鋭い爪が頭上の空気を裂き、帆波の視界を灰色の翼が覆った。翼の根元には女の顔があった。人間ならば美しいと呼べたはずの目鼻立ちが、獲物へ降下する猛禽の姿に接ぎ合わされ、その唇の間から牙が覗いている。帆波が顔を上げたときには、妖鳥はもう、伸ばした脚で彼女の肩を掴めるところまで迫っていた。
その胴を、白い線が横切った。
翼を広げた姿が上下にずれ、爪が届くより先に黒い粒子へ崩れていく。帆波の頬を撫でたのは、妖鳥が最後に押し出した空気だけだった。白いブルゾンの襟が揺れ、長い髪が肩を滑る。その向こうでは、道路を駆けてきた魔獣の一群が、同じ光によって足を失っていた。
大型の獣の身体が前へ投げ出される。牙を剥いた顎も、路面を蹴った四肢も、倒れ伏す形を保てないまま輪郭をほどき、濁った街路へ黒く散った。
「上から来る方がハルピュイアだ。地面を走ってるのがケルベロス」
隣でエースが言った。道を尋ねられて、目の前の建物を教えるような声だった。
帆波は返事をしようとして、彼の横顔へ目を奪われた。白いワイシャツの上には濃いグレーの上着、脚を包むのは藍色のジーパン。雪の森で初めて見たときと変わらない、野外の作業にも出かけられそうな服装だった。その人が、荒れ果てた道路の真ん中に立っている。
背後では高速道路が途切れていた。剥がれたコンクリートの内側から鉄筋が突き出し、支えを失った路面が、傾いた建物へ覆いかぶさっている。赤錆に侵された車が何台も押し重なり、十字路を塞ぐ壁になっていた。砕けた窓の奥には暗い部屋が連なり、遠くには、その街並みと不釣り合いな石造りの壁が見える。かつて人が暮らしていた形だけが、乾いた埃と錆の匂いの中へ取り残されていた。
そこを、悪魔が埋めていく。
屋上から飛び立った妖鳥たちが翼を傾け、車の隙間からはケルベロスの群れが姿を現した。爪の下でガラス片が砕け、魔獣の開いた口から赤い光が漏れる。帆波はその一体一体を目で追ったが、呼吸は乱れなかった。自分で対処できるかと考えるより前に、エースが隣にいるという感覚があった。
エースは両腕を素早く交差させた。
手首のあたりから眩い粒子が噴き出し、灰色の上着の袖を白く染めた。互いに引き合うように集まった光が輪郭を結び、掌より二回りほど大きな円盤になる。外縁には鋭い突起が並び、その一つひとつを見分けようとする間に回転が速まり、切れ目のない光の縁へ変わった。
細く高い音が、空気を張り詰めさせた。円盤の周囲で背景の建物が歪んで見える。熱された空気の密度が変わり、光の通り道を曲げているのだと、帆波は授業で習ったことを思い出しかけた。だが、それを考え終える前に、エースの手が動いていた。
高速回転する光輪の側面へ片手を添え、身体の脇へ大きく引く。上体が捻られ、肩から腕へ続く動きが、ためた力を前方へ送り出した。
投じられた光輪は、一条の閃光となって街路を貫いた。
帆波の瞳にその軌道が焼きついた直後、光が激しく明滅した。一つだった輪が左右へ分かれ、分かれた先からさらに別の輪が生まれる。斜めに走った光が折り返すように広がり、幾何学模様にも似た軌跡を描いて、道路と空を埋め尽くしていった。
廃車の屋根も、剥き出しの鉄筋も、暗い窓の一枚一枚も、同時に白く照らし出された。
妖鳥が翼を返すより早く、その胴体を光輪が通過した。隣の一体は首筋を断たれ、さらに後ろの群れも、飛び立った姿勢のまま裂かれていく。地上では、前脚を踏み出したケルベロスの胸へ円盤が食い込み、硬い体表を切り開いた接触点から火花が散った。押し広げられた空気が瓦礫の間を走り、埃を低く吹き払う。
攻撃を終えてから、悪魔たちが消え始めるまでには、ほとんど間がなかった。
赤い光を宿していた口も、こちらを狙っていた爪も、何も果たせないまま黒くほどける。無数の光輪に照らされていた街路は、次の瞬間には元の薄暗さを取り戻していた。立ち上がった埃の向こうで、エースが腕を下ろす。
帆波は、その手を見つめた。
