三月二十二日の朝、多目的室へ続く廊下には、靴音と低い話し声が重なっていた。窓から差す光は明るかったが、壁際の空気にはまだ冷たさが残っている。帆波は指定された部屋の手前で足を止め、扉のそばにいた教員の案内を待った。
私物の端末も、準備の間に作った資料も、試験中には使えない。それは事前に知らされていたため、帆波も持ち込みを前提には準備していなかった。神崎たちと確かめた生徒の得意分野や、出場者の組み合わせ、条件が変わった場合の考え方は、すでに頭へ入れてある。私物を所定の場所へ預けると、手元には何も残らなかった。
「一之瀬」
部屋へ入る前に、神崎が声をかけた。ほかの生徒たちは競技に向けて動いており、帆波が彼と直接話せるのも、これが最後だった。
「今日は、よろしく頼む」
「うん。任された仕事は、ちゃんとやるよ」
神崎は頷いた。その手にも、これから自分が使う資料があった。帆波へ何もかも預けようとはせず、持ち直して身体を引く。
帆波は彼へ頷き返し、多目的室へ入った。室内には二人分の端末が用意されており、金田悟がすでに一方の席のそばに立っていた。金色の髪の下で眼鏡の位置を直し、こちらへ顔を向ける。
「今日はよろしくお願いします、一之瀬氏」
「うん。よろしくね、金田君」
挨拶を交わしてから、帆波は自分の席へ向かった。Dクラスの司令塔も同じ部屋にいるが、競技へ参加する生徒たちとは引き離されている。扉が閉まると廊下の声が遠ざかり、空調の送風音と機器の微かな作動音が、かえってはっきりと聞こえた。
監視に当たるのは真嶋と茶柱だった。Aクラスの担任であり、学年主任でもある真嶋は、二人が席に着いたのを確かめてから、端末へ目を向けた。Cクラス担任の茶柱は、双方の机と画面を見渡せる位置に立っている。
机には学校の用意したパソコンと入力機器、ヘッドセットが置かれていた。その横にあるのは、白紙のメモ用紙と筆記用具だけだった。準備の間に使った一覧表はない。ここから必要になる記録は、試験中に自分で書き起こすことになる。
「まず、画面の操作について説明する」
真嶋の声を聞きながら、帆波は端末へ向き直った。競技の状況を確認する表示、現在の種目の規則や参加生徒の情報を開く箇所、司令塔として介入する際に使う入力機能。説明に沿って画面を切り替え、それぞれの位置を確かめていく。
何ができるかという規則は覚えていても、実際にどこを操作するかは、ここで確認しなければならなかった。帆波は入力機器へ手を置き、視線を動かす順序を確かめた。金田も自分の画面を操作している。二人が必要な表示を開けたことを確認すると、真嶋は説明を終えた。
ヘッドセットを装着すれば、聞こえ方も変わった。室内の送風音が薄れ、学校側から伝えられる音声が近くなる。隣に対戦相手がいても、競技会場にいる自分のクラスメイトへ自由に話しかけることはできない。画面に映る状況と公式情報を読み、種目ごとに認められた範囲で判断する。それが、今日の帆波の仕事だった。
試験が始まると、帆波は現在の種目の規則を開き、参加生徒と進行状況を確かめた。目の前に示される情報を、準備の間に覚えた内容へ結びつけていく。神崎へ質問を送ることも、使い慣れた資料を開き直すこともできない。
備え付けのペンを取り、白紙に必要な記録を書き始める。終わった種目、出場した生徒、次に判断するときに忘れてはいけない点。試験が始まってから確定したことを、頭の中にある予定と混ぜないためだった。
Dクラスが選んだ種目では、相手の強みがはっきりと表れた。条件に合った生徒が出場し、準備してきた力を発揮する。こちらも勝つための判断を重ねたが、その差を覆すには届かなかった。
帆波は結果を確認し、ペンを動かした。司令塔の権利を使えば、どんな状況でも逆転できるわけではない。認められた介入の範囲を確かめ、その中でできることを選んでも、競技で勝敗を決める生徒たちの力まで、自分の思いどおりに変わることはなかった。
