医務室の窓には、午後の海が青く映っていた。異界の乾いた土と血の匂いはすでに遠く、空調の風が運ぶ清潔な空気の中で、帆波は診察台の縁に腰掛けていた。壁際のモニターには細い線が幾本も走り、一定の間隔で山を作っては、画面の端へ流れていく。白い照明の下で見る自分の腕は、もう見慣れた色だった。
石川理恵は、台車に載せた検査機の画面を確かめていた。端末につながった小型の検査器を手に取り、帆波の前へ椅子を寄せる。形は病院で見かける超音波検査の器具に似ていたが、画面へ並ぶ項目は、帆波の知っている身体測定の数値とは違っていた。
「それでは、少し調べますね。腕をこちらへ出してください」
「はい。お願いします」
帆波が袖を整えると、石川は検査器の平らな面を腕へ向けた。距離と角度を少しずつ変えるにつれ、モニターの一角へ濃淡のある像が浮かび、その脇の数値が入れ替わっていく。検査器から送り込まれたものが何を捉え、どんな違いを画面へ表しているのか、帆波には見当もつかなかった。
数字が増えたところで良いのか、減った方が良いのかさえ分からない。しばらく眺めてから、彼女は隣の椅子に座るエースへ目を向けた。彼も画面を見ていたが、すぐには何も言わなかった。
「……これ、エースさんは分かるんですか?」
「全部は分からない。検査の説明は石川さんに聞こう」
「よかった。私だけ全然分かってないのかと思いました」
帆波が笑うと、石川も画面から目を上げて微笑んだ。
「見ただけで分かるようになっていたら、私の説明がいらなくなってしまいますね。あとで順にお話ししますから、今は楽にしていてください」
「はい」
言われたとおり肩から力を抜く。自分では落ち着いているつもりだったのに、何を示しているか分からない線を眺めていると、つい背筋まで伸ばしていたらしい。
エースに治してもらった腕には、傷の痛みは残っていなかった。肩を動かしても、深く息を吸っても、異界で受けた衝撃が戻ってくることはない。そのことを確かめながら、帆波は石川の問いに答えていった。
「今、気分が悪かったり、身体のどこかに違和感があったりはしますか?」
「ないです。少し疲れてますけど、普通に動けます」
「頭痛や、目の見え方がおかしい感じは?」
「それも大丈夫です。変わっていたときはすごくよく見えたんですけど、戻ったら、それも元に戻りました」
石川は頷き、手元の端末へ記録を残した。検査器の向きを変えると、画面には別の線が重なった。その穏やかな手つきを見ていると、身体を調べられていることへの緊張より、どんなことが分かるのだろうという興味が強くなってくる。
「変わったときのことを、順に教えてもらえますか?」
「はい。最初は普通に戦っていて……相手がすごく硬かったんです。私の方が速く動けたんですけど、何度打っても倒れなくて」
話し始めると、あの玄室の空気が感触を伴って蘇った。拳から返ってきた重い抵抗。石剣が通り過ぎるときの風。自分だけで周りの敵も見なければならず、思っていたよりずっと忙しかったこと。
「途中から、どんどん楽しくなりました。まだ動ける、もっとこうしたいって思って……胸の奥がすごく熱くなったんです。そのあと、急に相手の動きがよく見えるようになって」
「その前後の記憶が抜けているところはありますか?」
「ないです。何をしていたかも、どこを怪我したかも覚えてます。エースさんが入り口の近くにいたことも」
隣へ視線を向けると、エースが帆波の顔を見た。
「改めて確認するが、意識は普段どおりだったんだな?」
「はい。ちゃんと考えられましたし、自分で動けました。横から敵が来たときも分かりましたし、最後に残っていたのも、自分で倒そうって決めました」
「勝手に身体が動いて、止められなかったわけじゃないんだな」
「違います。よく動くから楽しくて、自分で動かしてました」
そこは、迷わず答えられた。
あの力を、誰かに渡されたもののようには感じなかった。腕を振るったのも、敵を見たのも、自分だった。戦いが終わってエースを振り返ったとき、嬉しくなった気持ちまで、何も途切れずにつながっている。
石川は検査器を下ろし、画面をいくつか切り替えた。少しの間、数値と帆波の様子を見比べてから、落ち着いた声で告げる。
「今の状態に、問題は見当たりません。治療を受けた場所も含めて、身体は安定しています」