昨日は、自分の拳を当てるだけでも難しかった。足を置く場所、肩の動かし方、相手の視線。教わったことを幾つも考え、それでも彼には届かなかった。その人が今、指先の先に街路を収めるようにして、空と地上の悪魔を消してしまった。
すごい、と言葉にすれば済むはずなのに、唇は動かなかった。目を離したくなかった。もう一度腕を上げるなら、その最初の動きから見ていたかった。
「一之瀬」
「……はい」
「羽が残ってる。拾ってくれ」
帆波は瞬きをし、ようやく道路へ目を戻した。
黒い粒子が薄れていく足元に、羽が落ちていた。妖鳥の身体は消えたのに、それだけは砕けたアスファルトの上に形を保っている。先端へ向かって細くなる羽軸も、重なり合った細かな羽毛も、確かな輪郭を持っていた。
「これ、ですね」
「ああ。頼む」
頼まれたことがあると、胸が少し弾んだ。帆波は腰を落とし、羽を一本ずつ拾い上げた。セージグリーンのカーゴパンツは膝を曲げても動きを妨げず、シルバーとライトグレーの靴が、細かな瓦礫の間へ正確に足を置く。支給されたばかりの服でこの街に立つことにも、もう大きな違和感はなかった。
羽を集めていると、傾いた車の向こうに影が動いた。
ケルベロスだった。帆波へ向けて頭を低くし、後脚へ力をためる。その背後から別の個体が道路へ躍り出たが、二体とも、彼女が身を起こす前に光に貫かれた。輪郭を失った獣の向こうで、エースは先ほどと同じ場所に立っていた。
「そこにも一本ある」
「あ、本当ですね」
彼の示した先へ手を伸ばした。頭上で翼が空気を打ち、光が走る。帆波は拾い上げた羽をまとめてから、顔を上げた。妖鳥の姿は、もうなかった。
危険な場所だということは分かっていた。あの爪が身体へ届けばどうなるかも、獣の牙が何のためにあるかも知っている。それなのに、羽を拾う指は震えず、悪魔の影を見ても、雪の森で感じた恐怖は戻ってこなかった。
エースの立つ場所を確かめるたび、身体の奥が落ち着いた。
彼から離れすぎないようにしながら、帆波は次の羽へ手を伸ばした。この人の近くにいれば大丈夫だと、考えるより深いところで信じていた。背中を向けて屈めることも、落ちたものへ注意を向けることも、彼がここにいるからできる。その事実は怖いほど大きかったが、今はただ、心地よく胸を満たしていた。
「これで、全部だと思います」
まとめた羽を持って戻ると、エースが頷いた。
「よし。帰るか」
「はい」
帆波は彼の隣へ並んだ。まだ街の奥には動く影があったが、それを見続けるより、歩き始めた彼の横顔を見ていたかった。
臨海支部へ戻り、食堂の丸いテーブルに腰を下ろしたとき、帆波はようやく、自分が少しも疲れた顔をしていないことに気づいた。
白いブルゾンにも、短いオレンジのインナーにも汚れはない。袖を返して見ても、傷一つついていなかった。向かいに座ったエースも同じだった。濃いグレーの上着を着たまま、湯気の立つお茶へ手を伸ばしている。あの荒廃した街路からここへ来たことを示すものは、見えるところには何も残っていなかった。
食堂は、思っていたより明るかった。木の色を生かした四人掛けの丸テーブルが五つ並び、その周囲には椅子を引いても余裕のある通路がある。視線を遮る仕切りは少なく、開放的なカフェのようだった。床もテーブルも清潔で、無人のカウンターには料理を受け取るための場所が設けられている。
ほかに利用している人はいなかった。二人分のお茶を置いたテーブルで、帆波はスマートフォンのメニューを開いた。写真を送ると、肉料理、魚料理、麺類と、次々に皿が現れる。
「覚醒してから、食事の量は変わったか?」
尋ねられ、帆波は画面から顔を上げた。
「量、ですか? ……あまり、気にしてませんでした。いつもどおりに食べていたと思います」
「覚醒すると、普通の人間より大量に食べるようになる奴もいる。逆に、食べる必要がなくなることもある」
「なくなるんですか?」
