朝の住宅地では、陽の当たる道と建物の陰とで、頬に触れる空気の温度が違っていた。帆波は明るい側へ出たところで上着の襟から手を離し、少し先の角へ目を向けた。窓を開ける音や、家の前を掃く音が通りへ流れ、車の過ぎたあとにも、どこかの台所から食器の触れ合う音が聞こえていた。
家を出る前、母には、帰る時間が分かったら知らせてね、と言われた。隣にいた美帆もそれを聞いていて、帆波が頷くと、行ってらっしゃい、と手を振ってくれた。二人へ返事をしたときの声が、まだ喉に残っている気がした。
合流する場所にエースを見つけ、帆波は足を速めた。野外作業用の上着を着た彼が顔を上げる。その姿へ近づくだけで、今日の仕事を始められる嬉しさが膨らんだ。
「エースさん、おはようございます!」
「おう。おはよう、一之瀬」
そばへ着くと、帆波は鞄の位置を直して彼を見た。今日の説明を聞きたい。何をするのか確かめ、分からないところがあれば、今のうちに尋ねておきたかった。
「今日は、廃駅から入るんですよね」
「ああ。指定区画にいるゾンビ兵の討伐だ。中は石壁や石室が多い。正面に出てきた相手だけ見てると、横から来るぞ」
「はい。足元は、どうなってますか?」
「乾いた場所と泥地がある。踏み込む先は見ておけ。深いところで足を取られると面倒だからな」
「分かりました」
帆波が頷くと、エースは歩き出した。その隣へ並び、教えられた地形を頭に置く。近くにいてくれる安心は、今も変わらなかった。だからといって、何も見ずについていこうとは思わない。今日も彼に、自分ができるようになったところを見てもらいたかった。
地下へ下りるにつれ、外の風が遠ざかった。壁には水の染みが広がり、剥がれた塗装の下に、濡れたような黒ずみが残っている。コンクリートの継ぎ目から落ちた水が床の窪みへ溜まり、その縁に細かな砂が沈んでいた。
廃駅のホームは先で崩れていた。欠けた縁の向こうへ進むと、構内の壁が途絶え、地下の奥に広い空洞が口を開けている。その暗がりに、石の柱が立っていた。
泥のこびりついた鳥居だった。表面を走るひびには黒い土が詰まり、横に渡された石の下が、周囲より深く翳って見えた。エースが門を抜け、帆波も足元を確かめて続いた。
鼻へ入る匂いが、一歩で切り替わった。
地下の湿気が退き、乾いた土と、血を思わせる鉄臭さが喉へ触れる。前方には崩れた土壁と石碑が連なり、薄闇の中へ、低い石造りの入口がいくつも沈んでいた。振り返れば、鳥居の向こうには剥き出しのコンクリートと、欠けたホームがある。ほんの数歩の距離なのに、そこから吹いていた空気は、こちらまで届かなかった。
帆波は前へ向き直り、地面へ視線を落とした。
乾いた表土には亀裂が入り、その隙間へ細い骨が引っかかっていた。すぐ脇には錆びた刃が半ば埋まり、折れ口だけが土の上へ突き出している。柄の巻き物はほとんど失われ、残った繊維が黒く固まっていた。少し離れたところでは、鎧の小さな板らしい金属片が重なり、腐った紐の名残で辛うじてつながっている。
踏み跡のような窪みには、薄い布が貼りついていた。泥を吸って地面と同じ色になり、端だけがめくれている。その先に転がる白い丸みを目で追うと、土を詰めた眼窩がこちらを向いていた。欠けた顎の下には、色も形も違う骨が重なっている。身体のどの部分だったのか分かるものと、石の欠片にしか見えないものが、同じ土の中へ混ざっていた。
帆波は足を置く場所を選んだ。誰のものなのか、いつからあるのかは分からない。乾いた皮のように反ったものへ触れることもせず、錆びた切っ先と骨片を避け、二人で通れる幅を確かめながら石壁に沿った。
「この先だ」
「はい」
エースの示した方へ進むと、地面が低く落ち込んでいた。窪地には黒い泥水が溜まり、剣や槍らしいものの折れた柄が、斜めに突き出している。水面には薄い膜が浮き、縁に寄った布切れが泥の泡と絡まっていた。
