作中でも湯銭にするか、いっそカップにでも入れて渡すかと迷ったのですが、異界内で日常に触れる要素としてペットボトルとしました。キャンプガチ勢の皆さん、お許しください。
帆波は、緩めてもらった蓋を指で回した。口を開けば何か話せるはずなのに、最初の言葉が喉につかえている。火の向こうで待つ男は、答えを促さなかった。その沈黙に急かされる感じがしなかったので、帆波は一度息を吐き、自分の学校の名前から話し始めた。
高度育成高等学校の生徒であること。学校の特別試験で、太平洋の無人島へ来ていたこと。そこは夏だったはずなのに、気がつくと、知らない雪山に一人でいたこと。
順序立てようとしても、途中で話が前後した。いつ雪の中へ入ったのか、どうして誰とも会えなくなったのか、その肝心なところが自分にも分からない。説明できないまま口を止めると、男は分かっているところからでいいと言ってくれた。
帆波は腕時計へ目を落とした。緊急ボタンを押したのに救助が来なかったことを話すと、雪の中で何度も同じ場所へ指を押しつけた感触が戻ってきた。赤い髪の怪物に追われ、もう逃げられなくなったところへ、この人が現れた。そこまで話して、ようやく顔を上げる。
「……それで、助けて、もらって……」
男は短く頷いた。話の辻褄が合わないと責めることも、見間違いではないかと聞き返すこともなかった。少し考えるように視線を下げたので、帆波も手元へ目を戻した。
お茶を一口含むと、思っていたより滑らかに喉を通った。熱すぎない温度が舌に残り、飲み込んでから、もう一口欲しくなる。さっきまで息をするだけで痛かった喉が、今は、見慣れたお茶の味を受け入れていた。
両手でボトルを包み直す。その向こうでは薪の表面が赤くなり、炎が細い先端を揺らしていた。火を見て、温かいものを飲んで、人と話している。そんなことができている自分を確かめるように、帆波はもう一度口をつけた。
「なるほどな。実は俺も、その無人島から来たんだ」
帆波はボトルを下ろした。
「同じ、島から……ですか?」
「ああ。調査の依頼を受けてな」
思わず、男の服装へ目が向いた。白いワイシャツと藍色のジーパン。濃いグレーの上着は、今、自分の肩を包んでいる。こうして座っている姿だけを見れば、夏の島から来たという方が、雪山へ登るために用意をしてきたと言われるより納得できた。
同じ場所から来た。その言葉を頭の中で繰り返すうちに、帆波は椅子の上で身を乗り出していた。
「じゃあ、戻る道も……」
「分かる。元の島まで案内できる」
胸の奥へ息が入った。
ずっと締めつけられていたところに、初めて隙間ができたようだった。帆波は返事をしようとしたが、唇が震えてしまい、頷く方が先になった。帰れる。この雪と、あの怪物がいる場所から、戻ることができる。
「ただ、その前に説明しておきたいことがある。何も知らないままじゃ、困るだろうからな」
「……はい」
「まず、俺はエースと呼ばれている。あだ名みたいなものだ」
初めて聞いた名前を、帆波は心の中でなぞった。短くて、呼びやすい名前だった。さっき、知りたいと思ったときには聞けなかったものを、今は自分が知っている。そのことが、小さな安心になった。
「私は、一之瀬帆波です」
「一之瀬か。分かった」
自分の名前がその声で呼ばれ、帆波はボトルを持つ指を少し緩めた。もう、名前も知らないまま離れてしまう相手ではない。その程度のことを、こんなにも嬉しく思うのが不思議だった。
エースは、世間でオカルトと呼ばれているような現象や存在が、実際にあるのだと説明した。ここも、元の島と同じ場所を普通に歩いているだけでは辿り着かない、異界と呼ばれる空間なのだという。彼はそうした異常事態へ対処する組織に所属し、今回は依頼を受けて島の調査に来ていた。
帆波は話を遮らずに聞いた。
いつもの教室で同じことを言われていたら、冗談なのか、何かの勧誘なのかと戸惑ったかもしれない。けれど、今は天幕の向こうで雪が降り、つい先ほどまで自分を追っていたものの姿も、目の奥に残っている。知らない言葉を受け入れるより、目にしたものをなかったことにする方が難しかった。
「こっちへ入ってから、俺の感覚では二日ほどだな。中がこんな雪山になっているとは思っていなかったが」
「二日も……ここに?」
「ああ。だから、貸せる防寒着も、その上着くらいしかないんだ」
帆波は襟元へ目を落とした。自分にかけられた布を見てから、火の向こうの白い袖へ視線を戻す。
「エースさんは、寒くないんですか?」
「俺は平気だ。気にせず使っていてくれ」
帆波は小さく礼を言い、上着を肩へ寄せ直した。彼が平気だと言うと、それを信じられた。この場所について何も知らない自分と、ここで二日を過ごしていた彼。その差を思えば、分からないことを一つずつ自分だけで抱える必要はないように感じられた。
