十二月二十六日の朝、寮の窓へ差し込む光は、低い角度で机の奥まで届いていた。暖房の風に触れたカーテンがわずかに動き、そこから外れた床には、冬の冷たさが残っている。帆波は旅の荷物を片づけた場所へ目をやり、鞄の中身を確かめてから部屋を出た。まだ湖畔の風を思い出せるのに、休みが終わったことを惜しむ気持ちより、今日エースに会ったら何を話そうかという楽しみの方が大きかった。
歩き始めてから、思っていた以上に身体が軽いことに気づいた。休む前も、疲れて動けなくなっていたわけではない。それでも、依頼の予定を隙間なく入れようとしていた頃に比べると、目の前のことを落ち着いて考えられる気がした。あの三日間を仕事へ使っていたら、母が窓辺で笑った顔も、美帆と朝食の話をした時間もなかったのだと思うと、休んでこいと言ったエースの言葉が、今になってよく分かった。
臨海支部の通路へ入ると、見慣れた床と壁が続いていた。ここへ戻ることを、こんなに楽しみにしていたのかと、自分でも少し可笑しくなる。鞄の持ち手を握り直し、控室の前で呼びかけてから扉を開けると、エースがこちらへ顔を上げた。
「エースさん、お疲れさまです!」
「おう、一之瀬。旅行はどうだった?」
「すごく楽しかったです! お母さんも美帆も、あんなに喜んでくれて……本当にありがとうございました」
深く頭を下げると、膝の前で鞄が少し揺れた。旅行中にも礼は送ったが、こうして顔を見て伝えると、ようやく言いたかったことが届いた気がした。エースは頷いて椅子を示し、帆波が腰を下ろすのを待ってから口を開いた。
「そりゃよかった。ちゃんと休めたみたいだな」
「はい。自分でもびっくりするくらい元気です。何だか、今なら何でもできそうなくらい」
「それなら何よりだ。休みを取らせた甲斐があったな」
帆波は笑顔で頷き、鞄を椅子の脇へ置いた。向かいにいる彼は、旅行へ送り出してくれたときと変わらない調子だった。その落ち着いた声を聞くと、用意してきた言葉よりも、思い出したことから話したくなる。膝の上へ手を重ねたものの、窓から湖が見えたのだと説明し始める頃には、身を少し前へ乗り出していた。
「部屋に入ったら、美帆が立ち止まっちゃったんです。本当にここに泊まるのかって、何度も聞いてきて」
「広かったか?」
「はい。荷物を置いても、まだ歩くところがたくさんあって。窓の近くにも座れるようになっていたんです。お母さんなんて、しばらく鞄を持ったままでした」
「置くのを忘れるくらいか」
「そうなんです。私が持とうかって言って、やっと」
母が取っ手から手を離したところまで思い出し、帆波は笑った。自分も入口から部屋を見たときには驚いたのだから、母のことばかりは言えない。それを付け足すと、エースは、じゃあ三人とも同じだな、と返した。確かにそうだと思い、帆波は頷きながら、窓辺へ母を呼んだときの話を続けた。
湖は、見るたびに少しずつ色が違っていた。前の日と同じ場所を見ているつもりで美帆と話していたのに、実は指している岸が違ったこともあった。料理の名前より先に、おいしかった味を覚えてしまい、あとから三人で何だったのだろうと話したこともある。帆波が思い出す順に話しても、エースは急かさず、時折短く尋ねながら聞いていた。
「飯も、口に合ったみたいだな」
「はい。美帆、食べる前はすごく緊張してたんですけど、おいしいって分かったら、ちゃんと次のお皿を楽しみにしてました」
「切り替えが早いな」
「でも、お母さんが先に食べないと、まだ少し待ってるんです。さっきまで早く来ないかなって言ってたのに」
そこまで話すと、また笑いがこみ上げた。母は二人の顔を見てから箸を取り、美帆はそれを確かめて口へ運んでいた。思い出すと、食卓の照明や皿の色まで戻ってくる。帆波は膝の上の指を緩め、笑みを残したまま言葉を続けた。
「三人で、同じところにずっと座って食べられたのが、よかったです。お母さんも、次の支度をしなくてよかったから」
「ああ。家だと、どうしても動くからな」
「はい。食べながら話して、食べ終わってからも、そのまま話していられて。それが、嬉しくて」
エースが頷くのを見て、帆波はようやく椅子へ背を戻した。ホテルが立派だったことも、料理がおいしかったことも、本当だった。けれど、一番伝えたかったのは、そこで母と美帆がどう過ごせたかということなのだと、話しながら分かってきた。彼にその時間を用意してもらえたことが、改めて胸に沁みた。
「美帆、お風呂の後は眠そうにしてたのに、寝ないって言い張ってました。せっかく来たんだから、起きていたかったみたいです」
「それで、起きてたのか?」
「部屋へ戻ったら、お母さんの隣で静かになりました」
「分かりやすいな」
「そうなんです。でも、朝は元気でしたよ。朝食の話、誰より先にしてました」