一方、Bクラスが選んだ種目では、神崎たちの準備が結果につながった。誰を出すか、その条件なら何を確かめておくか。教室で交わした問いと返事が、画面に映る生徒の動きや、示される結果へ結びついていく。
帆波も、ただ結果を待っていたわけではなかった。出場状況を読み、司令塔として判断するべきところで手を動かす。一つの種目で最も優秀な生徒を選ぶことと、試験全体で使える人数を残すことは、同じではない。相手についても同様に、誰が出て、誰がまだ出ていないのかを確認した。
大人数の種目を利用して出場者を一周させ、優秀な生徒を再び起用する案も、準備の段階では検討した。だが、実際に行われる種目と順序を前にすれば、使える方法は限られる。机を囲んで考えた可能性を、そのまま現実へ当てはめるのではなく、今、成立する条件を選び直さなければならなかった。
画面を切り替える合間に、金田がペンを置くのが視界に入った。彼は帆波を見ず、自分の端末へ手を戻していた。その表情から考えを読み取ろうとしても、必要な答えが得られるとは限らない。帆波は相手の机から視線を離し、公式に示された情報を確かめた。
事前に警戒していた、競技の外からこちらを揺さぶるような卑怯な手は、試験が進んでも現れなかった。画面に示されるDクラスの戦い方にも、公式の情報にも、そうした動きを疑う材料はなかった。金田は規則の中で判断し、自分たちが選んだ種目を勝ちへ結びつけていた。
帆波は、その事実を準備のときの懸念とは分けて受け取った。龍園の下で戦ってきた生徒たちだからといって、今回も同じ手段を選ぶと決まっていたわけではない。警戒したことを無駄だったと考える必要もなかったが、起きていないことを探し続け、目の前の判断を遅らせるつもりもなかった。
両クラスは、それぞれが提案した種目で勝ちを重ねた。相手の得意な場所では負け、こちらが準備してきた場所では勝つ。会場の歓声も落胆した声も、この部屋へ直接は届かない。帆波は画面に現れる結果を一つずつ記録した。
第六競技が終わった時点で、勝敗は三対三だった。
ここまで、Bクラスが選んだ三種目はBクラスが取り、Dクラスが選んだ三種目はDクラスが取っていた。最後に残ったのは、Bクラスが提案した種目だった。
帆波は表示された数字を見てから、メモへ同じ結果を書いた。ペンを置き、指を一度開く。自分たちで選んだ種目だからといって、始まる前から勝ちが入るわけではない。あと一つを取るために、ここからも必要な判断を続けなければならなかった。
現在の種目の条件を読み、出場状況と照らし合わせる。準備の中で交わした言葉を思い出した後は、自分で決めるしかない。帆波は必要な操作を行い、入力された内容を確かめた。
室内では、金田も自分の判断を進めていた。真嶋と茶柱が見守る中、二人の司令塔はそれぞれの画面へ向き合っている。帆波は肩へ入った力をわずかに緩め、競技の進行を追った。
最後の結果が示されたとき、帆波は息を吐いた。見間違いがないかを確かめ、メモへ最後の印をつける。第七競技を勝ったのはBクラスだった。
四勝三敗。Bクラスは自分たちが選んだ四種目をすべて取り、Dクラスも自分たちが選んだ三種目をすべて取った。その七つの組み合わせの中で、最後の一勝が帆波たちの側に入った。
準備したことは役に立った。判断が必要な場面もあった。ただ、どの種目が七つに入ったかという巡り合わせも、この一勝の差から切り離せなかった。帆波は結果を確かめ終え、ペンを置いた。
終了の指示を受けてヘッドセットを外すと、空調の音がまた近くなった。耳を覆っていた部分へ空気が触れ、わずかに涼しい。金田もヘッドセットを机へ置いていた。眼鏡の奥の視線は、まだ画面に残っている。
帆波は学校から渡されたメモ用紙をまとめた。使った紙が回収されるのを待ち、指示に従って席を離れる。試験中に書いた記録を、教室へ持ち帰ることはできなかった。
私物を受け取り、鞄を肩へ掛けたところで、金田と目が合った。
