【カオ転三次】×よう実 鬼になる一之瀬帆波   作:ねむのき

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第2話 「雪山で見つけた温もり」

 男の背後で、雪明かりが白く広がっていた。雲に散らされた光は影の境目を曖昧にし、その肩や髪の縁だけを淡く浮かび上がらせている。つい先ほどまで帆波を押し潰そうとしていた森が、その人の立つ場所で途切れて見えた。

 帆波は口を動かしたが、声にならなかった。息を吸ったのか吐いたのかも分からず、開いた唇から、掠れた音だけが落ちる。男がこちらへ視線を下ろした。赤い髪の隙間にあった黄色い目とは違う、人間の目だった。それを認めた途端、頭を庇っていた腕から力が抜けた。

 

「……あ、……ぁ……」

 

「もう大丈夫だ。立てるか?」

 

 男の声は、驚くほど落ち着いていた。

 早く逃げろとも、後ろを見るなとも言わなかった。帆波の背後を一度確かめ、それから足元へ目を戻している。つい今までそこにいた怪物のために、息を乱した様子さえなかった。

 何かを答えなければと思った。立てます、と言えばいいのか、助けてくださいと頼めばいいのか、言葉を選ぶ前に、身体がその人の方へ動こうとした。雪に埋もれた足を引き出し、膝を立てる。けれど、腰を浮かせたところで脚が折れ、掌がまた冷たい地面へ沈んだ。

 

「無理に立たなくていい。今、そっちへ行く」

 

 男が斜面を下りてくる。

 帆波はそれを待ちきれず、雪を押した。膝と掌を使って少しでも近づこうとすると、濡れた袖に土がついた。立てないことも、そんな格好を見られていることも、どうでもよかった。この人へ届かなければならない。目の前にいるのに、また一人になったら、今度こそ耐えられなかった。

 近づいてきた靴が視界に入り、帆波は濃いグレーの上着へ手を伸ばした。裾をつかんだつもりが、指が滑る。もう一度、今度は布を掌へ巻き込むように握った。

 

「た、助けて……っ」

 

「ああ。大丈夫だ」

 

「いかないで……おねがい、ひとりに、しないで……!」

 

 言い終わる前に喉が詰まった。相手の顔を見ようとしても、涙で輪郭が揺れてしまう。握った布だけは確かに手の中にあって、帆波はそれを離すまいと腕を引き寄せた。

 男は腰を落とした。引っ張られたことを咎めず、帆波が顔を上げられる高さで目を合わせる。その口元に、困ったような、けれど嫌がってはいないらしい小さな笑みが浮かんだ。

 

「置いていかない。まず、身体を起こそう。支えるぞ」

 

 肩と腕に手が添えられた。

 帆波は息を詰め、その支えに体重を預けた。自分だけで立とうとしたときにはどうにもならなかった脚が、今度は地面を捉える。膝はまだ震え、靴の中には冷たい水が残っていたが、身体が傾くと、すぐに男の手が受け止めてくれた。

 そのことが、帆波には信じられないほどありがたかった。

 倒れないようにしなくていい。今だけは、足を滑らせても、何かを間違えても、この人が支えてくれる。そう思うと、頼る力を弱めるどころか、ますます手を離せなくなった。

 

 間近で見る上着は、野外で使うための丈夫な生地だった。開いた前の内側には白いワイシャツがあり、その下には藍色のジーパンが続いている。雪の山を歩く人の姿として、何かが足りないようにも見えたが、帆波にはそれを考える余裕がなかった。白い襟と、袖から出た手と、こちらを気遣って動く顔。それだけで、ようやく人に会えたのだという思いが胸へ満ちた。

 あの怪物の前でも、この人はこうしていられるのだ。

 自分を追い詰めたものが消えた場所に立ち、今は、転ばないように手を貸している。その隔たりが大きすぎて、何をしたのかという疑問さえ、すぐには形にならなかった。帆波にはただ、自分を殺しかけた恐怖よりも、この人の方がずっと強いということだけが、疑いようもなく思えた。

 

「怪我はしていないか? どこか、強く痛むところは?」

 

「わ、分から……」

 

 答えようとすると息が乱れた。背中も膝も痛い気がしたが、どこがどうなっているのか、自分の身体なのにうまく探せない。帆波が首を横へ動かしかけると、男は返事を急かさず、その顔と手元を確かめた。

 

「今すぐ全部説明しなくていい。まず、冷えないところへ行こう」

 