「ああ。だから、前と同じ感覚で食べてると、多すぎる場合も、足りなくなる場合もある。ここまで普通に生活できてたなら、急に困るほどではなさそうだがな」
帆波はお茶を一口飲んだ。覚醒してから、身体の動き方が変わったことには何度も驚かされている。けれど、食べる量まで確かめなければならないとは思っていなかった。昨日の夕食を思い出しても、食べられなくて困った記憶はなかった。
「一度、前の感覚を外してみろ。今日は自分が食べたいと思う量を食べればいい」
「はい。じゃあ、しっかり食べます」
答えて、肉料理の写真へ目を戻した。定食なら御飯もついているし、ちゃんと食べた感じがしそうだった。ところが指を動かした先に、彩りのよいパスタが現れた。浅い皿の中央へ盛られた麺に、鮮やかな野菜が添えられている。
向かいのエースを一度見てから、帆波はその写真へ目を戻した。
どれを選んでも、彼は気にしないだろう。そう思うのに、最初から大きな肉の皿を前にするより、こちらの方がよい気がした。落ち着いて食べられそうだし、見た目もきれいだった。
「決まったか?」
「はい。これにします」
「俺はとんかつ定食だな」
彼は迷う様子もなく注文を済ませた。帆波もパスタの注文を確定し、スマートフォンをテーブルへ置く。二人で食事を待つというだけなのに、さっきまでとは違う緊張があった。悪魔が飛びかかってきたときには落ち着いていた自分が、料理の選び方を気にしていることが、少し可笑しかった。
「待ってる間に、さっき拾ってもらったものを説明しておこう」
「あの羽ですか?」
「ああ。ああいう素材を、フォルマと呼ぶ」
帆波は頷いた。羽を拾った指先には、まだ感触が残っていた。身体は消えてしまったのに、あれだけが確かに手の中へ残ったのだ。
「悪魔を倒しても、何もかも消えるわけじゃない。ああして残ったものが、装備や道具を作るための素材になる。何でも同じ用途に使えるわけじゃないが、回収する価値がある」
「だから、素材回収のお仕事なんですね」
「そうだ。倒した後に何が残ってるかまで見ないと、仕事を終えたことにならない」
帆波は、自分がさっきどこを見ていたかを思い出した。光輪が消えた後も、悪魔がいた場所ではなく、エースの手を見ていた。声をかけられなければ、羽に気づくのはもっと遅くなっていただろう。
「……次は、ちゃんと下も見ます」
「周りを見るのも忘れるなよ」
「はい」
返事をすると、エースはお茶を飲んだ。責める調子ではなかったが、帆波は膝の上で指を揃えた。見惚れていたことまで分かったのだろうかと思いかけ、それは自分で気にしているだけだと、画面へ視線を落とした。
注文から五分ほどで、スマートフォンに受け取りの通知が届いた。無人のカウンターには、二人の料理が用意されていた。
帆波はパスタの皿を載せたトレーを運び、エースの向かいへ戻った。とんかつ定食には、こんがり揚がった肉と、細く刻まれたキャベツ、御飯と汁物がついている。近くへ置かれると、温かな油とソースの匂いが届いた。
「いただきます」
手を合わせてから、フォークを取った。
パスタはちょうどよい温度だった。麺を巻き取るとソースがよく絡み、野菜の歯触りも心地よい。向かいではエースが箸を進めていた。急いでいるようには見えないのに、一つの動作が終わると、間を置かずに次へ移っている。口にものを入れたまま話すこともなく、食器を乱暴に扱うこともない。忙しい社会人が、限られた休憩時間で食事を済ませる姿に似ていた。
その手元を見て、帆波も自分の皿へ目を戻した。
もう、ほとんど残っていなかった。
フォークを持つ手が止まった。急いだつもりはなかった。味も分かっていたし、一口ずつ食べていた。それなのに、食事を始めてからの時間と、皿の上から消えた量が、以前の感覚ではうまく結びつかなかった。
「もう一皿、頼むか?」
エースが尋ねた。
「……食べても、いいですか?」
「そのために来てる。足りなければ頼め」
