「不足している四百万ポイントを、出してもらえる話があったんだ」
帆波がそう切り出すと、手元の端末を見ていた生徒も顔を上げた。共用スペースの奥で続いていた低い話し声がやみ、椅子の背から身を起こす気配が重なる。窓際には夜気に冷やされた空気が薄くたまり、暖房の風が届くたび、足元の冷たさがわずかに和らいだ。
「今、私が預かっている分と合わせれば、二千万になる。ただ、もらえることが決まったわけじゃないよ。条件があるから、みんなに聞いてほしいの」
「条件って?」
網倉麻子が尋ねた。白波の隣に座ったまま、膝の上に置いていた手をほどいている。話の先を待つ表情には明るさが差していたが、帆波が続きを口にする前に頷いてしまうことはなかった。
「明日の、他クラスへの賞賛票を龍園君に入れること。私も含めて、このクラスの四十人全員が。それと引き換えに、四百万ポイントを出してくれるって」
網倉の口元から、浮かびかけていた笑みが消えた。
「……龍園に?」
柴田颯が、聞き間違いを確かめるように言った。椅子に浅く腰かけ、両膝の間で組んでいた手を離す。普段なら誰かの発言に気軽な相槌を添える彼が、今は眉を寄せて帆波を見ていた。
「うん。伊吹さんと石崎君から頼まれたの。龍園君を退学させたくないから、私たちの票を集めたいって」
「龍園本人が、そう言ったのか?」
神崎隆二の問いに、帆波は首を横に振った。
「私が話したのは、その二人だよ。龍園君本人とは会ってない」
「分かった。四百万は借りるのか。それとも、票の対価として受け取るのか」
「票の対価だよ。返済の必要はないって」
神崎は一度目を伏せ、すぐに顔を上げた。考え込むときにも、彼は周りへ同意を求めるようには視線を動かさない。必要なところを一つずつ確かめ、曖昧なまま次へ進むことを避けていた。
「四十票という条件は、減らせないんだな」
「聞いてきた条件は、四十人全員の四十票だったよ。私の分だけ約束する話にはならなかった」
「その場では、何と答えた?」
「みんなに条件を伝えて、意見を聞くって。全員が賛成するとは約束してないし、ポイントも受け取ってない」
帆波が答えると、神崎は短く頷いた。その傍らで、柴田が椅子の座面に片手をついた。
「四百万あれば、うちは全員残れるんだよな」
「救済に必要な額には届くよ」
「だったら、受けた方がいいんじゃないか」
少し離れた席から男子生徒の声が上がった。
「俺たちのクラスから誰かを選ぶ票じゃないんだろ。他クラスに入れる分を渡すだけでいいなら、それで二千万そろうんだし」
「でも、相手が龍園だぞ」
柴田の返事は早かった。言ってから、声が強くなったことに気づいたように背筋を戻す。
「誰でもいいって話じゃないだろ。今まで、あいつらがどうやってきたか知ってるじゃないか。ここで残したら、また俺たちが困るかもしれない」
「それは分かるけど、明日いなくなるかもしれないのは、こっちの誰かなんだぞ」
問い返した男子生徒は、柴田だけでなく、その周りへも目を向けた。
「龍園が嫌いなのと、俺たちの誰かを残せるのと、どっちを優先するんだよ」
柴田の顎に力が入った。何か言いかけた彼より先に、網倉が口を開く。
「ちょっと待って。それだと、反対したら誰かが退学してもいいって言ってるみたいになるよ」
「そういう意味じゃないけどさ」
「うん。そっちも、みんなで残りたいから言ってるんでしょ。柴田君も同じだと思う」
網倉は両方の顔を見てから、帆波へ視線を戻した。
「帆波ちゃん。四十票が入ったら、龍園君は退学しないんだよね?」
「うん。龍園君に集まる批判票は、最大でも四十票だから。私たちの賞賛票が四十票入れば、その分を全部打ち消せる。退学は避けられるよ」
「そっか……」
網倉は唇を結んだ。隣の白波がこちらを見ていることに気づくと、少し身体をそちらへ向け、それからまた帆波を見た。
「私は、受ける方がいいと思う。龍園君を助けたいからじゃないよ。ここにいる誰かが、明日からいなくなる方が嫌だから」
その声には、先ほどの明るさはなかった。それでも、語尾を曖昧にして周囲へ判断を預けることはせず、網倉は自分の考えを言い終えた。
「四百万って、今から簡単に用意できる額じゃないよね。使える方法があるなら、使いたい」
「……俺だって、誰かにいなくなってほしいわけじゃない」
柴田が言った。今度は反対側の男子へ言い返すのではなく、膝の上で指を組み直しながら話していた。
