【カオ転三次】×よう実 鬼になる一之瀬帆波   作:ねむのき

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第5話 「自分の意思で戦場へ」

 机に置かれた資料の端が、窓から入る光を白く返していた。カーテン越しの日差しは、先ほどより少し高いところへ移っている。帆波は膝の上の手を見てから、エースへ顔を上げた。自分の身体について聞くためにここへ来た。その説明が終わった今、何を尋ねればよいのか、すぐには思いつかなかった。

 エースは資料から手を離し、椅子の背へ軽く身体を預けた。

 

「能力の傾向は、さっき話したとおりだ。お前が異能者として活動するなら、戦いが中心になるだろうな」

 

 帆波は頷いた。近接戦闘、それも肉弾戦向き。覚えたばかりの言葉を、自分の腕や脚と結びつけようとする。学校で走ったり、荷物を運んだりするだけなら、今の力は持て余すほどだった。その力を使う場所が、ここにはあるのだろう。

 

「それで、どうだ。よければ、実際にやってみるか?」

 

「実際に……ですか?」

 

「ああ。俺たちが普段やってる仕事が、どんなものなのかをな」

 

 帆波は彼の顔を見つめた。検査の続きとして、どこかで身体を動かすのだろうかと思った。けれど、エースの次の言葉で、その想像は止まった。

 

「相手はガキだ。雪山で戦った奴と同じだな」

 

「あの悪魔と、また戦うんですか?」

 

「そうだ。ただし、今度は複数。そして、ぎりぎりまで助けない」

 

 帆波の指が、膝の上でわずかに曲がった。

 雪の上で見た姿が思い浮かぶ。小さくても、人ではない相手だった。自分へ向かってくる身体を前に、拳を出すことさえ、初めからできたわけではなかった。それでも動けたのは、エースがそばにいて、守ってくれると分かっていたからだ。

 あのときも自分の手で倒した。けれど、守られていたことと、自分で戦えることが同じではないのは、今の言葉を聞けば分かった。

 

「私が、一人で対処するということですか?」

 

「できるだけ、お前自身で戦ってもらう。俺はそばにいるが、攻撃を全部防いでやるわけじゃない。怪我をする可能性もある」

 

 エースは淡々と告げた。帆波が頷く前に言葉を和らげたり、やってみれば簡単だと笑ったりはしなかった。帆波は自分の腕へ目を落とした。あの相手の攻撃を受ければ、痛いのだろう。力が強くなったことは知っていても、どのくらい傷つくのかは知らなかった。

 

「ただ、命の保証はする。危なくなったら俺が止めるし、怪我についても治療は約束する」

 

 帆波は顔を上げた。エースはその視線を受けたまま続けた。

 

「回復魔法があるからな。学校に通えなくなるようなことにはしない」

 

「……回復魔法?」

 

「ああ。怪我を治す魔法だ」

 

 今度は、戦うという話とは別のところで息をのんだ。悪魔がいて、普通ではない力を持つ人がいる。そこまでは、自分で経験して知った。それでも、人の怪我を魔法で治せると聞くと、また違う驚きがあった。

 

「そんなことまで、できるんですね」

 

「ああ、俺も使えるから、その場で治癒しよう」

 

 エースは当然のように答えた。帆波は、彼の手へ目を向けた。雪山で自分を引き寄せ、力の扱い方を教えてくれた手だった。あの怪物を倒せるだけでなく、傷ついた人を治すことまでできるのだという。

 自分の掌へ視線を戻すと、先ほど教えられた二つのスキルの名が浮かんだ。思ったとおりに身体を動かす力と、打撃へ力を集める能力。どちらも、今の自分にはありがたいものだった。けれど、もしも選べたならと思うと、言葉が自然に口をついた。

 

「私も、そっちの能力がよかったなあ……」

 

 言ってから、帆波は少しだけ笑った。聞かせるつもりで考えていたことではなかった。エースがこちらを見たので、膝の上で手を重ねる。

 

「怪我をした人を、その場で治してあげられるんですよね。そういう力があったら、いいなって」

 

 誰かが痛がっているとき、何をしてよいか分からずに立っていなくて済む。手を差し出して、治してあげられる。ありがとうと言われるようなことを、その力そのものが可能にしてくれるのだ。

 今の力を、いらないと思ったわけではなかった。これがなければ、あの雪の森から帰ることはできなかったかもしれない。けれど、よいことをしようとするたび、自分がそれに足りる人間かどうかを考えずに済むような力を、少しだけ羨ましく思った。

 

「まあ、能力は人それぞれだからな」

 

「はい。そうですよね」

 