帆波は口元を緩めた。何か悪くなっているとは思っていなかったが、石川にそう言ってもらえると、安心は別の形で胸へ収まった。
「よかったです」
「それで、一之瀬さん。今、もう一度あの姿になれそうですか?」
帆波は自分の手へ目を落とした。
異界では、戻そうと考える前に元の姿へ戻っていた。けれど、変わったときの感覚は覚えている。胸の奥から力が満ち、身体の隅々まで通っていった、あの熱だった。
「……できる気がします」
「無理に戦っていたときの気持ちを作ろうとはしなくていいですよ。今のままで、変わることを考えてみてください」
「はい」
帆波は姿勢を正した。息を止めたり、拳を握り締めたりする必要はない気がした。いつもの自分の内側に、あの身体へつながる感覚が残っている。そこへ意識を向け、もう一度変わろうと思った。
額の右側が熱を帯びた。
小さな角が伸び、前髪を押し上げる。それと同時に、胸元に覗いていた肌の色が深まった。褐色が身体の中心から広がり、首筋を上って頬へ達する。肩から腕へ、肘から手首へと色の境目が移り、最後に指先が染まったころには、額の角は漆黒の長い一本へ変わっていた。
一秒ほどの変化だった。
帆波は診察台に座ったまま、両手を持ち上げた。さっきまで白かった指が、深みのある褐色に変わっている。身体の中にはあの力が戻り、医務室の隅にある機器の細かな形まで、先ほどより鮮明に見えた。
「……できました」
自分で言ってから、思わず笑みがこぼれた。あまりに簡単だった。戦場にいなくても、胸が激しく高鳴っていなくても、変わろうとすれば変われた。
エースは帆波の額から腕へと視線を動かした。
「角と肌の色は、異界で見たときと同じだ。今の方が、変わるところははっきり見えたな」
「どんなふうでした?」
「身体の中心から色が変わって、手は指先が最後だった。角も一緒に伸びていた」
帆波は指を一本ずつ曲げてみた。手の中にある力の深さは変わったが、指の動かし方を忘れたわけではない。軽く握った拳を開いて膝へ戻すと、石川が小さな鏡を差し出してくれた。
「ご自分でも、見てみますか?」
「はい。ありがとうございます」
受け取る手に少し気をつけ、鏡を顔の前へ持ち上げた。
中にいたのは、見慣れた自分で、見慣れない自分でもあった。ストロベリーブロンドの髪はいつものように頬を縁取っているのに、その奥の肌は褐色に変わっている。額の右側から伸びた黒い角は、指で確かめたときよりもずっと存在感があった。顔を少し傾けると、硬い表面を照明の光が滑り、先端へ細く集まった。
帆波が目を丸くすれば、鏡の中の少女も同じ顔をする。笑いかけると、向こうも人懐っこく笑った。知らない誰かがそこにいるわけではなかった。そのことが面白くて、つい角の見える向きを何度も変えてしまう。
「本当に、黒いんですね……」
「ええ。あとでまた見られますから、先にこちらの姿でも調べさせてくださいね」
「あ、すみません」
名残惜しく思いながら鏡を返すと、石川は笑って受け取った。エースの前で夢中になってしまったのが少し恥ずかしくて、帆波は膝の上に両手を揃えた。
再び検査器が向けられる。モニターの線が動き、さっきとは違う位置に新しいグラフが現れた。石川は通常の姿で記録した画面を隣に並べ、項目ごとに見比べていく。
「やはり、肉体の強さも、霊的な力も大きくなっていますね」
「やっぱり、強くなってるんですか?」
「はい。変わる前よりも、大きな力を扱える状態です。ただ、今ここで突然、何もないところから別の力が生まれたというよりは、もともと一之瀬さんにあったものが、表へ出せるようになったと考える方が自然でしょう」
帆波は自分の腕を見た。モムノフの装甲が指の下で歪んだ感触を思い出す。あれほどの力が、今まで使えなかっただけで、自分の中にあったという。
「強くなったところだけが、ほかの部分へ無理をさせている様子はありません。変わった身体全体で、その力を受け止められています」
石川は帆波に腕を曲げてもらい、指を開いてもらってから、いったん動きを止めるよう告げた。言われた位置で手を止めると、その様子も確かめて頷く。
「では、今度は戻れそうですか?」
「やってみます」
帆波は両手を見ながら、元の姿へ戻ろうと思った。