「お疲れさま、金田君」
「……お疲れさまでした、一之瀬氏」
金田は短く答えた。帆波はそれ以上話しかけず、教室へ向かった。
戻った教室では、朝とは声の響きが変わっていた。机の間を行き来する生徒が増え、離れた席へ名前を呼ぶ声もある。帆波に気づいた網倉が顔を上げると、近くにいた生徒たちもこちらを向いた。
「帆波ちゃん、お疲れさま!」
「うん。みんなも、お疲れさま」
帆波が返すと、柴田がそばへ来た。笑顔だったが、息をついた拍子に肩が下がり、疲れがはっきり見えた。
「勝ったな。最後まで、どうなるかと思った」
「うん。四勝目が入ってよかったね」
渡辺も机の間から顔を出した。何か言おうとして先に息を吐き、椅子の背へ両手を置く。
「結果を見るまで、息止めてたかもしれない。今になって、どっと来た」
「じゃあ、少し座ったら?」
浜口に言われ、渡辺は素直に椅子を引いた。座る前に柴田へ顔を向け、まだ何か話し始めようとしたところで、姫野が自分の席から目を上げる。
「休むのか話すのか、どっちかにしたら」
「……まず座る」
渡辺が腰を下ろすと、柴田が笑った。網倉の口元も緩み、近くの女子が小さく息を漏らす。帆波はその脇を通り、自分の席へ鞄を掛けた。
「結局、向こうも、自分たちの種目は全部取ったんだよな」
柴田が言った。浜口は頷き、机に置いた端末へ目を落とす。
「うん。僕たちも全部取れた。どこか一つ落としてたら、逆になってたね」
「警戒してたようなことは、なかったし」
姫野はそう言ってから、少し間を置いた。
「普通に強いところは、強かった」
神崎もその言葉に頷いた。準備のときに出た懸念を、今のDクラスの行動へ無理に重ねようとする者はいなかった。渡辺が結果をもう一度見て、椅子の背へ身体を預ける。
「……ほんと、四つとも取れてよかった」
星之宮が教室へ入ってくると、話し声が少しずつ収まった。担任は教卓に手を置き、皆を見渡してから、柔らかく声をかけた。
「お疲れさま。よく頑張ったわね」
その一言で、また何人かが笑顔になった。星之宮は勝敗とクラスポイントの増減を伝えた。Bクラスは百三十ポイントの増加。Dクラスは三十ポイントの減少となる。
帆波はその数字を確認した。自分が保持しているプロテクトポイントも、そのままだった。一方、敗れた司令塔の金田は、自分のプロテクトポイントを消費して退学を免れた。
準備のとき、金田が司令塔を務める理由として話していたことが、実際の結果になっていた。Dクラスは、自分たちが選んだ種目では一つも負けていない。それでも試験全体では敗れ、司令塔には処分が及ぶ。帆波は、画面から目を離さずにいた金田の横顔を思い出したが、彼があのとき何を考えていたかまでは分からなかった。
星之宮の話が終わると、神崎がこちらへ来た。
「ありがとう。一之瀬」
「うん。神崎君も、お疲れさま」
「こちらでまとめた情報は、役に立ったか」
「うん。覚えておいてよかったこと、いくつもあったよ。先に聞いて確かめておけたから、判断できたところもあった」
神崎の口元が少し緩んだ。帆波はその顔を見てから、言葉を続けた。
「選ばれた種目にも、助けられたね」
「ああ。相手の種目を崩したわけじゃない。そこは、勝ったからこそ忘れないようにしたい」
神崎は答え、教室の中へ目を向けた。浜口と渡辺が、近くの生徒に何か話している。網倉は手元に残っていた資料をそろえ、姫野も端末を閉じていた。
柴田がそばへ来て、二人の顔を見比べた。
「一之瀬が司令塔で、神崎がこっちをまとめてさ。これからも、こんなふうにできたら……」
そこで言葉が切れた。帆波は彼へ顔を向けたが、続きを促さなかった。神崎もすぐには口を挟まず、短い間が三人の間に残る。
「……今日は、お疲れさま」
柴田が言い直すと、帆波は頷いて返した。試験の司令塔として引き受けた役割は終わっていた。勝った後のクラスで何を話し合うのかを、自分から決め始める気持ちはなかった。
