第1話 「帰ってきたのは、自分がそうしたかったから」
窓辺に置いた鞄の片側だけが、春の陽射しを受けて温まっていた。ガラス越しの光は明るく、机に落ちる影も冬の頃より短い。それでも窓を少し開けると、外気は指先に冷たく触れ、帆波は畳みかけの上着を鞄へ入れることにした。薄着で出かけたくなる明るさと、実際の気温は、まだ少し釣り合っていなかった。
着替えをそろえる前にかけた電話は、思っていたより長く続いた。春休みにそちらへ帰りたいと伝えると、母はまず予定を確かめ、それから何が食べたいかと尋ねてきた。
「お母さんの作ったものなら、何でも嬉しいけど……一緒に作れるものがいいな」
『一緒に?』
「うん。美帆も一緒に。私が帰ったら、三人で作ろうよ」
受話口の向こうで母が誰かに声をかけた。少し離れたところから美帆の返事が聞こえ、その声が近づいたかと思うと、電話の向こうが急に賑やかになる。
『お姉ちゃん、帰ってくるの?』
「帰るよ。二人に会いたくなっちゃった」
『いつ?』
予定を伝えると、美帆はすぐに母へ同じことを繰り返した。今まで隣で聞いていたはずなのに、母も改めて相槌を打っている。帆波は服を持ったまま笑い、鞄の口へいったん置いた。
『ご飯、一緒に作るんだって』
「そう。美帆は何がいい?」
『餃子』
返事は早かった。母が向こうで、食べたいものを答えたでしょう、と言うと、美帆は少し間を置いてから言い直した。
『……作るのも、餃子がいい』
「じゃあ、決まりだね。買い物も一緒に行こうよ」
『うん。待ってる』
その一言を聞いてから、帆波はもう一度、帰る予定を確かめた。通話が終わっても口元は緩んだままで、置いていた服を畳み直す手にも、自然と力が入る。持っていくものを増やしすぎないように考えながら、家で着る服を一組、鞄の底へ収めた。
寮を出る頃、美帆から連絡が届いた。餃子を包むのは自分もやる、という念押しだった。
もちろん、と返してから、帆波は続けて文字を打った。
『私の分まで全部包んじゃわないでね』
返事を待つ間にも歩き出したくなったが、画面が変わるのを見て、もう一度足が止まった。
『お姉ちゃんが来てからにする』
帆波は笑って端末をしまい、鞄を肩へ掛け直した。
春休みになっても、学校が生徒の帰省を認めるはない。しかし、もはや帆波なそんなことを気にもしなかった。帆波は普段と同じようにケヤキモールへ向かい、ガイア連合系列の喫茶店を経由して、臨海支部へ入った。
その先は本土へ渡る既存の交通を使った。港の風に吹かれると、陽射しを受けていた頬から熱が引き、鞄に入れた上着を早くも取り出すことになる。海面には細かな波が重なり、光の当たる斜面だけが白く輝いていた。遠目には一枚の明るい帯に見えるものが、近づけば絶えず形を変えている。帆波は襟元を押さえながら、その向こうに続く本土の景色を眺めた。
陸へ移り、手配してもらった車に乗る。海を離れるにつれ、見えるものが建物や道路へ変わっていった。やがて車窓にも、覚えのあるものが増えてくる。角を曲がる前から次の景色が浮かび、実際にそれが目に入るたび、家が近くなったことを身体のほうが先に感じているようだった。
もうすぐ着くと送ると、美帆から短い返事が届いた。帆波は返信せずに画面をしまった。ここからなら、返事を書くより先に顔を見られる。
車を降りて玄関の前で足を止めると、内側から近づいてくる物音がした。呼びかけるより早く扉が開き、美帆が顔を出す。
「お姉ちゃん!」
「ただいま、美帆」
美帆は笑ったまま、帆波の顔と鞄を順に見た。外へ出てきそうな勢いだったのに、足元を確かめて玄関の内側へ下がり、入る場所を空けてくれる。その奥から、母も姿を見せた。まとめた髪のそばに細い後れ毛があり、袖口は家事の邪魔にならないよう折られていた。
