四月の午後、ガイア連合臨海支部の医務室には、春の陽光が静かに差し込んでいた。
人工島を取り囲む東京湾では、海水の温度が陸上の気温よりも緩やかに変化する。春先にはその温度差が海風を生み、海面から運ばれる湿った空気が、港湾施設の鋼鉄とコンクリートを冷やしていた。しかし、空調によって温度と湿度を管理された医務室には、外の季節を感じさせるものがほとんどない。白い壁、整然と並ぶ検査機器、消毒された器具の微かな匂い。窓の向こうに見える青い海だけが、この施設が巨大な人工島の一角に存在していることを思い出させた。
その清潔で穏やかな空間に、一之瀬帆波は少しばかり場違いな明るさを持ち込んでいた。
「遺伝子検査の結果、ですか?」
椅子に腰掛けた帆波が、興味深そうに首を傾げる。ストロベリーブロンドの長い髪が肩を滑り、前髪の奥に隠された小さな角が、わずかに覗いた。
向かい側の机には、医務室の検査担当者である石川理恵が座っている。清潔な実務服を身につけた成人女性で、穏やかな表情と落ち着いた物腰が印象的だった。ガイア連合の黒札であり、帆波の身体検査や健康状態の確認にも関わってきた人物である。
その隣には、エースがいた。
いつものように飾り気のない服装で椅子に腰掛け、石川が用意した資料を眺めている。帆波にとっては、雪の異界で命を救ってくれた恩人であり、覚醒後の自分を導いてくれた指導員でもある。
彼と出会ってから、まだ1年たっていない。
その間に、帆波の世界は大きく変わった。悪魔が実在することを知り、自分にも人間離れした力があると分かり、戦い方を覚えた。以前は想像もできなかった仕事を任されるようになり、母と美帆の生活を支えるだけの収入も得られるようになった。
何より、エースがいた。
初めて会ったときから、彼は帆波にとって特別な存在だった。自分ではどうすることもできなかった怪物を、あまりにも容易く退けた姿。その後も、知らないことを教え、危険な場所では必要な助けを与え、彼女が自分で判断できるように導いてくれた。
強くなった今でも、その印象は少しも薄れていない。
むしろ、戦いを経験するほど、エースたち黒札がどれほど高い場所にいるのかを実感するようになっていた。
「以前、一之瀬さんの身体を調べたとき、鬼の血を受け継いでいる可能性についてお話ししたでしょう?」
石川が穏やかに切り出した。
「はい。隔世遺伝かもしれないって、お聞きしました」
「ええ。あのときは、まだ推測の段階でした。今回は、その件について追加の検査結果が得られました」
石川は手元の端末を操作し、画面を帆波へ向けた。
「結論から言うと、一之瀬さんの祖先に鬼がいたことが確認されました」
「……えっ?」
帆波は目を丸くした。
「本当ですか?」
「はい。およそ三十代ほど前の祖先に、鬼の血統が存在していたと考えられます」
「三十代……」
帆波は思わず指を折りかけ、すぐに諦めた。
「えっと、一代を三十年くらいで考えると……九百年?」
「そうですね。世代の長さには個人差がありますが、そのくらい昔の祖先ということになります」
「九百年前かあ……」
想像もつかないほど昔だった。
九百年前といえば、日本では平安時代の終わりに近い。武士が勢力を伸ばし、貴族の社会が大きく変わろうとしていたころだ。歴史の授業で習った時代に、自分の祖先が鬼として生きていたというのだから、不思議な気分になる。
「私のご先祖様って、本当に鬼だったんですね」
帆波がそう言うと、石川は小さく頷いた。
「ただし、そこはあまり深刻に考えなくても大丈夫ですよ。三十代も遡れば、血縁関係は非常に広い範囲に及びますから」
「そうなんですか?」
「単純に考えてみましょう。一之瀬さんには、お父さんとお母さんがいますね。その二人にも、それぞれ二人ずつ親がいる。つまり、二代前には四人、三代前には八人。世代を一つ遡るごとに、祖先の人数を数える枠は倍になります」
石川は端末に簡単な計算を表示した。
「これを三十代前まで続けると、二の三十乗。十億七千万人以上になります」
「十億……?」
帆波は思わず画面を見直した。
「そんなにいるんですか?」
「もちろん、実際に十億人以上の異なる祖先がいたという意味ではありません。同じ人物が家系図の複数の枝に現れることもありますし、当時の人口を考えても、単純に倍々で増え続けるわけではありませんからね」
