三月五日の夜、学生寮の廊下には、等間隔に並ぶ照明の光が落ちていた。窓の外は暗く、ガラスには室内の白い壁と、そこを歩く帆波の姿が映っている。昼間に温まった建物の中にも、外気に近い窓際だけには冷たさが残っていた。
綾小路の部屋の前で足を止め、呼び鈴を押した。ほどなく扉が開き、茶色の髪の下から、感情の読み取りにくい目がこちらを向く。
「来てくれて助かる」
「ううん。話って、試験のことだよね?」
「ああ。入ってくれ」
帆波は頷き、部屋へ入った。
綾小路清隆は、別のクラスに所属する同級生だった。背が高く、整った顔立ちをしているが、話しているときにも自分を大きく見せようとするところがない。静かな声で必要なことを言い、相手の返事を待つ。その落ち着きは、今夜も変わらなかった。
二日前に黒瀬から聞いた話が、頭の隅をかすめた。この学校から彼を退学させたい父親がいて、その意向が理事長の交代に関わっている。けれど、ここへ来たのは、その事情を尋ねるためではない。帆波は鞄を持ち直し、室内へ目を向けた。
先客が二人いた。
一人は伊吹澪だった。短い髪と鋭い目つきが印象に残る女子生徒で、こちらを見ても愛想を添えず、壁際で腕を組んでいる。馴れ合う気はないという態度が、挨拶より先に伝わってきた。
もう一人の石崎大地は、帆波を見るなり姿勢を変えた。普段の強気な印象に比べ、今は口を開く前から落ち着かなさが見える。何かを頼むために来たのだと、その顔を見れば分かった。
「一之瀬。悪いな、こんな時間に」
「大丈夫だよ。二人も、試験の話?」
「ああ。龍園さんのことで、話がある」
石崎が答えた横で、伊吹が腕をほどいた。
「立ったまま話すことでもないでしょ」
促され、帆波は空いている場所へ腰を下ろした。綾小路も近くに座ったが、自分から説明を始めることはしなかった。伊吹と石崎の方へ目を向け、話の順番を渡している。
「龍園君のことって、投票の?」
「退学させたくないんだ」
石崎の返事は早かった。言ってから一度唇を結び、膝に置いた手を握り直す。
「そのために、お前らのクラスの力を借りたい」
帆波は二人を見た。龍園の退学を避けたい。その目的は分かったが、何を求められるのかは、まだ聞いていない。
「具体的には、どういう話かな」
「そっち、救済のポイントが足りてないんでしょ」
伊吹が言った。
「うん。二千万までは届いていないよ」
「四百万。それを、こっちから出す」
帆波は伊吹の顔を見てから、石崎へ視線を移した。石崎も頷いている。冗談でも、金額を間違えている様子でもなかった。
約千六百万ポイントを預かっていて、必要なのは二千万。あと四百万という不足は、何度確かめても変わらなかった。それが埋まる額だった。
「四百万ポイントを、うちのクラスの救済に使わせてもらえるんだね」
「ああ。そうすれば、そっちも誰も退学しなくて済むだろ」
石崎の声に力が入った。
「だから、こっちの頼みも聞いてほしい」
「条件を聞かせて」
帆波が答えると、伊吹がこちらをまっすぐ見た。
「あんたたちのクラス全員。他クラスへの賞賛票を、龍園に入れてほしい」
室内が少し静かになった。帆波は、今聞いた条件を頭の中で並べた。自分のクラスから誰か一人を選ぶ票ではない。他クラスの生徒へ投じる、あの一票を求められている。
「四十人全員で、四十票?」
「そう」
「私の一票だけじゃなくて、みんなの分も、ということだね」
「それだけあれば、龍園さんを残せる可能性が上がる」
石崎が身を乗り出した。
「お前らのクラスも助かる。どっちにも損はない話だろ」
帆波はすぐには頷かなかった。