 帆波は頷いた。エースは自分の力を持ち上げるために、回復魔法の価値を小さくするようなことは言わなかった。そのまま受け止めてもらえたので、帆波も、こぼした言葉を慌てて取り繕わずに済んだ。

 医務室の外で、人の足音が通り過ぎた。帆波はその気配を聞きながら、改めて彼の提案を考えた。

 悪魔と戦う。今度は、自分で攻撃を避け、倒すところまでやってみる。怪我をするかもしれないが、エースは危なくなれば止めると言った。そばにいてくれることも、治療してくれることも、疑う気持ちはなかった。

 それでも、痛い思いをせずに済むとは言われていない。その点を、自分に都合よく聞き落としてはいけない気がした。

 帆波は右手を軽く握った。指は思ったとおりに曲がり、掌へ収まった。雪山でガキを倒したとき、自分にもできたのだと感じた。逃げるしかなかった身体が、立ち向かうこともできるようになった。その嬉しさは、あの場所を出た後も残っている。

 検査で向いていると言われたから、本当にできるのだろうか。エースに教えられた動きを再現するだけでなく、相手が動くところを見て、自分で判断できるのだろうか。

 資料に書かれているだけでは、その答えは分からなかった。

 彼についていきたい気持ちはあった。今日また会えたことが嬉しく、これからも声を聞ける距離にいたかった。けれど、それだけで頷いてから、怖くなって動けなくなるのは違うと思った。帆波は一度、鞄へ目を向け、それから自分の手へ戻した。

 自分に、何ができるのかを知りたい。

 彼に守られて得た力を、守られたまま眺めているだけでなく、自分でも扱えるようになりたかった。あのときできたことが、次もできるのか。今なら、それを確かめる機会がある。

 

「……やってみたいです」

 

 顔を上げて言うと、エースは帆波を見た。

 

「いいのか?」

 

「はい。怪我をするかもしれないっていうのは、分かりました。それでも、私に何ができるのか、ちゃんと知りたいです」

 

 声にしてみると、自分の考えがはっきりした。怖さがなくなったわけではない。けれど、それを含めて、やってみたいと思っていた。

 エースは少しの間、こちらを見ていた。帆波も目をそらさずに待った。

 

「分かった。じゃあ、まず着替えるか。その服で戦わせるわけにもいかないからな」

 

 エースが椅子から立ち上がった。帆波は自分の服へ目を落とし、それから顔を上げた。説明を聞きに来るつもりで選んだ服だった。悪魔を相手に動くことになるとは、部屋を出たときには考えていなかった。

 

「着替え、持ってきてないんですけど……」

 

「こっちで貸す。ついてこい」

 

「はい」

 

 帆波は鞄を取り、椅子を戻した。医務室を出てエースについていくと、彼は途中で衣類を用意し、帆波へ渡した。黒い、スポーティなジャージの上下だった。手に受けると、見た目から想像したより軽かった。生地には適度な厚みがあるのに、折り重なった部分も柔らかく掌へ収まる。

 

「ガイア連合製だ。今日はこれを使ってくれ」

 

「ありがとうございます」

 

 エースは着替えに使える部屋へ案内し、扉の外で足を止めた。

 

「ここで着替えてこい。俺は外で待ってる」

 

 帆波は頷いて部屋へ入り、扉を閉めた。借りたジャージを広げ、袖へ腕を通す。黒い生地が肩から腕へ沿い、肘を曲げても引っ張られる感じが少なかった。下も穿き替え、裾を整えてから、膝を軽く曲げ伸ばしする。動きやすかった。これなら、服が気になって足を止めることはなさそうだった。

 脱いだ服を畳んで鞄へしまうと、帆波は自分の袖を見下ろした。黒い上下に着替えただけなのに、これから身体を使うのだという気持ちが、先ほどよりはっきりしてくる。袖口を直した指を一度開き、それから扉へ向かった。

 

「お待たせしました」

 

 外へ出ると、エースが顔を向けた。彼の前で足を止め、帆波は腕を少し動かしてみせた。

 

「すごく動きやすいです」

 

「それならいい。行くか」

 

「はい」

 

 帆波は鞄を持ち直し、彼に続いた。

 

 建物の外へ出ると、日差しは朝よりも強くなっていた。黒い袖へ光が当たり、冷房の中にいた肌へ暖かさが戻ってくる。エースが向かう方へ並んで歩きながら、帆波は建物の間を走る車や、荷物を運ぶ人たちを見た。

