【カオ転三次】×よう実 鬼になる一之瀬帆波   作:ねむのき

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第1部 第1章
プロローグ 「善人でなければならない」


 春の海を渡ってくる風には、まだ冬の冷たさが残っていた。高度育成高等学校の校舎に沿って植えられた桜は、陽の当たる枝から花を開き、淡い色の重なりを窓へ映している。ガラス越しの日差しは暖かいのに、窓を少し開けると、指先から熱が奪われた。新しい制服にも、真新しい教室にも、これから始まる生活にも馴染むには、その温度の違いを覚えるような時間が必要なのかもしれなかった。

 赤いブレザーの袖口を整え、一之瀬帆波は窓を閉めた。胸元のリボンは、寮を出る前に鏡で確かめてきたはずなのに、もう一度触りたくなる。肩から背へ流れるストロベリーブロンドの髪を指で払い、窓に映った自分と目を合わせると、少しだけ口角を上げてみた。強張ってはいない。普通に笑えている。それを確かめてから、帆波は新しい机へ向き直った。

 ここで、三年間を過ごす。

 入学が決まってから何度も考えたことが、机の木目や椅子の硬さを伴って、ようやく自分の生活になり始めていた。授業料や生活にかかる負担を抑えながら学べて、卒業後には良い進路を望める。そんな学校に通えることを、母は喜んでくれた。帆波も嬉しかった。その喜びの中には、これからは母にかける負担を少し減らせるという、息をつけるような気持ちもあった。

 ただ、家へ帰らない放課後には、まだ慣れなかった。

 寮の部屋で鞄を下ろしても、台所から母の声はしない。妹が何かを聞きに来ることもなく、扉の向こうで足音が止まれば、つい顔を上げてしまう。学校の決まりで、家族と自由に連絡を取ることもできなかった。今日あったことを話そうと思ってから、そのことを思い出す瞬間が、いちばん寂しい。

 妹は、もう新しい生活に慣れただろうか。母は、忙しいからといって食事を後回しにしていないだろうか。答えの返ってこない問いが浮かぶたび、帆波は机へ教科書を広げた。自分で選んで、ここへ来たのだ。会いたい気持ちだけで三年間を眺めていては、せっかく得た機会まで遠くなってしまう。

 

「……ちゃんと、やらなくちゃ」

 

 誰に聞かせるでもなく口にして、ノートの最初のページへ日付を書いた。

 勉強をして、できることを増やして、将来は自分の力で暮らしていけるようになる。その先で、母と妹を支えられる人になりたかった。母が働き続けなければ成り立たない生活を、いつまでも当たり前にはしたくない。妹にも、欲しいものや行きたい場所について、こちらの顔色を確かめる前に話してほしかった。

 そのために、ここで学ぶ。そう考えると、部屋の静けさにも、今は耐えられる気がした。

 

 新しい生活を始めたからといって、以前の自分が消えるわけではなかった。

 制服に袖を通し、知らない道を覚え、初めての授業でノートを取っている間にも、ふとした隙間から、思い出したくない気持ちは戻ってくる。何かが起きるわけではない。ただ、自分だけが覚えている。家で過ごした日々のことも、母に向けられた顔をまともに見られなかったときのことも、その後、時間だけが過ぎていったことも。

 そこで考えるのをやめようとしても、胸の奥に残る重さまでは動かなかった。

 もう、間違えてはいけない。大切な人を悲しませることも、誰かに迷惑をかけて、自分だけが助かろうとすることも、二度と許されない。困っている人に気づいたなら、見なかったことにしてはいけなかった。自分の予定があるからと、差し出せる手を引っ込めるのも、きっと同じだ。

 そこまでしなくてもいいのかもしれない、という考えが浮かぶと、帆波はかえって落ち着かなくなった。自分に都合のよい線を一本引けば、その向こうへ、また何かを押しやってしまうように思えた。

 

「大丈夫。ちゃんとできるよ」

 

 夜、洗面台の鏡に向かって言ってみたことがある。鏡の中の自分は、いつもと同じように微笑んだ。その顔を見ていると少し安心できたので、帆波は水を止め、濡れた指を丁寧に拭いた。

 明日も、そうしていればいい。正しいことを選んで、間違ったことをしない。毎日を一つずつ積み重ねれば、少なくとも、これ以上誰かを悲しませずには済むはずだった。

 

 四月の日々は、授業と課題、新しい暮らしに必要な細かな用事の間を、思っていたより速く過ぎていった。

 その中で、帆波には早くから気になっていたことがあった。入学時に与えられた十万プライベートポイントである。校内では一ポイントを一円として使え、食事も日用品も手に入る。生活に必要なものが揃えられるのはありがたかったが、それほどの金額が、これからも全員へ同じように支給されるのだろうか。

 使う前に確かめておきたかった。必要になるかもしれないお金を、もらえるつもりで使ってしまうのは怖い。

 担任の星之宮を訪ねて尋ねると、少なくとも、毎月十万ポイントの支給が保証されているわけではないことは分かった。支給額はクラスの評価に連動して変わる。そして、遅刻や欠席、授業中の私語や居眠りは、その評価を下げる行為に含まれるという。

 聞いて初めて、教室で過ごす毎日と、端末に表示された数字がつながった。

 星之宮が教えてくれたのは、帆波たちの問いに対する答えだった。何をすれば、どれだけ評価が上がり、どれだけ下がるのか、その全てを説明されたわけではない。それでも、今できることはあった。分かった内容は伝え、遅刻や授業中の私語に気をつけるよう周知した。帆波自身も、授業の準備や時間の管理を、それまで以上に意識するようになった。

