医務室には、外からの光を薄く通すカーテンが掛かっていた。窓際の床に落ちる明るさは柔らかく、廊下より少し涼しい空気に、清潔な布と消毒薬の匂いが混じっている。帆波が挨拶をすると、机のそばにいた女性が顔を上げた。白衣を着た大人の女性だった。髪は邪魔にならないようまとめられ、帆波へ向ける眼差しにも声にも、急かすようなところはなかった。
「一之瀬さんですね。今日の検査を担当する石川です。よろしくお願いします」
「一之瀬帆波です。こちらこそ、よろしくお願いします」
帆波が頭を下げると、石川は穏やかに頷き、机の前の椅子を示した。
「そちらへどうぞ。鞄は隣の椅子に置いて大丈夫ですよ」
「はい。ありがとうございます」
帆波は示された椅子へ腰を下ろした。エースの足音が廊下を遠ざかっていくのを聞きながら、鞄を隣へ置く。石川は手元の記録を確かめ、それから改めて帆波を見た。
「覚醒してから、身体に痛みがあったり、具合が悪くなったりしたことはありますか?」
「いいえ。特にはありません」
「普段の生活で、困っていることは?」
「今は、大丈夫です。最初は力が強すぎて驚いたんですけど、加減の仕方を教えてもらったので」
答えると、石川は頷き、幾つか続けて尋ねた。身体の変化に気づいたときのことや、その後の様子を、帆波は分かる範囲で話した。前髪を上げて角を見せるときには少し指が止まったが、石川はごく自然に顔を寄せ、確認を終えると髪を戻してよいと告げた。
驚かれないことが、こんなに助かるとは思わなかった。鏡の前で自分の額を見るのとは違い、人へ見せるとなると、やはり少し身構えてしまう。けれど、石川の声は、その前も後も同じだった。帆波は前髪を整え、次の指示を待った。
石川は手元に機械を取り、一之瀬の方へ向けた。
「少し、そのままでいてくださいね」
「はい」
何かを計測しているらしかった。帆波は背筋を伸ばしたまま、機械と石川の顔を交互に見た。身体に触れられることも、痛みを感じることもない。何を調べているのか考えているうちに、石川は表示を確かめて機械を下ろし、手元の記録へ書き込んだ。
検査と聞いて、もう少し大掛かりなことをするのかと思っていた。着替えを求められることもなく、息が上がるほど身体を動かすこともない。幾つか質問に答え、機械を向けられている間、じっと座っていただけだった。石川は記録を見直すと、帆波へ顔を上げた。
「はい。これで終わりです」
「……え、もうですか?」
思わず聞き返すと、石川が微笑んだ。
「ええ。お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
帆波は頭を下げ、膝に置いた手を見た。汗もかいていないし、どこも痛くない。学校の健康診断で順番を待っている方が、よほど時間がかかる気がした。これだけで、今の自分について分かるのだろうか。尋ねかけたところで扉が叩かれ、石川が返事をした。
エースが入ってきた。帆波は顔を上げ、彼の姿を見つけると背筋を伸ばした。待っていたことがそのまま伝わってしまいそうで、膝の上で指を揃え直す。
「終わったか」
「はい。今、終わったところです」
石川が結果をまとめた資料を差し出した。エースは礼を言って受け取り、記載されたものへ目を通した。短いやり取りが交わされる間、帆波は二人の顔を見ていた。何か悪いことが分かったのだろうかという不安より、そこに自分の知らない何が書かれているのかが気になった。
引き継ぎを終えた石川が席を離れ、帆波へ声をかけてから医務室を出ていった。扉が閉まると、エースは近くの椅子を引いた。帆波に向かい合う位置へ腰を下ろし、資料を手にしたまま顔を上げる。
「さて。今のお前の能力だが、レベルは二だな」
「レベル……二、ですか?」
「ああ。能力がどのくらい成長しているか、その段階を示すものだ。ほかに、身体能力を表すパラメータや、使えるスキルも確認できてる」
帆波は膝の上の手から、彼の持つ資料へ目を移した。自分の身体についての説明なのに、聞き慣れた言葉が違う場所から出てきたように感じた。
「……なんだか、ゲームみたいですね」
「まあ、大体その認識でいいぞ」
「本当に、そういうものなんですね」
冗談を返されたわけではなかった。エースは普通に頷いている。帆波も頷きながら、自分の手の甲を見つめた。見た目には、以前とほとんど変わらない。そこに力があることは確かめたが、それを成長の段階や能力の種類として調べられるとは思わなかった。
「スキルというのは、お前自身が持っている特殊な能力のことだ。今、確認できてるのは《全身最適化》と《打撃変換》だな」
初めて聞く二つの名前を、帆波は頭の中で繰り返した。エースは資料の一部へ目を向け、説明を続けた。
「《全身最適化》は、思ったとおりに身体を動かすための能力だ。身体操作の無駄やずれが少なくなる」
「じゃあ、雪山で教わったことが、すぐにできたのも……」
「そいつが役に立ってたんだろうな。ただ、身体を正確に動かせるのと、相手の動きを読んでうまく戦えるのは別だぞ」
「はい」
帆波は頷いた。教えられた動作をなぞれたことと、悪魔が次に何をしてくるかを分かることが違うのは、思い返せば理解できた。あのときの自分には、エースがそばにいてくれた。何をすればよいかを示してくれる人がいたから、そのとおりに動けたのだ。
もう一つの《打撃変換》については、身体の力を近くの相手への打撃に集中させ、伝えるものだと説明された。聞いても、どう使えばよいかまですぐに分かるわけではなかった。帆波は自分の掌を見てから、そっと指を閉じた。
「自分の身体なのに、知らないことばかりですね」