「なるほど……」
「つまり、それほど昔の祖先を共有していること自体は、決して珍しいことではないんです。遠い昔に鬼がいたからといって、一之瀬さんのご家族が、最近まで特別な一族として暮らしていたことにはなりません」
帆波は納得したように頷いた。
「そっか。じゃあ、私のご先祖様が鬼だったとしても、それだけでお母さんや美帆が鬼だってことにはならないんですね」
「そのとおりです。お母さんと妹さんについては、それぞれ個別に調べなければ分かりません。血統に関係する要素を受け継いでいる可能性はありますが、実際にどのような形で受け継がれているかは別の問題です」
「そうなんですね」
帆波はほっとしたように微笑んだ。
母と美帆が自分と同じように角を生やしたり、突然身体が変化したりするのかと、以前は少し気にしていた。しかし、今のところ二人にそのような変化はない。何より、二人とも元気に暮らしている。
それなら、急いで心配する必要はなさそうだった。
「よかった。ありがとうございます、石川さん」
「どういたしまして」
石川が微笑みを返す。
そこで、エースが資料から顔を上げた。
「一之瀬。血統については、ひとまずそれでいい。ただ、今日はもう一つ、お前に聞いておいてほしい話がある」
「はい。何でしょう?」
「今後の仕事に関わることだ。石川さんに説明を頼んである」
帆波はエースを見た。
彼の声はいつもどおり落ち着いていたが、単なる健康診断の続きではないらしい。
「お仕事のことですか?」
「ああ。これからお前が活動していくうえで、知っておいた方がいい」
「分かりました!」
帆波が明るく答えると、エースは椅子から立ち上がった。
「俺は少し席を外す。終わったら食堂に来てくれ」
「あ、はい。エースさんは食堂にいらっしゃるんですか?」
「そのつもりだ。慌てなくていいから、ちゃんと話を聞いてこい」
「はい!」
帆波は素直に頷いた。
エースが自分のために説明を手配してくれたのなら、きっと必要なことなのだろう。
彼が無意味なことで時間を使わせるとは思えなかった。
医務室の扉が閉まると、石川は端末の表示を切り替えた。
「さて、一之瀬さん。ここからは少し、気の重いお話になります」
「……気の重いお話、ですか?」
「ええ。ですが、怖がらせることが目的ではありません。これから自分の身を守るために、知っておいてほしいことなんです」
石川は帆波の表情を確かめるように、一度言葉を区切った。
「まず、一之瀬さんの能力についてお話ししましょう」
「はい」
「現在の成長状況と、これまでの検査結果から判断すると、一之瀬さんが将来的に到達できるレベルの上限は、四十から六十程度ではないかと推測されています」
「四十から六十……」
帆波は思わず目を輝かせた。
「そんなに上がれる可能性があるんですか?」
「可能性ですよ。必ずそこまで成長するという意味ではありませんし、正確な限界が分かったわけでもありません」
「それでも、すごいですね!」
現在の帆波はレベル二十六だった。
これまでの経験から、レベルが上がるにつれて身体能力が向上することは理解している。今でも、普通の人間とは比較にならない力を持っているのだ。それがさらに成長する可能性があると聞けば、期待せずにはいられなかった。
「もっと強くなれるんだ……」
思わず漏れた言葉に、石川は穏やかに頷いた。
「ええ。ただ、その数字がどれほど特別なのかは、知っておいた方がいいでしょうね」
「特別、ですか?」
「覚醒者なら、誰でも際限なく強くなれるわけではありません。霊的な才能が乏しい人の場合、覚醒してもレベル三前後で成長が頭打ちになることは珍しくないんです」
「三……?」
帆波は驚いて顔を上げた。
「そんなに早く止まっちゃうんですか?」
「ええ。もちろん個人差はありますが、覚醒したという事実と、その後どこまで成長できるかは別なんです。努力や経験だけでは越えられない、生まれ持った資質の差があります」
帆波はしばらく考え込んだ。
自分は覚醒してから、エースの指導を受け、さまざまな異界で戦ってきた。任務を重ねるたびに経験を積み、少しずつ強くなってきたことを嬉しく思っている。