神崎たちが準備を進めたことは、見ていた。実際に役立ったことも分かっている。勝利をすべて運の一言で片づけるつもりはなかったし、逆に、自分たちの力だけで当然のように勝ったとも思わなかった。
彼らが喜んでいることに、不満はない。声をかけられれば、普通にねぎらうこともできた。けれど、その笑顔を見て、もう一度自分がクラスを率いたいとは思わなかった。
神崎が渡辺に呼ばれて離れると、帆波は机の上へ置いた端末を鞄へ収めた。その画面が暗くなるのを見たとき、三月三日に黒瀬から聞いた話が戻ってきた。
二月に坂柳成守理事長が職務を停止され、月城が理事長代理に就いたこと。綾小路の父親側が、息子を退学させ、学校から連れ出す目的で月城を送り込んだこと。帆波が知っているのは、その背景までだった。
今回の試験のどの条文を誰が作り、何をどこまで意図したのか。そこまでは分からない。クラス内投票の票を誰かが操作したと聞いたわけでもなかった。それでも、二つの試験を実際に受けた後では、学校が教育のために用意したものだという説明だけでは、収まらなかった。
同級生の中から退学者を出す投票。その後に行われた、敗れた司令塔の退学を伴う試験。星之宮からは、教師側にも異議があり、本意ではない経緯があると聞いていた。そこへ、特定の生徒を学校から排除したい人間の目的が重なる。
帆波は鞄の口へ添えた手を止めた。白波の指に引かれた袖の感触を思い出す。あのとき、教室にいた皆は、学校から示された規則の中で投票した。今日も同じように、出された条件を読み、準備し、勝つために動いた。
綾小路を退学させたいという学校の外の思惑に、特別試験が利用されている。細かな経路までは知らなくても、そのことは、もう切り離して考えられなかった。神崎たちが努力して勝ったという事実も、それによって消えるわけではない。二つは同じ教室に、同じ結果の中にあった。
「帆波ちゃん」
網倉の声に顔を上げると、彼女は机の向こうに立っていた。そろえた資料を両腕で抱え、帆波の鞄へ一度目を向ける。
「今日、もう帰る?」
「うん。学校でやることは終わったから」
「そっか……。今日は、ありがとう」
「うん。網倉さんも、お疲れさま」
網倉が頷き、資料を抱え直した。もう少し何か話したそうに見えたが、近くの女子に呼ばれると、そちらへ身体を向ける。帆波は鞄を閉じ、椅子から立ち上がった。
授業で学ぶことまで必要なくなったとは思わない。教科書を読み、分からないところを確かめ、試験を受けることは、これからも続く。引き受けた役割があれば、その内容を確認して果たせばよかった。
ただ、その先にある、学校が育てようとしているリーダーになるために、今の自分の時間を差し出したいとは思わなかった。
学校の外から持ち込まれた思惑がなくなれば、その気持ちが戻るだろうかと考えても、答えは変わらない。家族と過ごす時間があり、ガイア連合で続けたい仕事がある。エースに教わり、できることが増え、それを任されることが嬉しかった。その生活を続けるために、ここでクラスの先頭へ戻る必要はなかった。
Aクラスで卒業できるなら、その特典を拒むつもりはない。けれど、それを手に入れるために、今、大切にしているものを後回しにする約束はできなかった。今日の勝利を確かめても、そこは少しも変わっていなかった。
「それじゃ、またね」
近くにいた生徒へ声をかけると、幾つもの返事があった。神崎も顔を上げ、小さく頷いた後、渡辺の示す画面へ目を戻した。帆波はその脇を通って、教室を出た。
廊下の窓には、午後の光が広がっていた。陽の当たる床を横切ると、靴の先に自分の影が重なり、数歩先でまた離れる。試験中には遠ざかっていた生徒たちの声が、開いた扉や階段の向こうから届いていた。
帆波は肩に掛けた鞄の位置を直した。学校の試験は終わった。これから臨海支部へ行くことを思うと、次にすることが自然に浮かんだ。
教室からは、まだ勝利を喜ぶ声が聞こえていた。帆波はその声を背に、いつもの道へ戻っていった。