車を降りると、靴音が低い天井へ返った。地下の空気は外より涼しく、遠くで設備の動く音が絶えず続いている。帆波は鞄を持ち直し、エースの後について歩いた。扉を一つ通ると、搬入口の広さとは違う、明るく整えられた通路が現れた。壁の向こうでは人が働いているのだろう。かすかな話し声が聞こえたが、言葉までは拾えなかった。
母がここにいる。そう思うたび、歩幅が小さくなった。会ったら最初に何を言うか、車の中であれほど考えたのに、どれも思い出せなかった。右手を上げ、前髪を押さえる。生え際の硬さに触れると、そのまま指を置いておきたくなった。
エースが一つの扉の前で足を止め、中へ声をかけた。その返事を聞いた瞬間、鞄を持つ指に力が入った。知っている声だった。
「入れ。お前の母親が待ってる」
開いた扉の向こうに、母が立っていた。外出用のブラウスを着て、小さな鞄を両手で持っている。帆波を見た途端、その手が動いた。鞄をソファへ置こうとして座面の端に引っかけ、置き直す間も惜しむようにこちらへ顔を戻す。
帆波は敷居を越えたところで立ち止まった。母の目が自分の顔から肩へ、腕へと移る。裂けた袖へその視線が止まり、母の唇が開いた。
「お母さん……私、あのね……」
言い終える前に、母が近づいてきた。
肩へ腕が回され、強く引き寄せられた。二人の間に鞄が挟まると、母は少し身をずらし、もう一度抱きしめた。ブラウスの布が頬へ触れ、その下に体温があった。背中へ添えられた手は、帆波の身体を確かめるように動いていた。
「帆波……よかった。無事だったのね」
母の声が耳元で震えた。帆波は腕を下ろしたまま、しばらく動けなかった。どう見えるだろう。何を言われるだろう。そこまでのことばかり考えていて、抱きしめられたらどうするかなど、考えていなかった。
母の肩越しにエースが見えた。彼はこちらへ近づかず、扉のそばで待っている。帆波はその姿を一度見てから目を閉じ、空いている方の手を母の背中へ回した。
「……会いたかった」
「ええ。お母さんも」
声にした途端、涙が出た。母の手が髪を撫で、後頭部を包む。角のある側へも、その手はためらわず触れた。怖がられていない。気味悪がられてもいない。今の自分を、母は腕の中へ入れてくれていた。
少し身体を離した母は、頬へ手を添え、帆波の顔を近くで見た。それから、また左腕へ目を落とす。
「ここは……どうしたの」
「もう治ってるの。エースさんが、魔法で治してくれたから。傷も残ってないよ」
帆波は袖の裂け目が見えるよう腕を向けた。母の指が肌へ触れた。肘を曲げても平気だと見せると、その指が一度止まった。
「さっきまでは、傷があったのね」
「うん。でも、痛みも全部なくなったから」
母は返事をしなかった。肌を撫でていた指が、破れた布の縁へ移る。何かを言いかけたように息を吸い、帆波の顔を見た後で、ゆっくり吐いた。
「……そう。今は、痛くないのね」
「うん」
帆波は頷き、前髪へ手を伸ばした。母が心配しているのは分かった。傷もなくなっているのだから、早く安心してほしかった。けれど、そのためには、もう一つ見せなければならないものがある。
指を差し入れ、額の右側を覆っていた髪を持ち上げた。
「これも、聞いた?」
「ええ。職員の方から」
「本当に、あるんだよ。前髪で隠せるんだけど……」
母は小さな角へ目を向けた。その眼差しが変わるのを恐れ、帆波は母の顔を見つめた。だが、伸びてきた手は額を撫で、丸い角の先へそっと触れただけだった。
「痛くはないの?」
「ううん。痛くない」
「なら、よかった」
母の手が頬へ戻った。帆波が髪を下ろすと、その手は顔の輪郭をたどり、顎のそばで止まった。
「あなたは帆波よ。角があっても、どんな力があっても、お母さんの大切な娘」
目の前がまたぼやけた。帆波は頷こうとして、うまく息を吸えなくなった。車の中で恐れていたことが、母の言葉に一つずつほどかれていく。
「私、普通じゃできないようなことが、できるようになって……」
「ええ」
「でも、ちゃんと加減もできるの。普通に生活できてるから」
