【カオ転三次】×よう実 鬼になる一之瀬帆波   作:ねむのき

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第6話 「その試験は、何のために」

 三月三日の放課後、臨海支部の食堂には、冬の名残を含んだ西日が差し込んでいた。窓ガラス越しの光は暖かそうな飴色をしているのに、その近くへ立つと、冷えたガラスに沿って下りてくる空気が足首を撫でる。卓上の湯呑みから立つ湯気が、空調の流れに押されて薄く傾いていた。

 

 帆波が食堂へ入ると、エースが顔を上げた。動きを妨げない上着の下にワイシャツを着た姿は、年の近い男子と並べても不自然ではない。それでも、こちらへ向ける落ち着いた目や、相手が話し始めるまで待つ間の取り方には、教室の誰とも違う余裕があった。異界で帆波を救い、その後も戦闘を教えてくれている、臨海支部の黒札だった。

 

 その向かいには、支部長の黒瀬がいた。支部の活動や人員をまとめ、外部との調整も担う人物で、実用的な服装にも、卓に浅く置いた両手にも、役職を誇示するようなところがない。人の話を穏やかに聞く一方、できることとできないことを曖昧にしない。そのため、黒瀬の返事は柔らかくても、聞き流せる軽さにはならなかった。

 

「こんにちは。今日は皆さん、おそろいなんですね」

 

「たまたまだ。俺が来たときは、まだ二人だった」

 

 エースが答えると、斜めの席にいた真壁が、湯呑みから口を離した。

 

「茶を飲みに来たら、人数が増えた」

 

 無地の丈夫そうな服を着た真壁は、施設や資機材、任務の準備状態を整える実務担当だった。言葉は短いが、必要な説明まで省くわけではない。帆波には、使う人の気合よりも、使うものが本当に使えるかを先に確かめる人、という印象があった。

 

「一之瀬さんも座る? ここ、空いているわよ」

 

 石川理恵が自分の椅子を少し寄せた。医務や検査を担当する成人女性で、清潔な実務服を着た姿も、相手の顔を見てから声をかける所作も落ち着いている。身体について説明するときには、分かったところまでを丁寧に伝え、分からないところを気休めで埋めたりはしない。その静かな慎重さが、帆波にはありがたかった。

 

「ありがとうございます。お茶を持ってきますね」

 

 茶を注いで戻ると、エースの隣に席ができていた。鞄を足元へ置いて腰を下ろす。四人とも臨海支部の黒札だが、こうして一つの卓を囲んでいると、会議というより、休憩の時間が偶然重なった人たちに見えた。実際、誰の前にも仕事の資料は広げられていなかった。

 

「学校の方は、落ち着いたか」

 

 エースに聞かれ、帆波は湯呑みを両手で包んだ。

 

「学年末試験は、無事に終わりました。うちのクラスは全員、赤点なしだったんです」

 

「それはよかった」

 

「はい。ただ、その結果が出た日に、急に別の試験をするって言われて」

 

「追加で?」

 

「クラス内投票、という試験です。今度の土曜日に、同じクラスの生徒へ賞賛票と批判票を三票ずつ入れることになりました」

 

 学校であったことを話すだけのつもりだった。けれど、自分への投票と同じ相手への重複投票は禁止されていること、批判票が最多となった一人は退学になることを説明すると、真壁が湯呑みを卓へ置いた。

 

 帆波は続けて、賞賛票の最多者には退学を一度免れるためのプロテクトポイントが与えられること、翌日の説明で、他クラスの生徒一名へ投じる賞賛票と、二千万プライベートポイントによる救済措置が加わったことを伝えた。

 

「ちょっと確認したい」

 

 話が途切れたところで、真壁が言った。

 

「学年末試験では、全員が必要な成績を取ったんだな」

 

「はい」

 

「それでも、次の試験では誰か一人を退学にする。一定の基準に届かなかった生徒ではなく、クラスの中で一番批判票の多かった生徒を」

 

「そうです。ポイントで取り消せなければ、その一人が退学になります」

 

 真壁はすぐには感想を言わず、湯呑みの縁へ目を落とした。それから、何かの手順を最初からたどり直すように、帆波を見た。

 

「だったら、全員が改善しても、退学する枠は消えないな」

 

 帆波は返事をしようとして、少し止まった。

 

「……はい。みんながよくなっても、誰かが一番下になるので」

 

