 

「兄ちゃん! また寝坊したの?」

 

「……ちょっと寝過ごしただけだ」

 

「……それを寝坊って言うんだよ」

 

「生意気になったな、お前」

 

俺が笑うと、妹分も笑った。

 

それが、その日に見た最後の笑顔だった。

 

夕方。

 

妹分が帰ってこなかった。

 

最初は、誰も大して気にしていなかった。

 

少し外へ出ているだけだろう。

 

どこかで知り合いと話しているのかもしれない。

 

だが、日が沈んでも姿を見せなかった。

 

「……おかしいわね」

 

姉貴が窓の外を見つめた。

 

「いつもなら、とっくに帰ってくる時間なのに」

 

俺は立ち上がった。

 

「……ちょっと探してくる」

 

「ガルド、待ちなさい」

 

ヴィクトルの兄貴が声をかけた。

 

その表情は、いつになく真剣だった。

 

「皆にも声をかけよう」

 

「……兄貴?」

 

「念のためだ。手分けして探そう」

 

胸の奥に、嫌なものが広がった。

 

理由は分からない。

 

だが、何かがおかしい。

 

俺はその感覚を振り払うように、家を飛び出した。

 

「おーい!」

 

路地裏に、俺の声が響いた。

 

「どこにいるんだ! 返事しろ!」

 

何度呼んでも、返事はない。

 

いつも一緒に歩いた道。

 

菓子を買ってやった店。

 

庭で見つけた花を自慢してきた場所。

 

思いつく限りの場所を探した。

 

だが、見つからなかった。

 

「……くそっ」

 

胸騒ぎが、どんどん大きくなっていく。

 

俺は走った。

 

暗い路地を抜け、廃屋の並ぶ一角へ向かう。

 

そのときだった。

 

視界の端に、見覚えのある布が映った。

 

「……ん?」

 

足を止める。

 

路地の奥。

 

積み上げられた廃材の陰に、小さな人影があった。

 

見慣れた服。

 

見慣れた髪。

 

何度も見てきた、小さな背中。

 

「……おい」

 

ゆっくりと近づく。

 

少女は地面に倒れていた。

 

服は汚れ、身体には傷があった。

 

動かない。

 

「……おい、何やってんだよ」

 

返事はなかった。

 

「こんなところで寝てんじゃねぇよ」

 

俺はしゃがみ込んだ。

 

肩に手を伸ばす。

 

「……帰るぞ」

 

身体に触れた瞬間、息が止まった。

 

冷たい。

 

あまりにも、冷たかった。

 

「……おい?」

 

少女の身体を抱き起こす。

 

「……なあ」

 

返事はない。

 

「……冗談だろ?」

 

俺は少女の頬に触れた。

 

いつもなら、鬱陶しそうに手を払いのけるはずだった。

 

『兄ちゃん、やめてよ』

 

そう言って、頬を膨らませるはずだった。

 

だが、少女は動かなかった。

 

「……起きろよ」

 

声が震えた。

 

「帰るぞ……みんな待ってんだぞ……」

 

何度呼びかけても、返事はなかった。

 

俺は震える手で、少女を抱きしめた。

 

「……なあ」

 

胸の奥が、ひどく痛かった。

 

「……俺、守るって言っただろ」

 

あの日、妹分に言った。

 

お前は俺の大事な妹だから。

 

俺が守ってやると。

 

「……約束、したじゃねぇか」

 

小さな指を絡めた感触が、蘇る。

 

『……約束』

 

「……何でだよ」

 

声が掠れた。

 

「何で……こんな……」

 

それ以上、言葉にならなかった。

 

俺はただ、冷たくなった妹分を抱きしめ続けた。

 

その後のことは、あまり覚えていない。

 

駆けつけた兄貴たちの声。

 

泣き崩れる姉貴。

 

少女の身体を見つめ、静かに目を伏せるヴィクトルの兄貴。

 

誰かが俺の肩に手を置いた。

 

だが、何も感じなかった。

 

ただ、腕の中にいたはずの温もりが、もう二度と戻らないということだけが分かった。

 

数日後。

 

犯人が判明した。

 

中指に恨みを抱いていた連中だった。

 

以前、俺たちに仕返しを受けた者たちの関係者。

 

正面から俺たちに挑んでも勝てないと分かっていた。

 

だから、狙った。

 

まだ家族になって数ヶ月しか経っていない少女を。

 

俺たちの中で、最も弱く、抵抗する力のない家族を。

 

その話を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。

 

「……何だよ、それ」

 

声が漏れた。

 

「……俺たちに勝てねぇから?」

 

誰も答えなかった。

 

「だから……あいつを狙ったってのか?」

 

拳が震えた。

 

「……ふざけんなよ」

 

胸の奥で、何かが燃え上がった。

 

悲しみなのか、怒りなのか。

 

自分でも分からなかった。

 

ただ、許せなかった。

 

何も知らず、ようやく笑えるようになった少女を。

 

初めて家族というものを知り、幸せそうに暮らしていた妹分を。

 

そんな小さな命を、腹いせのためだけに奪った連中が。

 

「……許さねぇ」

 

俺は自分の部屋へ戻った。

 

机の上には、ヴィクトルの兄貴から渡された仕返し帳簿があった。

 

何度も開いてきた帳簿。

 

家族が受けた仕打ちを記し、その仕返しを果たすためのもの。

 

俺は震える手で、それを開いた。

 

新しいページ。

 

そこに、犯人たちの名前を書き込んでいく。

 

文字が歪んだ。

 

手が震えて、上手く書けなかった。

 

「……くそっ」

 

涙が一滴、帳簿の上に落ちた。

 

俺は慌てて拭おうとした。

 

だが、次から次へと落ちてきた。

 

『兄ちゃん』

 

あいつの声が聞こえた気がした。

 

『ちゃんと帰ってきてね』

 

『私も、いつか兄ちゃんを守れるようになるかな』

 

「……俺が、守るって……」

 

声が震えた。

 

「……俺が守るって、言ったのに……!」

 

拳を握りしめる。

 

爪が掌に食い込んだ。

 

それでも、痛みなど感じなかった。

 

「……絶対に」

 

俺は帳簿を見つめた。

 

そこには、妹分を殺した連中の名前が並んでいた。

 

「絶対に……許さねぇ」

 

あいつは、もう帰ってこない。

 

どれだけ叫んでも。

 

どれだけ泣いても。

 

もう二度と、あの声を聞くことはできない。

 

それでも。

 

「……必ず、仕返ししてやる」

 

俺は帳簿を閉じた。

 

そして、妹分に巻いてもらった包帯の残る腕を、強く握りしめた。

 

「あいつらだけは……絶対に許さねぇ」

 

その夜。

 

庭に咲いていたひまわりは、静かに頭を垂れていた。

 

まるで、もう二度と昇らない太陽を待っているかのように。

 

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