母は頷いた。それでも、すぐに笑ってはくれなかった。帆波の手を取り、指先から掌まで包み込むように握る。その手へ目を落としたまま、口を開いた。
「これからも、そういう……」
言葉が止まった。帆波が顔を覗くと、母は目を上げた。その視線が一度だけエースへ向き、また帆波へ戻る。
「お母さん?」
「……いいえ」
母は首を横に振った。何を尋ねかけたのか、帆波には分からなかった。けれど、その手が離れなかったことに、今は何より安心していた。
母の指に、自分の指をそっと重ねる。すると、母の眉が苦しそうに寄った。
「帆波。前のことを、まだ一人で責めているの?」
帆波は返事に詰まった。ここでそのことを聞かれるとは思わなかった。視線を落とすと、母の手が少し強くなる。
「お母さんが、あのとき……」
母はそこまで言って唇を閉じた。帆波は顔を上げた。目元に溜まっていた涙が、母の頬へ一筋落ちた。
「……もう、何もかも自分一人で何とかしなきゃって、思わないで」
「お母さん……」
「顔が見られて、嬉しいの。あなたがちゃんと話して、笑ってくれて。それが、お母さんは……」
続きが声にならなかった。帆波は母へ身体を寄せた。抱いてくれる腕が背中へ回ると、今度は自分からも抱き返した。
身体が変わったせいで、この腕の中へ戻れなくなることはなかった。母は自分を見てくれた。角に触れ、この手を握り、大切な娘だと言ってくれた。その言葉を胸の中で繰り返しながら、帆波は母の肩へ顔を寄せた。
やがて二人は、並んでソファへ腰を下ろした。帆波はハンカチで目元を押さえ、呼吸を整えた。母は隣に座ってからも、ときどき帆波の腕へ目を向けた。そのたびに、帆波は手を動かし、大丈夫だと笑ってみせた。
母の口元にも笑みが浮かぶ。ただ、その笑みが長く続かないことが少し気になった。急に呼ばれ、知らない話を聞かされたのだから、まだ驚いているのだろう。帆波が母の手へ触れると、母はすぐに握り返してくれた。
エースが近づいてきたのは、その後だった。
「一之瀬。すまないが、仕事の話をさせてくれ」
母の背筋が伸びた。帆波も顔を上げる。エースは茶封筒をテーブルへ置いた。紙の厚みだけではない、しっかりとした膨らみがあった。
「今日、お前が自分の意思で現場に立って、悪魔の群れを討伐した。その仕事の報酬だ。日本円で三十万円入ってる。受け取れ」
「……三十万円?」
帆波は封筒を見つめ、それからエースへ目を戻した。彼は頷いた。
報酬があるとは聞いていなかった。自分に何ができるのかを確かめたくて、やってみたいと答えたのだ。戦えたことも、その力を認めてもらえたことも嬉しかった。その上で今、目の前へ置かれた封筒に、理解が追いつかなかった。
隣では、母が両手を膝へ引いていた。封筒ではなく、エースを見ている。帆波がそちらへ顔を向けると、母は唇を開いたが、言葉は出なかった。
帆波は封筒を取り、口を少し開けた。中には紙幣が重なっていた。学校で毎日使う電子的な数字とは違う、日本円の現金だった。
その端を見たところで、使い道が浮かんだ。迷うことはなかった。
「お母さん。これ、持って帰って」
母の顔が帆波へ向いた。
「おうちの足しにしてほしいの。美帆にも、何か必要なものがあったら、買ってあげて」
「帆波、待って」
母は封筒へ手を伸ばさなかった。膝の上で重ねた指が、きつく組み合わされていた。
「これは、あなたが……怪我までして、もらったお金でしょう。そんなものを、お母さんが」
声が強くなりかけ、そこで止まった。帆波は封筒を差し出したまま、母の顔を見た。母の視線が左袖へ落ちる。
「あなたが持っていなさい。あなたのために……」
「私は、学校で生活できてるから大丈夫だよ」
帆波は急いで答え、それから少し声を落とした。母を困らせたいのではなかった。受け取ってもらえれば、それだけで嬉しかった。
「学校の中ではね、日本円は使えないの。買い物も食事も、プライベートポイントっていう電子ポイントを使うんだよ。これを持って帰っても、そのままじゃ使えないから」
母は黙って聞いていた。帆波は封筒を持ち直し、もう一度差し出した。