「そこがまず、おかしい。問題のある人間を見つけるなら、問題がなかった場合も結果として認めるはずだ。最初から一人を外すと決めておいて、その理由を後から生徒に探させている」

 

「競争として、相対的な順位をつけたいのかもしれない」

 

 黒瀬が穏やかに言った。真壁の指摘を否定するというより、学校側に立つならどんな説明があり得るかを、卓の上へ置くような声だった。

 

「順位をつけること自体は、ほかの試験でもあるだろう」

 

「順位をつけるところまでは分かる」

 

 真壁は頷いた。

 

「ただ、一番下だったことと、使いものにならないことは違う。全部使える道具を並べて、順位が下だから一つ捨てるなら、作業する側は困る」

 

 手元の湯呑みを持ち上げかけて、真壁はわずかに口元を緩めた。

 

「人を道具扱いしているんじゃない。必要なものまで捨てる仕組みは、現場では役に立たないという話だ」

 

「学校でも、同じかもしれませんね。勉強が得意な子だけじゃなくて、運動が得意な子も、人をまとめるのが上手な子もいるので」

 

「その違いを確かめる前に、一本の順位にしてしまうわけだ」

 

 真壁の返事を聞き、帆波は柴田が机へ来たときの顔を思い出した。手元のポイントを送ることで少しでも助けになれると分かり、彼は迷わず端末を操作した。そうした姿を、試験の点数と同じように並べられるのかと問われると、すぐには答えられなかった。

 

「批判したい相手が三人いなくても、三人分、入れるの?」

 

 石川が尋ねた。

 

「はい。賞賛も批判も、三票ずつです」

 

「そうすると、ひどく困らされた相手への一票と、三人選ばなければならないから選んだ相手への一票が、同じ形で集まるのね」

 

 石川は自分の言葉を確かめるように、少し間を置いた。

 

「結果だけを見て、どちらの意味で入った票か分かるのかしら」

 

「理由まで一緒に説明する、という話は聞いていません」

 

「では、少なくとも今分かっている範囲では、票の数と、その人が何をしたかは、別に確かめる必要があるわね」

 

「嫌われる役を引き受けた人間も、不利になる」

 

 真壁が言った。

 

「準備ができていないときに、できていないと言えば、待たされる側は面白くない。だからといって、黙って通した方がいいわけじゃない」

 

 エースが口元をわずかに上げた。

 

「止められる方としては、理由を言ってもらえれば助かるんだがな」

 

「言う。それでも不満を持つ人間はいる」

 

「いるだろうな」

 

 短いやり取りだったが、帆波にも真壁が気にしているものが見えた。人に嫌がられるかどうかを先に考えていては、必要な指摘が遅れる。誰かの失敗を確かめるだけで、自分に批判票が集まるかもしれないなら、注意する側にも別の計算が入る。

 

「悪いところを言わない方が、自分のためになるかもしれないんですね」

 

「そういう動き方を覚えさせる可能性はある。失敗を早く見つけたい組織には、あまりうれしくない」

 

 真壁はそう言ってから、今度こそ茶を飲んだ。

 

「でも、厳しい評価を受ける機会そのものは、あってもいいんですよね」

 

 帆波が尋ねると、石川が頷いた。

 

「ええ。周りからどう見られているかを知ることは、大事だと思う。ただ、今回は、その答えを出す人も、自分が退学するかもしれない立場なのよね」

 

「評価する側が、安全な場所にいない」

 

 黒瀬の言葉に、石川は静かに応じた。

 

「そう。相手のことをよく考えて選ぶ人もいるでしょう。でも、怖くなって、強く言う人へ合わせる子もいるかもしれない。自分を選ばないと約束してくれた相手を、悪く書けなくなることもあると思う」

 

 帆波は白波を思い浮かべた。端末を両手で持ち、送金を終えた後も机の前を離れなかった。そのとき彼女が求めていたのは、評価する基準よりも、誰もいなくならずに済むという返事だったのだろう。

 

「そうして集まった票を、その子たちの正直な評価だと受け取っていいのか。私は、そこが気になるの」

 

 石川は帆波の表情を見ながら続けた。

 

「誰かを選んだ後にも、生活は続くでしょう。残った生徒は、翌週も同じ教室へ通う。仲のよかった相手に批判票を入れたかもしれないし、自分に入れたのは誰かと考えるかもしれない。結果を発表したところで、試験の影響が終わるわけではないわ」