その水面が割れた。
現れた手が土の縁を掴み、指の間から泥が流れ落ちる。破れた軍服をまとった上体が起き、腐敗した顔がこちらを向いた。唇の失われた口には歯が露出し、濁った目の下へ黒い水が伝っている。もう一方の手には、刃こぼれした剣が握られていた。
石室の入口でも影が動いた。鎧の残骸を肩へ引っかけた個体が出てくる。その後ろにも、別の顔が見えた。
帆波は泥の縁から足を離し、乾いた地面へ重心を移した。前へ出てくる相手の肩と、剣を持つ腕がよく見える。口元を少し緩め、踏み出される足を待った。
剣が頭上から落ちてきた瞬間、帆波は斜め前へ足を運んだ。上体を傾けたすぐ脇を刃が通り、振り切った腕の内側へ、自分の肩が入る。止まらず腰を回し、胸へ拳を送り込んだ。
接触の直前に全身の力が集まり、軍服の下で胴が深く折れた。帆波は引き戻す腕と逆の足で地面を押し、その身体が倒れる場所から離れる。靴底が土を掴んだときには、もう横から来る相手へ顔を向けていた。
鎧の個体が剣を横へ振った。帆波は膝を緩め、刃の下を潜る。肩のすぐ上を空気が動き、視界の端で錆びた刃が通り過ぎた。そこから伸び上がる脚の力を腰へつなぎ、掌を顎へ突き上げる。相手の首が反ったところへ身体を回し、浮いた踵から蹴りを走らせた。
鎧ごと石壁へ叩きつけられた身体が崩れる。帆波は蹴り足を引き、着地した膝で重さを受け流した。そのまま壁から離れれば、頭のあった位置へ別の剣が突き込まれ、石の表面を削った。
振り向きざまに笑みがこぼれた。今のはよく見えた。大きく逃げる必要もなく、次へ移れる余地がある。
帆波は剣を引き戻そうとする腕の外へ踏み、肘を打ち込んだ。前へ崩れた相手を追わず、片足で方向を変える。泥から上がってくる影と、石室を出てくる影を、正面へ一度に重ねない位置へ身体を運んだ。
「左、もう一体来るぞ」
声を受けたとき、帆波はすでに顔を向けていた。石壁の切れ目から出た剣先が見える。足を入れ替え、そちらへ胸を向けかけたところで、別の個体が背後を回った。
そちらへ振り返るより早く、腐った軍服の胸に切断の線が走った。身体が崩れ落ち、その向こうでエースが腕を下ろす。
「そっちは任せろ」
「はい!」
返事とともに、帆波は目の前へ踏み込んだ。
突き出された剣を上体の捻りで外し、その脇へ拳を入れる。相手の身体がまだ倒れきらないうちに、帆波の足は次の場所へ移っていた。土の上を滑る布の切れ端を踏まずに越え、泥の縁へ寄りすぎない位置から、通路を塞ぐ個体を見る。
その背後には、乾いた地面が残っていた。
帆波は低く身を沈め、地面を蹴った。数歩分の距離を一息に詰め、肩口から相手の胴へ飛び込む。衝撃で軍装の身体が後ろへ折れ、足が地面を離れた。帆波は前へ流れる勢いを足で捉え直し、倒れかけた胸へ、別の動作として拳を叩き込む。
黒い粒子が腕の脇へほどけた。その向こうから迫る刃を見て、帆波は顔を横へ逃がす。剣先が髪の端をかすめ、すぐ続いて、別の腕が横から振り抜かれた。
そちらには、まだ相手がいた。
帆波は左腕を上げた。袖口から出ていた前腕へ、錆びた刃が直に当たる。
切り裂かれる感触はなかった。
皮膚へ硬いものが触れた圧力だけを残し、刃が止まった。腕を振り抜こうとしたゾンビ兵の肩が詰まり、錆の浮いた剣身が横へ撓む。帆波の素肌には傷もつかず、受けた腕は、その位置から押し下げられなかった。
帆波は自分の腕と、そこに止まった刃を見た。力を逃がしたわけでも、何かで覆ったわけでもない。その一撃では、肌を切ることさえできていなかった。
口元に残っていた笑みが深まった。
相手が剣を引く前に、帆波は受けた腕を外へ開いた。刃ごと敵の腕が流れ、空いた胴へ右の拳が入る。さらに足を軸に身を返し、背後から来ていた個体の膝へ低い蹴りを加えた。姿勢が崩れたところへ、引き上げた肘を落とす。