 そう言って帆波の肩へ手をかけたので、帆波は思わずつかんだ布を引いた。

 男の動きが止まる。帆波も、自分の手を見た。離さなければ何もできないのだと分かったのに、指を開こうとすると、胸の奥から恐怖がせり上がった。

 

「上着を貸すだけだ。ここにいる」

 

 静かな声がして、帆波はようやく少しずつ指を緩めた。

 男は濃いグレーの上着を脱ぎ、帆波の肩へかけた。内側に残っていた体温が、濡れたジャージ越しにも分かった。風が布に遮られた途端、今までどれほど冷たいものに晒されていたのかが、かえってはっきりした。

 

「近くに火のある場所がある。歩けそうか?」

 

 帆波は頷いた。歩けるかどうかより、この人が行くところへ行きたかった。

 上着の襟を片手で押さえ、もう片方の手は、白いワイシャツの袖へ伸びた。途中でためらったが、男はそれを見て腕を少し寄せてくれた。帆波は袖の布をつかみ、そこから目を離さないまま最初の一歩を出した。

 

 森の中を進む間も、帆波の呼吸は簡単には戻らなかった。

 枝に積もった雪が落ちると、肩が跳ねた。背後で風が向きを変えるたび、足が止まりかける。そのたびに男の歩みも緩み、袖をつかんだ手が引き剥がされることはなかった。

 大丈夫だと言った人が、まだ隣にいる。

 帆波は何度も顔を上げ、その横顔を確かめた。かすかに濡れた黒い短髪。男は精悍で整ったその顔を周囲へ向け、注意を払いながら歩いていたが、その鋭い目に、自分と同じ怯えは見えなかった。帆波が息を呑む音を立てると、少しこちらを向く。その短い動作だけで、胸の苦しさがわずかに緩んだ。

 知らない人だった。名前も、どこから来たのかも分からない。それなのに今、帆波は、この人の判断に自分の行き先を預けきっていた。自分で道を選べと言われる方が怖かった。この手を離さずについていけばいいのなら、ほかには何も決めなくてよかった。

 ずっと、こうしていられたら。

 思い浮かんだ願いに、自分でも戸惑った。だが、それを打ち消す気持ちは起こらなかった。男が少し先へ出るだけで置いていかれるような気がして、帆波は歩幅を広げ、また隣へ寄った。

 

 木々の間に、橙色の光が見え始めた。

 初めは何かの見間違いだと思った。白と灰色ばかりだった景色の奥に、暖かな色がある。枝の重なりが途切れると、森の開けた場所に、傷んだキャンプの設備らしいものが現れた。雪に沈みかけたものや、形の崩れたものがあり、その中で、一張りの天幕だけが雪を避けられる程度に姿を保っていた。

 その下で、火が燃えている。

 帆波は足を止めかけた。薪が組まれ、その間から立つ炎が、細長い金属の縁を照らしていた。雪の上に直接燃やしているのではなく、脚のついた焚火台に収められている。厚みのある板を重ねた側面には細い切れ込みが並び、下にはもう一枚、熱を受け止めるような板があった。

 青や紫に色づいた金属へ炎の橙が重なっている。その周囲は風が遮られているのか、炎は揺らぐことなく燃えていた。その台が何でできているのか、どういう仕組みなのかは分からない。ただ、そこには確かに、人が暖まるための火があった。

 

「ここへ座って」

 

 男が火の近くに置かれた折り畳み椅子を示した。

 帆波は勧められるまま腰を下ろそうとしたが、袖をつかんでいるせいで、うまく身体を向けられなかった。自分の手に気づいて顔を上げると、男は急がず、椅子のそばまで腕を寄せてくれた。

 

「座ってからでいい」

 

 その言葉に、帆波は唇を噛んで頷いた。

 椅子が体重を受け止める。もう走らなくていいのだと頭では考えたのに、脚はまだ次の一歩を探しているように力が入り、膝の震えも止まらなかった。男がそばに立っていることを確かめながら、握っていた袖をようやく離す。

 布には、自分の手でつけた皺が残っていた。

 ひどい格好を見られた。声を上げ、這うように近づき、服をつかんで離さなかった。そのことを思い出すと顔が熱くなったが、きちんと座り直して取り繕うだけの力はなかった。男も、何事もなかったように手を動かしている。それが帆波には、ほかの何より救いだった。

 

「これ、温めておいたお茶だ。飲めそうか?」

 