 

「そういう不信を経験することにも、意味がある、と言われたら?」

 

 黒瀬が問うと、石川は少し考えた。すぐに否定するための間ではなかった。

 

「経験から学ぶことは、あるでしょうね。でも、何かを学ぶ人がいることと、学校がわざわざその状況をつくることが適切かどうかは、同じではないと思うわ」

 

 湯呑みを置く指先が、丁寧に卓から離れた。

 

「つらい思いをした後で、自分なりの意味を見つける子はいると思う。それを最初から当てにして負担を与えたら、その子が立ち直る努力まで、学校の教育成果にしてしまわないかしら」

 

 帆波は茶を口へ運びかけて、手を止めた。言われてみれば、苦しい経験をした後に何かを得ることと、その苦しさを与えた人が正しかったことは、違っている。

 

「負担をかけるなら、その負担が何につながるかを考えるべきだな」

 

 エースが言った。

 

「一之瀬。学校は、今回の試験で何をできるようにすると説明した?」

 

「……人を評価することや、誰かを選ぶこと、だと思っていました」

 

「それは、学校がはっきり言ったことか?」

 

 声は落ち着いていた。問い詰められた感じはなく、帆波は聞いたことを思い返せた。

 

「今のは、私がそう受け取った部分も入っています」

 

「そうか。なら、その前提で考えよう」

 

 エースは椅子の背から身体を少し離した。

 

「人を評価する練習なら、どういう情報を見て、どう判断したかを確かめたい。選ぶ練習なら、選んだ結果を見て、次の判断に生かせるようにしたい。そのどちらでも、失敗したときに直すところが要る」

 

「でも、退学した人は、そこで終わりになりますね」

 

「そうだ。その学校では、続きを教えられなくなる。だったら、それでも退学させる必要がある理由は、学校側が持っているべきだろう」

 

「本気で考えさせるため、という説明はできるかもしれないね」

 

 黒瀬が言うと、エースは一度頷いた。

 

「退学がかかっていれば、本気にはなるだろうな。ただ、本気で何を考えるかは別だ。正しい評価より、自分が残る方法を真剣に考えるかもしれない」

 

 帆波は隣を見た。エースは穏やかなまま、言葉を続けた。

 

「俺が一之瀬に危険のある訓練をさせるなら、何を身につけるためで、どこまでなら対処できるかを考える。怖がらせれば真剣になるから、というだけで危険を増やしていたら、指導としては雑すぎる」

 

「本気になることが、目的そのものになってしまうんですね」

 

「少なくとも、それだけでは足りない。追い込めば必ず望んだ能力が育つ、というわけじゃないからな」

 

 異界での練習を思い返すと、帆波にはエースの言うことが分かった。身体へ負担がかかることも、失敗を指摘されることもあった。それでも、何を見落としたのか、次にどこへ注意を向ければよいかは残った。危なかったという記憶だけを持ち帰るために、そこへ立たされているのではなかった。

 

「票を集める力を見るなら、どうだろう」

 

 黒瀬が、先ほどとは別の可能性を示した。

 

「交渉や人間関係を使って、自分を残す。そういう競争だと考えることはできる」

 

「それなら、見えるものはある」

 

 エースは否定しなかった。

 

「誰を味方につけるか、どう約束するか、どこへ票を集めるか。そこは競える。ただ、その勝者を、人を正しく評価できる者だとは限らない。試した能力の名前を、後から立派なものに変えない方がいい」

 

「他クラスの賞賛票もありますし」

 

 帆波が言うと、真壁がこちらへ目を向けた。

 

「クラス内での働きをよく知らなくても、票は入れられるんだな」

 

「はい。他クラスの一人を選びます」

 

「それなら、賞賛票の最多も、クラスで一番貢献した人とは限らない」

 

「普段から他クラスにも信頼されている人が選ばれることは、あると思います」

 

「それはある。だから、全部が無意味だとは言わない」

 

 真壁の返事は簡潔だった。

 

「ただ、助けてもらった礼なのか、別の取引なのか、単に親しいのか。それが分からないまま、同じ賞賛票として扱う。測りたいものを混ぜすぎている」

 

「その結果で、退学を免れる権利まで与えるわけか」

 

 エースが言った。帆波が頷くと、エースは黒瀬へ視線を向けた。

 

「交渉に勝った者へ報酬を出す仕組みとしては分かる。だが、誰が残るべきかを判断する教育と呼ぶには、相当説明が必要だな」

 