強い力を出しているのに、身体は重くなかった。踏めば前へ進み、腰を返せば腕がついてくる。地面に縫い止められるように構える必要はなく、相手の剣が通ったあとの空間へ、次の自分を運んでいけた。
帆波は呼吸を吐きながら、石壁の端を回った。窪地から上がった敵が追ってくる。その後ろに続く個体は、先頭の身体に邪魔されて刃を出せない。帆波は半歩だけ待ち、相手の重心が前へ流れたところで、逆へ身を入れた。
守りの薄くなる瞬間が、鮮やかに感じられた。
そこへ膝を突き上げ、折れた上体へ打撃をつなぐ。狙ったところへ力が抜けていく手応えがあり、相手は足元から崩れた。帆波は落ちてきた剣を避けて足を引き、顔を上げる。
そのとき、身体の内側に、新しい感覚が広がった。
腕を戻しかけたところで、それが分かった。帆波はすぐ追わず、軽く後ろへ跳んで距離を作る。靴底が乾いた土へ触れ、膝が柔らかく重さを受けた。
レベルが二十六へ上がっていた。
その実感とともに、両腕の動きを短い間へ重ねる感覚があった。一つを終えてから次を始めるのではなく、引く動きと出す動きが互いを運ぶ。まだ試していないのに、自分の身体でどう使うのかが分かる。
ただし、肩に残る熱も、呼吸の速さも消えていなかった。帆波は指を開き、握り直す。できることが増えても、それまで動いた分までなくなったわけではない。
「エースさん、二十六になりました。新しい連続攻撃が使えます」
エースは近づく敵を見たまま、短く尋ねた。
「身体は動くか?」
「はい。まだいけます」
「なら、相手の向こうまで見ておけ。続けて打てるからって、泥の中まで追うなよ」
「分かりました!」
声へ弾みが混じった。帆波はそのまま前を見た。剣を持つ相手が近づき、その少し後ろから、別の個体が肩を出している。乾いた足場は自分の右側へ続いていた。
先頭の剣が横へ走った。
帆波は上体を反らし、鼻先を通る刃を見送る。後ろへ倒れ込まず、踵へ移しかけた重心を戻しながら踏み込んだ。振り抜かれた腕の下へ入り、右の手刀を胴へ走らせる。
接触の感覚が返るよりも早く、左腕が続いた。
軍服の胸元が裂け、相手の上体が跳ね上がる。帆波の腰はそこで止まらず、引く腕の動きが、次に出す肩を前へ運んだ。短い軌道が交差し、腐敗した肉体が打たれるたび、相手は姿勢を立て直す機会を失っていった。
後ろの個体が剣を突き出す。
帆波は倒れる相手へ踏み込み続けなかった。前足を右へ置き替え、身体の向きを変えた。伸びてきた腕が胸の脇を通る。その外側へ腕を添えて流し、連続する動きの次を、新しく開いた首元へ送り込む。
手が届いた。もう一方の手も、間に合った。
帆波は脚で身体を運びながら、交互の打撃を重ねた。正面にあった肩が横へずれ、剣を握った腕が落ち、次の踏み足の前から相手の身体が崩れていく。攻撃のたびに大きく構え直さずに済む。腕を戻す時間まで、自分の動きに変えられる。
楽しい、と声に出しそうになった。
笑みを浮かべたまま息を吐き、帆波は最後の打撃から身体を引いた。腕の奥には連撃の負担が残り、指先にも力を使った感覚がある。それを確かめながら、落ちてくる刃から離れた。
地面へ倒れた一体が、まだ腕を動かしていた。
帆波はそちらへ向き直った。新しい動きをもう一度使いたい気持ちより先に、剣の位置を見た。相手の手が持ち上がる前に脇へ入り、狙いを絞った一撃を加える。動きが止まり、身体の縁が黒い粒子へ変わっていった。
軽く引いた足を置き、帆波は顔を上げた。石室の入口、壁の切れ目、泥地の向こう。まだ動くものがいないか視線を走らせる。
エースのいる側でも、回り込んでいた個体が崩れ落ちていた。彼はその先を見てから、こちらへ声をかけた。
「一之瀬、そっちを見ておいてくれ。こっちを確認する」
「はい」
帆波は返事をし、構えを保った。呼吸へ意識を戻すと、吸う空気の鉄臭さが、またはっきりした。笑みは残っていたが、視線は暗い入口から外さなかった。
