窓ガラスに触れて冷えた空気が、暖房の風に押され、床に沿ってゆっくりと広がっていた。三月の陽射しは机の表面を明るく照らしているのに、足元には冬の冷たさが残っている。投票を終えた生徒たちはそれぞれの席へ戻り、誰かが身じろぎするたび、椅子の脚が床を擦った。普段ならその物音に紛れるはずの話し声が、今日はほとんど聞こえなかった。
星之宮は教卓に資料を置き、顔を上げた。いつものように生徒の名前へ軽い調子を添えることも、説明に先立って場を和ませることもしない。教室を見渡した後、視線を一か所に留めた。
「今回の試験で、退学処分になるのは、白波千尋さんです」
帆波は白波を見た。白波は机の上に両手を置いたまま、星之宮の方を向いている。隣の網倉が身を動かすと、初めてその顔がわずかに傾いたが、すぐに担任へ戻った。
「……私、ですか」
確かめる声は小さく、語尾が掠れていた。星之宮が頷くまでの間、白波の指は端末の縁に触れたまま動かなかった。
「うん。投票の結果は、もう確定しているわ」
網倉の唇が開き、何も言わずに閉じられた。柴田は俯き、浜口哲也は白波の机と教卓の間へ目を向けている。中性的な顔立ちをした浜口は、普段なら発言しづらそうな相手に気づくと、自分から会話の隙間を作ることが多い。その彼も、今は椅子の横に置いた手を浮かせたまま、立ち上がらずにいた。
帆波は手元の結果を確認した。賞賛票の首位は自分で、プロテクトポイントを獲得している。画面を閉じると、照明を映した黒い面に自分の指が残った。
白波へ入れた批判票の一票は、自分のものだった。朝、皆の前で名前を挙げた後も、その選択は変えなかった。ほかの生徒が実際にどの票を投じたのかは分からない。ただ、集計された結果として、白波の退学が告げられていた。
「帆波ちゃん」
呼びかけに顔を上げると、白波が立っていた。机から離れるときに椅子へ足が触れ、座面が斜めにずれる。網倉が手を伸ばしかけたが、白波はもう通路へ出ていた。
「ねえ、私……退学なんだって」
机のそばで足を止めた白波は、帆波の顔をのぞき込んだ。目にたまった涙が頬を流れ、唇を結んでも、顎の震えは収まらない。持ち上げた手で涙を拭おうとして、途中でその動きを変え、帆波の袖へ指を伸ばした。
「もう、ここにいられないんだって。みんなと、一緒に……」
ブレザーの生地がつかまれ、腕に引っかかった。帆波が身体を向けると、白波はさらに近づいた。頬の涙をそのままに、返事を探すように目を見つめてくる。
「どうして私だったの……? 私、帆波ちゃんに、何か……」
言葉が続かず、白波は息を吸った。その呼吸に引かれて肩が上がり、帆波の袖を握る手にも力がこもる。自分の名前を告げられた朝と違い、もう投票は終わっていた。
帆波はその手を振りほどかなかった。何も答えずにいることが、白波にはつらいだろうと分かる。泣いている相手への配慮も理解していたが、ここから何とかして残さなければならないという思いは起こらなかった。目の前の涙を見ていても、資金を集め直す方法や、処分を変えてもらうための言葉を探し始めることはなかった。
「……ごめん」
白波の唇が震えた。返事を聞き損ねたかのように顔を寄せ、それから首を横に振る。
「そんなの……分からないよ。ごめんって……」
網倉がそばまで来たが、白波に何を言えばいいのか決まらないように、胸元へ手を寄せて立ち止まった。浜口が通路へ出て、近くにいた生徒へ少し下がるよう促すと、その間を星之宮が歩いてきた。
「白波さん。先生と行こう」
「待ってください。私、まだ、帆波ちゃんと……」
「うん。話が終わっていないのは分かってる」
星之宮は白波の肩に手を添えた。急いで引き離そうとはしなかったが、二人の間へ身体を寄せ、白波が帆波を見続ける角度を少しずつ変えていく。
