三月一日の教室には、冬の間より少し高くなった陽が差し込んでいた。窓際の机を照らす光は明るかったが、廊下から入ってくる空気にはまだ冷たさがある。帆波は開いていた教科書を閉じ、次の授業に使うものを机の上へ揃えた。
混合合宿から戻って、ひと月以上が過ぎていた。授業を受け、必要な試験の勉強をし、放課後には支部へ向かう。仕事を終えて寮へ帰り、母や美帆に電話をする。合宿中には思うように使えなかった時間が、また自分の手に戻っていた。
忙しい日もあったが、エースに相談しながら予定の間を空けることも覚えた。部屋でゆっくり過ごす夜まで、取り戻すべき損失として数えることはなくなっていた。
「全員、大丈夫だって!」
柴田颯の明るい声がして、帆波は顔を上げた。
学年末試験で、Bクラスから赤点を取った生徒は出なかった。退学者もいない。その結果が伝わるにつれ、教室のあちこちで声が上がった。机へ突っ伏す者もいれば、友人と手を合わせる者もいる。柴田は近くの男子に笑いかけ、相手の肩を軽く叩いていた。
「ほら、言っただろ。ちゃんと勉強したんだから」
「言っていた本人も、結果が出るまでは落ち着かなかっただろう」
神崎隆二が返した。机のそばに立ったまま、騒ぐことなく周囲の様子を見ている。その声音に、柴田は笑って肩をすくめた。
「それは、まあ。全員分の結果は分からないし」
「なら、今になって余裕だったように言うな」
「いいじゃないか。全員通ったんだからさ」
二人のやり取りを聞いていた網倉麻子が、笑いながら帆波の机へ近づいてきた。張っていた気が抜けたのか、椅子の背へ手をかける仕草にも軽さがあった。
「よかったね、帆波ちゃん。これで、ひとまず安心だね」
「うん。みんな、赤点がなくてよかった」
帆波が微笑むと、網倉も大きく頷いた。
「終わった後になって、答えを間違えたかもって話がいっぱい出るんだもん。聞いてるうちに、私まで心配になっちゃった」
「あるよね。自分も違ってたかなって思っちゃうの」
「そうそう。今から答案を返してくれたら、直せるところがあるのにって」
「それだと、結果が出るのがいつになるか分からないよ」
網倉が笑った。帆波も口元を緩め、教科書を鞄へ収めた。自分も問題なく試験を終えられた。それなら、これからの予定を変えずに済む。今日、支部へ着いたら何から確認するのか、そんなことが頭に浮かんだ。
「帆波ちゃん」
白波千尋が、網倉の少し後ろから声をかけてきた。両手を前で重ね、帆波と目が合うと、ほっとしたように笑った。
「本当に、よかったね。誰もいなくならなくて」
「うん」
「また、みんなで頑張れるね」
帆波は頷いた。白波はその返事を確かめるように、まだこちらを見ていた。机の上に残っていた筆記具へ伸ばしかけた手を止め、帆波は笑みを返した。
「試験、お疲れさま」
「帆波ちゃんも。いつも、ありがとう」
「ううん」
そこで網倉が白波にも試験の出来を尋ねたので、帆波は手元へ目を戻した。筆記具をしまい、机の端へ鞄を寄せる。近くでは、解けなかった問題の答え合わせが始まっていたが、自分から加わることはなかった。
ホームルームのために星之宮知恵が入ってきたときも、教室にはまだ安堵の空気が残っていた。
「はーい、みんな。そろそろ席に戻ってね」
聞き慣れた声に、生徒たちが動き始めた。星之宮は教卓へ手を添え、座るのを待っている。帆波も椅子を引き直した。
「学年末試験は、全員合格。赤点は一人もいませんでした。みんな、よく頑張ったわね」
柴田が近くの男子と目を合わせ、笑った。網倉も嬉しそうに口元を緩めたが、星之宮はいつものように話を弾ませなかった。教室を見渡し、一度だけ息をつく。その間に気づき、帆波は机の上から顔を上げた。
「これで安心してね、って言ってあげたかったんだけど……今日は、もう一つ話があるの」
後ろに残っていた話し声が弱くなった。
「予定にはなかった特別試験が、追加されることになりました。名前は『クラス内投票』。今日は、その説明をします」
「また試験ですか?」