 差し出されたのは、ペットボトルだった。見慣れたオレンジの蓋と、印刷されたラベルがある。

 帆波は両手を出し、受け取った。

 掌が温かかった。

 指先はまだ冷えきっていて、最初は熱いのか痛いのか分からなかった。それでも手を離したくなかった。薄い容器の向こうに液体の重みがあり、自分が傾けると、中のお茶も少し動く。帆波はその小さな動きを見つめた。

 お茶だった。

 店で買って、鞄へ入れて、喉が渇いたら飲むものが、今、自分の手にある。雪の中で追われていた間には、そんなものを持つ自分など、思い浮かべることさえできなかった。

 帆波は蓋へ指をかけた。うまく力が入らず、一度手が滑る。男が動こうとしたので、反射的に顔を上げた。

 

「開けようか?」

 

「……あ、りがとう、ございます……」

 

 ようやく、お礼らしい言葉が出た。

 男は受け取ったボトルの蓋を緩め、すぐに返してくれた。たったそれだけの間も、帆波はその手元を追っていた。もう一度両手で包むと、先ほどより少し温かさが分かった。

 

 火へ向けた膝の表側が、次第に熱を受け始めた。

 顔の片側にも暖かさが届く。濡れた髪の先を上着の外へ出そうとして、肩から布が滑りかけた。男の手が伸び、落ちる前に戻してくれる。帆波はその手を目で追い、襟元を引き寄せた。

 この人がいなければ、今、自分はここにいない。

 その思いは怖さと一緒に押し寄せたのに、顔を上げて姿を見つけると、胸の奥が熱くなった。怪物が近づいてきたときと同じように心臓は速く打っている。それでも、目をそらしたいとは思わなかった。もっとよく見ていたかった。声を聞き、こちらを向いてもらい、自分がここにいることを覚えていてほしかった。

 誰なのだろう。

 どうして、あんなふうに立っていられたのだろう。

 問いは幾つも浮かんだが、口にする代わりに、帆波は借りた上着を握った。森へ戻っていってほしくなかった。自分を座らせ、温かいものを渡したから、もう大丈夫だろうと離れてしまわないでほしかった。

 名前を聞けたら、その名前で呼び止められるのに、と思ったところで、目の前の炎が歪んだ。

 涙が落ちた。

 ボトルを持つ手の甲へ一滴触れ、続いてもう一滴が伝った。帆波は顔を伏せようとしたが、下を向くと、泣いていることを止められなくなりそうだった。

 

「……すみ、ませ……」

 

 何を謝っているのかも分からなかった。助けてもらったのに、ちゃんと話せない。お茶まで受け取ったのに、まだ泣いている。せめて声を抑えようと唇を閉じると、かえって息が詰まった。

 

「謝らなくていい」

 

 男はそれ以上、何も求めなかった。

 帆波は両手の間にボトルを挟み、顔を伏せた。涙を拭くために片手を離すのさえ惜しかった。温かいものを握っていたかった。近くに男の靴が見え、顔を上げれば、すぐそこにいてくれる。

 そのことを確かめるたびに、涙が増えた。

 もう一度追われるかもしれないとか、どうすれば帰れるのかとか、分からないことは何一つなくなっていなかった。それでも今は、座っていられた。逃げるために立ち上がらなくてもよく、背後の音だけに耳を澄ませなくてもいい。自分の代わりに周囲を見てくれる人がいる。

 帆波は、上着の襟へ頬を寄せた。

 この人のそばにいたい、という願いが、温かさと一緒に深く染み込んでいった。助けてもらったお礼も、まだ、ほとんど言えていない。だから、もう少し話していてほしい。もう少しこちらを見ていてほしい。その先にも一緒にいられる理由が欲しいと思ったが、今は、涙の向こうにいる姿を確かめるだけで精いっぱいだった。

 

 やがて男が、もう一つの折り畳み椅子を広げた。

 帆波はすぐに顔を上げたが、それは火の向こう側へ置かれた。男がそこへ腰を下ろすのを見届けて、ようやく肩の力が少し抜ける。炎を挟んでも遠くはなかった。こちらを向いている顔が見え、声が届く距離だった。

 

「少しは落ち着いたか?」

 

 帆波は頷こうとして、息を整えた。頬にはまだ涙が残り、返事をするために開いた唇も震えている。それでも、今度は、その人の目を見たままでいられた。

 男は帆波の反応を待ち、それから、落ち着いた声で尋ねた。

 

「何があったのか、聞かせてほしい」




「精悍で整ったその顔」「その鋭い目」←吊り橋効果

吊り橋の上のほなみちゃん「いかないで……おねがい、ひとりに、しないで……!」

名無しの転生者:
巨乳美少女!テンション上がるぜ!
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