動く敵がいなくなっても、それだけで確認が終わるわけではなかった。帆波はエースと位置を変えながら、石壁の陰と石室の入口、泥の窪みを見ていった。
戦いのあと、土には新しい靴跡と、引きずられた跡が増えていた。その下には古い骨や武具が残っている。錆びた板の縁に、いつのものとも知れない布が絡まり、窪地の水面では、さっき崩れた土がまだ沈みきっていなかった。
奥へ続く道もあった。土壁が折れる先で、薄闇がさらに深くなっている。帆波はそちらへ進まず、任された範囲へ目を戻した。
「こちら、動くものは見えません」
「ああ。対象範囲は確認した。戻るぞ」
「はい」
来た道へ向き直ると、腕に残っていた連撃の感覚が戻ってきた。もう少し知りたいと思いながらも、立ち止まって試すことはしなかった。錆びた切っ先を避け、泥の縁を越え、エースと並んで鳥居へ向かう。
石の門を抜けたところで、湿った空気が頬へ触れた。血と錆を思わせる匂いが背後へ退き、冷えたコンクリートの匂いが戻ってくる。帆波は廃駅の床へ足を置き、息を吸ってから、ゆっくり吐いた。
必要な報告と身体の状態の確認を済ませ、回復を受けると、腕に残っていた負担も落ち着いた。帆波は手を開いて指を動かし、エースへ顔を向ける。
「エースさん、途中で相手を変えたところ、見えてましたか?」
「ああ。足を置き替えてから次へ出したのはよかったな。腕だけ伸ばしてたら、身体が残ってた」
「はい。思っていたより、次の動きにつながって……」
そこまで言うと、また笑みが広がった。戦っている間は、最後まで見ていなければならないものがあった。今は、嬉しかったことを彼へ話せる。
「ちゃんと当てられて、嬉しかったです」
「そうか。ただ、続けて使えば腕にも負担は来る。間合いと残りの力は、その都度見ろよ」
「はい。気をつけます」
帆波が頷くと、エースも頷いた。もっと上手く使えるようになりたいと思った。次に教わることも、自分で試して確かめることも、まだたくさんありそうだった。
端末を取り出し、家へ連絡する。仕事が終わり、必要な報告なども済ませて、これから帰ること。帰宅の見込みを添えて送ると、程なく美帆から返事が届いた。
『待ってる』
その文字を見て、帆波の口元がまた緩んだ。玄関で手を振っていた顔が浮かび、すぐに返事を送る。端末をしまって顔を上げると、エースがこちらを見ていた。
「家へ連絡したか?」
「はい。美帆が、待ってるって」
「そうか。気をつけて帰れよ」
「はい。今日もありがとうございました。エースさんも、お疲れさまです!」
「おう。お疲れ」
帆波は彼へ頭を下げ、顔を上げてから手を振った。歩き出して少ししても、教えてもらった言葉と、新しい動きの感覚が頭に残っていた。
地上の通りでは、人が行き交い、店先から温かい食べ物の匂いが流れていた。地下の空気とはまるで違う。その匂いを吸い込んだ途端に空腹がはっきりして、帆波は家で何を作っているだろうと思った。
母が台所に立ち、美帆がそのそばで話している姿が浮かんだ。今日は、箸を三人分出してくれているかもしれない。自分が帰ってから聞こうとして、まだ話していないこともあるだろうか。
帆波にも、伝えたいことがあった。
今日、新しくできることが増えた。エースに見てもらえて、よかったところも教えてもらえた。二人には戦いの細かな動きまでは分からなくても、嬉しかった気持ちなら話せる。そんなことを考えながら歩くと、見慣れた角へ出るのが、いつもより早い気がした。
家はもう近かった。鞄を掛け直して道を曲がり、玄関へ向かう。上着の裾が脚へ触れ、帆波は少し速くなっていた歩調を緩めた。
上着の袖を直した手が、玄関の前で止まる。扉の向こうから物音がして、帆波は口元を緩めた。そのまま扉を開ける。
「ただいま!」