エースの口元が緩み、帆波もつられて笑った。旅行中に送った短い文章では伝えきれなかったことが、一つずつ言葉になっていく。休むよう言われたときには、自分が仕事をしないことで得られるものを、うまく想像できなかった。今はこうして、話したいことが尽きないほどある。
「また三人で行きたいって、昨日も話してました。今度は私も、どこがいいかなって調べてみたいです」
「それもいいんじゃないか」
「はい。……そういえば、エースさんは旅行とか行かないんですか?」
尋ねると、エースは少し考えるように視線を動かした。帆波は彼の返事を待ちながら、まだ知らないことが多いのだと思った。支部で仕事の説明をする姿も、演習場で向かい合う姿も見慣れている。けれど、休む日には何をしているのか、どんな場所へ行きたいと思うのかは、ほとんど聞いたことがなかった。
「旅行か。あんまり行かないな。でも、キャンプは好きだぞ」
「キャンプですか。いいですね」
雪の森で、火のそばへ座らせてもらったことを思い出した。あのときは周囲の景色を楽しむ余裕などなく、差し出されたお茶を飲んで、ようやく息をついたのだった。今なら、火を扱う彼の手元も、近くの木や空の色も、もっと落ち着いて見ていられるだろう。エースが好きだという時間を、一緒に過ごしてみたかった。
「私も今度、一緒に行ってみたいです」
「そうだな。機会があればな」
「はい!」
返事をした後も、口元の笑みは収まらなかった。日程が決まったわけではないし、行く場所も何も聞いていない。それでも、一緒に行きたいという言葉を受け止めてもらえたことが嬉しかった。もっと尋ねたくなる気持ちはあったが、今はその返事を大切にしておこうと思い、膝の上で両手を揃えた。
エースと会うようになってから、楽しみにできることが増えていた。最初は、彼の近くにいれば助けてもらえるという安心が何より大きかった。今もそれは変わらない。そこへ、教わったことを試したい気持ちや、できるようになったところを見てほしい思いが重なり、今日は家族の話を聞いてもらうことまで楽しみにしていた。彼の前で自然に笑っていると、そのどれもが帆波の中でつながっているように感じられた。
「それじゃあ、今日からまた頑張ります!」
鞄へ手を伸ばしかけると、エースがこちらを見た。帆波はその視線に気づき、端末を取り出す前に手を止めた。何を言われるか分かった気がして、少しだけ肩をすくめる。
「ああ。ただ、休んだ分を取り返そうとして、無理に詰め込むなよ」
「分かってます。今回は、ちゃんと休むことの大切さも分かりましたから」
「ならいい」
「今日は、ちゃんと相談してから決めます」
「休む前も、無理な依頼は選んでないって言ってたぞ」
帆波は答えかけて、口を閉じた。確かに言ったし、そのときは本気だった。顔を見合わせると、今度は自分から笑ってしまった。できる依頼を一つずつ並べていけば、全部できるような気がしていたのだ。その予定を止めてくれた人へ、同じ説明を繰り返しても仕方がなかった。
「……今度は、依頼の間も空けます」
「ああ。それでいい」
帆波は頷いてから端末を取り出した。画面を開いても、すぐに予定を埋めようとは思わなかった。家族と過ごした三日間を休んだ分として数え直すより、今日の自分に何ができるかを、ここから考えたかった。
学校へ戻れば、また授業が始まり、クラスのために動く場面もあるだろう。ただ、その先にあるAクラスの卒業特典へ、母と美帆の暮らしまで預ける必要は、もうなかった。自分で働き、家へお金を送り、休みには一緒に出かける。遠い卒業の日を待たなくても、そうして暮らしていく道が、すでに手元にある。余計な時間や労力をかけずに特典を得られるなら嬉しいけれど、そのために家族との時間や、ここでの仕事を差し出したいとは思わなかった。
引き受けた役割まで投げ出すつもりもない。それでも、誰かが困っているたび、必ず自分が埋め合わせなければならないわけではないのだと、今は落ち着いて考えられた。湖を見ながら母に渡されたお茶の温かさを思い出し、帆波は画面へ置いた指を少し動かした。
「エースさん、今日はどこから確認すればいいですか?」
彼が仕事の話へ移ると、帆波は端末を見やすい位置へ置き直した。説明を聞き、分からないところで顔を上げる。彼が答えてくれるのを待つ時間にも、旅行の前には気づかなかった余裕があった。聞き漏らさないよう身構えなくても、言葉が頭へ入り、次に確かめたいことが自然に浮かんでくる。
窓から伸びた冬の日差しが、テーブルの端を照らしていた。帆波はエースの示した箇所へ目を戻し、頷いた。家族と過ごした部屋の温もりは、ここへ帰ってきても薄れずに残っている。その温かさを胸に持ったまま、今日はまた、この人のそばで仕事を始められることが嬉しかった。