【カオ転三次】×よう実 鬼になる一之瀬帆波   作:ねむのき

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第1話 「雪の森で息を殺す」

 雪は、音の届く距離まで変えてしまっていた。幾重にも積もった結晶の隙間に森の響きが吸い込まれ、風に揺れる梢は見えているのに、その下で何が動いているのかが分からない。白く霞む木々の間で、帆波には自分の呼吸だけが、居場所を知らせるほど大きく聞こえていた。

 太い幹の陰へ背を押しつけ、両手で口を覆う。濡れたジャージが肌に貼りつき、走っている間には感じきれなかった冷たさが、脇腹から背中へ広がっていた。袖口に入り込んだ雪は溶けているのに、指先は少しも温まらない。息を抑えようとするほど喉の奥が狭まり、吸い足りない空気を求めて胸が動いた。

 

「……お願い……来ないで……」

 

 唇と掌の間に閉じ込めた声は、それでも外へ漏れた気がした。帆波は肩を縮め、幹の向こうを見ないように目を伏せる。何も見えなければ、向こうからも見つからない。そんなことがあるはずはないのに、顔を上げるのが怖かった。

 膝に置いた手が震えている。押さえつけても指が離れ、濡れた布の上を滑った。呼吸を静かにしなければならないのに、胸の鼓動は速くなるばかりで、飲み込もうとした唾も喉に引っかかった。

 

 どうして、こんなところにいるのだろう。

 何度考えても、答えが見つからなかった。無人島で試験を受けていたはずだった。海があって、夏の光があって、汗をかくほど暑かった。その記憶のすぐ先に、今、目の前を横切っていく雪がある。

 暑かったはずの身体が、こんなにも冷えている。

 帆波は腕を抱き、肘を腹へ引き寄せた。靴の中まで濡れていた。足の指を動かそうとしても、厚い布を一枚隔てたように感触が遠い。さっきまで走っていたのだから動くはずなのに、止まると、次に立ち上がれるかどうかさえ不安になった。

 誰かの声が聞こえてほしかった。試験中に何度も耳にした名前の呼び合いでも、教師に叱られる声でもよかった。こんなところへ一人で来てはいけないと、怒ってくれればそれでよかった。

 しかし、風の向きが変わっても、人の声は運ばれてこなかった。

 帆波は袖を引き上げ、試験開始時に配布された腕時計を見た。雪のついた表面を親指で拭う。見つめても、今、どれほどの時間が経ったのか分からない。逃げている間にも何度か確かめたはずなのに、その前に見た表示とうまくつながらなかった。

 腕時計に備えられた緊急ボタンは押した。

 ちゃんと押した。押し間違いではない。指を当てた位置も、そのとき息が苦しかったことも覚えている。だから、もう少し待てば来る。そう思って走った。捕まらずにいれば、助けが来るまで逃げていればいいのだと、自分に言い聞かせてきた。

 

「早く……」

 

 声にすると、待っている時間が急に長くなった。

 誰も来ていない。その事実から目をそらすように袖を戻し、帆波は顔を膝へ近づけた。鼻へ触れるジャージには、汗と湿った土の匂いが残っている。それだけが、夏の島から続いているもののようだった。

 息を吸ったとき、別の匂いが混じった。

 初めは自分の唇が切れたのかと思った。舌で確かめても分からない。もう一度吸うと、冷たい空気の奥に、鉄に似た生臭さがあった。同時に、幹の向こうから何かを引きずる音が届いた。

 帆波は息を止めた。

 風が枝を動かす音ではなかった。雪を擦り、止まり、また少し近づく。そこへ、喉の奥を使ったような低い声が重なった。人が何かを言おうとしているようにも聞こえて、帆波は顔を上げたが、呼びかけることはできなかった。

 幹の縁から、ほんの少しだけ覗く。

 枝が折れた大木の下で、灰色のものがもがいていた。人の形に似ている。けれど、肋骨の浮き出た胸から細い腰へ続くはずの身体に、腹だけが異様に膨らんでいた。地面へついた腕は、関節の位置が痛ましいほどはっきり見える。何も着ていないように見える肌は土気色で、顔を持ち上げると、裂けたように大きな口から歯が覗いた。

 人ではない。

 そう思った瞬間、奥の赤い塊が動いた。

 雪の重みで垂れた枝の向こうから、長い腕が伸びる。先ほどまで木の陰だと思っていたものが前へ出て、紫がかった肩と、地面に届きそうなほど低く下がった頭が現れた。血を染み込ませたような赤い毛髪が顔を覆い、その隙間から黄色い目が覗いている。