けれど、そもそも自分には、そこまで成長できる素質があったということなのだろう。
「じゃあ、私って……結構、才能がある方なんですね」
「結構、という程度ではありませんよ」
石川は小さく微笑んだ。
「一之瀬さんは、非常に恵まれた資質を持っています。だからこそ、注意してほしいことがあるんです」
その言葉に、帆波は首を傾げた。
「注意、ですか?」
「はい。霊的な才能には、遺伝的な要素が関係していると考えられています。もちろん、すべてが遺伝で決まるわけではありませんが、才能のある覚醒者の子供が、同じように高い資質を受け継ぐ可能性は無視できません」
「……はい」
「つまり、一之瀬さんのように高い能力を持つ女性は、本人の戦闘能力だけでなく、次の世代へ才能を伝える可能性という意味でも、特別な価値があると見なされることがあります」
石川の声は変わらず穏やかだった。
しかし、その言葉の意味を理解するにつれて、帆波の笑顔が少しずつ消えていった。
「……次の世代、ですか?」
「ええ。あまり気持ちのいい表現ではありませんが、優れた血統を持つ競走馬を、サラブレッドとして扱うのと似た考え方をする人間もいるんです」
「サラブレッド……」
帆波は、その言葉を繰り返した。
競走馬。
優れた能力を持つ馬を選び、その特徴を次の世代へ受け継がせる。
もちろん、馬を育てる人々にとっては、それが仕事なのだろう。しかし、人間に対して同じ考え方を向けるというのは、どういうことなのか。
石川は帆波の表情を見つめながら、静かに続けた。
「以前、木更津の居住権について相談したとき、小田原近辺のシェルターの話が出たでしょう?」
「あ……はい。覚えてます」
春休みに、黒瀬やエースたちと相談したときのことだった。
家族が安全に暮らせる場所を探していた帆波に、黒札たちはいくつかの候補を教えてくれた。その中に、小田原近辺の大きなシェルターがあった。
帆波の能力なら歓迎されるだろうが、女性として不本意なことになる可能性がある。母と美帆も無事では済まないかもしれない。
そう聞かされ、結局はガイア連合の木更津支部を目指すことにしたのだった。
「小田原のシェルターは、単に管理者が大勢の女性を集めて、自分の欲望を満たそうとしているという話ではありません」
「……え?」
「もちろん、管理者個人の考えをすべて把握しているわけではありません。ただ、あの場所で重視されているのは、将来の戦力を確保することです。世界の情勢が悪化し、これから先、覚醒者の数がどれほど重要になるか分からない。そう考えたとき、優れた霊的資質を持つ人間を集め、その才能を次の世代へ受け継がせようとする発想が生まれるんです」
石川はそこで言葉を切り、帆波の反応を待った。
「……それって」
帆波は膝の上で両手を重ねた。
「強い人の子供なら、強い人になるかもしれないから……ってことですか?」
「そうです。もっとも、遺伝する可能性が高いということと、望んだ能力を持つ子供が必ず生まれるということは違います。霊的な才能の継承には、まだ解明されていない部分が多いんですよ」
「でも、可能性があるなら、そのために人を集めようとするんですね」
「ええ。人間を個人として尊重することと、将来の戦力を生み出す資源として評価することは、まったく別の考え方です。残念ながら、後者を優先する人間も存在します」
石川の説明は冷静だった。そこに感情的な非難はなく、帆波がこれから直面するかもしれない危険を、一つずつ明らかにしようとしている。
けれど、帆波の胸には、冷たいものが広がり始めていた。
競走馬。
サラブレッド。
優れた血統を残すために、その価値を評価される存在。
もし、自分がそうした考え方をする人間の手に渡ったら、どうなるのだろう。
帆波は、牧場で暮らす馬の姿を思い浮かべた。広い柵に囲まれた土地。清潔に管理された厩舎。十分な餌と、病気になれば受けられる手厚い治療。
外から見れば、大切に扱われているように見えるかもしれない。
けれど、どこへ行くのか、何をするのか、どのように生きるのか。それを決めるのは、馬自身ではない。
その馬がどれほど優れた能力を持っていても、所有者が手綱を握っている限り、自由に生きられるわけではなかった。
……私も、そういうふうに扱われるの?