柴田の問いには、まだ少し笑いが混じっていた。学年末を終えたばかりなのだから、そう言いたくなるのも分かる。けれど、星之宮は笑って返さなかった。
「そうなの。私たちも、これをやるのはどうなのかって、学校には言ったんだけどね。……実施するっていう決定は、変わらなかったわ」
帆波は背を起こした。教師から異議が出るような試験とは、どんな内容なのだろう。これまでの特別試験も、生徒にとって負担の小さいものではなかった。その担任が、説明の初めにそう断る理由が気になった。
神崎も教卓へ顔を向け、言葉の続きを待っていた。
「まず、基本のルールからね。みんなには、自分のクラスの生徒に賞賛票を三票、批判票を三票、それぞれ入れてもらいます」
誰かが隣を見た。投票という言葉から想像していた内容と違ったのか、すぐには声が上がらなかった。
「自分に入れるのは駄目。同じ人に賞賛票を二票入れたり、批判票をまとめて入れたりするのも、なしよ」
「賞賛と批判を、それぞれ別の三人に入れるということですか」
「ええ、そういうこと。神崎くん、その理解で合ってるわ」
星之宮は頷いた。それから少し声を落とした。
「……そして、批判票を一番多く集めた生徒は、退学になります」
網倉が椅子を動かした音が、帆波の耳にはっきり届いた。
「退学……?」
白波の小さな問いは、直後に上がったほかの生徒たちの声へ呑まれた。
「ちょっと待ってください。今の試験、全員通ったんですよね?」
「同じクラスの人に、退学してほしいって投票するんですか?」
柴田は笑っていなかった。机へ手を置いて教卓を見つめ、何か聞き違いがあったのではないかというように、星之宮の返事を待っていた。
「……同じクラスの中から選ぶことになるわ。嫌だと思うのは、分かるんだけどね」
「でも、それじゃ……」
柴田は言葉を切り、神崎を見た。神崎はそちらへ顔を向けず、教卓に視線を据えていた。口元が固く、先ほどの結果発表のときよりも姿勢が動かなかった。
「先生。批判票が最も多い生徒を、一人退学にする。それが、この試験の基本なのですね」
「ええ。そう説明するように、言われているの」
答えを聞くと、教室のざわめきがさらに大きくなった。帆波は机の上で手を重ねた。今の説明なら、自分も投票する側であり、投票される側でもある。自分への票は入れられず、批判票を三人へ投じなければならない。誰かが棄権すれば済むという話では、少なくともなさそうだった。
星之宮が手を上げた。
「待って。まだ続きがあるから、そこまで聞いてくれる?」
すぐに静かにはならなかったが、彼女は少し待ってから話し始めた。
「賞賛票を一番多く集めた生徒には、プロテクトポイントが与えられます」
「それは、何に使えるんですか?」
帆波が尋ねると、近くの話し声が少し弱まった。星之宮は帆波へ目を向けた。
「退学のペナルティを無効にできるポイントよ。一之瀬さん、これは覚えておいてね」
帆波は頷いた。批判票を集めれば退学となり、賞賛票を集めれば、その危険を避けるためのものが得られる。これまでの試験のように、問題を解いたり、走ったりした結果だけで決まるわけではないらしい。
「でも、そんなの……誰に入れればいいの?」
網倉が帆波の方を見た。普段なら誰かへ話しかけ、返事を引き出しながら場をつなぐ彼女が、今は次の言葉を探していた。
「私、クラスの人に三票も批判票を入れるなんて……」
帆波は網倉の顔を見た。困っていることは分かる。さっきまで全員の無事を喜んでいたのに、今度は同じクラスの中から選べと言われたのだ。
「まず、説明を最後まで聞こう。まだ、分からないところもあるから」
網倉は頷いたが、表情は緩まなかった。それでも教卓へ向き直ったので、帆波も星之宮へ目を戻した。
「先生、こんなの、やる必要ありますか」
柴田がもう一度尋ねた。声が少し強くなっていた。
「学年末を乗り越えたばかりなんですよ。みんなで勉強して、全員大丈夫だったのに」
「うん。そうよね。せっかく、みんなで頑張ったんだものね」