それでも、これほどのものが実在するのなら、なぜ今まで知らずに暮らしてこられたのだろう。怪物がいると分かっていたなら、あんな島で試験をすることもなかったのではないか。尋ねたいことは次々に浮かんだが、エースが少し姿勢を変えたので、帆波は口を開きかけたまま待った。
「それで、一之瀬。お前自身のことも確認したい」
「私、ですか?」
「今まで、幽霊みたいなものを見たり、妙な気配を感じたりしたことはあるか?」
帆波は記憶を探した。思い当たることはなく、首を横へ振った。島へ来てから身体や感覚に変化がなかったかと聞かれても、やはり答えは同じだった。何かに気づくより先に、雪の中で逃げることに必死になっていた。
「そうか。じゃあ、今からする話は、少し驚くかもしれない」
帆波は両手の中のボトルを見た。次に何を言われるのかと思うと、不安で指が寄り合った。
「普通の人間が、何かをきっかけに、普通ではない力を使えるようになることがある。俺たちは、それを覚醒と呼んでいる」
「覚醒……」
「命の危険がきっかけになることもある。お前も、もう覚醒しているんだと思う」
帆波はすぐには返事ができなかった。
言葉は聞き取れた。意味も、説明された範囲では分かる。けれど、その話の中へ自分を置くことができなかった。怪物を消してしまえるエースならともかく、自分は、ただ逃げていたのだ。立つことさえできなくなって、服をつかんで泣いていた。
何か力があるなら、どうして、あんなふうになるまで何もできなかったのだろう。
「でも、私……何も……」
「自覚がなくても、身体は変わっていることがある。その格好で、この雪山を長い間逃げ続けていたんだろう?」
エースの視線が、ジャージの袖と濡れた靴へ移った。
「普通なら、寒さだけでも動けなくなりかねない。それに、お前を追っていたのはウェンディゴという悪魔だ。普通の高校生が、あれから逃げるのは難しい」
あの赤い髪の怪物には、名前がある。
帆波はそれを聞きながら、雪から足を引き抜き、転んでも起き上がり、また走っていた自分を思い出した。速かったのか、長く走れていたのか、そんなことは分からない。ただ、止まれば捕まると思っていた。だから動いた。それだけだった。
「それに、額の右側。生え際のところに、角があるだろう?」
「……え?」
帆波は片手を上げた。
濡れた髪へ指を差し入れ、額の右側を探る。冷えた髪を押し分けた指先が、硬いものへ触れた。最初は何かが付着しているのだと思い、つまもうとしたが、その根元は皮膚へ続いていた。
息が止まった。
指を離し、もう一度触る。丸みのある先端と、指の腹では押し込めない硬さがある。生え際から二センチほど、小さなものが一本、確かに出ていた。
「これ……何……?」
「角だ。覚醒に伴って、そういう変化が出ることもある」
帆波は、そっと指を滑らせた。痛くはなかった。触れている感触もある。それがかえって、自分の身体から生えているのだと分からせた。
「目立ち、ますか……?」
「色は肌と同じで目立たない。先も丸い。前髪を下ろせば隠せるだろうし、普通の人間が見ても、コブかゴミでも付いていると思うだろう」
前髪を整えると、角はその下へ収まった。見えなくなったはずなのに、指先には硬さが残っている。帆波は手を膝へ下ろし、自分の爪や皮膚を見た。そこは、知っているままだった。
角がある。その一箇所だけで、身体のほかの部分まで、初めて見るもののように思えた。
エースは近くの薪へ手を伸ばし、一本を取った。
「身体の力も変わっているはずだ。これを折ってみてくれ」
ペットボトルを地面に置き、差し出された薪を、帆波はためらいながら受け取った。片手では簡単に折れそうにない太さだった。表面は乾き、割った面には木目が走っている。両端を持ち、どのくらい力を込めればいいのか分からないまま、両手の指を締めた。
薪が、手の中で崩れた。
折り曲げようと腕を動かすより先に、握ったところの繊維が潰れていた。支えを失った端が傾き、膝へ木片が落ちる。帆波は慌てて手を開いたが、その掌にも砕けた木が残っていた。
「……あれ……?」
自分の声が遠く聞こえた。
膝に零れ落ちた木片を拾おうとして伸ばした手を、途中で止める。今、その手が何をしたのか、目で見ても信じられなかった。もう一度触れるのが怖い。帆波は指を開いたままエースを見た。
「そんなに、強くしたつもりじゃ……」
「ああ。力が上がっているな。……少し、加減を確かめてから戻った方がいい」
「戻る前に……?」
「キャンプでは、人と一緒に過ごすんだろう。意図せず強い力を出せば、物を壊すことも、誰かを怪我させることもある。普段どおりに動けるか、確認してから帰ろう」