背筋に冷たい感覚が走った。
自分には、戦う力がある。
普通の人間とは比較にならない身体能力を持ち、悪魔を相手にしても戦える。これまで幾度となく異界へ入り、任務を果たしてきた。自分の力が成長していくことは嬉しいし、もっと強くなりたいとも思っている。
しかし、その力があるからこそ、本人の意思とは無関係に価値をつけられる。
戦闘能力だけなら、まだ理解できた。
強い覚醒者が必要だというのなら、仕事を依頼すればいい。報酬と条件を示し、本人が納得したうえで協力する。ガイア連合で帆波が経験してきたのも、そうした関係だった。
けれど、石川が話しているのは、それだけではない。
自分がどれほど強くなれるのか。
そして、自分の血を受け継ぐ人間が、どれほど強くなる可能性を持っているのか。
その二つを、他人が勝手に評価するという話だった。
「……石川さん」
「はい」
「もし、私がそういう場所に行ったら……お仕事をして、報酬をもらって、それで終わりにはならないんですか?」
石川はすぐには答えなかった。
「相手によります。本人の意思を尊重する人もいるでしょう。ですが、最初から血統を重視している相手なら、戦闘員として働くだけで十分だとは考えないかもしれません」
「……そう、なんですね」
「それに、相手が一之瀬さんを歓迎すると言ったとしても、その歓迎が何を意味するのかは慎重に見極めなければなりません。能力を評価されることと、人格を尊重されることは同じではありませんから」
帆波は唇を結んだ。
その違いは、よく分かった。
以前の自分なら、誰かに必要とされることを嬉しく思ったかもしれない。相手が困っているなら助けたい。期待されているなら応えたい。そう考えて、自分にできることを探しただろう。
今は違う。
誰かに必要とされているからといって、その期待に応える義務があるとは思わなかった。
まして、自分の人生を他人の都合で決められるなど、考えたくもない。
「……私、そういうのは嫌です」
帆波は静かに言った。
「誰かのために強くなったわけじゃないし、私のことは私が決めたいです」
「ええ。それでいいんですよ」
石川は頷いた。
「ただ、相手が同じように考えてくれるとは限らない。だから、危険を知っておく必要があるんです」
帆波は顔を上げた。
「……それって、小田原以外でも、ですか?」
「はい。小田原は、以前の相談で具体的な候補として挙がった場所にすぎません。同じような価値観を持つ人間が、ほかの地域にいないとは言えません」
「……」
「特に、これから社会情勢が悪化すれば、覚醒者の力を求める人は増えるでしょう。自分たちの拠点を守るために、強い戦闘員を必要とする。そこまでは自然なことです。しかし、将来の戦力まで確保しようと考える人間が現れても、不思議ではありません」
石川は端末の画面を閉じた。
「一之瀬さんは、まだご自身の価値を十分に理解していないのかもしれませんね」
「私の、価値……」
「ええ。現在の戦闘能力だけでも、あなたを必要とする組織はあるでしょう。それに加えて、将来の成長可能性と血統の価値まで評価する相手がいる。そういう人たちから見れば、一之瀬さんは非常に魅力的な存在なんです」
魅力的。
その言葉は、普段なら褒め言葉だった。
学校でも、帆波は何度となく好意的な言葉を向けられてきた。容姿を褒められることもあれば、人柄を評価されることもある。
しかし、今の石川の言葉は、そうしたものとはまるで違って聞こえた。
自分が何を考え、何を望んでいるのか。
そんなことには興味を持たず、ただ利用価値だけを見ている人間がいる。
帆波は思わず、自分の腕を抱いた。
「……怖いですね」
「そうですね」
石川は否定しなかった。
「怖いと感じるのは自然なことです。ですが、危険を知っていれば、避けるための判断もできます」
帆波は小さく頷いた。
そのとき、もう一つのことに思い至った。
「……あの、石川さん」
「何でしょう?」
「さっき、霊的な才能は血統と関係があるって言いましたよね」
「はい」
「じゃあ……お母さんと美帆も、関係あるんですか?」
問いかける声が、思っていたより小さくなった。
石川は表情を変えずに答えた。
「可能性はあります。ただし、先ほど説明したとおり、お母さんと妹さんが実際にどのような資質を持っているかは、個別に検査しなければ分かりません」
