高速艇が波の斜面を越えるたび、座席の底から短い衝撃が伝わった。船首は海面へ深く沈むことなく次の波へ移り、キャノピーの外を、ほどけた光と白い飛沫が後方へ流れていく。桟橋では身を揺すっているだけだった黒い船が、今は止まっているものすべてを置き去りにしていた。帆波は背を座席へ預け、膝の上で右手を握った。
これから戦う相手のことを考えようとしても、初めは窓の外へ目を奪われた。海をこんなに近く、こんな速さで見るのは初めてだった。けれど、隣から名前を呼ばれると、すぐにエースへ顔を向けた。
「一之瀬。着く前に、覚えておいてくれ」
「はい」
「今度は一体とは限らない。正面の相手ばかり見てると、横や後ろから来る。囲まれて足を止めるのが、一番まずい」
帆波は窓の外から意識を離した。雪山で戦ったとき、目の前の一体だけで精一杯だったことを思い出す。あのとき、横から別の悪魔が来ていたら、自分は気づけただろうか。
「全員を一度に相手にしようとするな。動いて位置を変えろ。一体を間に挟めば、ほかの奴が真っすぐ来られなくなる」
「相手が、重なるところへ動くんですね」
「そうだ。殴った後も、その場で結果を眺めてるなよ。倒せたか確かめる間に、次が来る」
帆波は頷き、自分が立っているところへ複数の影が近づく様子を想像した。右へ避ければよいのか、左へ行くべきなのか。考えた中の相手さえ、都合よく一列には並ばない。それでも、何を見なければならないかは分かった。
「さっき話したとおり、今回はできるだけ手を出さない。怪我をしても、それだけで止めるとは限らないからな」
エースの声に、からかうような響きはなかった。帆波は彼の横顔を見た。命は守ると言ってくれた人が、同じ声で、自分だけで対処する時間があることを告げている。
「……はい」
返事をして、帆波は握っていた拳をほどいた。怖くないと示すために、強く握り続ける必要はなかった。手のひらを膝へ置き、船の進む先を見る。ここまで来たら、教えられたことを覚えて、相手をよく見ようと思った。
船が速度を落とした先には、崖に囲まれた荒れた岸辺があった。平らな土地の奥に、崩れかけたコンクリートの壁が残っている。建物だったらしいものは屋根を失い、窓のあった場所には、向こう側の暗がりが抜けて見えた。夏の光はそこにも届いているはずなのに、港で見た建物とは、空気の厚さまで違うように感じられた。
帆波は船を下り、足場を確かめて岸へ立った。鞄を船に置いてきたので、両手は空いている。黒いジャージの袖を一度直してから、瓦礫の散らばる方へ歩いた。エースは少し離れた高い場所へ上がり、そこから帆波を見ていた。
風に乗って、嫌な臭いがした。潮や湿った石の匂いとは違う、腐ったものを閉じ込めていた場所のような臭気だった。帆波は呼吸を浅くしかけ、意識して息を吐いた。崩れた壁の向こうで、何かが石を擦った。
一つの影が這い出した。その横でも瓦礫が動き、別の頭が持ち上がる。帆波は足を止めず、視線だけを横へ動かした。右にもいた。少し後ろの窪みから現れたものを含め、五体だった。
大人の腰ほどの高さしかない。けれど、子供とは似ても似つかなかった。骨の形が浮いた腕は細く、そこから不釣り合いに長い指が垂れている。その下で腹だけが大きく膨らみ、痩せた脚の上へ重たく張り出していた。裂けた口元には黄色く濁った唾液がまとわりつき、並びの崩れた牙の間から糸を引いて落ちた。
雪山で見た相手と同じだった。湿った黒い鉤爪が石へかかり、低い身体を持ち上げる。帆波へ顔を向けたまま口を開くと、喉の奥から飢えた唸りが漏れた。
右の一体が横へ動いた。正面の二体が近づく間に、別の一体が左へ回る。帆波は喉の奥を狭くするような圧迫を感じた。どこか一方向を向けば、ほかが視界の端へ逃げてしまう。雪山で拳を出したときより、相手との距離が短くなるのが早かった。
後ろへ下がり続ければ、足元の瓦礫へ追い込まれる。帆波は開けた方へ半歩ずれ、正面の一体を、その奥にいるものと重ねた。習ったとおりにできているのかは分からない。だが、動いた分だけ、散っていた影の位置が変わった。
左の一体が地面を蹴った。ほぼ同時に、右からも腕が伸びた。
帆波は左の身体へ目を向け、その進路から横へ踏み出した。爪の届く場所が見え、そこへ自分の身体を残さないように足を運ぶ。避けたと思った瞬間、もう一方の爪が左腕へ触れた。袖が裂け、熱い線が皮膚を走った。
息が喉へ引っかかった。痛みがある。教えられていたとおり、相手は本当に自分を傷つけてくる。
けれど、足は止まらなかった。傷を見ようと顔を下げる代わりに、帆波は目の前へ降りた悪魔を見た。爪を振り抜いた細い腕の下で、膨らんだ腹が露わになっている。今なら届く。そう思ったときには、右足が地面を押していた。
