三月二日の朝、教室の窓には薄く曇ったところが残っていた。暖房で温まった空気が冷たいガラスに触れ、下の方にだけ細かな水滴をつくっている。帆波は机へ鞄を置き、窓から教室の中へ顔を戻した。
昨日までとは、話し声の響きが違っていた。試験の出来を笑い合う声はなく、机の間で顔を寄せ合っている生徒たちも、ときどき周囲を見てから続きを話していた。
「おはよう、帆波ちゃん」
網倉麻子が声をかけてきた。挨拶には笑みを添えていたが、すぐに教卓の方へ目を向ける。
「今日の説明、ちゃんと助かる方法だといいね」
「うん。まずは聞いてみよう」
帆波が答えると、網倉は頷いた。近くにいた白波千尋もこちらを見たが、星之宮知恵が教室へ入ってきたため、何も言わずに席へ戻っていった。
「おはよう。みんな、席についてね。昨日の続きを話すから」
星之宮は教卓へ資料を置いた。いつもなら返ってくる挨拶や、遅れて席へ戻る生徒への軽い声かけも、今朝はすぐに途切れた。帆波は机の上へ手を置き、説明を待った。
「投票は三月六日、土曜日に行います。それから、昨日話したクラス内の投票とは別に、他クラスの生徒一人にも、賞賛票を一票入れてもらうわ」
「他のクラスにも、ですか」
神崎隆二が顔を上げた。
「ええ。批判票は自分のクラスの中だけ。他クラスへ入れられるのは、賞賛票一票よ。そこは間違えないようにしてね」
帆波は昨日の説明へ、今聞いた条件を加えた。クラス内の評価だけで、結果のすべてが決まるわけではない。他クラスの生徒から票を得られるかどうかも関わってくる。
隣り合った生徒同士が目を合わせた。その間にも、星之宮は説明を続けた。
「それから、昨日聞かれていた救済措置のことね。退学になる生徒が出ても、二千万プライベートポイントを支払えば、取り消すことができます」
「二千万……」
網倉の声が聞こえた。柴田颯は一度口を開き、それから自分の端末へ目を落とした。金額を思い浮かべたのか、唇を結んでいる。
「集められれば、誰も退学しなくていいんですよね?」
「ええ。そのために使える措置よ」
柴田の問いに星之宮が頷くと、教室の空気が少し動いた。助かる道がある。そのことが分かっただけでも、昨日とは違った。
けれど、二千万という額は小さくなかった。帆波もそれは分かっていた。口座の数字を確かめ始める生徒たちを見ながら、必要な額と、実際に集められる額は別に考えなければならないと思った。
「先生。一人の口座にまとめたポイントを使うこともできるんですか」
帆波が尋ねると、星之宮はこちらへ目を向けた。
「できるわ。みんなで出し合って用意しても、そのポイントは使えます」
その答えを聞き、白波が少し身を乗り出した。網倉も帆波を見た。教室の別のところでは、手元に残っている額を口にする声が上がっていた。
説明が終わる頃には、誰か一人を選ぶ話より、ポイントを集める話の方が多くなっていた。
「俺の分も使ってくれ」
柴田が帆波の机へ来た。昨日とは違い、今は何をすればいいか見つかったという顔をしていた。
「みんなで出せば、少しは近づけるだろ」
「預けてもらう分は、ちゃんと確認するね」
帆波が答えると、柴田は頷き、端末を操作した。網倉もほかの女子と額を確かめ合いながら近づいてくる。
「私も送るね。ほかの子たちも、帆波ちゃんのところにまとめた方がいいって」
「うん。誰からいくら預かったか、分かるようにしておくよ」
帆波は画面を開き、届いた分を確かめた。自分の口座へ入るからといって、自分が好きに使えるお金になるわけではない。試験の救済に使うため、クラスメイトから預かるポイントだった。
「私のも、お願い」
白波が端末を両手で持っていた。送金を済ませた後も、その場を離れずに帆波の画面を見つめている。
「これで、誰もいなくならないようにできるといいね」
「いま、全部でどれくらいになるか確認してるところだよ」
「うん。帆波ちゃんが持っててくれたら、安心だから」
帆波は小さく頷き、届いた履歴へ目を戻した。白波の声が途切れてから、次の数字を確かめる。網倉が別の生徒を呼ぶと、ようやく机の前が空き、帆波は一度、画面全体を見直した。
集まったのは、これまでのクラスの貯蓄分を含めて、およそ千六百万ポイントだった。
「あと、四百万くらいか」
神崎が静かに言った。帆波は頷いた。二千万までは、まだ届かない。教室に広がりかけていた明るさが、その不足額を聞くたびに少しずつ弱まった。
「もう少し、どこかから……」
柴田は言いかけて、端末を持つ手を下ろした。自分たちの口座をもう一度見たところで、急に数字が増えるわけではなかった。
帆波は預かった額を確かめ終え、画面を閉じた。
不足分を借りる方法はあるかもしれない。ただし、借りれば返さなければならない。自分だけの判断でクラス全員に返済を約束させることはできなかった。まず、どんな条件なら貸してもらえるのかを聞き、その上で考える必要があった。
「借りられるか、条件を聞いてみるね」
そう言うと、白波が顔を上げた。柴田も、期待を隠さずにこちらを見た。
「心当たりがあるのか?」
「生徒会長に、相談してみようと思う。ただ、まだ借りられるって決まったわけじゃないから」
帆波が付け加えると、神崎は頷いた。
「ああ。条件が分からなければ、判断もできない」
その返事を聞いて、帆波は鞄へ端末を収めた。借りられるかどうかを確かめる。それが、いま自分にできることだった。
放課後、生徒会室の前で足を止めた。