「でも、龍園への賞賛票だろ。あいつのやり方でよかったって、こっちから票を入れるみたいで、俺は嫌だ」
「賞賛って名前だからって、全部認めたことになるわけじゃないと思う」
網倉はそう答えたが、柴田はすぐには頷かなかった。
「そう割り切れるかって言われると……俺は、できない」
帆波は二人の言葉を聞いていた。四百万で不足が埋まることは、どちらも理解している。網倉はその金額で残せる同級生の方を見ていて、柴田は、票を投じた先に残る龍園を見ていた。
同じ説明をもう一度したところで、二人が別のものを見ていることまでは変わらないだろう。帆波は端末に触れず、次の声を待った。
「私も、龍園君に入れるのは賛成できない」
後方に座った女子生徒が、小さく手を上げた。皆の視線が向くと肩を縮めたものの、手を下ろして黙ってしまうことはなかった。
「助けてもらえるのは分かるよ。でも、嫌だって思ってるのに、入れますって約束はできない」
「ほかの人に入れたいってことか?」
神崎が尋ねると、彼女は迷ってから首を振った。
「まだ決めてない。でも、龍園君に入れるのは、違うと思う」
その近くにいた男子生徒も、賛成できないと続けた。彼は柴田の方へ頷いてから、自分の膝に視線を落とした。
網倉の肩が、わずかに下がる。帆波は彼女の顔を見たが、網倉も反対した二人へ何か言うことはしなかった。室内に残った沈黙の中で、暖房の送風音が前よりはっきりと聞こえた。
「……帆波ちゃんは?」
白波の声だった。
彼女は膝の上に両手をそろえ、指先を重ねていた。先ほどから発言する人の顔を順に見ていたが、今は帆波を見上げている。
「帆波ちゃんは、どうしたいの?」
帆波は少し間を置いた。白波の目が、自分の返事を待っている。その視線に応じようとするより先に、椅子の脇へ置いた鞄の持ち手に指が触れた。
「四百万を使わせてもらえるのは、私たちにとって大きいと思うよ。でも、私が受けたいと言ったら、それでみんなの答えを決めていいとは思ってないんだ」
「うん……それは、そうだけど」
白波は俯きかけ、それから顔を上げ直した。
「私、誰にも退学してほしくない。みんなで二年生になりたいし、帆波ちゃんにも、これ以上無理してほしくないよ」
言葉の途中で、彼女の指がきつく重なった。
「ずっと、ポイントのことも考えてくれてたでしょ。これも、私たちのために聞いてきてくれた話なんだよね」
「条件を聞いて、持ってきたんだよ。まだ、何も決まってないから」
「……うん。ありがとう」
白波が頷く。ひとまず返事が済んだことで、帆波の指は鞄から離れた。顔を神崎の方へ向けると、肩に入っていた力が少し抜けた。
神崎は机の縁に置いた手を動かさず、室内を見渡していた。
「一之瀬が今、取引を受けると言っても、反対している人間の票まで約束することになる。それはできない、ということだな」
「うん」
「ここで多数決をして、賛成が多ければいいって話にはできないの?」
網倉が尋ねた。帆波を急かす声ではなく、残っている方法を一つ確かめるような問いだった。
「多数が賛成しても、四十人全員が龍園に投票するとは限らない」
神崎が答えた。
「投票先を確かめることもできない。賛成が多かったという結果だけを持って、四十票を出せるとは言えない。全員の票を約束するなら、全員が納得する必要があると思う」
「……そうだよね」
網倉は息を吐き、両手を膝へ戻した。
「ごめん。分かってるんだけど、あと四百万だと思うと」
「謝らなくていいよ」
帆波は答えた。
「受けた方がいいっていう意見も、受けられないっていう意見も聞くために、集まってもらったんだから」
柴田が顔を上げた。その目が帆波と合い、何か確かめるように少し細くなる。
「一之瀬。俺、お前が持ってきた話だから反対してるわけじゃないぞ」
「うん。分かってるよ」
「何とかしたいのも、本当なんだ。でも……」
「龍園君への票は、約束できないんだね」
柴田はゆっくり頷いた。帆波は、先ほど反対した生徒にも目を向ける。二人とも、意見を変えたとは言わなかった。
全員へもう一度賛否を尋ねても、今の条件で必要とされている返事はそろわない。帆波はそのことを確かめてから、声を出した。
「それなら、今回は取引を受けられないって伝えるね」
誰かが大きく息を吸った。網倉は目を伏せ、白波は口を開きかけたまま帆波を見ていた。
