教室の窓から差し込む朝の光が、机の天板を斜めに照らしていた。窓際では陽の当たる部分だけが明るく、廊下側にはまだ照明の白さが残っている。暖房で温まった空気の中に、登校したばかりの生徒が持ち込む外気が混じり、帆波が入口を通ったときにも、頬へ冷たい流れが触れた。
「おはよう」
近くにいた生徒へ声をかけると、返事があった。その声に振り向く顔が増え、教室の奥で続いていた会話が途切れる。誰もすぐには昨夜の続きを尋ねなかったが、帆波が自分の席へ向かう間にも、いくつかの視線がついてきた。
机の脇に鞄を掛ける。端末を取り出して置いたところで、神崎がこちらへ歩いてきた。制服の襟元は整っていたが、口元は固く結ばれている。帆波の机の横で足を止めると、彼は一度、教室の中へ目を向けた。
「一之瀬。昨日、頼んだことだが」
「うん。決めてきたよ」
神崎の目が帆波へ戻った。誰を、と尋ねる前に、彼は息を吸い、少しだけ顎を引く。
「……そうか」
帆波は頷いた。昨夜のうちに名前を知らせなかったことについて、神崎は何も言わなかった。机の上に置いた帆波の端末を一瞬見てから、ほかの生徒へ身体を向けた。
「皆、少し聞いてくれ」
その呼びかけで、残っていた話し声が収まった。立っていた生徒が椅子へ戻り、後ろを向いていた生徒も姿勢を直す。柴田は机に添えていた手を引き、網倉は隣の白波へ目を向けてから、帆波を見た。
「昨夜、一之瀬に頼んだ候補の指名についてだ」
神崎はそこまで告げ、帆波へ場所を譲った。
帆波は椅子から立ち上がった。教壇へは向かわず、自分の机のそばに立ったまま、皆の顔を見た。昨夜と違う席に並んでいても、待たれていることは同じだった。何人かは背筋を伸ばし、何人かは目が合う前に視線を下げた。
白波も、こちらを見ていた。
帆波は彼女の視線を受け止め、それから口を開いた。
「私が選んだのは、白波千尋さんです」
窓際に座っていた生徒の手が止まった。誰かの椅子がわずかに動き、その音が妙にはっきりと聞こえた。
白波は、まだ帆波を見ている。目を大きく開いたまま唇を離し、声を出そうとして、一度閉じた。隣の網倉が顔を向けると、ようやく白波の視線も動いた。けれど、網倉を見るより先に、もう一度帆波へ戻ってくる。
「……私?」
帆波は頷いた。
白波の指が机の縁をつかんだ。膝の上に置いていたもう片方の手も持ち上がり、端末の脇へ添えられる。
「帆波ちゃん、私のこと?」
「うん。千尋ちゃんを、候補として伝えます」
白波の肩が小さく持ち上がった。息を吸ったのだと分かったが、その後の言葉はすぐには続かなかった。教室のあちこちで視線が動く。帆波から白波へ、白波から神崎へと向きを変えながら、誰も先に口を挟まなかった。
「どうして……?」
白波は椅子に座ったまま尋ねた。細い声だったが、静かな教室では後ろまで届いていた。
「どうして、私なの……?」
帆波は答えなかった。白波の手が机の上を少し滑り、端末に触れて止まる。その仕草を見ている間に、白波は首を振った。
「私、何かした?」
網倉が何か言いかけた。だが、白波の声が重なり、そのまま唇を閉じる。
「昨日だって、私……みんなで残りたいって。帆波ちゃんにも、無理してほしくないって……」
途中で声が細くなった。白波は唇を結んでから、机に両手をついたまま立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、近くの生徒が身体を引く。
「それで、どうして私になるの?」
帆波の方へ一歩出かけたところで、神崎が声をかけた。
「白波」
白波は振り向かなかった。
「聞かせてよ。私、何も分からないよ」
「昨夜、一之瀬に頼んだのは、候補を一人挙げることだ」
神崎は白波の方へ身体を向けた。机の間を塞ぐようには立たず、少し距離を置いたまま話している。
「理由の説明は求めないと、俺が言った」
「でも、私なんだよ?」
今度は白波が神崎を見た。目の縁が赤くなり、言葉の終わりが震えた。
「名前を言われたの、私なんだよ。どうしてかも聞いちゃいけないの?」
神崎の顎が止まった。彼の手が身体の脇で動き、指先が制服の生地に触れる。返事までに生じた間を、白波は待ち切れないように帆波へ顔を戻した。
「納得できないよ……!」
最後の言葉が高くなった。白波はそれに自分で驚いたように口を押さえたが、すぐに手を下ろした。
「ごめん。でも、こんなの、急に言われても……私、何を考えればいいの?」
帆波には、白波が昨夜とは違う目で自分を見ていることが分かった。返事を待つだけではなく、こちらの顔から、言葉になっていない何かを探そうとしている。その視線を受けたまま、帆波は机の縁に添えていた手を離した。
「千尋ちゃん」
白波の顔がわずかに上がる。