指先から色が薄れていった。変わるときとは反対に、その境目が手首へ、肘へと上がってくる。肩から胸元へ褐色が退き、頬に見慣れた色が戻るころ、額の重みも軽くなった。伸びていた角が短くなり、色を失って前髪の下へ収まる。
胸の中に満ちていた力も、静かに奥へ戻っていた。帆波は額へ指を添え、いつもの小さな角を確かめた。
「戻れました」
「ああ。今度は指先からだった」
エースの答えを聞き、帆波は嬉しくなって石川を見た。
「思ったら、すぐできました。変わるのも、戻るのも」
「ええ。無理に力んでいる様子もありませんでしたね」
石川は戻ったあとの身体も調べた。モニターへまた数値が増え、比較する画面が三つ並ぶ。帆波には相変わらず読み方が分からなかったが、石川がどこを確かめているのかを、今度は少し待てるようになっていた。
「こちらの状態にも、今のところ問題はありません」
その言葉を聞くと、帆波は自然に息を吐いた。
「最初は、戦っているときの気持ちがきっかけになったのでしょう。でも、今は落ち着いたまま変われていますね。力を引き出す感覚を、一度つかめたのだと思います」
「また戦わなきゃいけないのかなって、ちょっと思ってました」
「少なくとも、今はその必要はありませんでしたね」
石川が微笑み、検査器を台へ戻した。
「懸命に取り組んでいても、自分の中にためらいが残っていることはあります。これまで本気ではなかった、ということではありませんよ。今回はそのためらいが薄れて、持っていた力を、もっと素直に使えたのかもしれません」
帆波はすぐには答えず、胸元へ手を置いた。
戦うのが楽しいことは、前から分かっていた。仕事へ行きたいと思うし、教わったことを試したいとも思っていた。それでも、あのときほど夢中で、身体のすべてを使って相手へ向かったことがあっただろうか。
うまく言葉にはできなかった。ただ、もっと戦いたいと思った自分を、押し戻そうとはしなかった。そのまま動き、その先で、あの熱へ手が届いた。
「霊能は、魂に由来する力です。心のあり方が変われば、使える力が変わることも、不自然ではありません」
「気持ちでも、変わるんですね」
「ええ。ただ、その仕組みを今回の検査だけですべて説明できるわけではありません。一之瀬さんがどう感じたのかも、これから知っていくための大切な手がかりです」
帆波は頷いた。知らないことが残っていると聞いても、不安にはならなかった。自分で確かめられることがまだある。そう思うと、もう一度手を握ってみたくなった。
石川は端末を置き、帆波へ向き直った。
「こちらの話を聞いて、理解して、動いて、止まれる。戻ることも、自分で選べています。力が大きくなっても、それをどう使うかは、一之瀬さんが決められていますね」
「はい。今も、変わろうと思えば変われる気がします。でも、勝手に変わりそうな感じはしません」
「分かりました。今の検査結果では、普段の生活を変える必要はありません。力を使うことについても、止める理由は見当たりませんね」
帆波の肩から、最後に残っていた小さな緊張が抜けた。
「じゃあ、練習してもいいんですか?」
「ええ。変わった身体で、どこまで動けるのか。それは、これまでと同じように確かめていけばいいと思います。エースさんにも見てもらいながら」
石川が隣へ目を向ける。帆波もその視線を追うと、エースが頷いた。
「演習場で、いくつか動きを見よう。異常がなければ、あとは任務で使っていけばいい」
「はい。お願いします」
答える声が弾んだ。診察台から降りるとき、帆波は足元を確かめてから床へ立った。さっきまで数字ばかりで分からなかった検査の結果が、今は、新しい身体を使って仕事を続けていいという安心になっていた。
石川へ礼を述べ、エースの隣へ戻る。扉へ向かう彼の歩き出しに足を合わせながら、帆波は次に変わる瞬間をもう楽しみにしていた。
演習場の鋼鉄製の案山子には、過去の打撃でついた傷が残っていた。磨かれた箇所が照明を白く返し、その隣に浅い窪みが影を作っている。人間なら衝撃を受けて身を引くところを、この相手は動かず受け止める。加えた力がどこへ通ったかを、残された跡から確かめられた。
エースは案山子の前から少し離れた場所で足を止めた。
「変わってみてくれ」
「はい」
帆波はあの身体へ変わろうと思った。
額の右側で角が伸び、胸元から肌の色が深まっていく。褐色が首筋を上り、肩から腕へ広がった。袖口から出た手の指先まで色が達するころには、角も漆黒の一本へ変わっていた。一秒ほどで力が身体の隅々へ満ち、目の前の鋼鉄の細かな傷まで鮮明に見えるようになる。