「四十人全員の四十票が条件だから。今の返事で、出せるとは言えない」
「もう少し話せば……」
先ほど賛成した男子生徒が言った。だが、続きを促すように周りを見たところで、その声は弱くなった。
帆波は反対した生徒の顔へ視線を戻さなかった。
「条件も、受けられる利益も、みんなに話したよ。それを聞いて考えてくれた答えを、賛成になるまで聞き直すつもりはないの」
机の上の端末は、画面が暗くなっていた。伊吹と石崎には結果を知らせなければならないが、それは、この場で話すことが終わってからでよかった。
神崎が椅子の背から身体を離す。
「救済の二千万は、そろわないままだな」
「うん。預かっている分は変わらないよ」
帆波が答えると、室内の何人かが互いの顔を見た。四百万を受け取れないと決めても、明日の投票はなくならない。それまで取引の条件へ向かっていた視線が、今度は同じ部屋にいる生徒へ移っていく。
「じゃあ、明日はどうするんだ」
柴田の問いが、帆波へ向いた。
ほかの顔も上がった。話を持ち帰る前も、今も、彼らは帆波が次のことを話し始めるのを待っている。帆波は膝の上に置いた手を重ね、口を開いた。
「明日のことを話す前に、私からも伝えておきたいことがあるんだ」
神崎の視線が、まっすぐこちらへ向いた。
「私、これからもずっと、クラスをまとめていくつもりはないの」
網倉が顔を上げた。隣で白波の手が動き、膝の上に置いてあった端末へ触れたが、そのまま持ち上げることはなかった。
「……リーダーを、辞めるってこと?」
網倉の声は、少し掠れていた。
「うん。今夜、ここで急に全部終わりにするっていうことではないけど、これから先も私が続けるとは思わないでほしい」
「今の話で、嫌になったのか?」
柴田が身を起こした。
「俺たちが、反対したから」
「違うよ。みんながこの条件に賛成しなかったことへの話じゃないの」
帆波は柴田を見て答えた。彼の後ろで、反対を述べた女子生徒もこちらを見つめている。
「意見を聞くって言ったのは私だよ。違う答えが返ってきたから辞める、ということじゃない」
「だったら、どうして今……」
柴田はそこまで言い、続きを探すように口を閉じた。
帆波には、学校の外で続けたい仕事があった。寮の部屋へ戻って母と美帆の声を聞く時間も、自分のために使いたい時間もある。クラスで何かが起きるたび、その残りをすべて差し出す約束は、もうできなかった。
けれど、それらを一つずつ並べて、ここにいる人たちの大切なものと比べる必要はないと思った。
「これからも続ける気持ちがないのに、みんなにはそう思っていてもらうのは、違うから」
帆波が言うと、柴田は視線を落とした。
「……すぐには、分からないよ」
「うん」
彼に頷いてから、帆波はほかの顔にも目を向けた。怒りを向けてくる人はいなかったが、納得したように見える人も少なかった。網倉は唇を引き結び、神崎の方へ一度視線を送っている。
「帆波ちゃん」
白波が呼んだ。
「リーダーじゃなくなっても、相談には乗ってくれるよね?」
帆波はすぐには返事をしなかった。白波の指が端末の縁をなぞり、こちらを見上げる顔が少し傾いた。その続きを待たれている間、帆波の背中には、椅子の硬さが妙にはっきりと感じられた。
「相談の内容にもよるよ」
声が冷たくならないように、ゆっくり答えた。
「私が全部決めたり、いつでもまとめたりできるとは、約束できないの」
「……全部、お願いしたいわけじゃないよ」
白波は小さく首を振った。
「ただ、帆波ちゃんがいなくなっちゃうみたいで」
「学校を辞める話じゃないよ」
帆波がそう言うと、白波は頷いた。それでも何か言いたそうにしていたが、網倉が隣から顔をのぞき込むと、そちらへ身体を向けた。帆波は息を吐き、重ねていた手の位置を直した。
神崎が口を開くまで、少し時間があった。
「今後のことは、改めて話す必要があると思う」
彼はそう言ってから、室内へ目を向けた。
「ただ、明日の投票だけは、今夜のうちに考えなければならない」
誰かが姿勢を変える。クラスをまとめる人間がいなくなるという話と、明日一人が退学するかもしれないという話が、同じ部屋に残っていた。
「このまま何も決めずに投票すれば、それぞれが、ほかの人間はどう入れるのかを疑うことになる」
神崎は言葉を切った。机に添えていた指を一度曲げ、また伸ばす。
「誰かを挙げても、その理由を巡って争えば、明日までに収まるとは思えない」