 灰色のものが、きぃきぃと声を上げながら向きを変えた。細い手足で雪を掻き、逃れようとする。その背を長い指がつかむと、膨らんだ腹ごと地面から引き上げた。

 帆波は口元へ手を戻した。

 見てはいけないと思ったときには、赤い髪の下で口が開いていた。つかまれた身体が折れ曲がり、振り上げた細い腕が、紫の肩を叩いた。抵抗している。その動きが分かってしまった。助かろうとしているのに、押し返すことも、離れることもできない。

 漏れていた悲鳴が、止まった。

 捕食されたのだ。帆波の胃が縮んだ。大木の下の雪に濃い色が落ち、すでに汚れていたところへ広がっていく。高い枝にも何かが引っかかっていたが、それが何なのか分かりかける前に、目をそらそうとした。

 

「ひっ……!」

 

 掌を当てるのが、間に合わなかった。

 赤い頭の動きが止まった。

 帆波も動けなくなった。ほんの小さな声だった。風に消えたかもしれない。聞こえていないかもしれないと願ったが、毛髪の隙間に見えていた黄色が、幹のこちら側へ向いた。

 目が合った。

 その瞬間、帆波は幹から転げながら飛び出した。足元の雪が崩れ、片膝が沈む。手をついた場所から冷たさが腕へ突き抜けても、逃げることしか考えられなかった。背後で何かが雪へ落ちる音がして、帆波は振り返らずに走り出した。

 

「いや……っ!」

 

 踏み出した足が深く沈んだ。引き抜く前に反対の足を出し、前へ倒れそうになる身体を、次の一歩で受け止める。枝が頬を擦ったが、避ける余裕はなかった。目の前の幹へぶつかりかけ、肩を引いて抜けたところへ、背後からいくつもの枝が折れる軽い音と共に、低い息遣いが迫った。

 来ている。

 さっき、あれを食べていたものが、自分を追っている。

 帆波は腕を振った。凍えた指が開いたままで、握ろうとしても力がうまく入らない。髪が顔へかかり、払った手で視界を塞いでしまう。ほんの一瞬前が見えなくなっただけで、喉からまた声が漏れた。

 どちらへ走ればいいのか分からなかった。

 木の向こうには、また木があった。その間を白い風が通り抜け、遠くを覆い隠してしまう。誰かが立っているように見えて近づけば、雪のついた幹だった。開けた場所へ出られると思えば、倒れた木が進路を塞いでいた。

 帆波はその手前で曲がろうとした。雪の下に隠れていた斜面へ足を乗せ、身体が横へ流れる。幹をつかもうと伸ばした手は表面を擦っただけで離れ、その勢いのまま低い枝の下へ転がり込んだ。

 胸が地面に押され、吸おうとした息が途切れた。

 止まれなかった。膝を引き寄せ、雪を押して起きる。後ろを見てはいけないと思うのに、見なければ、もうすぐそこにいるかどうかも分からなかった。

 振り返った先で、赤い髪が揺れた。

 長い腕が地面を押し、前かがみの身体が細い枝を突き破るようにして、木々の間を抜けてくる。帆波が回り込まなければ通れなかった障害を、その巨体はものともせずにに越えてきた。口元には、さっきの濃い色が残っていた。

 

「なんで……っ、なんで来ないの!?」

 

 帆波は前へ向き直り、腕時計へ手を伸ばした。走りながら再度緊急ボタンを押そうとすると指がずれ、袖の端をつかんでしまう。歯を食いしばって引き上げ、位置を探し、もう一度押した。

 押したのだから、誰か来てほしかった。

 助けを呼ぶためのものなのに。ここにいると知らせるためにつけているのに、どうして、誰も来てくれないのだろう。

 たとえ、今救難信号が発信されたとしても、この窮地がどうになるわけがない。そんな冷静な考えは帆波の頭に無かった。

 

「押したのに……! なんで助けが来ないのよ……!」

 

 叫んだ声が森へ投げ出され、その先からは何も返らなかった。

 腕を戻すのが遅れ、雪の中の足元の窪みを見落とした。靴先が引っかかり、膝が折れる。帆波は息を詰まらせながら手を伸ばし、近くの細い幹を抱えた。皮膚へ食い込んだ樹皮が痛い。その痛みを頼りに身体を引き上げると、すぐ後ろを重いものが通り、つかんでいた幹が大きくしなった。