「評価と競争と処分が、一つに重なっている」

 

 黒瀬は静かにまとめた。

 

「それぞれに別の理由があってもおかしくはない。ただ、全部を一つの投票で済ませるなら、その結果が何を意味するのか、学校は慎重に扱わなければならない」

 

 帆波は湯呑みへ目を落とした。賞賛票、批判票、プロテクトポイント。教室で聞いたときには、まず規則として頭へ入れた。その仕組みが何を表しているかまでは、確かめていなかった。

 

「先生たちからも、実施への異議は出たそうです」

 

「担任の先生が、そう説明したのかな」

 

 黒瀬に聞かれ、帆波は頷いた。

 

「はい。先生たちも、納得して決めたわけではないみたいでした」

 

「それなら、学校の中でも問題だと考えている人はいるんだね」

 

 黒瀬はそこで少し言葉を切った。

 

「とはいえ、教師が反対したことと、学校の責任がなくなることも別だ。処分をする以上、誰かがその判断を引き受けなければならない」

 

「投票で決める場合でも、ですか?」

 

「投票という方法を選んだのは、学校だからね」

 

 返事に迷いはなかった。

 

「人を評価するときに、同僚や部下から意見を聞くことはある。見えない働きや問題を知るためには、有用だと思う。確か360度評価とかいったかな。けれど、意見を集めることと、処分の決定を任せることは違う」

 

 黒瀬は真壁と石川へ一度目を向け、それから帆波へ視線を戻した。

 

「例えば、支部で誰かの仕事ぶりに問題があったとする。周囲の意見は聞く。でも、担当を外すなら、何が問題で、改善できるか、配置を変える余地はないかを確かめる。それをせずに、みんなが嫌だと言ったから外します、では、管理する側の責任を果たしたことにならない」

 

「票を数えるだけなら、責任者を置く必要がない」

 

 真壁が言った。黒瀬はわずかに口元を緩めたが、否定しなかった。

 

「厳しい決断を教えるのであれば、その決断に伴う責任も教える必要がある。誰かを切り捨てる行為だけ取り出して、社会では必要だから、と言っても不十分だ。上司が部下を切るのと、同僚が同じ立場の同僚を追放するのは、違うということだね」

 

「選べるだけで、決めた後のことは扱えないですもんね」

 

 帆波が言うと、黒瀬は頷いた。

 

「生徒には、学校と同じ権限も、調べられる情報もない。退学後のことを引き受ける立場にもない。それなのに、誰を退学させるかという重さだけを渡すのは、責任の教育とは言えない」

 

 教卓に立っていた星之宮の顔が浮かんだ。説明をする声には、いつもの軽さがなかった。あの人も、決めたことを伝える側に立たされていたのだろうか。帆波には、そこまでは分からなかった。

 

「二千万ポイントがあれば助けられる、というのはどうですか。うちのクラスでは、みんなで出し合っているんです」

 

「今、どのくらい集まっているの?」

 

 石川が尋ねた。

 

「だいたい千六百万です。私の口座に預かっています。あと四百万くらい足りません」

 

「そう。集めることにも、気を使うでしょうね」

 

「誰からいくら預かったかは、確認しています」

 

 石川は頷き、少し考えてから口を開いた。

 

「助かる道があること自体は、その子にとって大事だと思うわ。ただ、用意できなかったときに、『自分がもっと出していれば』と考える子もいるでしょうね。残る子たちの間に、出した額の違いが残ることもあるかもしれない」

 

「協力する力を見るなら、資金を集める課題として説明すればいい」

 

 真壁が言った。

 

「人を評価して退学させる手順に重ねると、また別のものが混ざる。批判票が集まった理由は、二千万払ったところで消えないだろう」

 

 帆波は顔を上げた。

 

「……そうですね。票の理由が変わるわけではないです」

 

「学校に残すべきでないほどの問題があるなら、金を集めたから残していい理由が要る。逆に、金さえあれば残っていいなら、最初から退学させる必要がどこにあったのか、という話になる」

 

「それでも、救済がない方がいい、とは言えないわ」

 

 石川の声は穏やかだったが、今度は真壁へはっきり向いていた。

 

「それはそうだ」

 

 真壁も、すぐに受けた。

 

「今受ける生徒にとっては、あった方がいい。救済をなくせと言っているんじゃない。そもそもの退学の理由が、なおさら分からなくなるということだ」

 