「でも、私の家族だってことは……」
「ええ。あなたと血縁関係にあることは事実です」
帆波は息を呑んだ。
母の顔が浮かんだ。
仕事から帰ってきたとき、疲れていても自分たちのことを気遣ってくれる母。以前よりも家計に余裕ができ、ようやく安心して笑える時間が増えてきた母。
次に、美帆の顔が浮かぶ。
料理を一緒に作りながら楽しそうに話す妹。帆波が帰省すると喜んで迎えてくれて、何でもない出来事を嬉しそうに聞かせてくれる美帆。
二人とも、普通に暮らしている。
悪魔と戦う力など持っていないし、異界のことも詳しく知らない。
それなのに。
もし、誰かが自分の血統に価値を見いだしたら。
母と美帆も、同じように見られてしまうのだろうか。
帆波の脳裏に、先ほど想像した牧場の光景が再び浮かんだ。
整えられた厩舎。柵に囲まれた土地。所有者が管理する生活。
その中に、自分だけでなく、母と美帆までいる。
もちろん、実際にそんなことが起こると決まったわけではない。石川も、二人が特別な能力を持っていると断定したわけではなかった。
それでも、想像するだけで胸が苦しくなった。
「……嫌です」
帆波は、膝の上で両手を握りしめた。
「お母さんも美帆も、そんなふうに扱われるなんて……絶対に嫌です」
石川は静かに頷いた。
「ええ。だからこそ、家族の安全を確保することが大切なんです」
「……はい」
「ただ、一つ覚えておいてください。一之瀬さん。あなたのご家族が、今すぐ誰かに狙われていると確認されたわけではありません。これは、今後起こり得る危険についての説明です」
その言葉に、帆波は顔を上げた。
「……まだ、そういうことが起きているわけじゃないんですね?」
「少なくとも、あなたのご家族について、そうした情報はありません。危険を想定することと、実際に危険が迫っていると判断することは区別しなければなりません」
石川の落ち着いた声が、帆波の思考を少しずつ整えていった。
そうだ。
まだ、何も起きていない。
母と美帆は、今も家で普通に暮らしている。自分も、こうしてガイア連合の医務室で説明を受けている。
怖いからといって、何もかも最悪の方向へ考える必要はない。
けれど、何も起きていないからといって、これからも安全だとは限らなかった。
「……石川さん」
「はい」
「私、やっぱり木更津の居住権を取りたいです」
帆波は、はっきりと言った。
「お母さんと美帆が安心して暮らせる場所を、ちゃんと用意したいんです」
「ええ。以前から、そのために頑張っていると聞いていますよ」
「はい。まだ必要なマッカも実績も足りないんですけど……でも、絶対に手に入れたいです」
言葉にするうちに、胸の奥で膨らんでいた恐怖が、少しずつ別の形へ変わっていった。
必要なのは、ただ怖がることではない。
自分にできることを考え、行動することだ。
ガイア連合木更津支部の家族用シェルター居住権。
母と美帆が、社会の混乱に巻き込まれずに暮らせる場所。自分が任務で外へ出ている間も、二人の安全を守ってもらえる場所。
そのために、実物マッカと貢献実績を積み重ねる。
目標は、何も変わっていなかった。
むしろ、以前よりもはっきりした。
「……そういえば」
帆波は、ふと顔を上げた。
「エースさんは、どうして今になって、このお話を聞かせようと思ったんでしょう?」
石川は少しだけ表情を和らげた。
「それについても、説明しておきましょう」
彼女は椅子に座り直し、帆波へ向き合った。
「一之瀬さん。これから先、ガイア連合の黒札たちは、今まで以上に忙しくなると考えられています」
「……はい」
「世界情勢が悪化すれば、対応しなければならない事件や異界も増えるでしょう。そうなれば、エースさんが今までのように、すべての任務へ同行できるとは限りません」
帆波は思わず顔を上げた。
「エースさんが……?」
「ええ。一之瀬さんも、ずいぶん成長しましたからね。今後は単独で任務を担当する機会も増えるかもしれません」
単独任務。
その言葉を聞いた瞬間、帆波の胸に小さな寂しさが生まれた。
これまで、エースはいつも頼りになる存在だった。
初めて異界で出会ったときも、ガイア連合で訓練を始めたときも、危険な任務に向かうときも。分からないことがあれば教えてくれたし、自分の判断が必要なときには、考えるための時間を与えてくれた。
