自室へ戻ると、窓ガラスには照明を点けたばかりの部屋が映っていた。外に立つ街灯よりも、室内の白い光の方が強い。帆波が近づくにつれて、夜の人工島の輪郭は薄れ、代わりに制服姿の自分がはっきりと浮かび上がった。
鞄を机の脇へ置き、端末を手に椅子へ座る。共用スペースで重なっていた声は、もう聞こえなかった。暖房が部屋を暖めるまでの冷たい空気の中で、帆波はまず伊吹と石崎への連絡を済ませることにした。
画面に指を滑らせ、短い文章を入力する。クラスで話し合ったが、四十人全員の賞賛票は約束できなかったこと。そのため、提示された条件での取引は受けられないこと。どちらへ送る文面にも、反対した生徒の名前は書かなかった。
読み返してから、最後に「今回はごめんね」と添えた。
送信を終えても、四百万という数字は変わらない。今夜の話し合いでも埋まらなかった不足額を、画面の向こうへ戻しただけだった。帆波は二人への連絡が済んだことを確かめ、端末を机に置いた。
指先を離したところで、神崎が頭を下げた姿が浮かんだ。膝の上の手を動かせずにいたことも、理由は言わなくていいと告げた声も覚えている。自分が頷いたとき、彼の手はゆっくりと開いた。
明日は、一人の名前を挙げる。
そこまで考えて、帆波は背もたれに身体を預けた。誰かの名前を言うだけなら、時間はほとんどかからない。それなのに、その前に過ごす今夜の方が長くなりそうだった。
皆の前に立って話すことには慣れている。意見を聞き、食い違うところを確かめ、次に何をするかを伝える。だが、明日求められているのは、そうした話し合いをもう一度始めることではなかった。
候補を一人、選ぶ。選んだ理由を説明し、全員から頷きをもらうところまで引き受けたわけではない。
帆波は机の上へ目を落とした。端末の画面には、まだ送った文章が表示されている。今夜は四十人の意思を自分一人では約束できないと答えた。その自分が、明日には四十人の前で、一人の名前を口にする。
その名前を聞いて投票先を決める人はいるだろう。網倉も柴田も、聞いた後は自分で考えると言っていた。けれど、自分で考えることと、ほかの人の言葉に影響されないことは同じではない。誰から告げられたかによって、同じ名前でも受け止め方は変わる。帆波自身、神崎から頼まれたからこそ、依頼の範囲を何度も確かめたのだった。
窓の向こうを見ようとすると、ガラスの中の自分と目が合った。帆波は立ち上がり、カーテンを閉めた。布の裾が揺れ、街灯の明かりが細い隙間へ押し込められていく。
制服から部屋着へ着替え、ハンガーを掛け直す。いつもなら、翌日の支度はそれほど考えなくても済んだ。教科書を確かめ、端末を充電し、起きる時刻を決める。その順序は今夜も変わらないはずなのに、椅子へ戻った帆波は、しばらく鞄を開けずにいた。
入学したばかりの頃、教室に並ぶ顔と名前は、まだうまく結びついていなかった。
話す回数が増えるにつれて、名前を呼ぶ前に声で分かるようになった。教室の入口から見える後ろ姿で、誰がどこにいるのかも分かる。楽しそうに話すときの顔だけでなく、言いたいことを飲み込むときの癖や、困ったときに最初に目を向ける相手も、少しずつ知っていった。
今夜も、柴田が顔を上げたときには、まだ何か伝えたいのだと分かった。網倉が謝ったときには、その言葉を最後まで聞かなくても、四百万を諦めたくないのだろうと思えた。白波が自分を呼んだときの声も、知らないものではなかった。
それでも、分かると思っていたことが、全部そのとおりだったとは限らない。
帆波の前では言わなかったこともあるだろう。皆でいるときには頷き、部屋へ戻ってから考えを変えることもある。今、この端末の向こうで誰が誰と話しているのか、帆波は知らなかった。明日、自分が名前を挙げなくても誰かに票が集まるのか、それとも最後まで散らばるのかも、確かめようがない。
誰が選ばれそうかを考えれば、一人を挙げる作業は進むのかもしれない。けれど、そうして選んだ名前を、皆も同じように考えているはずだと扱うことはできなかった。