帆波はお腹へ意識を向けた。空腹で苦しいわけではない。けれど、食事をしたという感じが、思っていたほど残っていなかった。今の一皿で終わりだと言われても困らないのに、もう一皿置かれたら、普通に食べられそうだった。
メニューを開き直し、今度はとんかつ定食を選んだ。彼と同じものなら、味の話もできるかもしれない。そんな理由を胸の内へ添えると、追加の注文を確定する指が少し軽くなった。
「食べながらでいいから、支部の話もしておく」
「お願いします」
「ガイア連合は、覚醒者が自分たちの生存のために集まった組織だと話したな」
「はい」
「その『生存』が、何に対してのものなのかという話だ」
エースは食べ終えた箸を揃え、お茶を手元へ寄せた。
「地球には、霊脈と呼ばれる霊的なエネルギーの流れがある。それが活性化してる。そこから悪魔の出現が増えていけば、今の社会を維持できなくなる」
帆波はスマートフォンから手を離した。
先ほどの街路が、記憶の中で姿を取り戻した。動かなくなった車、砕けた道路、人のいない建物。あれを異界の中の景色として見ていたときと、社会を維持できなくなるという言葉を聞いてから思い出すのとでは、重さが違っていた。
「今までどおりに、暮らせなくなるということですか」
「ああ。悪魔がいるのを知らなくても、被害までなくなるわけじゃない。食い止めるための手も、崩れた後に生き残るための備えも要る」
とんかつ定食の受け取り通知が届いた。
帆波は断って席を立ち、カウンターへ向かった。清潔なトレーに載った食事から湯気が上がっている。食べたいものを選ぶと温かな料理が出てくる、この当たり前とも贅沢ともつかない仕組みも、誰かが動かしているから成り立つものなのだ。
きっと、昔からそういうことを考えてきた組織なのだろうと思った。自分が何も知らずに学校へ通い、家のことや進路のことだけを考えていた間も、もっと遠い先を見て備えていた人たちがいる。
席へ戻ると、エースが続きを話した。
「臨海支部は、そのきっかけになる東京の大結界の崩壊を観測するために作られた。崩壊した後の防衛も、ここの役割だ」
「東京の……結界が、崩れるんですか」
「それに備えてる。津波に対する防波堤、洪水に対する堤防だと思えばいい。地震を調べるセンサーや、台風を予測する気象台の役目もある」
帆波は箸を取ったまま、彼を見た。地下の広い演習場や、外からは存在さえ分からなかった建物が、頭の中でつながり始める。
「見つけるだけじゃなくて、その後も守れるように……」
「そういうことだ」
頷きながら、とんかつを口へ運んだ。衣は軽く、内側の肉は柔らかかった。噛むと肉の旨味とソースが混ざり、御飯へ箸が伸びる。話はきちんと聞いていた。聞いていたはずなのに、気づいたときには、箸でつまめるものが皿からなくなっていた。
帆波は空になった御飯の茶碗を見た。
さっきのパスタより、ずっとしっかり食べた。それでも、もう少し入る気がした。空腹なのかと聞かれたら違うと答えるだろうが、ここで食事をやめたいという感じもしなかった。
「……もう一つ、頼みます」
「ああ」
エースの返事は変わらなかった。帆波はその落ち着いた声に背中を押され、煮込みハンバーグ定食を選んだ。
「ここの建設は、十年前から始まってる」
「十年前……」
「国会議員や官僚にいる連合のメンバー、それに関係者の働きかけでな。一度作って終わりじゃない。工事を繰り返して、今の形になった」
十年前なら、自分はまだ小さな子供だった。その頃から、この場所では工事が続いていたのだ。学校の隣に、そんな時間をかけた備えがあった。知っているつもりだった人工島が、見えないところで別の顔を持っているように感じられた。
ハンバーグを受け取って戻ると、濃いソースの香りが食欲を誘った。帆波は箸で肉を切り分け、話を聞きながら口へ運ぶ。エースは食べる彼女を急かさず、区切りのよいところで説明を続けた。