 だが、その頃にはまだ、クラスの評価が卒業後の進路へどう結びつくのかまでは知らなかった。生活に使えるポイントを減らさないことと、授業を真面目に受けることが、ひとまず目の前にある課題だった。

 朝、余裕を持って部屋を出て、授業を受け、分からなかったところをその日のうちに確かめる。夜は翌日の持ち物を揃えてから眠る。そうして過ごすうちに、窓の外の桜からは花が減り、若い葉が日差しを透かすようになっていた。

 

 五月一日、寮の自室へ戻った帆波は、鞄を机の脇に置き、そのまま椅子へ腰を下ろした。

 窓は閉まっている。廊下から届いていた人の声も扉一枚を隔てると遠くなり、部屋には冷蔵庫の低い運転音だけが残った。帆波は端末を机に置き、暗くなった画面をしばらく見つめた。

 今月の支給額は、六万五千ポイントだった。

 毎月同じ金額ではないことは知っていた。気をつけるべきことも、聞けた範囲では気をつけてきた。それでも、四月の初めに与えられた十万からは減っている。分かっていることを守っただけで、全てに対応できたわけではなかった。

 けれど、今、帆波が考えなければならないのは、今月何を買えるかということだけではなかった。

 この学校のクラスは、入学したときのまま三年間続く区分ではない。クラスごとに評価され、競い合い、その結果によって立場が変わる。今日までに知った仕組みを頭の中で並べ直すと、入学前に見ていた学校の姿とは、違う輪郭が浮かび上がってきた。

 進学や就職に関する、望ましい未来。

 それは、この学校へ入れたというだけで、誰にでも同じように用意されるものではなかった。重要な特典を得るには、卒業するとき、Aクラスにいなければならない。

 帆波は椅子の背から身体を起こした。

 入学できたことに安心していたつもりはない。勉強を怠るつもりもなかった。それでも、真面目に三年間を過ごせば、その先に学校の示す進路があるのだと、どこかで考えていたのだろう。努力する場所が、授業や試験だけでは足りないことを、今になって知った。

 

「Aクラスで、卒業……」

 

 口に出すと、その条件が急にはっきりした。

 机の上には、まだ使い始めたばかりの教科書が積まれている。角の折れていない表紙も、余白の多いノートも、これから先の長さを示しているようだった。三年後の自分がどこで何をしているのか、帆波にはまだ思い描けない。就きたい職業の名前を一つ挙げることさえ、今は難しかった。

 けれど、母のことなら思い浮かべられた。

 食事の途中で席を立ち、明日の支度を始める背中。疲れているはずなのに、こちらが話しかければ振り向いてくれる顔。大丈夫よ、と言われて安心した後で、本当に大丈夫なのだろうかと気になった夜。帆波が知らないところで、母が済ませてくれていたことは、きっと数え切れないほどあった。

 いつかは、自分が引き受けたかった。母が休みたいときに休めるように、必要なものを買うたびに、ほかの何を諦めるか考えずに済むようにしたい。

 妹にも、これから長い時間がある。どんなことを好きになり、何をやってみたいと言うのか、離れて暮らし始めたばかりの帆波には分からない。だからこそ、その希望を聞いたとき、自分にできることが何もないままではいたくなかった。

 良い進路を得たい。働いて、きちんと生活できるようになりたい。その力で、二人を支えたい。

 入学を決めたときから、その願いは変わっていない。変わったのは、願いをかなえるために、この学校で何を目指すべきかが分かったことだった。

 帆波はノートを一冊引き寄せ、ページを開いた。今日使ったところを指で押さえ、ペンを持つ。すぐに何かを書こうとして、先端を紙の少し上で止めた。

 Aクラスを目指すと決めたからといって、明日から何もかもうまくいくわけではない。四月の一か月でさえ、分からないことは残った。これから知ることも、考え直すこともあるだろう。それでも、条件を知らなかった頃と同じ気持ちで、ただ毎日を送ることはできなかった。

 帆波は余白へ、丁寧に文字を書いた。

 

 Aクラスで卒業する。

 

 書き終えてから、もう一度読む。誰かに見せるための言葉ではなかった。母にも、妹にも、今は伝えられない。それでも、ここへ来た理由を見失わずにいるために、自分の手で残しておきたかった。

 窓の外では、風に押された若葉の影が動いていた。机へ落ちる光がわずかに揺れ、ノートの白いところを明るくする。帆波は書いた言葉から手を離し、その隣へ、今日の授業で確かめておきたかった箇所を並べ始めた。

 まだ、将来の全てを決めることはできない。けれど、三年間の先に、母と妹の顔を思い浮かべることはできた。その二人のために、ここで手に入れられるものを、できるだけ多く手に入れたい。

 帆波は教科書を開いた。家へ帰る代わりに机へ向かう夕方には、もう慣れ始めていた。今日はその静けさの中に、自分で定めた目標が、一つ増えていた。

 





ほなみちゃんの罪はいわゆる情動型(感情型)の財産犯罪になるそうです。店員の人に許してもらっていましたが、前科がない場合は執行猶予や起訴猶予になる可能性が非常に高いケースだとか。

この手の犯人は「罪の意識」を元々持っている(あるいは逮捕されて激しく自責する)ため、刑罰による懲罰よりも、環境の調整とメンタルケアがとっても大事であり、「自分がとんでもないことをして家族を傷つけた」と激しいショックと罪悪感に陥ります。
まずは精神的な孤立を防ぎ、カウンセリング等でストレスを吐き出させることが最優先されます。

高度育成高等学校の環境ではまったく逆効果に見えますね!
入学前に面接したはずの星之宮先生、あなたほんとに学校の保険医?
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