拳を開くと、左腕の痛みが急にはっきりした。戦っている間は次の相手へ向けていた意識が、もう向き合うものを失い、傷口へ戻ってきたようだった。帆波は裂けた袖を見下ろした。黒い布の隙間に赤い筋が走り、その縁へ滲んだ血が、腕を伝いかけている。
痛い。けれど、そのことに驚きはなかった。怪我をするかもしれないとは聞いていたし、治してもらえるとも約束されていた。何より、傷を負っても動けた。あの五体を前に、立ち尽くすことなく戦えたのだった。
帆波が傷のある方を少し外へ向けると、エースの視線がそこへ落ちた。
「左腕か。ほかには?」
「ここだけだと思います」
エースは頷き、帆波の前で足を止めた。道具を探す様子も、傷へ触れようとする動きもない。帆波が彼の顔へ目を戻した、そのときだった。
足元の地面に、緑色の光が広がった。
薄い輪が靴の周囲から外へ延び、石の凹凸を越えていく。水面の波紋のようなのに、光は土へ染み込むことも、瓦礫に遮られることもなかった。帆波が息を止める間に、その輪から柔らかな明るさが立ち上がり、脚を、腰を、肩まで包んだ。
身体の内側を、心地よい温もりが通った。日差しで皮膚が暖まるのとは違い、もっと深いところへ届いてくる。左腕に残っていた鋭い熱が、その温かさに触れた瞬間、消えた。
帆波は腕へ顔を向けた。開いていた傷の縁が寄り、赤く露わになっていた部分を、滑らかな皮膚が埋めていく。痛みだけが鈍くなったのではなかった。つい先ほど爪で裂かれた場所が、目の前で元へ戻っていた。
光が薄れた後も、帆波は腕を動かさなかった。そこに傷があったことを確かめるように見つめ、それから右手の指を伸ばした。そっと撫でても、何も引っかからない。肘を曲げても、皮膚を引かれる痛みはなかった。
「……治ってる」
声にしてから、もう一度、指で同じところをたどった。裂けた袖はそのままなのに、その下には傷痕さえ残っていない。布の破れと血の汚れだけが、さっきのことを覚えていた。
「これが、回復魔法ですか?」
「ああ」
「何も、言わなかったですよね」
「声に出さなくても使える」
帆波は彼を見上げた。知っている治療とは何もかもが違った。消毒をして、薬を塗り、傷が塞がるまで待つ。その時間を丸ごと飛び越えて、自分の腕が元へ戻っている。
エースは、治った場所を確かめる帆波を待っていた。彼にとっては、約束した治療をしたところなのだろう。帆波は腕から手を離し、頭を下げた。
「ありがとうございます」
顔を上げたときには、戦い終えた直後とは別の実感が胸に残っていた。悪魔を殴り倒したことも、今、この腕が治ったことも、確かに自分の身体へ起きたのだ。
握れば、相手の身体を吹き飛ばせる手だった。額には角があり、傷を負えば、こんな光に包まれて治療を受ける。その一つひとつにはもう驚いてばかりいられないはずなのに、続けて思い返すと、自分がどれほど遠いところまで来たのか分からなくなった。
帆波は前髪へ触れ、すぐに手を下ろした。今の自分を、母は知らない。
その後、エースは岸辺に沿って帆波を案内した。船へ戻る道ではなかった。鞄を受け取って肩へ掛け、足元の石を避けながらついていくと、やがて荒れた地面の向こうに道路が見えた。
そこには、普通のタクシーが停まっていた。帆波は少し足を緩めた。黒い高速艇でここまで来て、悪魔を倒し、緑の光で傷を治してもらった後に見ると、見慣れた車の形が、かえって不思議だった。
近づいたエースに気づき、運転席の窓が下がった。彼は少し腰をかがめ、中の運転手へ顔を向けた。
「よう。待たせたな」
「いえ、お疲れさまです。そちらも無事に済みましたか」
「ああ。問題なしだ。今日は頼む」
「承知しました」
運転手は笑みを浮かべて頷いた。エースの声も、初対面の相手へ用件を伝えるものとは違っていた。顔を見て短く言葉を交わすだけで話が通じる様子に、帆波は、以前から何度も会っている相手なのだろうと思った。
後部座席の扉が開き、エースが帆波へ乗るよう促した。鞄を抱えて座席へ収まると、彼も反対側から乗り込んだ。運転手はルームミラー越しに二人を確かめた。
「目的地までは、三十分ほどです」
「ああ、分かった」
扉が閉じ、外の風の音が遠ざかった。車内には冷房が効いている。帆波がさっきまで戦っていた腕を膝へ置くと、破れた袖口へ涼しい空気が触れた。
運転手が前へ向き直り、車を発進させた。道路沿いの景色が窓の外を流れ始めてから、隣に座るエースが帆波へ顔を向けた。
「これから、近くの郊外にあるジュネスへ向かう。大きなスーパーだ。あそこの地下に、うちの支部がある」
「スーパーの、地下ですか?」
「ああ。一般には伏せてある施設だ」
帆波は頷いた。喫茶店もそうだった。店先を見ただけでは分からないところで、ガイア連合につながっている場所がある。今度も、そういうところへ行くのだろう。そう考えていたところへ、エースの声が続いた。
「それと、お前が実戦を了承した時点で、手配をしておいた。お前の母親に来てもらってる」
帆波は顔を上げた。何かを聞き違えたのかと思い、彼を見つめたまま、すぐには返事ができなかった。
「……お母さん、ですか?」
「ああ。現地で、オカルトや異界の基本事情を説明してもらってる。着く頃には終わってるだろう」