肩だけを前へ出すのではなく、足から腰、背中から腕へ、身体の力をつなぐ。拳が触れる直前、そのすべてを狭い一点へ送り込んだ。
手応えが変わった。
腹の表面で跳ね返るはずの力が、奥へ抜けていく。悪魔の身体が深く折れ、地面から浮いた。細い脚が宙を擦り、後方のコンクリート壁へ叩きつけられる。鈍い衝突音が戻るより早く、帆波は横へ足を運んだ。視界の端で、壁にぶつかった身体が黒い粒子へ崩れた。
倒せた。だが、見ている暇はなかった。先に避けた一体が身体を返し、すぐそこまで来ていた。
黒い爪が顔へ向かって振り上がる。帆波は半歩外へ逃れながら、その腕の下へ右拳を入れた。自分が思い描いた軌道へ、腕が迷わず走る。下から顎を捉えた瞬間、また全身の力を拳へ集めた。牙が砕け、頭を跳ね上げた悪魔の足が浮く。崩れる身体を肩越しに追いかけず、帆波はその横を抜けた。
背後で黒いものが散る。その向こうから来る一体が、倒れかけた仲間に進路を塞がれ、わずかに動きを変えた。
今なら、一体だけを見られる。
帆波は自分から間合いを詰めた。相手の腕が伸び切る前に身体を寄せ、地面を踏んだ脚で上体を支える。腹へ突き上げた膝に、腰の重さを乗せた。息の潰れるような声が近くで途切れ、悪魔の身体が持ち上がる。接触していた抵抗が急に失われ、黒い粒子がジャージの前を流れ落ちた。
身体が、動く。
どう動かそうかと考えてから、それを手足へ伝えるまでの、もどかしい間がなかった。だが、次にどちらへ行くかは、自分が決めなければならない。右へ残った影を見つけ、帆波は膝を下ろす勢いを使って向きを変えた。
四体目が爪を伸ばしてくる。後ろへ引けば、そのさらに奥にいる最後の一体へ回り込まれる。帆波は相手の腕が伸びる側へ身体をずらし、踏み込んでくる脚へ低く蹴りを入れた。
脛に伝わった抵抗が、重い衝撃へ変わった。細い脚が払われ、悪魔の身体が横へ回転する。足を下ろした帆波の前を斜めに飛び、瓦礫へ激突したところで輪郭がほどけた。黒い粒子が石の隙間から広がるのを、視界の端で捉える。
あと一体。
その姿を探した瞬間、左腕が再び熱を持った。袖の裂け目から血が滲み、動かすたびに傷口が痛む。帆波は腕を庇って身体を閉じかけ、すぐに前を見た。最後の一体は、まだこちらへ来ていた。
爪の先だけを見ない。身体がどちらへ動くかを見る。
悪魔が身を低くし、膨れた腹を地面へ近づけた。次に脚が伸びる。その動きを目にした帆波は、真正面で受けずに横へ踏み出した。跳びかかってきた身体が肩のそばを過ぎる前に、軸足へ体重を乗せ、腰を回す。右拳を脇腹へ打ち込む直前、全身をつなぐ力を、もう一度そこへ絞った。
拳の先で身体が折れた。悪魔は横へ弾き飛ばされ、地面へ落ちる途中で黒く崩れた。粒子が勢いのまま流れ、やがて空気の中へ薄れていく。
帆波は拳を引き、すぐに周囲を見た。瓦礫の陰。崩れた壁の向こう。初めに一体が出てきた窪みまで目を向けたが、近づいてくる影はなかった。
そこでようやく、息を大きく吐いた。次の息が深く入り、胸が上下する。頬は熱く、左腕には痛みが残っていた。けれど、自分の足で立っている。壁にもたれる必要もなく、誰かに抱き留められているわけでもなかった。
エースが高い場所から下りてきた。帆波は彼へ顔を向け、口を開いたが、息を整える方が先になった。彼は途中で戦場へ入ってこなかった。攻撃を防ぐ手も、悪魔を倒す力も借りていない。五体とも、自分が対処したのだ。
エースは散らばった瓦礫と帆波の立つ位置へ目を向け、それから近くで足を止めた。
「よくやったな。立ち回りも悪くなかった」
「……はい……!」
帆波は息を吸い、右手を見下ろした。拳の形を確かめるように指を動かすと、まだ打ち込んだ感触が残っていた。医務室で聞いた名前と説明が、今、ようやく自分の身体で分かるものになった気がした。
力を集めれば、あれほどの手応えになる。相手が複数でも、位置を変え、動きを見て、一体ずつなら向き合える。腕を傷つけられても、その場で何もできなくなるわけではなかった。
帆波は顔を上げた。エースへ見せようとして作ったのではない笑みが、息の合間に浮かんだ。
「私……戦えました。途中で、傷もつきましたけど……それでも、ちゃんと動けました」
「ああ。自分で対処できてた」
その言葉を聞いて、帆波はもう一度、悪魔のいなくなった場所へ目を向けた。左腕が痛む。その痛みさえ、今は、自分がここへ立って相手に向き合ったことを確かにしていた。
逃げることしかできなかった身体ではない。教えられたとおりに動くことも、痛みに耐えて次の一歩を踏み出すこともできる。帆波は開いた右手をゆっくり握り、その中へ収まった力を、初めて自分自身の頼もしさとして感じていた。
ほめてもらってうれしいほなみちゃん:
「私にもできるんだ!」
エースくんの思考:
「怪我したところを、かっこよく助けて回復魔法を見せようと思ったのに。やっぱ強くね?」