星之宮は柴田を見て答えた。普段の柔らかい調子は残っていたが、語尾を明るく持ち上げることはなかった。
「先生も、今これをやるべきだとは思ってないわ。でも、やらなくていいとは言ってあげられないの。……ごめんね」
柴田は口を開きかけ、閉じた。教室が一瞬静まり、その後でまた、別のところから疑問の声が上がった。
白波が帆波を見ていた。唇がわずかに開いて、何かを言おうとして閉じる。帆波が目を合わせると、今度は声が出た。
「帆波ちゃん……どうしよう」
帆波は息を吸い、すぐには返事をしなかった。白波の向こうからも、こちらを見ている顔があった。誰かが話し始めるのを待つような視線が、幾つも重なっている。
「まだ、全部は聞けていないからね」
声を柔らかくして答えた。
「決めないといけないことは、ちゃんと確認してからにしよう」
「でも、誰かが退学になっちゃうんだよね」
白波の指が机の縁を掴んだ。帆波はその手を一度見てから、教卓へ顔を戻した。もう一度同じ説明を聞けば、この場で違う返事ができるようになるわけではない。今は、まだ伝えられていない条件を聞きたかった。
神崎が口を開いた。
「先生。今、聞いたことだけで、投票先を判断する必要があるんですか。ほかに説明されていないことは?」
「詳しい説明は、明日のホームルームでするわ。救済措置についても、そのときに話すから」
その言葉に、何人もの顔が上がった。
「助かる方法はあるんですか?」
「気になるわよね。でも、今日はここまでなの。今、一部分だけ話して、勘違いさせるわけにもいかないから……明日の説明を待ってちょうだい」
問いかけは続いたが、その場で新しい条件が示されることはなかった。星之宮は声を遮らずに聞き、それでも、今は答えられないという返事を繰り返した。
帆波は、翌日に説明があることを頭の中で確かめた。救済措置という言葉は聞いた。しかし、何が必要なのか、どんな条件なのかは、まだ分からない。それを知らずに、できるともできないとも言えなかった。
「一之瀬」
神崎がこちらを向いた。周囲の声から少し距離を置くように、落ち着いた声だった。
「明日の説明も聞いてから、整理した方がいいな」
「うん。今日の分だけだと、まだ決められないね」
帆波が答えると、神崎は小さく頷いた。それ以上を求められなかったので、帆波は重ねていた手をほどいた。
教室では、まだ試験の話が続いていた。柴田は近くの男子と、全員が同じ数ずつ票を入れたらどうなるのかと話している。網倉は不安そうな女子のそばへ寄り、今は決めなくてもいいと声をかけていた。白波はその話を聞きながらも、ときどき帆波の方を見た。
帆波も、明日には説明を聞かなければならない。投票の結果は自分にも関わるし、必要な対応を怠るつもりはなかった。
ただ、いま全員の前に立って、何とかすると言えることは何もなかった。救済措置の条件も知らないまま、約束をする気にはならなかった。
ホームルームが終わっても、立ち上がる生徒は少なかった。机の間で会話が重なり、誰かの問いに、別の誰かが同じ疑問を返している。帆波は教科書を鞄へ入れかけ、白波に名前を呼ばれて顔を上げた。
「明日になったら、何とかなるかな」
「説明を聞いてみないと、まだ分からないかな」
帆波は答えた。白波が目を伏せるのを見て、口元だけを少し和らげる。
「聞き落とさないようにしようね」
「……うん」
返事を聞いてから、帆波は鞄の留め具を閉じた。
支部へ着いたら、エースに会えるだろうか。試験の話を考えていたところへ、その顔が浮かんだ。今日の予定を確かめて、分からないことを聞く。少なくとも向こうでは、何をするのかを知った上で、自分の返事をすることができた。
近くで椅子が動き、帆波はそちらを見た。網倉がまだ話したそうに立っていたので、顔を向けて待った。問いを聞き、今分かっている範囲を答える。その向こうでは、神崎が星之宮へ確認を続けていた。
帆波は次の説明が明日であることを、もう一度だけ思い返した。今夜、自分一人で答えを出しておかなければならないとは、思わなかった。