彼のそばにいれば、安心できる。
それは、今でも変わらなかった。
エースがいなくても戦えるようになることと、エースがいなくても平気になることは、帆波にとって同じではなかった。
「……そう、なんですね」
帆波は少しだけ視線を落とした。
もっと一緒にお仕事をしたいな。
素直に、そう思った。
エースと一緒に異界へ入り、知らないことを教えてもらいながら戦う時間が好きだった。任務が終わったあとに、自分の動きについて意見を聞くことも楽しみだった。
できることなら、これからもずっと指導してほしい。
けれど、エースにはエースの仕事がある。
ガイア連合の黒札は、帆波が想像するよりもずっと多くの責任を担っているのだろう。
自分のためだけに、彼の時間を使ってもらうわけにはいかなかった。
「エースさんも、忙しくなるんですね」
「ええ。ですから、一之瀬さんが一人で行動することになっても、危険な相手を見極められるようにしておきたい。そう考えて、私に説明を依頼されたんです」
「……」
「一之瀬さんは強いです。でも、強いからこそ狙われることもあります。戦闘で勝てる相手であっても、最初から敵意を見せてくるとは限りません。好意的な言葉や有利な条件を提示して、あなたを自分たちの側へ引き込もうとすることもあるでしょう」
石川は静かに続けた。
「そういう相手に出会ったとき、自分が何を求められているのか、どのような危険があるのかを知っていれば、判断を誤る可能性を減らせます。エースさんは、あなたが自分の力で身を守れるように、今のうちに必要な知識を身につけてほしいと考えたのでしょうね」
帆波は石川の言葉を聞きながら、ゆっくりと頷いた。
なるほど、と思う。
エースは、ただ強くなれと言っているのではない。相手が悪魔なら、その能力や行動を見極め、任務の目的に従って戦えばいい。しかし、人間が相手なら、必ずしも戦闘になるとは限らない。むしろ、親切そうに近づいてくる相手の方が、何を考えているのか分かりにくいこともある。
自分が望むものと、相手が望むもの。
その二つが一致しているように見えても、本当に同じとは限らないのだ。
「……エースさん、そこまで考えてくださってたんですね」
「ええ。あなたの指導員ですから」
石川は穏やかに答えた。
「それに、一之瀬さんがこれまで努力してきたことは、私たちも知っています。だからこそ、せっかく身につけた力を、誰かの都合で利用されるようなことにはなってほしくないんです」
その言葉を聞いた瞬間、帆波の胸の奥に温かいものが広がった。
ガイア連合に入ってから、彼女は多くのことを教わってきた。
エースだけではない。黒瀬も、真壁も、石川も、それぞれの立場から彼女を助けてくれた。彼らは帆波よりもはるかに多くの経験を持ち、危険な世界についても詳しい。それでも、知らないことを尋ねれば教えてくれるし、必要なときには助言してくれる。
もちろん、彼らにも仕事があり、組織としての規律がある。帆波の希望が何でも通るわけではない。
けれど、少なくとも彼女は、自分の意思を無視されたことがなかった。
任務を受けるかどうか。どのように戦うか。これから何を目指すか。
必要な説明を受けたうえで、自分で選ぶことができた。
先ほど石川が話していた、血統の価値だけで人間を評価する考え方とは、まるで違っていた。
「……私、ガイア連合に入れてよかったです」
帆波は顔を上げ、微笑んだ。
「エースさんにも、黒瀬さんたちにも、いろいろ教えていただいて……本当に、よくしてもらってますから」
「そう思っていただけるなら、私たちも嬉しいですよ」
「はい!」
明るく答えたものの、帆波の胸には、まだ先ほどの恐怖が残っていた。
自分の血統に価値を見いだす人間がいる。
その価値を理由に、自分だけでなく母や美帆まで利用しようとする者が現れるかもしれない。
想像するだけでも嫌だった。
しかし、だからこそ、今いる場所のありがたさが分かる。
エースたちがどれほど強く、頼りになる存在なのか。彼らが守っている組織に所属していることが、自分にとってどれほど大きな意味を持っているのか。
帆波は改めて、それを実感していた。
「石川さん。一つ、聞いてもいいですか?」
「もちろんです」
「私がこれから一人でお仕事をするようになって、もし、そういう人に会ったら……どうすればいいんでしょう?」