帆波の腕の中で、鞄の持ち手が動いた。指が自然にそれを握っていた。
「これからジュネスで、お前の母親と直接会ってもらう」
「会えるんですか……?」
「そのために来てもらったんだ」
帆波は唇を開いたまま、息を吸った。会える。その言葉が、聞こえた順番より遅れて胸へ届いた。
母の顔が浮かんだ。自分の名前を呼ぶ声や、話を聞くときの目元まで、急に近くなった気がした。学校へ入ってから、会いたいと思うたび、簡単には会えないのだと自分へ言い聞かせていた。卒業して、よい報告を持って帰る。それまで頑張ろうと思っていた相手が、今、向かっている先にいる。
「……ありがとうございます」
まず、それだけ言った。声が思うように続かなかった。今すぐ会いたかった。顔を見て、元気なのかを確かめたかった。妹はどうしているのか、二人でどんなふうに暮らしているのか、聞きたいことが次々に浮かんだ。
けれど、その中へ、別の問いが混ざった。
説明を受けているというのなら、母はもう、自分に何が起きたのかを聞いているのだろうか。
帆波は左腕を見た。傷はない。少し前まで血が滲んでいた場所を見ても、今は、破れたジャージの下に普段どおりの肌があるだけだった。だが、その服を見れば、何があったのかと尋ねられるだろう。悪魔と戦ったと答えたら、母はどんな顔をするのだろう。
自分が戦えると分かったことは嬉しかった。エースに認めてもらったことも、今なお胸に残っている。それなのに、同じことを母へ話すところを考えると、言葉が途切れた。
帆波は鞄から片手を離し、前髪を押さえた。指の下に、小さな硬さがあった。母はこれを知っているのだろうか。娘の額に角が生えたと聞いて、どんなふうに受け止めただろう。
自分で鏡を見たときにも、驚いたのだ。何も知らなかった母が驚かないはずはない。話を聞いて理解することと、目の前で見ることは違うかもしれなかった。
「一之瀬?」
声に顔を向けると、エースがこちらを見ていた。
「……いえ。急だったので、びっくりしちゃって」
帆波は笑おうとした。母に会えるのが嬉しい。それは本当だった。だから、嘘をついているわけではないと思いながら、言葉を選んだ。
「会えるとは、思ってなかったから」
「ああ」
エースは短く応じた。帆波は頷き、窓の外へ目を向けた。道路沿いの景色が流れていく。壁も、木も、遠くの建物も、知らない場所のものだった。学校の外にいるのだと、今になって強く感じた。
母を悲しませたくなくて、頑張ろうと思っていた。入った学校でちゃんとやっていると、安心してもらいたかった。いつかは、自分が二人を支えられるようになりたかった。
そのために選んだ道の途中で、身体が変わってしまった。よい学校へ通う娘として会いに行くはずが、今は、髪の下に角を隠し、怪物を殴り倒した手を膝へ置いている。
母は、自分の手を取ってくれるだろうか。
考えた瞬間、帆波は自分の右手を左手で包んだ。そんなふうに思いたくはなかった。母のことを、怖がって拒む人だと決めつけたくもない。それでも、いざ目の前へ出たとき、ほんの一瞬でも母が身を引いたらと思うと、胸の奥が苦しくなった。
角を見せずに済めばよいのだろうか。けれど、すでに説明を受けているなら、隠したまま何でもない顔をするのも違う気がした。どこから話し始めればよいか、どんな言葉なら母を困らせずに済むか。考えるほど、初めの一言が分からなくなっていく。
会いたい。今すぐ顔が見たい。その願いのすぐそばで、着くまでにもう少し時間が欲しいとも思った。
帆波は窓から視線を外し、隣にいるエースを見た。彼は、自分が変わった身体を見せても、最初から同じように接してくれた。だから今、こうして座っていられる。その人が一緒に来てくれることを頼りに、帆波はゆっくり息を吐いた。
車が速度を落とし、窓の向こうにジュネスの看板が見えた。大きな建物の前には広い駐車場があり、買い物へ向かうらしい人たちが歩いている。荷物を載せたカートを押す人の姿も見えた。どこにでもある、夏の買い物の光景だった。
その中のどこかに、母がいる。
帆波は背筋を伸ばした。髪を直すために上げた指先が、冷たくなっていた。何度も触れて乱してしまわないよう、前髪の流れを一度だけ整え、手を膝へ戻す。
車は客用の入口へは向かわず、建物の脇へ回った。華やかな看板が見えなくなり、搬入に使うらしい通路へ入る。やがて車体がゆっくり傾き、地下へ続く坂を下り始めた。フロントガラスを満たしていた日差しが遠ざかり、天井の照明が一つずつ頭上を過ぎていく。
鞄を抱え直すと、左腕の破れた布が折れた。帆波はそこを右手で覆いかけ、途中で止めた。傷は治っている。隠さなければならない傷は、もうなかった。
車が地下の搬入口へ滑り込み、静かに停まった。帆波はエースへ顔を向け、声をかけられる前に小さく頷いた。扉の向こうへ出れば、母のいる場所まで歩くことになる。膝の上の手をほどこうとして、指に力が入っていたことに、ようやく気づいた。
「タクシードライバーが実は秘密組織の一員だった」という設定を楽しむ黒札:
のんびり趣味を楽しむ予定だったが、地方の霊的情勢が悪化しているので、安全な移動をしたい地方の偉い人とか、小金持ちに大人気。
何!霊能に巻き込まれたばかりの巨乳美少女の送迎!?俺がいく!で来た。