「設計段階から、ガイア連合の主将をはじめとした技術部が関わってる。結界も、建物を作った後から適当に足したものじゃない」
帆波は頷き、飲み込んでから口を開いた。
「私が、前はここを見つけられなかったのも、その結界の効果なんですね」
「ああ。外から存在そのものを認識できないようになってる。それでいて、中で働く人間は、覚醒してなくても普通に出入りできる。かなり高性能なものだ」
帆波は食堂の入口へ目を向けた。何の変哲もない通路が続いている。初めてここへ来たときにも、見えない壁を通り抜けたという感覚はなかった。自分が気づかないところで、見えるものや考えることまで変わっていたのだろうか。
問いを胸の中で組み立てながら、最後のハンバーグを食べた。ソースの残った皿を見てから、スマートフォンへ手を伸ばす。チキンソテーの写真には、トマトの赤とバジルの緑が鮮やかに添えられていた。
「これも、おいしそうですね」
「頼めばいい」
「はい」
注文を確定してから、ふと顔を上げた。エースはお茶を飲み、何事もなかったように話を戻した。その様子を見ると、自分も何事もないような気がしてきた。
「学校側で、この支部の存在を知ってるのは理事長だけだ。ほかの職員は知らない」
「先生たちも、ですか?」
「ああ。理事長は代替わりしてから、こっちと接触してない。ただ、前任者から引き継ぎは受けてるはずだ。学校の中でオカルト絡みの事件が起きたときは、理事長へ連絡しろ。まぁ、臨海支部の結界の影響で、学校内で霊的インシデントが発生することはない。だが、外部からのアノマリー、いわゆる呪物の持ち込みがあったり、無人島のように外に行った時には可能性がある」
帆波はその指示を繰り返すように頷いた。誰にでも相談すればよい話ではない。担任の顔を思い浮かべ、そこから、まだ直接話したことのない理事長へ考えを移した。
「分かりました。学校で、そういうことがあったときですね」
「そうだ。覚えておいてくれ」
チキンソテーは、皮の香ばしさにトマトの酸味がよく合っていた。バジルの香りが鼻へ抜け、次の一口が自然に欲しくなる。帆波は添えられた野菜も残さず食べ、空いた皿を見てから、またメニューを開いた。
今度はエビフライと白身魚のミックスフライ定食を選んだ。揚げ物の写真を見ていると、別の欄の生姜焼きも気になる。厚切り肉の上に照りのあるたれがかかり、横の御飯が妙に少なく見えた。
少し考え、生姜焼き定食も追加した。御飯の量を選ぶ欄では、大盛りを押した。
エースの視線が一度、彼女のスマートフォンへ落ちた。帆波は指を止めたが、彼は注文を止めず、そのまま説明を続けた。
「支給したスマホにも、今話した結界の技術が使われてる。普通の人間の目の前で使っても、おかしいとは思われない」
「昨日、教えてもらった処理ですね」
「ああ。ただ、通話の内容まで隠せるわけじゃない。電話は誰もいない自室で、というのは変わらないぞ」
「はい。それは守ってます」
昨夜の母の声を思い出し、自然に頬が緩んだ。学校へ戻っても家族へ電話できたことが、今でも少し信じられないほど嬉しかった。その端末で、今日は料理を注文している。何に使っているかを考えると、急に手の中のものが親しく感じられた。
料理を取りに行く回数が増え、丸いテーブルには新しい湯気が上がった。エビフライの衣へ箸を入れると、内側の身が弾むような歯触りを返す。白身魚は柔らかく、生姜焼きの厚い肉を食べた後には、たれの染みた御飯が進んだ。
帆波は食べながらエースの話を聞き、聞きながら次の料理を選んでいた。自分では、それぞれを順にしているつもりだった。ところが手が空くたびにメニューを開くことが、ごく自然な動作になっていた。
チーズイン・メンチカツを追加した。ローストビーフ丼も頼み、それとは別に御飯の大盛りを一つ選んだ。次の写真に現れたステーキを見て、料理が来るまでの時間を考える。今のうちに頼んでおけば、ちょうどよいかもしれなかった。