帆波は手を開き、握り、腕を上げてみた。意図したところまで指が曲がり、止めようとした位置で肘が止まる。足を一歩動かしても、身体だけが先へ行ったり、力を抑えるために身を固くしたりする必要はなかった。
使える力は大きくなっている。それでも、自分の身体を動かす感覚は、そのままつながっていた。
「どうだ」
「思ったとおりに動きます。手も、足も。強く動かそうと思えば動きますし、軽くするのもできます」
帆波は掌を案山子へ当てた。鋼鉄に触れるだけなら、触れるだけで止められる。そこから脚で床を押し、腰と肩をつなぐと、今度は加えたいだけの力が掌へ通った。
手を離し、拳を作る。短い距離から一度打ち込み、そのまま横へ身体を運んだ。腕を引く動きも、足を置く場所も、狙ったとおりだった。新しい窪みが鋼鉄へ残ったが、帆波はそれを見るために姿勢を崩さず、案山子の外側で静かに足を止めた。
「もう一度、少し強くしてもいいですか?」
「ああ」
許可を受け、今度は一歩離れたところから入った。床を押した力を身体へ通し、踏み込みと同時に拳を届ける。重い衝撃が腕へ返ってきたが、それを受け止める身体にも余裕があった。打ち終えた手を戻しながら、次へ動ける姿勢が自然に整う。
帆波は自分の拳を見た。
前より強く打てる。その強さを、無理に小さな身体へ詰め込んでいるような窮屈さはなかった。力を出す腕も、支える脚も、それをつなぐ身体も、全部が一緒に変わっている。医務室で石川に言われたことが、実感として分かった。
掌底と肘、蹴りも一度ずつ確かめた。どの動きにも、途中で引っかかるところはない。脚は狙った高さへ上がり、鋼鉄へ届いたあとも、思った位置へ戻る。姿が変わったからといって、教わってきた動作を一から覚え直す必要はなかった。
「動きは問題ないな」
「はい。何だか、最初からこの身体でも練習していたみたいです」
帆波は笑い、案山子の前で指を揃えた。
土偶の武士を断ったときの感覚を思い出す。脚から腰へ、肩から手首へと動きを通し、手の外縁へ力を集める。腕だけを振るのではなく、身体を運ぶ軌道の先に手を置いた。
最初の手刀が鋼鉄へ入り、引き戻す動きから反対の手が走った。連続する切断の軌道が重なり、案山子の胴へ深く食い込む。帆波はその脇へ抜け、両足を置き直した。打ち込むところから離れるところまで、動きは意図したとおりに続いていた。
鋼鉄には、鮮明な切れ目が残っていた。
「……ちゃんと、切れてますね」
「ああ。異界でやったことも再現できている」
エースの言葉に、帆波は嬉しくなった。あの瞬間だけ偶然できたのではない。落ち着いている今も、同じように自分で選んで使えるのだ。
「エースさん。見本を見せてもらってもいいですか?」
彼が隣の案山子へ視線を向ける。
「同じ手刀をできるだけ早く。エースさんが使うところを見たいんです。今なら、前よりちゃんと見える気がして」
「俺の場合は腕力による切断ではないんだが。…分かった。そこから少し下がってくれ」
「はい」
帆波は横へ離れ、彼と案山子の両方が見える位置へ立った。
エースは助走を取らなかった。離れた場所に立ち、腕を自然に下ろしている。帆波はその脚から目を離さず、いつ動き出すのかを待った。
重心がわずかに前へ移った。
床を押す瞬間を捉えたと思ったときには、その身体が一気に速さを得ていた。停止していた姿から、案山子の間合いまでが、一つの動きでつながる。踏み込みに遅れず肩が進み、揃えた手が胴の高さへ入った。
帆波は視線を動かして追った。
辛うじて、見えた。
手刀が鋼鉄へ入る瞬間と、そのまま身体が反対側へ抜けていくところまでを、どうにか目に収められた。けれど、その間にどれほどの力を床へ加え、どれほど細かく姿勢を整えたのかまで、拾う余裕はなかった。
エースが通り過ぎたあと、案山子の胴には水平な線が残っていた。
上半分がずれ、重い鋼鉄が床へ落ちる。露わになった切断面が、白い照明を返した。
帆波は息を吸い直した。見ている間、呼吸まで止めていたらしい。
「……見えました。ぎりぎりですけど」
「そうか」
「止まったところから、あんなに速く動けるんですね」
「近づく動きと、切る動きをつなげている。相手の前で足を止める必要がなければ、そのまま通ればいい」