「お帰り。寒くなかった?」
「港のほうは、ちょっと。上着、持ってきてよかった」
「まだ風が冷たいものね。さあ、入って」
帆波は靴を脱いで家へ上がった。室内には外ほどの冷たさがなく、肩から鞄を下ろすと、上着の重みも急に気になり始める。美帆はそばで待っていて、帆波が顔を向けると、何か言う前に笑った。
「なあに?」
「ううん。ほんとに帰ってきたなって」
「帰ってきたよ。電話だけじゃ、餃子は包めないもん」
美帆が笑い、母も上着を受け取りながら口元を和らげた。帆波はその二人を見てから、手を洗いに向かった。
お茶を前に座っても、帆波はすぐには湯呑みを持たなかった。母が向かいへ腰を下ろし、美帆が隣で菓子の袋を開けようとしている。その手が途中で止まり、こちらを向いた。
「お姉ちゃん、何?」
「え?」
「さっきから見てる」
母まで顔を上げたので、帆波は二人を交互に見た。確かに、お茶を飲むより先に顔を見ていた。母が湯呑みへ添えた手も、美帆の少し得意そうな口元も、もう少し眺めていたかった。
「だって、会いたかったんだもん」
そのまま答えると、美帆は開けかけの袋へ視線を落とした。指で端をつまみ直してから、小さく頷く。
「私も」
「うん」
帆波はようやく湯呑みを持った。陶器を通して指へ熱が移り、口をつける前から、お茶の香りが近くなる。母は二人を見て、ゆっくり自分の湯呑みを引き寄せた。
「餃子の買い物、少し休んでからにしましょうか」
「私は大丈夫。お母さんは?」
「私も大丈夫よ」
「じゃあ、お茶を飲んだら行こう。美帆、お菓子、それも持っていくつもり?」
美帆は袋を抱えるようにしてから、首を振った。
「これは今、食べる分」
「そっか。ちゃんと分かれてるんだ」
「お姉ちゃんのもあるよ」
差し出された菓子を受け取り、帆波はありがとうと答えた。母が買い物に必要なものを挙げ始めると、美帆も袋を置いてその話へ加わった。
近くの店では、母が買い物籠を持ち、帆波と美帆がその両側を歩いた。野菜とひき肉、餃子の皮をそろえる間、美帆は何度か皮の袋を見たが、帆波が気づいて顔を寄せると、数を確かめていただけだと言った。
「全部、三人で包むんだよね」
「そうだよ。食べる人も三人」
「お姉ちゃん、いっぱい食べる?」
「食べると思う。美帆は?」
「私も」
「じゃあ、包むのも頑張らなくちゃね」
母が籠の中を確かめ、必要な分を選んだ。少し先の菓子売り場で美帆が足を緩めると、帆波も隣で立ち止まった。美帆は棚を見てから、母へ顔を向ける。
「これ、三人で食べるのは?」
「いいわね。でも、餃子を食べる前に全部なくさないようにね」
「まだ買ってないよ、お母さん」
「買ったあとの話」
母が答えると、美帆は笑って袋を取った。帆波も籠の中へ場所を空けながら、あとで開けるときは呼んでね、と付け加えた。
家へ戻ると、母は食材を台所へ運び、美帆は早速、餃子の皮へ手を伸ばしかけた。
「その前に、手を洗おう」
帆波が声をかけると、美帆は止まった手を自分で見た。
「帰ってきたとき、洗ったよ」
「そのあと、買ってきたものを片づけたりしたでしょ。お料理を始める前に、もう一回洗っておこう」
「指の間もね」
母にも言われ、美帆は素直に流しへ向かった。帆波も隣で袖を上げ、石けんを泡立てる。美帆が手を返して指の間を洗うのを見てから、自分も爪の周りまで洗い、流水で十分にすすいだ。
野菜を刻むのは母と帆波が受け持った。美帆には洗った葉をちぎってもらい、包丁を使うまな板のそばへ手を出さないよう、置く場所を分ける。帆波が刻み終えた野菜をまとめると、美帆は自分の作業を確かめるように覗き込んだ。