「あとで資料と、見ておくべき情報の一覧を送っておく。時間のあるときに目を通してくれ」
「はい」
返事をしてから、帆波はメンチカツへ箸を入れた。中から溶けたチーズが現れ、肉汁と一緒に皿へ広がる。慌てず口へ運び、飲み込んでから、資料のことをもう一度頭の中へ留めた。
知らなければならないことが、まだ幾つもある。それをエースが選び、自分へ送ってくれる。そのことが嬉しかった。自分一人ではどこを探せばよいかも分からない世界へ、彼が道順をつけてくれている。
ローストビーフ丼を食べ終え、最後にステーキを受け取った。温かな肉を切り分けると、内側から湯気が上がる。帆波は添え物まで食べ、ナイフとフォークを揃えたところで、顔を上げた。
「資料、ちゃんと読みます。分からないところがあったら、また聞いてもいいですか?」
「ああ。それでいい」
元気に頷いた帆波を、エースが改めて見た。
「どうやら、一度にかなりの量が入るみたいだな」
「……え?」
言われて初めて、帆波はテーブルの上を見た。食べ終えた器はその都度返していた。それでも、最後の皿だけを見て考えていた食事の量が、頭の中で一つにつながる。
パスタの後に、とんかつ。煮込みハンバーグを食べて、チキンソテーを頼んだ。その後にも、まだいろいろ食べた。
帆波は膝の上へ手を置いた。
「私、そんなに……」
言いかけて、注文履歴を見た。途中で言葉が止まった。
「食べてましたね……」
「ああ。だが、覚醒してからここまで普通に生活できてたなら、エネルギーの効率が悪いってわけでもなさそうだ」
エースは、驚かせるような言い方をしなかった。昨日、身体の動かし方を確かめていたときと同じように、目の前で起きたことを一つずつ整理している。
「普段も、怪しまれない程度に食事は多めにしろ。こっちへ来たときは、自分で必要だと思う量を食べればいい。念のため、二週間くらいは二、三日おきに医務室へ顔を出せ」
「分かりました」
頷きながら、自分のお腹へそっと視線を落とした。
あれだけの量が、どこへ入ったのだろう。
カーゴパンツの腰回りが苦しいわけでも、ブルゾンの前が張っているわけでもなかった。短いインナーの下に見える身体の線は、座る前と変わらないように見える。むしろ姿勢を正すと、腹部の筋肉が以前より確かに動くのが分かった。大きく膨らむ代わりに、身体の内側で別の何かへ変わっているようで、不思議だった。
「こんなに食べたのに、あまり変わらないんですね……」
「おそらく、身体がもっと効率よく動けるように、栄養を必要としてるんだろう。その辺も含めて医務室で見てもらえ」
帆波はもう一度頷いた。自分の身体のことなのに、自分だけでは判断できない。それでも、彼が確かめる先まで教えてくれると、心配よりも、次にどうすればよいかが先に立った。
「学校じゃ、食事にプライベートポイントが要るな」
「はい。……今みたいには、少し難しいかもしれません」
言ってから、少しどころではないと注文履歴を思い出した。毎食これだけ頼めば、どんなことになるだろう。母へ送る報酬とは別のものだと分かっていても、自分の食費だけが大きくなるのは落ち着かなかった。
「ケヤキモールに、こっちの息のかかった店がある。栄養のあるものを受け取れるようにしておこう」
「えっ、そこまで……?」
反射的に顔を上げた。
「ありがとうございます。でも、そんなにしていただいて……」
「身体を維持するために必要なら、用意する。足りないまま動かれる方が困るからな」
淡々と言われ、帆波は手元を見た。その指で、さっきまで何度も追加注文をしていた。彼の前だからとパスタを選んだことまで思い出し、遅れて頬が熱くなる。
最初の一皿を気にしていた自分は、途中でどこへ行ってしまったのだろう。
「……すみません。こんなに食べるつもりじゃ、なかったんです」
「俺が食べたい量を食べろと言ったんだろ。謝ることじゃない」
「それは、そうなんですけど……」