「でも、誰か一人に決めるって……」
網倉が言いかけ、口元へ手を当てた。白波は彼女の方を見てから、俯いた。
帆波は神崎を見た。彼はほかの生徒の顔を一人ずつ確かめるように視線を動かしていたが、やがてこちらへ戻した。口を開きかけたところで顎が止まり、閉じた唇の端に力がこもる。
「一之瀬」
「うん」
「今回だけ、頼めないか」
何を、と聞く前に、神崎は視線を机へ落とした。指先が縁から離れ、膝の上に置かれる。その手が動かなくなってから、次の言葉が続いた。
「明日、候補を一人、指名してほしい」
帆波は彼を見返した。
「私が選ぶの?」
「ああ」
返事の後に、短い間があった。神崎の肩はまっすぐだったが、膝の上の手は、もう開いていなかった。
「理由は言わなくていい」
彼ははっきり言った。
「なぜその人間を選んだのか、説明しなくていい。みんなを説得することも、票を約束させることも頼まない。候補として、一人の名前を挙げてほしい」
帆波は、周りへ視線を移した。神崎だけが答えを待っているのではなかった。柴田は顔を上げ、網倉も白波も、こちらを見ている。
「私が名前を言ったら、それを聞いて票を決める人はいると思うよ」
「分かっている」
神崎の返事は低かった。
「影響がないとは言わない。それでも、誰に入れるかを決めるのは、一人ひとりだ」
「その人に入れるように、私が言うわけじゃないんだね」
「ああ。指名するだけでいい」
言い終えた神崎は、すぐに次を重ねなかった。息をつき、膝の上で組んだ手をほどこうとして、また止める。
「このままだと、クラスが崩壊してしまう。……どうか、お願いできないか」
帆波の目には、彼が頭を下げるまでの動きが、ひどくゆっくりと映った。
共用スペースには四十人いる。神崎が顔を伏せても、誰かがすぐに代わって話し始めることはなかった。帆波は彼の言葉を聞いたまま、自分が今、何を頼まれたのかを考えていた。
全員を救う方法を見つけることではない。二千万を集め直すことでもない。明日、候補として一人の名前を挙げる。その発言がほかの人の判断に触れることは、避けられなかった。
「……私からも、お願いしたい」
網倉が言った。帆波が目を向けると、彼女は膝の上で両手を握っていた。
「帆波ちゃんが全部決めてくれればいいって、言いたいわけじゃない。でも、このまま誰の名前も出せないまま明日になったら、私たち……」
そこで声が止まった。網倉は首を振り、言い直した。
「名前を聞いた後、どうするかは自分で考える。そこまで、帆波ちゃんにお願いしない」
「俺もだ」
柴田が続けた。今度は勢いに押されて言葉が先へ出ることはなく、帆波を見たまま一つずつ話した。
「理由を聞いて、一之瀬に説明させるために頼むんじゃない。今回だけ、候補を挙げてほしい」
ほかの席からも、頼みたいという声が上がった。一人の声をきっかけに全員がそろえて頷くのではなく、迷うように隣を見た後で頷く人も、何も言わずにこちらを見ている人もいた。
白波は、その中で両手を膝へそろえ直していた。
「……帆波ちゃんが、引き受けてもいいって思うなら」
小さな声だった。白波は目を伏せかけ、それでも最後までこちらを見て言った。
「私も、お願いしたい」
帆波は頷かずに聞き終え、神崎へ目を戻した。
「確認するね。明日、一人の名前を挙げる。理由の説明も、その人に入れてほしいという説得もしない。今回だけ。それでいいんだね」
「ああ」
神崎が顔を上げた。
「その後も、クラスをまとめ続けるという返事ではないよ」
「分かっている」
帆波は彼の返事を聞き、もう一度、同級生たちの顔を見た。明日の投票を思って強張った顔が、照明の下に並んでいる。誰を挙げればよいのか、今この場で名前が浮かんでいるわけではなかった。
それでも、頼まれていることの範囲は分かった。誰かに決められた名前を読み上げるのではなく、自分で選び、自分の言葉で伝える。その一度を引き受けるかどうかだった。
「分かった」
帆波は神崎へ頷いた。
「今回だけ。明日、私から一人、候補を伝えるね」
神崎の手が、膝の上でゆっくり開いた。隣で柴田が息を吐き、網倉は俯いたまま、ありがとうと呟いた。
帆波はその声を聞きながら、机の上の端末へ目を落とした。暗い画面には、天井の照明が白く映っていた。まだ誰の名前も決まっていない。その画面を持ち上げる前に、帆波は膝の上の手をほどき、指先を静かに伸ばした。