「お母さんと美帆に使ってほしいの。私、その方が嬉しい」
「でも、だからって……」
母は言いかけ、帆波を見た。その目が、何かを確かめようとするように顔の上を動いた。
「お母さんたちのことを考えて、これから無理をしようとは、思わないでね」
「うん」
「本当に。早く何とかしなきゃなんて、思わなくていいのよ」
帆波は頷いた。心配してくれているのだと分かった。だから、腕の傷が治ったことだけでなく、今日、自分がどうして戦ったのかも伝えたくなった。
「今日はね、私に何ができるのか知りたくて、やってみたの。お金のことは、今、初めて聞いたんだよ」
母は帆波を見つめたまま、息を止めたように動かなくなった。帆波はその目へ、できるだけ穏やかに笑いかけた。
「それで、受け取れるものができたから、お母さんに渡したいの。お願い」
しばらく、母の手は動かなかった。テーブルの向こうにいるエースへ一度だけ視線を向け、それから、差し出された封筒を見る。帆波が持ったまま待っていると、母の指が膝の上でほどけた。
伸びてきた手が封筒へ触れた。けれど、すぐには引き寄せず、紙越しに帆波の指へ重なっていた。
「……受け取るわ」
母は小さく言った。それから、帆波の顔を見た。
「だから、これで足りないとか、もっと渡さなくちゃとか、考えないでね」
「うん。分かった」
帆波が頷くと、母はようやく封筒を自分の方へ引いた。膝へ置き、両手で包む。その指先に力が入っているのが見えたので、帆波は上からそっと手を添えた。
母は封筒を見下ろしたまま、何度か唇を結び直した。
「ありがとう、帆波」
声を聞いて、帆波は笑った。母の目にはまた涙が浮かんでいた。喜んでもらえたのだと思うと、胸の奥へ温かいものが広がった。
母が持って帰れる。家で使える。自分がいない食卓や、美帆の暮らしへ、今日したことが届く。
今までは、家族のためにできることはもっと先にあると思っていた。学校で頑張り、Aクラスで卒業し、よい仕事へ就いてから、ようやく母に楽をしてもらう。そのために、何年も先を目指していた。
だが、今、自分の手は空になり、その分が母の膝の上にあった。卒業を待たずに渡せるものを、自分の力で得られたのだった。
Aクラスで卒業したいという目標がなくなったわけではない。けれど、それを叶えるまで何もできないのだと、思い込まなくてもよくなった。
「お母さん。受け取ってくれて、ありがとう」
母は顔を上げ、帆波へ笑みを向けた。それから封筒を片手で押さえたまま、もう片方の手で帆波の手を握った。何かを言おうとしたように口元が動いたが、母は結局、繋いだ手へ目を落としただけだった。
帆波はその温かさを握り返した。角を見せても、この手の力を知られても、母は自分を抱きしめてくれた。今は、その力で得たものを家族へ渡すこともできた。
母の指が、離さないように帆波の手を包んでいた。帆波はその強さを頼もしく感じながら、いつか支えたいと願っていた暮らしへ、自分の手が今日、届いたのだと思った。
一之瀬側からはわからないが、母親は一之瀬が命を懸けていることを止めたいし、こんな組織信用できないと思っている。しかし、娘が追い詰められて罪を犯し、引きこもりになったことを、自分が過労で倒れたからだと罪悪感がある。
母親は、罪悪感もあるし、明らかに娘がエースを信頼しているので、娘の前で言い出すことができませんでした。さらにここでお金を受け取らないと、娘がもっと無茶をするのではないかと気が気でない。
多分、二人と別れたあとに、この支部の人間をめっちゃ問い詰める。
エースくんの思考:
自らの意思で戦いを選べるか。
実際に痛み等を経験しても考えが変わらないか。
家族との接触で考えが変わらないか。
家族に止められて考えが変わらないか。
この辺を乗り越えて、ほなみちゃんがこれからも戦うことを選ぶまで、詳しい説明を意図的にしませんでした。
乗り越えられなかった場合は、学校に帰して関わることがなくなるので。
面倒だから、必要になるまでしないでいいや。という思考。
そんなんだから一之瀬母に娘を騙す悪い男だと思われるんやぞ。