第1話 「行き先も目的も知らされないバス移動」
一月の陽光が、バスの窓を斜めに抜けていた。冬は太陽が低く、差し込む光も座席の奥まで届く。暖房に温められた膝の上を明るい帯が横切る一方で、窓際へ寄せた手にはガラス越しの冷気が伝わってきた。外では葉を落とした木々が流れ、遠くの山だけが、車窓の中に長く留まっている。
「ずいぶん山の方まで来たよな」
柴田颯の声に、帆波は外から目を戻した。サッカー部で鍛えた身体を座席に収めた柴田は、窓を覗くように顔を傾けている。行き先を知らされない移動にも、今のところは不安より好奇心が勝っているらしかった。
「この先に何があるんだろうな。温泉とか?」
「それだったら、最初から教えてくれてもいいと思うけど」
網倉麻子が笑いながら返した。クラスの女子の間で自然に話の中心に入る彼女は、今も周囲を見渡し、声をかける相手を変えながら会話をつないでいた。
「着いてからのお楽しみかもしれないだろ」
「夏にも、楽しそうな旅行があったよね」
「……あったな」
柴田が言葉を詰まらせ、近くから笑いが起きた。帆波も微笑んだ。豪華客船に乗っていたはずが無人島での特別試験になったのだから、学校の手配した移動を、そのまま休暇と受け取ることはできない。
「一之瀬は、何か聞いてない?」
「ううん。私も、どこに行くのか知らないよ」
「やっぱりか。神崎も?」
「聞いていない。説明があるまで待つしかないだろう」
神崎隆二は落ち着いた声で答えた。騒ぐでも、柴田の予想に乗るでもなく、必要なことだけを口にする。その返事でひとまず話が収まると、帆波はまた窓へ顔を向けた。
山の斜面に陽が当たり、枯れ草が薄い金色に見えた。木々の影は青く、その境目を眺めていると、旅行先で母と美帆と過ごした午後が浮かんだ。湖の見える部屋で、美帆が窓辺を離れようとせず、母がお茶を持ってきてくれた。帆波が座る場所を空けると、母は二人の間に腰を下ろし、同じ景色へ目を向けたのだった。
「帆波ちゃん」
声をかけられ、帆波は振り返った。白波千尋がこちらを見ている。普段から大勢の中では控えめな彼女は、今も少し声を落とし、帆波が顔を向けるのを待っていた。
「どうしたの?」
「どこに行くのか、分からないんだよね」
「うん。まだ説明はないね」
「また、無人島みたいなことだったら……」
白波の指が、膝の上で重なった。帆波はその動きに目を留め、笑みを残したまま答えた。
「今は何も分からないから、説明を聞いてから考えよう」
「……うん」
返事はあったが、白波の視線はまだ帆波に向いていた。帆波は次の言葉を待った。窓の外で木立が途切れ、明るい斜面が現れたのが視界の端に見える。
「帆波ちゃんがいてくれるから、少し安心する」
「そっか」
いつものように笑って返したものの、その先の言葉はすぐに出てこなかった。白波の表情が緩んだので、帆波も小さく頷く。そこで網倉が行き先の話を始めると、帆波は白波から視線を外した。背もたれへ身体を戻した途端、肩からわずかに力が抜けた。
窓の向こうには、もう先ほどの斜面はなかった。帆波は流れていく枝を眺め、旅行先の湖を思い出そうとした。母が何かを言って、美帆と一緒に笑ったのだった。話のきっかけまで思い出しかけたところで、近くからまた声が上がった。
「でも、寒いところで外に寝ろって言われたら困るよね」
「それはさすがに、ないんじゃない?」
帆波はそう答えた。網倉たちの会話が続くのを聞きながら、膝の上で鞄の位置を直す。今のところ、自分に何かできるわけではなかった。行き先を当てようと考え続けるより、説明が始まるまでゆっくりしていたかった。
やがて、スピーカーを通して学校からの案内が始まった。