帆波の目が、自分の手へ戻った。
さっきまでエースの服を握っていた。同じ手でお茶を受け取り、今は薪を砕いてしまった。もし、これが誰かの腕だったら。転びかけた人へ手を伸ばし、助けようとしてつかんだだけで、取り返しのつかないことになったら。
胸の奥に、馴染みのある重さが戻ってきた。
もう、間違えてはいけない。誰かを悲しませることも、傷つけることも、二度としてはいけないのに。これからは、普通に手を差し出すことさえ、怖がらなければならないのだろうか。
「……この力で、誰かを傷つけちゃったら……」
帆波は手を引き寄せた。掌に残った木屑がさらに膝へ落ちる。それを払うこともできず、指を折り込もうとして、また止めた。
自分の力が分からなかった。どこまでなら触れてよいのか、どのくらいなら握ってよいのか。温かいお茶のボトルまで、急に危ういものへ変わってしまったように見えた。
「そんなに心配しなくていい。力を抑えること自体は、基本的には難しくないんだ」
エースの声がした。
顔を上げると、彼は立ち上がり、火の脇を通って近くへ来た。帆波が膝の上へ手を隠すより先に、片手を差し出す。
「ほら、握ってみろ」
「でも……」
「俺なら大丈夫だ」
帆波は、その手と顔を交互に見た。先ほど肩を支えてくれた手だった。上着をかけ、お茶の蓋を開けてくれた手でもある。それを傷つけるかもしれないと思うと、触れたい気持ちより怖さが先に立った。
「また、さっきみたいに……」
「だから、俺で確かめればいい。危なくない相手で、どのくらい力が出るのか知っておこう」
帆波は唇を結び、少しずつ手を伸ばした。
指先が触れる。温かかった。その温度が分かった途端、余計に慎重になった。掌を重ね、指を添え、握ったと言えるかどうかも分からない程度に力を込める。
エースは平然としていた。
「もう少し強くていい」
「……痛かったら、言ってください」
「ああ」
帆波は相手の顔を見ながら、指を締めた。薪を握ったときのことが頭から離れない。少し力を強めるたびに止め、反応をうかがう。けれど、エースの眉は動かず、差し出された手も引かれなかった。
「まだ大丈夫だ。もっと入れてみろ」
帆波は息を吸った。
握る指へ、腕へ、意識して力を集める。さっきなら、もう薪が崩れていたはずだった。そう思えるところを越えても、エースの手は変わらなかった。帆波の指だけが強く曲がり、爪の先が白くなる。掌に残っていた木片がすりつぶされる感触がした。
やがて、これ以上どう力を込めればいいのか分からなくなった。
それでも、彼は痛がらなかった。
「……本当に、痛くないんですか?」
「痛くない。ほら、何ともないだろう」
帆波は握った手を見つめた。
木を砕いた力が、その中で受け止められている。相手を傷つけるどころか、少しも困らせていない。その事実に、張り詰めていた胸が緩んだ。自分の知らない力が身体にある。それは変わらない。けれど、この人には触れられるのだ。
「お前の今の力じゃ、傷つけられない人間も山ほどいる。俺もその一人だ」
エースは軽く笑った。
「それに、普通の人間だって、力の使い方を間違えれば誰かを傷つけるだろう。物を持つときと、人の手を取るときで、同じ力を使うわけじゃない。そこを確かめればいい」
「……できるように、なりますか?」
「ちゃんと見ているから、心配するな」
帆波は頷いた。
今すぐ、自分の身体の何もかもが分かったわけではなかった。額の下には、さっきまで知らなかった角がある。膝には、握り潰した薪の欠片が落ちている。帰った後のことを考えれば、まだ怖かった。
それでも、大丈夫と言ってくれる人がいた。怖がるだけで終わらずに済む方法を、この人は知っている。しかも、その方法を教えるために、自分の前へ手を差し出してくれた。
帆波は、握る力を少しずつ緩めた。
全力を出していた指がほどけると、相手の掌の形が、今度は温度と一緒に伝わってきた。薪とは違う、人の手だった。自分を支えた手へ、今は落ち着いて触れていられる。
「ありがとうございます……エースさん」
名前を呼ぶと、彼がこちらを見た。
その目に恐れも嫌悪もなかったことが、帆波には嬉しかった。角があると分かっても、力が変わってしまっても、この人は離れていかない。自分より強く、自分には分からないことを知っていて、近くにいることを許してくれる。
ふと、もう手を離してもいいはずだと気づいた。
それでも帆波は、指をほどききらなかった。力を込めなくてもつながっていられる、その温かさを、もう少しだけ確かめていたかった。
カッコつけて本名を名乗らなかった男:
ハニトラでも見かけない美少女!清純!柔らかい手!
大体原作で綾小路君に助けられた時と同じほなみちゃん:
「この人は離れていかないんだ、私の近くにいてくれるんだ」