 手を離して逃げた。

 どこへ行くのかは、もう考えられなかった。前に隙間があればそこへ足を出し、塞がっていれば曲がる。息を吸っても胸の苦しさが減らず、喉を通る空気が刃物のように痛んだ。目に溜まった涙が冷え、拭う前に次の涙で景色が歪んだ。

 いつまで走ればいいのだろう。

 さっきも、このくらい白かった。その前も、同じような木の間を走った。ずっと逃げているのに、あの無人島へ続く道も、夏の海も、誰かの足跡さえ見つからない。今、見えている幹の向こうへ行っても、また同じ景色が待っているように思えた。

 帆波は首を振り、息を吸おうとした。けれど、背後の雪を踏み崩す音が、そのわずかな間にも近づいた。

 

「いや……来ないで……!」

 

 声がうまく出なかった。口を開けたまま走ると、冷たい空気が喉へ入り、咳になりかける。それを飲み込もうとしたせいで、次の呼吸まで乱れた。

 枝の低い場所へ逃げ込めば、離せるかもしれなかった。帆波は頭を下げ、絡み合う枝の間へ身体を押し込んだ。袖が引っかかり、引いた腕に抵抗が返る。強引に袖を引き離したときには、すぐ近くで枝の折れる音がしていた。

 あれは、止まっていない。

 自分がもがいていた間も、こちらへ来ていた。

 帆波は枝の向こうへ飛び出した。足が斜面を滑り、踏みとどまろうとした踵が雪を削る。そのまま低いところへ身体が落ち、転がった背中が地面へぶつかった。顎へ雪が入り、声を出そうと開いた口にも冷たさが触れた。

 起きなければならなかった。

 腕をつき、腰を浮かせる。片足が身体の下で曲がったままになっていて、思うように立てない。引き抜こうとした靴の上へ雪が崩れ、帆波はそれを手で払いながら、顔だけを上げた。

 赤い髪が、斜面の上にあった。

 黄色い目がこちらを見下ろしている。長い腕が雪へつき、肩が下がる。その向こうにある森も空も白く、そこだけが、取り返しのつかないほど鮮やかだった。

 

「助けて……!」

 

 後ろへ退こうとして、手が滑った。背を打ちつけた痛みより、思ったほど離れていないことが怖かった。相手の指が雪から抜け、こちらへ向けて開かれる。その一本一本が見える距離にまで来ていた。

 帆波は顔を背けた。逃げる場所が見つからず、見つからないまま、もう一度声を上げた。

 

「誰か……! 助けてぇっ!!」

 

 伸びてきた腕が、視界を横切った。

 帆波は両腕で頭を庇った。濡れた袖に頬を押しつけ、指が触れる感触を待ってしまう。つかまれる。さっき見たものと同じように、身体を持ち上げられる。その先を考えたくないのに、雪へ落ちた灰色の手足が目の奥から消えなかった。

 しかし、腕に触れるはずのものは来なかった。

 代わりに、黒い何かが目の前を流れた。

 袖の隙間から見えていた紫の指が、形を失っていた。爪の先から腕へ、腕から肩へと部位ごとに切り離され、輪郭が崩れ、向こう側の雪が透けて見える。赤い髪があったところも、黄色い目があったところも、子供が気に入らない絵を引き裂くようにバラバラになり、そして無数の黒い粒子へ変わって霧散していく。

 帆波は腕を下ろせなかった。

 何かが起きた。それだけは分かった。けれど、何が起きたのかを考えようとすると、頭の中が空白になった。今、つかまれるはずだった。そこにいたはずだったものが、いなくなっている。自分が目を閉じていたのか、まだ閉じているのかさえ、はっきりしなかった。

 口は開いているのに、声が出ない。

 黒い粒子が雪の白さの中に消えていく。その向こうに、人の形があった。帆波はそれを見つめたまま、瞬きを忘れていた。

 男が斜面の上に立っていた。

 雪の積もった地面を踏み、こちらを向いている。木の影でも、さっきの異形でもない。服を着た肩があり、腕があり、その上に人の顔があった。見えているものを一つずつ確かめても、それが何を意味するのかまでは、まだ届かなかった。

 男の輪郭を隠していた最後の黒い粒子が風にほどける間も、帆波は雪の上で頭を庇ったまま、その姿から目を離せずにいた。




名無しの転生者:
しまった。まずは腕を切り飛ばしてから、間に割って入り「もう大丈夫だ!俺が来た」ってやってから魅せプで倒せば「ステキ!抱いて!」ってなったかも…
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