廊下の窓から差し込む光は朝より傾き、床へ長く伸びていた。帆波は扉の向こうへ声をかけ、返事を待ってから中へ入った。
「失礼します」
「一之瀬か」
南雲雅が顔を上げた。金色の髪に窓からの光がかかり、椅子へ預けた身体は、帆波が入ってきても動かなかった。彼は口元を緩め、こちらを見た。
「ようやく生徒会に入る気になったか? 九月に誘ったときは、あっさり断ってくれたけどな」
「その節は、お声がけいただいてありがとうございました。今日は、別のことで相談があって来ました」
「何だ。俺に会いたくなったわけじゃないのか」
冗談めかした声だったが、南雲は帆波の返事を待たず、向かいを示した。
「まあ、座れよ。お前の相談なら聞いてやる」
「ありがとうございます」
帆波は腰を下ろし、鞄を脇へ置いた。南雲の視線が顔に留まっているのを感じたが、そのまま用件を切り出した。
「クラス内投票の救済に使うためのポイントを、みんなから預かっています。いま、およそ千六百万です。必要な二千万までは、あと四百万ほど足りなくて」
「それを俺に貸してほしいと」
「貸していただけるか、条件を伺いたくて来ました」
「なるほどな。困ったときは、頼れる先輩のところへ来るわけか」
南雲は笑った。帆波は膝の上で手を揃え、返事を待った。借りられるなら、返済の期間や負担を確かめなければならない。クラスで借り、クラスで返せる条件なのかを、まず聞きたかった。
「四百万なら出してやる。それくらい、俺には難しい話じゃない」
「条件を聞かせていただけますか」
「そんなに身構えるなよ。お前にとっても悪い話にはしない」
南雲は机へ片肘をつき、帆波との距離を少し縮めた。
「生徒会に入れ。九月にも言っただろ。お前なら歓迎するって」
「役員になることが、貸していただく条件ですか」
「それだけじゃない」
帆波は続きを待った。南雲はその顔を眺め、ゆっくりと口元を上げた。
「ポイントが必要な間、俺と付き合え。生徒会でも一緒に働けるし、顔を合わせる理由にも困らない。いい機会じゃないか」
帆波は一度瞬きをした。
役員として仕事をすることと、南雲と交際すること。その両方を、不足分の四百万ポイントと引き換えに求められているらしかった。
「……生徒会役員になって、南雲先輩と交際する。その二つが条件なんですね」
「ああ。俺のそばにいれば、お前だって得をする。クラスの問題も片づくしな」
返済の話は出てこなかった。南雲は帆波を見たまま、返事を促すように顎を上げた。
「どうだ。そんなに悩むような条件じゃないだろ?」
「それでしたら、今回は結構です」
南雲の指が止まった。机の上へ置かれていた手から帆波の顔へ、彼の注意が戻ってくる。
「……断るのか?」
「はい」
「本当に? 条件を聞き間違えてないか?」
帆波は首を横に振った。
「聞いています。生徒会役員になることと、先輩と交際すること。その条件では、お借りできません」
南雲は椅子へ背を戻した。先ほどまでと同じ笑みを浮かべていたが、帆波を見る目は細くなっていた。
「即答するなよ。少しは考えてみたらどうだ。四百万だぞ?」
「金額は分かっています」
「お前が頷けば、それで足りるんだ。クラスの連中も安心する。俺だって、誰にでもこんな話を持ちかけるわけじゃない」
帆波は膝の上の指を緩めた。四百万ポイントがあれば、救済に必要な額へ届く。それはここへ来る前から分かっていた。
けれど、預かったポイントの不足を埋めるために、自分の放課後や交際まで差し出すつもりはなかった。役員の仕事も、誰かと付き合うことも、今ここでクラスの代わりに引き受けるものではない。
「クラスで借りて、返せる条件かどうかを伺いに来ました。私が先輩とお付き合いすることを、その条件にはできません」
「俺と付き合うのが、そんなに嫌か?」
「交際と、ポイントをお借りする話は、別にしたいです」
帆波は声を強めずに答えた。南雲がどう受け取るかは分からないが、返事を曖昧にして待たせる必要もなかった。
「生徒会のお誘いについても、今回は辞退させてください」
南雲はしばらく何も言わなかった。帆波が言葉を継ぐのを待っているようにも見えたが、それ以上に説明することはなかった。
「……それで、本当にいいんだな」
「はい」
「後から、やっぱり貸してほしいと言われても、同じように話が進むとは限らないぞ」
「分かりました。お時間をいただいて、ありがとうございました」
帆波は立ち上がり、頭を下げた。南雲は椅子に座ったまま、こちらを見ていた。もう一度顔を上げても、新しい条件が示されることはなかったので、帆波は鞄を持ち、扉へ向かった。
生徒会室を出ると、廊下の静けさが戻ってきた。
鞄の持ち手を握り直し、歩き始める。条件は確認した。自分が受け入れられるものではなかったので、借入は成立しなかった。クラスへ伝えるなら、まずはその結果だった。
網倉は残念そうな顔をするかもしれない。白波はまた、不安を口にするだろうか。それでも、先ほどの返事を変えようとは思わなかった。南雲に何を求められたかを話し、クラスメイトに自分の交際を相談する気にもならなかった。
窓際を通ると、日の当たる側の頬が温かくなった。帆波は廊下の先へ目を向けた。相談が終わった今、今日の残りの予定を確かめておきたかった。
預かっているのは約千六百万ポイントで、不足は約四百万のままだった。その事実は変わらない。帆波は端末を取り出し、借りられなかったことをどう伝えるか考えながら、廊下を進んだ。