「分からないまま使うより、今、確認できた方がいいだろう」
「そうですね。名前があるって分かるだけでも、少し違います」
力が強くなったから、できたのだと思っていた。その中にも、身体そのものの変化と、それを扱うための能力があるらしい。帆波は説明を一つずつ覚えようとしながら、エースの次の言葉を待った。
「それから、覚醒の由来だが。検査の結果を見る限り、血統によるものみたいだな」
「血統、ですか?」
「ああ。先祖のどこかで、鬼の血が混ざったんだろう。隔世遺伝というやつだ」
帆波は目を上げた。
鬼、という言葉は知っている。けれど、それが自分の先祖の話になると、うまく意味を結べなかった。額の右側へ意識が向き、反射的に前髪へ手を伸ばす。髪越しに触れた小さな硬さが、聞いたばかりの言葉とつながった。
「この角も、そのせいなんですね」
「そう考えていいだろうな。身体能力の傾向も、それに合ってる」
帆波は指を下ろした。雪の森で、何かが外から自分を変えたのだと思っていた。あの場所へ入るまでは普通で、そこで急に違うものになったのだと。けれど、今の説明では、それよりずっと前から、自分の中に受け継がれていたものがあることになる。
いつから、誰から。それは考えても分からなかった。自分の知っている家族の顔を思い浮かべたところで、別の疑問が胸をよぎった。
「じゃあ、お母さんや、妹も……私と同じ力を持っているんですか?」
「いや。それは分からないな」
エースは資料から目を上げて答えた。
「父方が由来の可能性もあるし、姉妹だからって同じ因子を持っているとは限らない。同じ血筋だからって、全員が覚醒するわけじゃない。覚醒したとしても、必ず同じ能力になるとは限らない」
「そう、なんですか」
帆波は膝へ手を戻した。母にも妹にも、額に角はなかった。少なくとも、一緒に暮らしていた間に、そんなものを見たことはない。自分と同じように力があると分かれば、安心できたのだろうか。それとも、二人は普通のままだと聞く方がよかったのだろうか。どちらを望んで尋ねたのか、自分でも分からなくなった。
ただ、家族の中で、自分だけがこうなったのかもしれないと思うと、胸の内が少し冷えた。母と同じ食卓につき、妹の話を聞いていた自分と、今ここに座っている自分との間に、知らなかった違いが増えていく。
前髪を下ろせば、角は隠れる。普通に物を持てるし、話す声も変わらない。それなら何も困らないはずなのに、二人の前でこの髪を上げるところを想像すると、指先が膝の上で止まった。
何かをして、母を悲しませたくはなかった。妹に、いつもと違う顔をさせたくもない。そう思うほど、まだ見せてもいない角が気になった。
「一之瀬」
呼ばれて、帆波は顔を上げた。エースがこちらを見ていた。資料へ向けられていた視線が、いつの間にか自分へ移っている。
「あ……すみません」
「話は聞けそうか?」
「はい。大丈夫です」
慌てて笑おうとして、少しだけ遅れた。エースはすぐに言葉を重ねず、帆波の顔を見てから、手元へ目を落とした。何を考えていたのかと尋ねられなかったことに、今は助けられた。うまく説明しようとすると、自分でも分かっていなかった心配まで、言葉にしなければならなくなりそうだった。
帆波は息を整え、彼の声へ注意を戻した。
「能力の傾向も、かなりはっきりしてる。近接戦闘、それも肉弾戦向きだな」
「自分の身体で戦う、ってことですよね」
「ああ。今あるスキルも、その方向に合ってる。確認できる資質から考えると、この先もそっちへ伸びる可能性が高い」
帆波は軽く握った手を見た。雪山でガキを倒したとき、この拳を使った。大きな武器を渡されたわけでも、離れた場所から何かを飛ばしたわけでもない。自分の腕を動かし、相手へ届かせた。その感触は、今も思い出せた。
初めの一撃で、相手が倒れなかったことも覚えている。どうすればよいか分からなくなりかけた自分へ、エースが声をかけてくれた。そこで終わりだと思わず、もう一度動けたから、倒せたのだった。向いていると言われても、そのまま何でもできるわけではないのだろう。それでも、あのとき自分に対抗する力があったことには、理由があるのだと分かった。
「だから、私でも倒せたんですね。あの悪魔を」
「お前に、そのための力があったってことだな」
帆波はゆっくり頷いた。雪山で得た小さな自信が、今聞いた説明と重なった。あれは、怖い中でたまたまできたことだけではなかった。今の自分には確かに力があり、それがどんな性質なのかも、少しずつ分かり始めている。
けれど、自分の身体を知るほど、家族へどう話せばよいのかは簡単に思いつかなくなった。鬼の血がある。レベルは二で、肉弾戦に向いている。母や妹へ伝える言葉として考えると、どれも自分の声には馴染まなかった。
帆波は閉じていた指を開き、掌を膝へ置いた。エースの前では、角を隠していることまで気にせずに話せる。この身体になってから何ができたかを、そのまま伝えても聞いてもらえる。その安心へ、今は少し寄りかかっていたかった。
「……ありがとうございます。何も分からなかったときより、ずっと、考えやすくなりました」
エースは頷き、資料を机へ置いた。帆波はその動きを追い、それから彼へ目を戻した。検査は終わり、結果も聞いた。名前のなかった変化には、由来と性質があるのだと分かった。
自分の手は、膝の上で静かに収まっている。その手で今まで何ができて、これから何ができるのか。家族の顔を思い出したときに生まれた心配を胸に残したまま、帆波は、向かい合って座るエースの次の言葉を待った。
エースくん:
「《全身最適化》、《打撃変換》知らねぇスキルだ。なんだこれ?」