会話が途切れ、生徒たちの顔が前へ向く。同時に、学校指定の携帯端末へ資料が届いた。帆波も手元へ注意を移した。普段はクラスメイトとの連絡やプライベートポイントの確認に使っている画面に、今回の移動に関する説明が表示されている。
目的地への到着までは、あと一時間。これから行われるのは、特別試験「混合合宿」だという。
「ああ、やっぱり試験なんだ……」
網倉が息をついた。柴田も苦笑していたが、説明が続くと端末へ目を落とした。帆波は資料の冒頭を読みながら、音声にも耳を傾けた。
生活そのものは、無人島試験と比べれば容易だと告げられた。その言葉に、車内の緊張が少し緩む。白波も小さく息を吐いていた。
「外で寝るわけじゃなさそうだね」
網倉に言われ、帆波は頷いた。
「そうだね。施設を使うみたい」
とはいえ、暮らしやすいことと、試験が簡単なことは同じではない。帆波はまだ読んでいない部分へ目を移した。
男子と女子は別々の校舎で生活し、互いの区域への立ち入りは禁止される。夕食時の一時間は食堂で同じ空間に集まるが、それ以外の接触は制限されるという。
「ほとんど別行動になるんだな」
柴田の声に、神崎が端末から顔を上げた。
「連絡を取りたいことがあれば、夕食の時間を使うことになるんだろう」
「何か相談するなら、忘れないようにしないとね」
網倉が応じた。帆波もそのやり取りを聞きながら、画面にある制限を確かめた。決められた時間にしか会えないなら、用事はまとめておいた方がよさそうだった。
続いて、一年生を男女それぞれ六つの小グループに分けることが説明された。同じクラスの生徒だけで固まることはできず、複数のクラスの生徒を混ぜなければならない。各小グループには、責任者を一名置く必要があるという。
「他のクラスと一緒か」
神崎が記述を読み返している横で、柴田は少し考えるように端末を傾けた。
「女子も六つなんだよね」
白波に尋ねられ、帆波は画面を戻した。
「うん。男女それぞれ、って書いてあるよ」
「そしたら、私たちも分かれるんだ……」
「同じクラスだけでは組めないからね」
帆波が答えると、白波は端末を握り直した。まだ何か言いたそうだったので、帆波は顔を向けたまま待った。
「帆波ちゃんと、一緒になれたらいいな」
声は小さかったが、返事を待つ眼差しは真っ直ぐだった。帆波は笑みを浮かべ直した。画面にはまだ、読みかけの文章が残っている。
「まだ決め方も全部は分からないから、先に説明を確認しよう?」
「うん。でも、もし選べるなら……」
帆波の親指が、端末の縁を一度なぞった。返事をするために顔を上げたままでは、文字を読めない。白波の言葉が終わるのを待ち、声を柔らかく整えた。
「今、約束はできないかな。条件が分かってからにしよう」
「あ……そうだよね。ごめんね」
「ううん」
帆波は首を振り、画面へ目を戻した。文字を追い始めると、ようやく途中だった説明がつながった。白波が何か言いかけた気配に顔を上げそうになったが、網倉が彼女へ話しかけたため、そのまま読み進めた。
小グループの条件を確かめているところで、端末の扱いについて注意があった。合宿所へ到着した時点で携帯端末は回収される。配信された資料を画面で確認できるのは、このバスの中だけなので、移動中に記憶しておくようにという指示だった。
「携帯も預けるの?」
網倉が驚いた声を上げた。ほかにも同じような反応が重なり、静かになりかけていた車内が、また話し声で満ちた。
「着いてから読むつもりだったんだけどな」
「今のうちに読んでおいた方がいい。後で確認できないなら、曖昧なままにはできない」
柴田にそう返し、神崎は資料へ視線を落とした。帆波も冒頭へ戻った。もう少し早く配ってくれればよかったのに、と思ったが、残りの時間でできることを済ませるしかなかった。