「まず、相手の提示する条件を、その場ですぐに受け入れないことですね」
石川は落ち着いた声で答えた。
「相手が何を求めているのか、どのような義務が生じるのか、自分に不利益がないかを確認することです。少しでも不審に思ったら、ガイア連合へ相談してください」
「相談してもいいんですか?」
「当然ですよ。単独任務というのは、すべてを一人で解決しなければならないという意味ではありません」
石川は微笑んだ。
「それに、一之瀬さんには、頼れる人が大勢いるでしょう?」
「……はい!」
帆波の表情が明るくなった。
そうだ。
一人で任務に向かうことになっても、ガイア連合から離れるわけではない。エースに会えなくなるわけでも、黒瀬たちに相談できなくなるわけでもない。
必要なら連絡すればいい。
自分で判断できることは判断し、分からないことがあれば相談する。
それは、これまでエースから教わってきたことと同じだった。
「ありがとうございます、石川さん。私、ちゃんと気をつけます」
「ええ。それで十分です。危険を知ることと、誰も信用しなくなることは違いますからね」
「はい。分かりました!」
帆波は大きく頷いた。
石川は端末を片づけながら、最後にもう一度、彼女へ目を向けた。
「それから、ご家族のことですが」
「はい」
「先ほどもお話ししたとおり、お母さんと妹さんに特別な資質があるかどうかは、現時点では分かりません。今すぐ何かを決めつける必要はありませんよ」
「……はい」
「ただ、家族の安全を確保したいという一之瀬さんの考えは、合理的なものだと思います。木更津支部の居住権を目指すのであれば、これまでどおり、必要な実績を積み重ねていけばいいでしょう」
帆波は静かに頷いた。
母と美帆。
二人の顔を思い浮かべると、先ほどまで胸に残っていた恐怖が、もう一度小さく疼いた。
けれど、今度はそれだけではなかった。
自分には、できることがある。
仕事を続け、実物マッカを蓄え、ガイア連合への貢献実績を積み重ねる。そうして、家族が安心して暮らせる場所を手に入れる。
それは、春休みに決めた目標だった。
今になって、新しく何かを思いついたわけではない。
ただ、その目標を達成したい理由が、以前よりも切実になっていた。
「……私、頑張ります」
帆波は、はっきりと言った。
「お母さんと美帆が、これからも安心して暮らせるように。ちゃんと居住権を手に入れたいです」
「ええ。応援していますよ」
「ありがとうございます!」
帆波は立ち上がり、石川へ丁寧に頭を下げた。
「今日は、いろいろ教えてくださってありがとうございました」
「どういたしまして。一之瀬さんも、無理はしないでくださいね」
「はい!」
医務室を出ると、廊下には午後の柔らかな光が差し込んでいた。
帆波は扉を閉め、しばらくその場に立っていた。
自分の祖先に鬼がいたこと。
自分には、まだ大きく成長できる可能性があること。
そして、その力や血統を、本人の意思とは無関係に利用しようとする人間がいるかもしれないこと。
今日聞いた話は、どれも簡単に忘れられるものではなかった。
特に、母と美帆まで血統の価値で判断されるかもしれないという話は、今でも考えるだけで怖かった。
けれど、だからといって、ここで立ち止まっていても仕方がない。
帆波は顔を上げた。
まずは、木更津の居住権。
そのために、もっと仕事をしよう。
そう考えたところで、ふとエースのことを思い出した。
そうだ。食堂で待っててくださるんだった。
帆波の表情が明るくなる。
エースに会える。
ただそれだけで、足取りが軽くなった。
彼女は廊下を歩き始めた。医務室から食堂へ向かう道は、もう何度も通っている。壁際に並ぶ案内表示も、途中ですれ違う支部の職員たちも、今ではすっかり見慣れたものだった。
この場所には、自分の居場所がある。
そう思えることが、嬉しかった。
食堂へ入ると、帆波はすぐにエースの姿を見つけた。
窓際の席で、彼は湯気の立つ茶を飲んでいた。片手には端末を持っているが、帆波が近づくと顔を上げる。
「おう、一之瀬。終わったか」
「はい! お待たせしました、エースさん!」
帆波は明るく答え、彼の向かい側へ歩み寄った。
「ちゃんと話は聞けたか?」
「はい。石川さんが、すごく丁寧に説明してくださいました」