「助けられる人がいることは認めた上で、何のための処分かを問うべきだな」

 

 エースが言った。

 

「そこで混ぜると、助かる道があるんだから試験も正しい、という話になってしまう」

 

 帆波は息をつき、少し冷めた茶を飲んだ。喉を通る熱は、もう初めほど強くない。

 

 クラスでは、どうすれば二千万に届くかが話の中心だった。今ここで出ているのは、それが届かなければ誰かを退学させるという仕組みを、なぜ学校が用意したのかという問いだった。

 

「私たちが、何とかする方法を考えていること自体が、試験としてうまくいっている、と思われるかもしれませんね」

 

「そう考える側は、いるかもしれない」

 

 エースは答えた。

 

「だが、仕組みのせいで困っている人間が、自分たちで何とかしようとするのは当然だ。それだけで、その仕組みをつくった側がよい指導をしたことにはならない」

 

 帆波は湯呑みを置いた。反論したいわけではなかったが、教室にいるときには見えていなかった部分が多くて、一つずつ確かめずにはいられなかった。

 

「厳しいから、おかしいんじゃないんですね」

 

「厳しさに見合う目的と手順と責任があるか、だな」

 

 エースがこちらを見た。

 

「一之瀬が今話してくれた範囲だと、そこがない」

 

「真っ当な試験とは思えないな」

 

 黒瀬の言葉は静かだった。それまでに出た意見を受け止めた上での声で、勢いで学校を罵るようなところはなかった。

 

 しばらく、食堂の別の卓から聞こえる食器の音が、帆波の耳に戻ってきた。誰かが立ち上がり、返却口へ盆を運んでいる。窓際の光は卓の端まで移っていた。

 

「一之瀬さん。学校のことについて、一つ確認してもいいかな」

 

 黒瀬が言った。帆波が頷くと、今度は試験の規則とは違う名前が出た。

 

「一年生に、綾小路清隆という生徒がいる。知っているだろうか」

 

「綾小路君なら、知っています。別のクラスですけど、話をしたこともあります」

 

「そうか。面識があるんだね」

 

 黒瀬はそこで一度待った。帆波は、なぜ今その名前が出たのかと思いながら、続きを聞く姿勢になった。

 

「これから話すのは、先ほどの試験への意見とは別の、学校人事について確認した情報だ。綾小路君にも関わっている」

 

「……はい」

 

「二月に、坂柳成守理事長が職務を停止され、月城という人物が理事長代理に就いた」

 

 帆波は無意識に背筋を伸ばした。坂柳の父親である理事長の名前は知っていたが、その交代について、今のような説明を聞いたことはなかった。

 

「こちらでは、二月の時点で把握していた。坂柳理事長は、臨海支部の存在と、こちらの扱う事情を最低限知っている学校側の窓口でもあったからね。その窓口が変わることで支部の活動へ影響が出ないか、関係する政治家に照会した」

 

「それで、何か分かったんですか?」

 

「回答は二月中に受け取っている。今日の話を聞いて、新しく調べ始めるということではないよ」

 

 黒瀬は、時期を確かめるようにそこを区切った。

 

「月城が送り込まれた背景には、綾小路君の父親側の意向がある。息子を学校から退学させ、退去させることが目的だという回答だった」

 

「綾小路君を退学させるために、理事長が交代したんですか?」

 

 聞き返してからも、帆波には、教室で知っている彼の姿とうまく結びつかなかった。淡々とした話し方や、必要以上に目立とうとしない様子は思い出せる。その同級生を学校から出すために、運営する側の人事が動いたという。

 

「お父さんが、そこまでして連れ戻したいって……どうしてでしょう。そもそも保護者なら、普通に学校へ言えばいいんじゃないですか」

 

「家庭の事情の詳しいところまでは、ここで説明できない。今伝えられるのは、通常の人事ではない、ということだ」

 

 黒瀬は、帆波の疑問を埋めるための話を付け足さなかった。分からない部分が残ったままなのは落ち着かなかったが、だからといって、もっともらしい理由を自分で置くこともできない。

 

「それなら、今回の試験も、綾小路君を退学させるために……」

 

「その可能性は高い。ただ、確定というわけではない」

 

 黒瀬の声は変わらなかった。

 