帆波はお茶の湯呑みを両手で包んだ。戦場で悪魔を消していた人が、向かいで自分の食べる量まで見ている。そのことを今になって強く意識した。呆れられていないだろうかと目を上げると、エースは変わらない表情をしていた。
少し安心して、それでも頬の熱は残ったまま、気になっていたことを尋ねた。
「ケヤキモールのお店も、そんなふうにお願いできるんですね。学校の中なのに」
「ここは、いわば要塞みたいなものだからな。前は、息抜きできる場所へ行くにも船で移動する必要があった」
帆波は支部の広い通路や、地下の演習場を思い浮かべた。確かに、仕事をしたり身を守ったりするには向いていても、学校帰りに友達と寄る店のような場所とは違う。
「モールに入ってる企業が買収されたりしたときに、支部の人間も利用できるようにした。福利厚生の一環だ」
「福利厚生……」
「ああ。働く場所と寝る場所だけあればいいってもんでもないだろ」
その言い方に、帆波の口元が緩んだ。
大結界の崩壊を観測し、その後の防衛に備える場所。十年かけて作り続けられた支部。そんな話を聞いていると、ここにいる人たちは、自分が想像もつかないほど遠いところを見ているように思えた。けれど、その人たちも買い物をしたり、お茶を飲んだりする。そのために店を使えるようにしたのだという。
エースも、そうしてケヤキモールへ行くのだろうか。
以前一緒に入った喫茶店を思い出した。席に着いて、彼の話を聞いていた時間が、あの店の明るさや、テーブルの手触りと一緒によみがえる。自分が知らないところで彼が過ごしてきた時間を、ほんの少しだけ知れたような気がした。
「……ありがとうございます。受け取れるようにしていただけたら、助かります」
「分かった。手配しておく」
帆波は頭を下げた。顔を上げると、エースが彼女の前の空皿へ目を向けていた。
「まだ入りそうか?」
尋ねられ、返事に詰まった。
苦しくはなかった。食べ終わった満足はあるのに、もう何も入らないという感じもない。正直に答えようとして、彼の顔を見てしまう。
「……たぶん、少しなら」
「じゃあ、前の喫茶店で甘いものでも頼むか。話の続きはそこでしよう」
帆波の顔が明るくなった。
「はい。行きたいです」
声が弾んでから、もう少し落ち着いて返事をすればよかったかもしれないと思った。だが、エースは気にする様子もなく席を立った。
「食器を返したら行くぞ」
「はい」
帆波はトレーを持ち、彼と一緒に返却口へ向かった。さっきまで何度も往復した道なのに、これから向かう先が決まっただけで、足取りが変わる。食堂を出るときには、自然にエースの隣へ並んでいた。
今日知ったことは、まだ頭の中へ収まりきっていなかった。霊脈も、大結界も、社会が崩れるかもしれないという話も、聞いて忘れてよいことではない。あとで資料を読んで、分からないことを一つずつ確かめようと思った。
そのときにも、この人へ尋ねてよいのだ。
そう思うと、胸の奥が温かくなった。戦場で彼の立つ場所を何度も確かめていた自分と、今、歩幅を合わせている自分が、帆波の中では無理なくつながっていた。もう少し話を聞いていたい。もう少し隣にいたい。その時間が、喫茶店まで続いていることが嬉しかった。
「エースさんは、甘いものも食べるんですか?」
「食べるぞ」
「じゃあ、メニュー、一緒に見てもいいですか?」
「ああ。一緒に選ぶか」
帆波は笑って頷いた。次は何を頼もうかと考えながら、彼と並んで明るい通路を歩いていった。
二人のモデルは、「小ネタ よくいる?ダメダメ系転生者俺達」のゆかりさんとあかりちゃんです。+鬼滅の伊黒と甘露寺をイメージ。
背景設定に関しては、大体はショタオジの結界がご都合主義を支えてくれます。
カオ転側の原作初期から、転生を生かして成功した金持ちや政治家の俺達が、東京が壊滅すると自分たちの財産があぶないと、建設に動いていた設定。結局、地方へ逃げ出す羽目になるんですが。