「そうか」
エースは端末を置いた。
「少し重い話だっただろう」
「……はい」
帆波は素直に頷いた。
「正直、怖かったです。私のことだけじゃなくて、お母さんや美帆のことまで考えたら……」
言いかけて、少しだけ視線を落とす。
けれど、すぐに顔を上げた。
「でも、聞いてよかったです」
「そうか」
「はい。知らなかったら、きっと何も考えずに、そういう人のところへ行っちゃうこともあったかもしれませんから」
エースは静かに頷いた。
「お前は人当たりがいいからな。相手が親切そうにしていると、つい信用してしまうこともあるだろう。だから、今のうちに知っておいてほしかった」
「……はい」
「もちろん、誰も彼も疑えという話じゃない。相手の目的を考えて、自分で判断できればいい」
「分かりました」
帆波は笑顔を浮かべた。
「エースさん。今日は、本当にありがとうございました」
「ん?」
「私のために、石川さんへ説明をお願いしてくださったんですよね?」
「ああ。これから単独で動く機会も増えるだろうしな。知っておいて損はない話だ」
「はい!」
帆波は胸の前で両手を重ねた。
やっぱり、エースさんはすごいな。
自分が何を知らないのか。
これから、どのような危険に遭う可能性があるのか。
そして、その危険に備えるために、何を知っておくべきなのか。
エースは、帆波が気づいていなかったことまで考えてくれていた。
そのことが、嬉しかった。
初めて会ったときから抱いている憧れは、今でも変わらない。むしろ、こうして新しいことを教わるたびに、もっと近くで学びたいと思う。
彼のように強くなりたい。
彼のように、知らない世界のことを理解できるようになりたい。
そして、できることなら、これからも一緒に仕事をしたい。
そうした気持ちは、帆波の中で自然に重なっていた。
「……エースさん」
「何だ?」
「これからも、いろいろ教えてくださいね」
帆波がそう言うと、エースは少しだけ眉を上げた。
「今までも教えてるだろう」
「ふふっ。そうですけど、これからも、です!」
「分かった分かった。必要なことは教えるさ」
「はい!」
帆波は嬉しそうに笑った。
エースは茶を一口飲み、席から立ち上がる。
「さて。そろそろ行くか」
その言葉に、帆波の表情がさらに明るくなった。
「はい!」
彼女は勢いよく頷いた。
「エースさん、今日のお仕事も楽しみです!」
「まずは任務内容の確認からだぞ」
「分かってます!」
帆波は笑いながら答えた。
「ちゃんと確認して、しっかりお仕事します!」
「ならいい」
エースは空になった茶器を片づけ、食堂の出口へ向かった。
帆波も、その隣に並ぶ。
先ほど医務室で聞いた話は、まだ胸の奥に残っていた。自分の血統を狙う人間がいるかもしれないという恐怖も、完全に消えたわけではない。
それでも、今はエースがいる。
頼れる黒札たちがいて、自分の意思で働けるガイア連合がある。
そして、母と美帆が安心して暮らせる場所を手に入れるという、はっきりした目標がある。
帆波は隣を歩くエースを見上げた。
「エースさん!」
「何だ?」
「今日も、よろしくお願いします!」
「ああ。よろしくな、一之瀬」
その返事を聞いて、帆波は満面の笑顔を浮かべた。
窓の向こうには、春の陽光を受けた東京湾が広がっている。穏やかな海面は無数の光を反射し、そのさらに向こうには、薄青い霞に包まれた都市の輪郭が見えた。
世界がこれからどう変わっていくのか、帆波にはまだ分からない。
けれど、自分が何を大切にし、何のために働くのかは、もう決まっていた。
帆波はエースと並んで歩きながら、次の仕事へ向かう期待に胸を弾ませていた。
一之瀬の限界レベルは正確には50と設定してます。
ちょっと強すぎるかなと思いましたが、マヨーネさんよりちょい上。ワルボウとその周辺・りあむ と比べて格下となるので、まぁいっかと思った次第。
尚、スキルは以下。
習得レベル スキル名
Lv1 《全身最適化》オリジナル ご都合主義
Lv2 《打撃変換》オリジナル ご都合主義その2
Lv10 《突撃》
Lv18 《アドバイス》
Lv26 《アクセルクロー》
Lv34 《物理ブースタ》
Lv42 《ギガ・アタック》
Lv48 《刹那五月雨撃ち》
Lv50 《空間殺法》
物理耐性あり。殴り合いしかできねぇ。