「月城が来た目的については回答を得ている。一方で、今回の試験の細則を誰がどう決めたか、どの部分にその目的が入っているかは、こちらが把握している情報ではない」

 

「人事の目的が分かったからといって、この試験の目的が分かったことにはならないな」

 

 エースが補うと、帆波は小さく頷いた。

 

「はい。そこは、まだ分からないんですね」

 

「そうだ。今ある情報だけで、先まで決めてしまわない方がいい」

 

 帆波は湯呑みから手を離した。綾小路も、同じ試験を受ける一年生の一人だった。その彼を退学させたい人が学校の外にいて、その意向が学校の人事へ届いている。そう聞いた後では、月曜日のホームルームを、前とまったく同じものとして思い返すことは難しかった。

 

「先生たちが反対しても、止まらなかったのは……そういう事情も、関係しているかもしれないんですね」

 

「かもしれない。ただ、担任の先生がどこまで背景を知っているかも、こちらからは断定できない」

 

 黒瀬は言い終えてから、少し間を置いた。

 

「二月に回答を受けたときには、一般の生徒までこういう形で巻き込まれることを把握していなかった。今日、君から試験の話を聞いて、学校人事の背景が君自身にも関係する情報になったと判断したんだ」

 

「だから、教えてくださったんですね」

 

「そう。ただし、情報を伝えることと、ガイア連合が学校運営へ介入することは別になる」

 

 帆波は頷き、続きを待った。

 

「こちらから試験の中止や是正を求めたり、投票先を指示したりはしない。政治家に照会できることも、学校の教育の責任がとれることを意味しないからね」

 

 黒瀬の説明は、拒まれたようには響かなかった。どこまでが臨海支部の仕事なのかを、帆波にも分かるように示しているのだと思えた。

 

「私も、皆さんに止めてもらおうと思って、話したわけじゃないです」

 

「うん。それは分かっているよ」

 

「学校で、こんなことがあって……って。それだけのつもりだったんですけど」

 

 帆波は卓の上へ視線を落とし、少し笑った。

 

「私が考えていなかったところが、たくさんありました」

 

「話してみると、そういうことはある」

 

 エースの返事は、いつもの調子だった。

 

「今日聞いたことを、今すぐ全部まとめる必要はない」

 

「そうね。新しく知った話もあるもの」

 

 石川が頷き、帆波の手元を見た。

 

「お茶も、すっかり冷めてしまったでしょう」

 

「あ……はい」

 

 湯呑みに触れると、指へ移る熱はほとんどなかった。真壁が自分の空の湯呑みを持ち上げる。

 

「やっぱり、休憩にしては話が長かったな」

 

「途中から、俺たちの方が話していたがな」

 

 エースが言うと、真壁は少し考えてから頷いた。

 

「それはそうだ。茶のせいにはできない」

 

 帆波は笑った。石川も口元を緩め、黒瀬は残っていた茶を飲んでから、静かに椅子を引いた。

 

 知ったことは、まだ頭の中に残っていた。綾小路の父親のことも、理事長の交代も、学校がこの試験を行う理由も、一つの形には収まらない。四人の話を聞いて、答えが出たというより、それまで一緒に受け取っていたものを、もう少しよく見なければならないと思った。

 

「この後は、どうするつもりだった?」

 

 エースに聞かれ、帆波は顔を上げた。

 

「練習をしたくて来ました。時間、大丈夫ですか?」

 

「大丈夫だ。身体の調子は?」

 

「問題ないです」

 

 石川の視線がこちらへ向いたので、帆波は笑みを足した。

 

「本当に。今日は、学校でも具合が悪くなったりしていません」

 

「それならよかった。途中で変わったら、そのときに教えてね」

 

「はい」

 

 湯呑みを返し、鞄を持って立ち上がる。エースも隣で席を立った。その姿を見ると、帆波の意識は、ここへ来る途中に考えていた練習へ少しずつ戻っていった。

 

 食堂を出る手前で振り返ると、黒瀬が小さく頷き、石川が手を上げた。真壁は空いた卓を一度確かめてから、湯呑みを返却口へ運んでいる。

 

 廊下へ出ると、窓からの光が床を長く横切っていた。エースがこちらの歩幅に合わせて速度を緩める。帆波はその隣へ並び、今日、確かめておきたかった動きを話し始めた。

 




彼らの議論は適当です。真に受けないでください。
それっぽいことを言って、月城の情報をほなみちゃんへ渡すだけのお話でした。
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