「ここから先のこと、先生から説明しなきゃいけないの。向こうで、座って話しましょう」
白波は首を振った。それでも、星之宮がもう一度名前を呼ぶと、つかんでいた指が緩んだ。袖から手が離れ、その跡に細かな皺が残る。網倉が何か呟いたが、白波は答えず、帆波を見ていた。
星之宮に付き添われて歩き始めても、白波は入口の手前で振り返った。帆波はその視線を受けたまま座っていた。呼び止めることも、先ほどの言葉へ別の言葉を足すこともなく、やがて廊下へ出た二人の姿が扉の向こうに隠れた。
網倉は入口近くで顔を伏せていた。浜口がそのそばへ行き、通路に残っていた椅子を元へ戻す。柴田は組んだ両手を額へ押し当て、渡辺紀仁は立ち上がりかけた姿勢のまま、誰へともなく目を向けていた。普段の渡辺なら、途切れた会話に気づくと気軽に声をかけ、離れた席の生徒まで話に加えていたが、今は開きかけた口を閉じていた。
帆波は端末を鞄にしまい、机の上を確かめた。この後は臨海支部へ向かうつもりだった。学校で済ませることが終わったので、鞄を肩へ掛け、席を離れる。近くの生徒と神崎がこちらを向いたが、誰かが声をかけるより先に、帆波は教室を出ていた。
三月八日の朝、白波の席には鞄が掛かっていなかった。机も椅子もほかと同じ向きに並んでいるのに、人が座っていないことで、その周りが少し広く見える。帆波は入口の近くで挨拶を交わし、自分の席へ向かった。
「おはよう、一之瀬」
渡辺が声をかけてきた。制服のポケットへ入れかけた手を戻し、机一つ分ほどの間を空けて立っている。帆波が挨拶を返すと、彼は窓へ顔を向けた。
「今日、風、冷たかったな。寮からここまでで、指が冷えた」
「うん。陽が出てるから、もう少し暖かいかなって思ったんだけどね」
「俺も。出てから戻るのも面倒で、そのまま来たけど」
そこで渡辺は言葉を切った。普段なら続くはずの軽い笑い声がなく、帆波の顔と机の上の端末を交互に見ている。帆波が教材を取り出すと、彼は自分の席を示すように手を動かし、また後で、と告げて離れた。
網倉も登校していたが、目が合うと小さく手を上げただけで、いつものようには近寄ってこなかった。姫野ユキは少し離れた席で端末を見ている。大勢が集まる会話では一歩外側にいることの多い女子で、今朝も周囲の低い話し声には加わっていなかった。帆波の挨拶に顔を上げ、短く返事をすると、再び画面へ目を戻した。
授業が始まれば、黒板に文字が増え、ノートを取る音が教室に重なった。帆波も必要なところを書き留め、教師に指名されれば答えた。隣から回された教材を受け取って後ろへ渡し、休み時間に問題を尋ねられると、ノートを開いて説明する。話し終えた相手がまだそばにいるので顔を上げると、その生徒は視線を泳がせてから、ありがとうと繰り返した。
そうした短い間が、午前にも午後にもあった。帆波は尋ねられたことには答えたが、言いかけてやめた言葉の続きを、自分から確かめようとはしなかった。
放課後、星之宮が新しい資料を持って教室へ入ってきた。帰り支度を始めた生徒たちへ声をかけ、教卓に資料を置くと、黒板に「選抜種目試験」と書いた。文字を見た柴田が身体を起こし、渡辺は鞄へしまいかけていた端末を机に戻す。
「次の特別試験について説明するわね。今回は、クラス同士で種目を出し合って競います。何を出すか、誰が出るか。その準備も含めて、皆に考えてもらう試験よ」
配られた資料には、提案する十種目や司令塔についての項目が並んでいた。星之宮は日程と役割を順に説明し、帆波も該当箇所へ目を通した。対戦相手を決める手続きには司令塔が出ると聞くと、前の席にいた生徒が神崎へ顔を向けた。
説明が終わっても、誰が最初に話すのか決まらなかった。資料をめくる音が止まった後、柴田が椅子を引いて帆波の方を向く。
「一之瀬。やっぱり、戻ってきてもらえないか。種目も出るやつも決めなきゃいけないし、お前にまとめてもらえたら……」