四百万ポイントが手に入れば、救済に必要な額がそろう。それは、こちらにとって大きな利益だった。一方で、二人が求めているのは、帆波が預かっているポイントの使い道ではなく、四十人それぞれが明日投じる票だった。
「四十票あれば、必ず大丈夫なの?」
尋ねると、石崎は言葉を止めた。伊吹が横から答える。
「結果が出る前に、絶対なんて言えない。でも、何もしないよりはずっといい」
「……そうだね」
帆波は頷いた。二人が何を得たいかは分かった。誰かを退学させる試験の中で、残したい相手のために使えるものを持ってきている。
黒瀬たちと話した、他クラスからの賞賛票が頭をよぎった。クラス内でどれだけ貢献したかとは別のところで、票が動く。その仕組みが、今は具体的な金額と条件になって、自分の前に置かれていた。
「返してもらうために貸す、って話じゃないんだよね?」
「ああ。四十票と引き換えだ」
石崎が答え、伊吹も否定しなかった。
「分かった。四百万を受け取る代わりに、うちのクラス全員が龍園君へ賞賛票を入れる。それが条件なんだね」
「そう言ってるでしょ」
伊吹の返事には、少しだけ苛立ちが混じった。帆波はそれを聞きながら、もう一度二人の顔を見た。
「だったら、ここでは約束できないよ」
石崎の眉が動いた。
「何でだ? 足りない分は、全部出せるんだぞ」
「うん。うちのクラスにとって、助かる話だと思う。でも、私だけでみんなの投票先を決めることはできないから」
「お前が話せば、聞くだろ。あいつら、お前を信用してるんだし」
帆波は膝の上で指を緩めた。
その言葉は、学校で何度も向けられてきたものに近かった。帆波が言えば、みんなが動く。帆波が持っていれば安心できる。悪意のある言い方ではなくても、返事を求められたところに、自分一人では持っていないものまで並べられる。
「話はできるよ。でも、私が話すことと、みんなが賛成することは別だから」
「クラスの誰かが退学するより、いいに決まってるじゃねえか」
石崎は言ってから、帆波の顔をうかがった。その勢いは、こちらを脅して動かそうとするより、分かってもらいたくて言葉が先に出たように見えた。
「……悪い。けど、こっちも明日なんだ」
「うん。それは分かってる」
帆波は声を強めずに答えた。
「私も、足りないままでいいと思っているわけじゃないよ。ただ、全員の返事を聞かないうちに四十票を出せると言ったら、違うことになってしまう」
伊吹が目を細めた。
「龍園に入れるのが嫌な人間がいる、ってこと?」
「そう思う人がいるかどうかも、まだ聞いていないから分からない。ほかに入れたい相手がいるかもしれないし」
「その一票で、自分たちのクラスが助かるとしても?」
「どう考えるかは、本人に聞かないと」
伊吹は唇を結んだ。反論が途切れた後、帆波は綾小路へ目を向けた。彼は二人と帆波のやり取りを、黙って聞いていた。
「綾小路君も、そういう条件だと聞いていたんだよね?」
「ああ。四百万と、四十人分の賞賛票だ」
「うん。確認したかっただけ」
彼が仲介しているからといって、自分のクラスの返事が変わるわけではなかった。帆波は視線を二人へ戻した。
「投票は、誰がどこへ入れたか分からない形だよね」
「だから、信用して頼んでるんだろ」
石崎が言った。
「うん。でも、私が自分の一票を約束するのと、ほかの三十九人の分まで約束するのは、同じじゃないよ」
投票の瞬間に、誰が何を考えるか。今ここで帆波が返事をしても、その意思まで引き受けることはできなかった。リーダーだと呼ばれていることも、ポイントを一つの口座へ集めていることも、ほかの人の票を帆波のものにはしない。
伊吹が、床へ落としていた視線を上げた。
「じゃあ、何ならできるの」
「クラスのみんなに、この条件を伝える。四百万を出してもらえることと、その代わりに全員が龍園君へ入れる必要があること。両方話して、意見を聞くよ」
