窓の高いところから差し込んだ光が、集まった生徒たちの肩を照らしていた。暖房の届きにくい足元には冷気が残り、人が身じろぎするたび、靴底の擦れる音が重なった。帆波は前方へ顔を向けたまま、鞄の持ち手を両手で握り直した。
合宿の全日程が終わった。
朝の清掃も、姿勢を整えて座る時間も、最終日に向けて繰り返した練習も、もう残っていない。筆記、スピーチ、長距離走を終えて、今は結果の発表を待っていた。課題が済むたびに次の集合を気にする生活から、ようやく離れられる。
「終わったねえ……」
近くにいた網倉が、小さく息を吐いた。帆波も頷いた。返事をする前から、口元が少し緩んでいた。
「うん。やっと帰れるね」
「結果、どうなったかな」
網倉は前方へ目を向けた。帆波もそちらを見たが、上位の発表を待つときのような緊張はなかった。必要な課題には取り組んだ。知らずに条件を破らないよう、説明も確かめてきた。自分の学校生活を続けられるのであれば、それ以上の順位を強く望む気持ちは湧かなかった。
帰ったら、まず母と美帆に電話をしたい。
考えかけたところで発表が始まり、帆波は意識を前へ戻した。まだ聞かなければならないことがある。話される内容を追い、自分に関係する結果を確かめた。周囲では、安堵したように肩を下げる生徒もいれば、隣と顔を見合わせる生徒もいた。
やがて、橘の名前とともに、退学という言葉が告げられた。
近くで誰かが息を呑んだ。ざわめきが広がり、前を見ようと身体をずらす生徒がいる。網倉も表情を変え、帆波の方を一度見てから、また発表へ顔を戻した。
「退学って……」
帆波はその声を聞きながら、前方で続く説明に耳を傾けた。
退学の可能性があることは、試験の条件として聞いていた。それでも、誰かの名前を伴って告げられると、ただ文章を読んだときとは違っていた。ここから学校を去り、残るはずだった生活を途中で終えることになる。本人にとっても、親しい人たちにとっても、大変なことだろう。
発表の場の空気は、そのまま結果を受け止めて終われるものではなくなっていた。帆波は周りの生徒と同じように、続くやり取りを見聞きした。声が重なって聞き取りづらくなると、話している方へ注意を向け直した。
橘の退学は、その後、取り消されることになった。
ざわめきの質が変わった。驚いた声に、息をつく気配が混じる。けれど、退学を取り消せたという一言だけで済む話でもなかった。そこで耳にした四百クラスポイント、二千万プライベートポイントという数値に、帆波も目を留めた。
どちらも、この学校では大きな意味を持つ。クラスポイントはクラスの順位や毎月の支給に関わり、プライベートポイントは買い物だけでなく、試験で使える資産にもなる。二千万という額を蓄えるのが簡単でないことくらい、帆波にもよく分かっていた。
「取り消せても、あれだけ必要なんだ……」
近くで聞こえた声に、帆波は小さく頷いた。何も失わずに元へ戻ったわけではない。そのことを理解しながら、騒動が決着するまで、その場で待った。
自分に何かできないかと、前へ出ることはなかった。
帰りのバスへ乗り込む頃には、外の冷気がまた頬を冷やした。
帆波は順番に従ってステップを上がり、座席へ腰を下ろした。鞄を収め、背もたれに身体を預ける。窓の向こうには木造校舎が見えていたが、もう次の予定を確かめに戻る必要はなかった。あの掲示板の前で人が退くのを待つことも、ベッドの間で鞄を寄せることも、ひとまず終わった。
車体が動き始めると、帆波は深く息を吐いた。肩を楽な位置へ戻し、窓の外を見た。
「本当に退学になるところだったんだよね」
「でも、取り消しになってよかった」
「それはそうだけど、ポイントが……」
近くでは、先ほどの出来事がまだ話題になっていた。別のところからも、似たような言葉が聞こえる。退学という結果も、それを取り消すための代償も、簡単には頭から離れないのだろう。
帆波は会話を耳にしながら、窓の向こうへ流れていく校舎を眺めた。誰かが自分のことのように不安を口にすると、その理由も分かった。次には自分が同じ立場になるかもしれない。そう考えれば、他人の出来事として聞き流せるものではない。