椅子の上で足の位置を変えると、机の下にたまっていた冷気が足首に触れた。部屋の上の方は、もう暖まっている。帆波は両足を引き寄せ、膝に置いた手を見た。
今夜、龍園への票を拒んだ人たちの顔が浮かぶ。反対する声は、聞いていて分からないものではなかった。残ってほしいのは自分たちの同級生で、龍園ではない。それでも龍園への票が必要だと説明したところで、その隔たりがなくなるわけではなかった。
誰が取引を断らせたのか、という順番で名前を探すつもりはなかった。反対してもいいと伝え、意見を聞いたのは自分だ。その返事を、翌朝になって別の意味へ変えることはできない。
帆波は端末を持ち上げた。クラスの連絡を開くと、見慣れた名前が画面に並んだ。指を動かす途中で、網倉の名前が目に入り、隣に座っていた白波の姿が思い出された。
白波は、最後まで帆波の方を見ていた。
これ以上無理をしてほしくないと言い、リーダーを辞めても相談には乗ってくれるかと尋ねた。帆波が返事を待たせた間にも、視線を逸らさなかった。自分へ向けられた気持ちは分かる。少なくとも、今夜聞いた言葉を悪意だと思う理由はなかった。
端末の縁を親指でなぞりながら、帆波は小さく息を吐いた。
白波に限らず、誰かの名前を考えるたびに、その人と話したときの顔が浮かぶ。教室にいる一人を、候補という言葉だけに置き換えることはできなかった。明日もそこに座り、こちらが話し始めるのを待つ相手だった。
帆波は画面を伏せた。文字が見えなくなっても、今、思い浮かべている顔は消えなかった。その名前を、明日、自分から伝える。
帆波は机に添えた手を動かさず、しばらく座っていた。決めた途端に胸の中が軽くなることも、何かがうまく収まることもなかった。ただ、それまで次々と浮かんでいた顔の流れが止まり、一人の姿が残っている。
神崎から特定の誰かの名を告げられたことはない。今夜、ほかの誰かが候補として口にしたわけでもなかった。明日その名前を聞いた皆がどうするかは、まだ分からない。その分からないところを残したまま、帆波が選んだ。
机の上の端末へ、もう一度手を伸ばす。神崎との連絡を開こうとして、指を止めた。今夜のうちに知らせる約束はしていない。誰かに先に伝えて、その反応を見てから決め直すために選んだのでもなかった。
画面を閉じ、充電の線をつなぐ。次いで鞄を開け、明日持っていくものを確かめた。慣れた動作を一つずつ終える間にも、白波の声がふと戻ってきたが、そのたびに支度の手を止めることはなかった。
照明を落としてベッドへ入ると、カーテンの隙間から漏れる光が、天井に淡い筋を作っていた。昼間なら気に留めないほど薄い明かりが、暗さに慣れた目にはよく見える。帆波は横を向き、掛け布団を肩まで引き上げた。
明日、名前を言った後で、みんなは自分を見るだろう。
その顔を思い描きかけて、帆波は目を閉じた。まだ見ていない表情を、今ここで決めることはできなかった。
翌朝、カーテンを開くと、夜には見えなかった建物の壁が淡い陽を受けていた。窓際へ近づいた帆波の手に、ガラスを通して冷たさが届く。空は明るいが、外へ出ればまだ上着が必要な気温だった。
顔を洗い、制服に着替える。鏡の前で襟元を整え、前髪を指で直した。赤いブレザーの肩を払ったところで、昨夜掛けたときよりも生地が冷たくないことに気づく。暖房の中に置かれていた制服は、いつもと同じ感触で身体に馴染んだ。
端末を充電から外し、鞄へ入れる。机の上に忘れ物がないかを確かめてから、帆波は扉へ向かった。
取っ手に手をかけたとき、共用スペースに並んでいた四十人の顔が、一度だけまとまって浮かんだ。今朝は教室で、その中の一人を呼ぶ。理由を尋ねられることもあるだろう。名前を聞いて何も言わない人もいるかもしれない。
帆波は取っ手を下げた。廊下へ出ると、少し離れたところから扉の閉まる音が聞こえ、誰かの足音がエレベーターの方へ遠ざかっていった。
寮を出たところで、朝の風が髪を揺らした。鞄の持ち手を握り直し、学校へ続く道に足を踏み出す。前方には、同じ制服を着た生徒たちが歩いている。
帆波はその流れへ加わった。まだ誰にも告げていない名前を、もう選び直すためではなく、伝えるために胸の内へ置いていた。