 さっきまでは、知らなかった組織を見て回っている気持ちだった。今は、自分もこれから仕事の行われる場所へ向かうのだと意識した。まだ何ができるかも分からないし、ここで働くと決めたわけでもない。それでも、ただ説明を聞きに来たときとは、道の先が違って感じられた。

 前髪の下には、小さな角がある。母や美帆と自分との違いについて考えたときの心配も、消えてはいなかった。だが、今それを考え続けても、二人の答えが分かるわけではない。帆波は風で動いた髪を押さえ、まずは、自分自身についてもう少し確かめようと思った。

 潮の匂いが濃くなり、建物の間から海が見えた。岸壁へ出ると、荷役の設備と大きな船が視界に入る。機械の動く音や、人の呼び交わす声を聞きながら、帆波はエースの歩く位置を追った。彼は作業の行われている場所から離れ、港の静かな一角へ向かった。

 桟橋に、一隻の黒い船が繋がれていた。

 帆波は近づきかけた足を緩めた。昨日まで乗っていた客船とも、周囲にある作業用の船とも、まるで姿が違う。低く伏せた船体は、船首から後方まで滑らかな曲線でつながり、水の上を進むというより、水面すれすれに飛び出すための形に見えた。カーボンブラックの表面は光沢を抑えられ、強い日差しの中でも眩しく反射しない。曲面の縁にだけ鈍い明るさが残り、それ以外は夏の光を吸い込んでいるようだった。

 

「これに乗るんですか?」

 

「ああ。最新型の高速艇だ」

 

 エースは船へ目を向けたまま答えた。帆波は桟橋の端へ寄り、改めて眺めた。船体の上に低く構えたキャノピーは、航空機の操縦席を思わせた。暗いアクリル越しに計器類の輪郭が見え、その奥へ座る自分を想像すると、胸の内に小さな高揚が生まれた。

 船尾は驚くほど平らで、幅が広かった。その下へ目を向けても、水面の反射と船体の影が重なり、細かな造りまでは分からない。エースが近づいてきて、そちらへ視線を落とした。

 

「船尾の下に、大型のウォータージェットノズルがある。水を噴き出して進むんだ」

 

「水で……こんな船を動かせるんですね」

 

「かなり速度が出るぞ。百キロは超える」

 

 帆波は顔を上げ、もう一度船を見た。まだエンジンは動いていない。波を受けるたび、船体がわずかに傾き、係留されたまま元の位置へ戻る。その小さな動きさえ、じっとしていることに飽きた動物が、檻の中で身体を揺すっているように見えた。

 帆波の手元の鞄も、船も、今はほとんど動いていない。それなのに、この黒い船だけは、すでに走る先を見据えているようだった。張った係留ロープが外れれば、たちまち水を蹴って港の向こうへ消えてしまいそうで、帆波は思わずエースへ目を向けた。

 彼は、見慣れた乗り物へ案内するときの顔をしていた。雪山でも、フェンスの前でもそうだった。自分が立ち止まって見てしまうもののそばを、この人は落ち着いて歩いていく。

 

「乗れるか?」

 

「はい」

 

 帆波は足元を確かめ、彼に続いて船へ移った。桟橋から体重を移すと、地面とは違う揺れが足裏へ伝わる。身体は自然にそれへ合わせていた。案内された席へ腰を下ろし、鞄を収めると、すぐ近くに操縦のための計器が並んでいる。外から見たときより、船体の低さが身近に感じられた。

 黒いジャージの膝へ手を置く。指は震えていなかったが、心臓の動きがいつもより気になった。これから怪物に会いに行く。その前に、百キロを超える速さで海を走る船へ乗っている。朝、喫茶店の扉を開けたときには、ここに座ることなど想像していなかった。

 エースの案内に従って出発の支度を整えると、やがて船が低い振動を帯びた。眠っていたものが目を覚ましたように、足元から座席へ力が伝わってくる。帆波は背を預け、顔を上げた。暗く見えていたキャノピーの内側からは、港の水面が明るく見えた。

 船が桟橋を離れる。近くにあった岸の縁が遠ざかり、進むにつれて、船体へ触れる水の流れが変わった。エースの横顔は落ち着いたままだった。帆波はそれを一度確かめてから、前へ目を戻した。

 あの森では、帰りたいと願いながら走っていた。今は帰る場所を知り、危険についても聞いたうえで、自分の力を確かめるために海へ出ていく。

 船首の向こうへ、光を散らす海が開けていた。黒い高速艇が速度を上げるにつれ、帆波の背中は座席へ押しつけられ、港の景色が後方へ流れ始めた。




エースくんの思考:
「かっこいいヨットだろ。最新型なんだぜ!」
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