「全員、賛成させてくれるんじゃないのか」
石崎の問いに、帆波は首を横に振った。
「そこまでは約束できない。まだ、誰の返事も聞いていないから」
石崎が息を吐いた。握っていた手を開き、また膝へ置く。その隣で、伊吹は腕を組み直した。
「……今夜中に、返事はできる?」
「今から集まれるか、連絡する。話ができたら、その結果を伝えるね」
伊吹は少しの間、帆波を見ていた。それから短く頷いた。
「分かった。待つ」
「頼む。一之瀬」
石崎の声は、最初より低くなっていた。
帆波は頷いたが、同じ頼みをそのまま引き受け直す言葉は添えなかった。二人が龍園を残したいことは分かった。こちらにも、受け取る利益はある。その話を持ち帰るところまでは、自分で決められた。
端末を取り出し、クラスへ連絡を入れた。投票に関わることで、今夜、直接話したいことがある。学生寮の共用スペースへ集まってほしいと伝える。四百万という数字も、龍園へ投じる票の話も、返事の短い文字列だけで進めるつもりはなかった。
画面に反応が増え始めた。神崎から、集まれるという返事が届く。網倉も応じ、柴田からは何時に行けばよいかと確認が来た。
帆波は時刻を伝えてから、端末を伏せた。
「みんな、集まれそう。私も行くね」
「ああ」
綾小路が立ち上がり、扉までついてきた。石崎はもう一度頭を下げ、伊吹は座ったままこちらを見た。その視線の強さには、まだ返事を待っている緊張があった。
玄関で靴を履き、鞄を持つ。綾小路が扉を開けると、室内より少し冷たい廊下の空気が頬に触れた。
「遅い時間に悪かったな」
「大丈夫。条件は分かったから」
帆波はそう答え、一度だけ振り返った。
「でも、まだ決まったわけじゃないからね」
「分かってる」
綾小路の返事を聞き、帆波は廊下へ出た。
扉が閉まると、足音が前よりはっきり聞こえた。端末には、その間にも返事が届いていた。白波からも、すぐに行くという連絡が来ている。
四百万ポイントで不足は埋まる。けれど、その四百万は、帆波一人の返事と交換できるものではなかった。みんながどう考えるかを聞き、それから結果を伝える。今夜することは、そこからだった。
共用スペースへ着くと、神崎が先に来ていた。こちらを見つけると立ち上がり、近づいてくる。
「急な話なのか」
「うん。投票に関わる取引を持ちかけられたんだ。詳しいことは、みんながそろってから話すね」
「分かった」
神崎はそれ以上を先に聞こうとはせず、席の方へ目を向けた。柴田も入ってきて、帆波へ片手を上げる。網倉は白波と一緒に現れ、空いている場所を確かめてから座った。
「帆波ちゃん、何か方法が見つかったの?」
白波に尋ねられ、帆波は鞄の持ち手を握り直した。
「条件を聞いてきたところだよ。まだ決まってはいないの」
「そっか……でも、話を聞けたんだね」
白波の顔に少し明るさが差した。帆波は小さく頷き、入口へ目を移した。次の生徒が入ってきて挨拶をすると、その声へ応じる。白波が網倉の隣へ戻ってから、帆波は端末で出席の返事を見直した。
椅子の動く音と低い話し声が、共用スペースを満たしていった。普段ならそれぞれの部屋へ戻っている時間に、同じクラスの生徒が一人ずつ集まってくる。伊吹も石崎も綾小路も、ここにはいなかった。
最後の一人が席につき、神崎が室内を見渡した。
「全員いる」
「うん。ありがとう」
帆波も顔を上げた。自分を含めた四十人が、ここにそろっていた。
期待している顔も、事情が分からずに待っている顔もある。その一つ一つを見てから、帆波は端末を脇へ置いた。
「遅い時間に集まってくれて、ありがとう。明日の投票について、みんなに聞いてほしい話があるんだ」