「一之瀬さんも、びっくりしたよね」
声を向けられ、帆波は顔を戻した。
「うん。あの場で退学って聞くと、やっぱり驚くね」
「取り消せるって分かるまで、どうなるのかと思った」
帆波は頷いた。相手がまた隣へ顔を向けると、そのまま会話は続いていった。帆波は自分から問いを重ねず、膝の上で指を緩めた。
四百クラスポイントも、二千万プライベートポイントも、大きな資産であることに変わりはない。失えば困るし、それだけの負担を引き受けるのは容易ではないだろう。
ただ、その数字を思い返したとき、帆波の頭に浮かんだのは、学校の外にいる母と美帆だった。
ここで使うポイントを、今すぐそのまま二人の暮らしへ渡せるわけではない。学校でできる買い物や取引と、母の生活を支えるお金とは、別だった。ガイア連合の仕事を始めてからは、働いた分が実際に家へ届く。母に使ってほしいと伝え、美帆に必要なものを聞き、一緒に出かけることもできた。
入学した頃には、Aクラスで卒業した先へ、そうした暮らしを思い描いていた。それが今は、もう始まっている。
母が以前より落ち着いて話してくれることも、美帆が旅行先で次の日の朝食を楽しみにしていたことも、学校の順位が決まるまで待たなければ得られないものではなかった。
橘の退学が取り消されたのは、よかったと思う。その代償が大きいことも分かる。けれど、話を聞き続けていても、胸の中に浮かぶ母の顔の方が、ずっと鮮明だった。
今夜、電話をしたら何から話そう。
合宿所が山の中の古い校舎だったことだろうか。朝は思ったより寒かったと言えば、母はちゃんと暖かくしていたかと尋ねてきそうだった。美帆には二段ベッドの話をしてもいい。どちらで寝たのか、上から落ちなかったかと、話の途中で聞いてくるかもしれない。
そんな返事を思い浮かべるだけで、声を聞きたい気持ちが強くなった。
合宿中は、スマートフォンが手元にあっても取り出せなかった。いつも誰かが近くにいて、話し始めれば聞かれてしまう。用事が終わっても部屋を独り占めできず、その日の話をしたいと思いながら、鞄を閉めるしかなかった。
寮へ戻れば、自分の部屋がある。
扉を閉め、荷物を置き、誰に聞かれるかを気にせず話せる。特別な用事がなくても、母が返事をしてくれる。美帆の声が少し離れたところから聞こえ、やがて近づいてくる。そのいつもの時間を、早く取り戻したかった。
窓の外では、校舎がもう見えなくなっていた。木々の間から差す光が、帆波の膝の上を短く横切る。車体の揺れに合わせて鞄の持ち手が動き、帆波はそれを指で押さえた。
仕事にも、また行ける。
次の依頼はまだ決まっていなかった。まずは支部へ行って、エースに何ができるか相談しようと思った。合宿が終わったと話せば、彼はいつもの調子で迎えてくれるだろう。教わったことを実戦で使い、終わってから確かめる。身体を動かすことも、任務を果たすことも、帆波は楽しみにしていた。
休んだ分を取り返すように予定を詰め込む必要はない。それでも、やりたいと思って選べることが、今は嬉しかった。ここ数日は、課題を済ませても、その次に何をするかまで決められていた。ようやく、その予定から離れられる。
白波が近くで何かを話していた。橘のことらしく、退学にならなくてよかったという言葉が聞こえた。帆波もそう思い、目が合うと頷いた。
白波は少し安心したように隣の生徒へ話を続けた。帆波はその先を待たず、また窓へ顔を向けた。ちょうど木立の間が開け、遠い山の斜面が見えたところだった。
合宿が楽しかったと思い直したわけではなかった。仕事へ行けず、家族とも話せず、自分の望むことに時間を使えなかったのは、最後まで嫌だった。けれど、その日々はもう終わっている。
帆波は背もたれへ少し深く身体を預けた。帰ったら母と美帆の声を聞き、それからまたエースのいる支部へ行く。思い浮かぶ予定はどれも楽しみで、気づけば口元が緩んでいた。
車内では、まだポイントの額を確かめ合う声が続いていた。帆波はその声を遠くに聞きながら、山の向こうへ伸びる道を眺めた。帰り着いた後に話したいことが、もう幾つもあった。