「候補は、変えないよ」
白波の唇が動いた。だが、声は出なかった。
帆波はその反応を見ていた。名前を告げた瞬間より、今の方が、白波の顔にははっきりとした怯えがあった。自分の返事でそれが消えることはない。理由を話さないまま指名を変えないという言葉が、白波にどう聞こえたのかも、帆波にはすべて分かるわけではなかった。
それでも、別の名前を口にすることはしなかった。
「一之瀬」
柴田が呼んだ。椅子から半ば身を起こし、白波と帆波を交互に見ている。
「本当に……」
そこまで言ったところで、柴田は口を閉じた。机に置いた拳へ目を落とし、ゆっくりと腰を戻す。
網倉が立ち上がり、白波のそばへ寄った。腕へ手を添えようとして一度ためらい、それから肘の近くに触れる。
「千尋ちゃん。ちょっと、座ろう」
「でも……」
「うん。分かるよ。今、立ったままだと……」
網倉は言葉を探したまま、白波の顔を見た。白波は首を横に振りかけたが、机の上の手を下ろし、浅く椅子へ腰を掛けた。網倉は自分の席へ戻らず、その隣に立っていた。
神崎が教室を見渡した。
「今、一之瀬が名前を挙げた。それで投票が終わったわけじゃない」
声は低く、少し掠れていた。
「誰に投票するかは、一人ひとりが決める。昨夜、そう確認したはずだ」
頷く生徒もいたが、白波は顔を上げなかった。網倉の手がそばにあっても、その指を握り返すことはなく、膝の上で自分の両手を重ねていた。
帆波は彼女から目を移した。教室には、まだこちらを見ている人が何人もいる。神崎の言葉が終わった後も、次に自分が話すのを待つ視線は残っていた。
引き受けた名前は伝えた。だが、それだけで皆の表情が変わるわけではなかった。今朝ここへ来る前から分かっていたことが、目の前にあった。
帆波は一度息を整えた。
「それと、もう一つ、伝えます」
神崎がこちらを向いた。
「私、今日でクラスのリーダーを辞めるね」
網倉の手が、白波の椅子の背で止まった。
「今日で……?」
「うん。昨日、これからも続けるつもりはないって話したけど、今日で辞めます」
教室の後ろで、誰かが小さく息を吐いた。柴田が顔を上げ、神崎は帆波を見たまま動かなかった。
言い終えても、帆波の立つ場所は変わらなかった。制服も、机も、周りに並ぶ同級生の顔も同じだった。ただ、彼らが返事を待っていることを、自分が次のことを考え始めなければならない合図として受け取らずにいられた。
白波はまだ俯いている。網倉はそのそばに立ち、柴田は神崎の方を見ていた。帆波には、一人ずつ声をかけることもできた。教室に残る沈黙を埋める言葉を探すことも、皆の顔を見て、もう一度話を始めることもできただろう。
けれど、そうしようという気持ちが起こらなかった。
誰かを怒らせたいわけではない。白波が動揺していることも、神崎が困っていることも分かる。そのうえで、彼らが次に何を言うのかを、帆波は黙って待っていた。
「昨日、俺が頼んだからか」
神崎が尋ねた。
帆波が目を向けると、彼は机一つ分ほど離れた場所に立っていた。先ほど白波へ話したときよりも、声が低い。
「候補を指名してほしいと頼んだ。それが、辞める理由なのか」
帆波は神崎を見返した。彼の目がわずかに細くなり、続ける前に一度だけ白波へ動く。
「それとも……退学者が出る責任を取るつもりか?」
その言葉に、何人かが顔を上げた。網倉も帆波を見た。白波は俯いたままだったが、重ねていた指が動かなくなっている。
責任という言葉を聞いても、帆波の決めたことは変わらなかった。神崎が何を確かめたいのかは分かる。昨日頼まなければよかったのか、引き留めるには何を言えばよいのか。そこまで彼が考えているかどうかは、まだ聞いていなかった。
帆波は、彼の問いへ頷くことも、首を振ることもしなかった。
「……もう、リーダーを続けるつもりはないんだ」
神崎の眉が寄った。
「一之瀬」
「うん」
呼ばれたので返事をした。神崎はその先をすぐには言わず、帆波も言葉を足さなかった。
窓の方から光が差し、二人の間にある机の角を照らしていた。廊下を通る足音が近づき、教室の前を過ぎていく。白波が鼻をすする音がして、網倉がそちらへ顔を戻した。
帆波は椅子を引いた。神崎は道を塞がず、そのまま一歩横へ退いた。
席に戻ると、机の上の端末は伏せたままだった。帆波はそれを手元へ寄せ、鞄が通路へ出ていないかを確かめる。隣の席の生徒と目が合うと、小さく会釈をしたが、相手は唇を動かしかけたまま視線を落とした。
前方で神崎が立っていた。白波は網倉へ何か小さく話し、網倉は身をかがめて聞いている。その声は、帆波の席までは届かなかった。
帆波は聞き取ろうとはせず、正面へ向き直った。机の向こうには、いつもと同じ黒板がある。投票は、まだ始まっていなかった。