「私、リーダーは辞めたよ」
帆波が答えると、柴田は資料を押さえたまま口を閉じた。近くの生徒がこちらを見ていたが、帆波はその顔にも目を向け、続けた。
「続けるつもりがないのは、変わらないんだ。新しいリーダーは、みんなで決めた方がいいと思う。私は、選出には加わらないでおくね」
柴田は何か言おうとしてから、神崎へ顔を向けた。網倉も資料を机へ置き、二人の間で視線を動かす。帆波は鞄の口を開きかけたが、その前に神崎が席を立った。
「一之瀬。リーダーに戻ることとは別に、今回の試験の司令塔を頼めないか」
帆波は手を止めた。神崎は机のそばへ来ると、自分の資料を開き、司令塔の項目へ指を置いた。
「クラスの準備を全部引き受けてくれという話ではない。種目案や出場者、練習の調整は、俺たちで進める。お前には、司令塔としての役割を頼みたい」
「今日の、対戦相手を決める手続きも?」
「ああ。それも含む」
帆波は資料へ目を戻した。司令塔として確認しなければならない規則と、クラス全体で決めるべき準備は、同じ紙に載っていても別の仕事だった。
「試験の司令塔を引き受けることで、またクラスをまとめ続ける、ということにはならないんだね」
「ならない。準備はこちらで進める。必要な打ち合わせには出てほしいが、何もかもお前に決めてもらうつもりはない」
神崎の指が資料から離れた。帆波はその返事を聞いてから、顔を上げた。
「分かった。それなら、司令塔は私がやるよ」
網倉の肩がわずかに下がり、柴田が息を吐いた。神崎は一度頷き、ほかの生徒へも目を向ける。
「準備の話は、これから俺たちで始める。一之瀬には、今日の手続きを頼む」
「うん。終わったら、結果を伝えに戻るね」
帆波は必要な資料を確かめ、鞄へ収めた。担当する仕事が決まれば、行く先もはっきりした。椅子を机へ戻し、教室を出る前にもう一度神崎へ頷いてから、対戦相手を決める会場へ向かった。
扉が閉まった後、神崎は教室の中へ向き直った。柴田はまだ一之瀬の出ていった方を見ていたが、浜口が資料を広げると、ようやく机へ視線を戻した。
「引き受けてくれて、よかったな」
柴田の言葉に頷きかけて、神崎は動きを止めた。皆の表情には、つい先ほどまでなかった安堵があった。網倉も資料を手に取り直している。自分自身も、一之瀬が頷いた瞬間、肩の力が抜けたのを覚えていた。
神崎は机に両手を置き、皆の顔を見た。
「だが、また一之瀬だけに頼ってはいけない」
柴田が顔を上げた。神崎は教室の奥まで声が届くように、少し間を取ってから続けた。
「今回の試験のことだけじゃない。白波のこともだ」
網倉の指が資料の上で止まった。入口近くに立っていた渡辺が椅子を引き、座らずにその背へ手を置く。神崎は白波の空席へ目を向けた後、皆へ視線を戻した。
「たとえば、俺たちが一人十万プライベートポイント、何とか調達できていれば、四百万の不足は埋められた。そうなっていれば、白波を失うこともなかった」
「……でも、十万だって、簡単には」
後方から声が上がった。神崎は頷いた。簡単だったと言えるはずもない。自分の端末に並ぶ残高を思い浮かべれば、それがどんな金額かは分かる。
「分かっている。全員がその場で出せたとは思わない。ただ、その不足を何とかするのは一之瀬の役目だと、俺たちは考えていなかったか」
言い終えた後、神崎は自分の手を見た。金を預けたこと、状況を尋ねたこと、彼女からの返事を待ったことが思い出される。その間、自分がほかに何をしたのかを考えると、言葉にできることは少なかった。
「俺は、思っていた。一之瀬に任せれば大丈夫だと。足りないと分かってからも、彼女が次の方法を見つけるのを待っていた」
柴田が口元を引き結んだ。金曜日、龍園への票を拒んだときの顔が神崎の記憶に重なったが、今ここでその返事を責めるつもりはなかった。