「これでいい?」
「うん、ありがとう。こっちももう少しで終わるよ」
塩をなじませた野菜からは、時間を置くにつれて水が出てきた。母が水気を絞るそばで、帆波は調味料をそろえる。美帆はボウルの中を見て、初めより野菜が少なくなったと不思議そうに言った。
「水が出た分、小さくなったんだよ。残しすぎると、包んでる間に皮が濡れちゃうから」
「じゃあ、いっぱい絞ったほうがいい?」
「力いっぱい、何でも絞ればいいわけじゃないよ。ほら、お母さんの、そのくらい」
母が手を止めて見せると、美帆は頷いた。帆波はその横顔を見ながら、家で母の手元をこんなふうに眺めている時間が好きだったことを思い出した。見て覚えたつもりでも、自分でやると具合が違う。今日は分からないところを、その場で聞ける。
ひき肉に調味料を加え、野菜と合わせるところは、美帆もやりたがった。母がボウルを押さえ、帆波は周りのものを少し遠ざける。
「混ぜたあとは、その手で髪とか服を触らないでね。何か取りたくなったら、私に言って」
「うん」
美帆は指先から具へ手を入れ、冷たい、と肩を縮めた。それでもすぐには手を引かず、母に教わりながら底から混ぜていく。途中で袖が気になったらしく肘を浮かせたので、帆波が生地に触れないよう袖口を折り直してやった。
「これで大丈夫?」
「うん。ありがとう」
「混ざったら、また石けんで手を洗おうね」
具を混ぜ終わると、母がボウルを引き受けた。美帆は流しへ向かい、帆波は食卓へ皮と小さな水の器、取り分け用のスプーンを並べる。生肉に触れた器具はそのままほかの食べ物に使わないようまとめ、包む場所を整えた。
三人が席に着くと、食卓の真ん中にボウルが置かれた。帆波は皮を一枚、手のひらに広げ、スプーンで具をすくう。
「最初はこのくらいにしようか」
「少なくない?」
美帆が覗く。帆波は具を真ん中へ寄せ、縁に十分な余白が残るところを見せた。
「閉じられたら、次から少し増やせるよ。最初からいっぱい入れると、逃げていっちゃうから」
「具が?」
「うん。閉じたいところに出てくる」
美帆は自分の皮へ具をのせた。帆波の手元を見てからスプーンの先で少し戻し、水へ指をつける。母が縁を濡らす範囲を示すと、真剣な顔でその通りになぞった。
「ひだ、どうやるの?」
「まずは半分に折って、端を合わせてみたら?」
帆波が答えると、美帆は皮を持ち上げた。左右が少しずれ、合わせ直している間に中央の具が動く。帆波はすぐ手を出さず、指の置き方を横から見せた。
「こっちを少し持って。そう、そのまま真ん中を閉じてみて」
「……できた」
「うん。あとは両端も。隙間があると、焼くときに開いちゃうからね」
美帆の最初の餃子は、ふくらみが片側へ寄っていた。それでも縁は閉じていて、母が最後に確かめてからバットへ置くと、美帆は手を引かずにしばらく眺めた。
「これ、私の」
「分かるように、この列に並べようか」
「お姉ちゃんの隣?」
「じゃあ、隣にしよう」
帆波は自分が包んだものを並べた。形の違う二つが並ぶと、美帆は次の皮を取る前に、もう一度そこを見た。
母の手元では、話している間にも餃子が一つずつ増えていった。帆波はひだを寄せながら美帆のほうへ顔を向ける。
「最近も、お料理手伝ってる?」
「うん。今日みたいなのは、あんまりやってないけど」
「いつもは何をするの?」
「野菜を洗ったり。あと、お皿出すのと……」
「食べる前に、お箸が足りるか見てくれるわね」
母が言い添えると、美帆は少し胸を張った。
「お母さん、たまに自分の忘れるから」
「美帆の分は出してるでしょう」
「だから、お母さんのを出すの」
「そっか。じゃあ、今日は私のもお願いしていい?」