エースの説明を聞きながら、帆波は切断面を見ていた。
自分の手刀にも、途中で崩れたところはなかった。狙った場所へ入り、思った軌道で切れている。それでも、彼が見せたものとは速さも、そこへ込められた力も違った。自分が正しく動けたその先に、まだこんなにも高いところがある。
怖くなるより、胸が弾んだ。
いつか、あんなふうにできるようになったら。
エースと、お揃いになるみたいだ。
思い浮かんだ途端、頬が緩んだ。同じ物を持つのとは違う。彼の動きを見て、教わって、自分の身体でも同じようにできるようになる。そう考えるだけで、今より少し近くへ行ける気がした。
「一之瀬?」
「あ、はい」
顔を上げると、エースがこちらを見ていた。帆波は笑みを残したまま、背筋を伸ばす。
「私も、いつか今のみたいにできるようになりたいです」
「ああ。覚えておけば、使う場面もあるだろう」
エースは彼女の立っている場所と、打撃の跡が残る案山子を見比べた。
「今日の確認は、これでいい。変わった状態でも、動きは十分できている。あとは任務で使いながら、今までとどこが違うか見ていこう」
「もう大丈夫なんですか?」
「動作を一つずつやり直す必要はない。今の身体でも、思ったとおりに打って、止まって、次へ動けていた」
帆波は両手を見た。もう少し練習したいというよりも、次は実際に動く相手へ使ってみたくなっていた。どの距離から届くのか、どんな相手へどこまで力が通るのか。目の前の鋼鉄で確かめられたことを、今度は仕事の中で知っていける。
「はい。次のお仕事で、使ってみます」
そう答えてから、元の姿へ戻ろうと思った。
指先から肌の色が退き、腕を上って胸元へ収まっていく。額の角も小さくなり、見える範囲がいつものものへ戻った。変わるときも戻るときも、迷うところはなかった。
帆波は軽く腕を曲げた。こちらの身体も、変わらず自分のものだった。
「これなら、お仕事ももっとできそうですね」
口にすると、母と美帆の顔が浮かんだ。
木更津支部の家族用シェルター居住権には、まだ届いていない。必要なマッカも貢献実績も、これから積まなければならなかった。それでも、自分に使える力が増えたことは嬉しい。二人のために欲しい場所へ向かう、その足元がいっそう確かなものになった気がした。
「強くなった分、任せられることも増える。ただ、任務ごとにやることは確かめていくぞ」
「はい。分かりました」
帆波は頷き、それから隣を見上げた。
「これからも、教えてもらえますか?」
「ああ。仕事で使ったときに分かったことがあれば、それも聞こう」
「お願いします」
すぐに返ってきた答えを、胸の中で受け止める。今日の確認が終わっても、その先がある。次も一緒に仕事へ行き、終わったあとに話を聞いてもらえる。そのことが、帆波には力を得たのと同じくらい嬉しかった。
鬼の姿なら、もしかしたら、エースと模擬戦もできるのではないだろうか。
そんな考えが浮かび、床に落ちた案山子の上半分へ目を向けた。
水平な切断面が、白い光を返していた。
先ほどの速さで来られたら、見ることはできても避けきれないだろう。身体が思いどおりに動くことと、彼より速く動けることは違う。今の力で受け止めようとしても、あの鋼鉄と同じように切り裂かれて終わりだと、すぐに分かった。
帆波は口元を緩めた。エースへ言い出す前に気づけてよかった。
それでも、いつか相手ができるくらいにはなりたい。
彼がどこまで強いのか、まだ分からない。今日見せてもらったものが、どれほどの力を使った動きだったのかさえ知らなかった。けれど、何も見えなかったころから、今は辛うじてでも目で追えるところまで来た。その先も知りたいと思った。
「行こうか」
「はい」
エースが歩き出し、帆波もその隣へ並んだ。
廊下へ出る前に、一度だけ自分の手を見る。もう肌の色は元に戻っていた。けれど、その手で鋼鉄を切った感触も、額から伸びた角の重みも、はっきりと残っている。
母と美帆のために、もっと働ける。それも嬉しかった。次の仕事で新しい身体を使い、エースに今日教わった動きを試せることも、楽しみだった。
帆波は手を下ろし、隣を歩く彼へ顔を向けた。
「次のお仕事、楽しみです」
そう告げると、エースがこちらを見た。帆波は明るく笑い、彼と並んだまま廊下の先へ歩いていった。