「龍園への投票に反対した人間が悪いという話じゃない。反対なら、それ以外の方法を、俺たちも一緒に探すべきだった。もっと早くから、皆で支えるべきだったんだ」
「……俺、条件が嫌だって言って、その後どうするかは、また一之瀬に聞いた」
柴田は机の縁へ目を落とした。拳を握りかけ、途中で開く。
「何とかしたいとは思ってた。でも、思ってるだけだったな」
「俺も同じだ」
神崎は答えた。責める相手を一人決めれば済むことではなかった。それでは、誰かがいなくなった席を前にして、また自分たちの仕事を他人へ渡すことになる。
「白波のことは、もう戻せない。だが、これから一之瀬を支えることまで手遅れになったわけじゃない。今からでも、俺たちのやり方は変えられる」
網倉が顔を上げた。目の縁にはまだ赤みが残っていたが、資料を持つ手は、さっきよりも強くなっている。
「帆波ちゃん、土曜日も、すぐ一人で帰っちゃったよね。今日も、普通に話してくれるけど……」
「ああ」
神崎もあの退出を覚えていた。白波を見送った後、一之瀬は誰かが声をかけるより先に教室を出た。泣かなかったから平気なのだとは、神崎には思えなかった。彼女が何を抱えたのか聞けていないまま、今日もまた仕事を頼んだ。
「司令塔を引き受けてくれた。それで、また全部お願いしていいと思ってはいけない。彼女が会場へ行っている間に、俺たちで始めよう。皆でやろう」
浜口が頷き、机の上の資料を皆に見える向きへ直した。柔らかい顔立ちにも、今は笑みがない。近くにいた女子が立ったままなのに気づくと、椅子を少し引いて場所を作った。
「まず、出せる種目の案を集めようか。得意なものだけじゃなくて、練習できるかどうかも考えたい。決めてから準備できないって分かると、困るから」
「人数もだよな。俺、それも一緒に考える」
柴田が資料を引き寄せた。その隣で渡辺が端末を開き、机の上に置く。
「案、俺がまとめるよ。口で言っただけだと、後で誰が何を出したっけってなるし」
「それなら、必要なことを先に決めて」
姫野の声がした。席に座ったまま、資料の端を指で押さえている。皆の顔が向くと少し眉を寄せたが、そのまま言葉を続けた。
「何でもいいから考えて、だと、種目の名前だけ出して終わりになりそう。何を書けばいいのか、そろえた方がいいと思う」
神崎は頷き、彼女の指の先にある申請項目を見た。姫野は自分から大勢の中心へ入ることは少ない。だが、今の言葉は、話し合いから離れるためのものではなかった。
「種目の内容、必要な人数、準備できる場所や道具。それと、誰が出られそうか。まずは、その四つで考えよう」
「分かった」
姫野は短く答え、端末を手元へ寄せた。網倉もペンを取り出し、そばの女子と資料をのぞき込む。まだ案と呼ぶにはまとまらない言葉を浜口が聞き取り、渡辺が途中で確かめながら書き留めていった。
神崎はその様子を見てから、自分も席へ戻った。一之瀬が戻ってきたとき、何を考え、どこまで進めたのかを伝えたいと思った。彼女がいずれまた皆の中心に立つことを期待する気持ちは、まだ消えていなかったが、少なくとも、今日の仕事をその日まで置いておくつもりはなかった。
やがて、教室の扉が開いた。資料から顔を上げると、一之瀬が入口に立っていた。神崎はペンを置き、彼女へ身体を向ける。集まっていた生徒たちも話を止め、その返事を待った。
「対戦相手、決まったよ。Dクラス。元龍園君のクラスになった」
ようやくここまで書けました。
この小説を書き始めた際に書きたかったことの一つが、クラス内投票から、ここまでの流れで、みんなで頑張ろうと真正面からいう、この神崎君でした。
ぶっちゃけ千尋ちゃんは嫌いでないのですが、名前のないBクラスの誰かとしたくなかったので、あえて彼女を選定しました。