グループをつくる条件と、責任者を選ぶ必要があること。男女の生活区域と、夕食時に認められる接触。説明の順序を思い返しながら読み直す。似た記述を取り違えないよう、分かりにくいところでは指を止めた。
「帆波ちゃん、ここって……」
白波の声に、帆波は視線を上げた。胸の辺りで短く息が止まり、それからゆっくりと抜けた。
「どこ?」
差し出された画面を見ると、自分が少し前に確認した箇所だった。帆波は前後を読み、必要な部分を指で示した。
「ここから続けて読むと、分かりやすいと思う」
「あ、本当だ。ありがとう」
「うん」
笑みを返して、自分の端末を見直す。どこまで読んでいたのか一瞬分からなくなり、少し戻さなければならなかった。先ほど読んだ一文を見つけると、帆波はそこから先へ進んだ。今度は顔を上げず、文章の終わりまで読み切った。
学校で必要なことは、きちんと済ませるつもりだった。説明を知らずに困るのは自分だし、守るべき条件を見落として問題になるのも避けたい。試験に参加する以上、求められたことには対応する。それで十分、今この資料を読む理由になった。
ただ、ここで誰よりも活躍するために何をするかまでは、考えていなかった。
Aクラスの卒業特典が得られるなら嬉しい。余計な労力をかけずに手に入るものを断る理由もなかった。けれど、母と美帆の暮らしを、卒業の日までその特典に預けておく必要はもうない。自分で働き、家へお金を送り、休みには一緒に出かけられる。二人が笑っているところを、帆波はすでに何度も見ていた。
その時間や、支部での仕事を減らしてまで、学校の順位を追いかけたいとは思わなかった。
「一之瀬、女子の方で何か分かったら、夕食のときに教えてくれ」
神崎に言われ、帆波は顔を上げた。
「うん。そっちも、何かあったら教えてね」
「ああ」
短いやり取りが済むと、神崎はまた資料へ戻った。帆波も読みかけの箇所を確かめた。必要な連絡は取ればいい。まだ分からないことについて、今から何度も相談を重ねなくても、説明を聞いてから考えられるだろう。
車内では、網倉が白波と画面を見比べていた。柴田も口数が少なくなり、神崎に一つ質問してから、自分で資料を読み直している。帆波はその様子を目に入れたが、全員がどこまで理解したかを尋ねることはなく、手元へ視線を戻した。
バスが曲がり、身体に横向きの力がかかった。端末を支えながら背もたれへ体重を預けると、窓に映った自分の顔の向こうを、山肌の影が流れていった。
こんな道を、エースはキャンプに行くときにも通るのだろうか。
ふと思い浮かび、口元が緩んだ。旅行の話をしていたとき、彼はキャンプが好きだと言っていた。一緒に行ってみたいと伝えると、機会があれば、と返してくれた。何も決まってはいないが、いつか行けるなら、今のように行き先を知らないまま座っている時間も、きっと違って感じられる。
「帆波ちゃん、何か分かった?」
白波の声で、思い浮かべていた顔が遠のいた。帆波は端末を持ち直し、彼女へ向き直った。
「ん? まだ、同じところを読んでるよ」
「そうなんだ。何か見つけたのかなって」
「ううん。少し考え事してただけ」
帆波が微笑むと、白波も笑った。その笑顔に頷いてから、帆波は端末を少し高く持ち、画面へ目を落とした。今度は途中で止まらずに読んでおきたかった。
窓の外で陽が差し、膝の上が明るくなった。近くでは網倉が小声で何かを確認している。帆波は文章の区切りまで読み終え、指を動かした。到着までは、まだ時間がある。その間に必要なことを覚えておけば、着いてから何度も確かめずに済むだろう。
次のページを開くと、傍らの話し声は意味のある言葉から遠ざかり、車体の低い振動音と重なった。帆波は肩を楽な位置へ戻し、手元の文字を追い続けた。