帆波が頼むと、美帆は頷いた。次の具をのせる量に気を取られながらも、あとで三人分、と小さく数えている。
「二人で、ほかには何を作ったの?」
美帆が答え始めると、母が途中で一つ補い、そこから別の日の食事の話へ移っていった。帆波は手を動かしながら聞き、分からないところを尋ねた。電話なら次の話題へ進んでいたかもしれない小さな出来事も、今日はもう少し聞いていたかった。
美帆は二つ目からひだを作ろうとして、端の一部を厚く重ねすぎた。自分で見つけて眉を寄せると、母が半月のままでも大丈夫だと言う。
「でも、お姉ちゃんの、そうなってる」
「私のも、よく見ると全部一緒じゃないよ」
帆波は並べた餃子を指で示した。母のものと比べれば、端の幅にも腹の丸みにも違いがある。美帆はそれを見比べ、帆波の一つを見つけた。
「これ、ちょっと傾いてる」
「見つかっちゃった」
「お姉ちゃんも、そうなるんだ」
「なるよ。だから、ちゃんと閉じてるかは最後に見なくちゃね」
帆波が笑うと、美帆も笑った。作りかけの縁をもう一度合わせ、今度はひだを増やさず、指先で端から閉じていく。帆波はその隣へ新しい皮を取り、少し空いたところで母へ話しかけた。
「そうだ、お母さん。こっちにいる間、仕事に行く日があるんだ」
母の指が、閉じかけた皮の端で止まった。顔が上がり、帆波へ向く。
「こちらから行くの?」
「うん。エースと合流してから。同じ都市圏の任務だから、仕事が終わったら、こっちへ帰ってくる予定だよ」
「エースさんと一緒なのね」
「うん」
その名前を口にすると、帆波には合流してからのことが自然に浮かんだ。任務の内容を確かめ、必要なことを聞いて、一緒に現場へ向かう。次は何を教わり、どんなふうに動けるだろう。家へ帰る支度をしていたときとは違う楽しみが、そこにはあった。
母は餃子をバットへ置いてから、もう一枚、皮を取った。
「帰る時間は分かっているの?」
「まだ分からないんだ。任務が済んでも、必要な報告とかがあるから。帰れる時間が分かったら、連絡するね」
「ええ。分かったら、知らせてね」
「うん、そうする」
美帆は二人の話を聞きながら、具をすくったスプーンをボウルへ戻した。
「お仕事じゃない日は、一緒に出かけられる?」
「もちろん。どこか行きたいところ、ある?」
「まだ決めてない。でも、一緒に行きたい」
「じゃあ、これを包みながら考えようよ。お母さんも、一緒に」
母が頷くと、美帆は嬉しそうに次の皮を取った。考え事をしながら具をのせたせいで、さっきより少し多い。帆波がそれを見て口を開くより先に、母も同じところへ目を留めた。
「美帆、それだと閉じにくいわよ」
「ちょうど言おうと思ってた」
二人に見られ、美帆は手元へ顔を近づけた。皮の真ん中には、縁へ届きそうな具の山ができている。
「……ちょっと戻す」
「うん。そのくらいでいいと思う」
帆波が答えると、美帆は慎重に量を減らした。今度は余白を確かめてから水をつけ、真ん中を合わせる。母が自分の餃子を置く場所を少しずらし、三人の列が重ならないようにした。
「それで、お出かけは?」
美帆に続きを促され、帆波は笑った。
「美帆が考えるんじゃなかった?」
「お姉ちゃんの行きたいところも、聞きたい」
帆波は手のひらの皮へ目を落とし、具を中央へ寄せた。行きたいところを一つ思い浮かべると、そこで二人と何を食べようかということまで続いてしまう。隣では美帆が返事を待ちながら縁を押さえ、向かいの母も、急がせずに手を動かしていた。
「じゃあね――」
帆波は顔を上げ、二人へ話し始めた。包み終えた餃子を置くと、母が空いたところへバットを寄せてくれる。美帆はその話に頷きながら次の皮を取り、今度は自分から、具を少なめにすくった。