第1話 「かつての脅威」
六月の空気が含んでいた湿り気は、異界へ入ると分からなくなった。頬に触れる風は冷たく、歩いて温まった首筋から熱を奪っていく。帆波は息を吸い、足を止めずに前を見た。母と美帆の居住権を得るには、まだ仕事を重ねる必要がある。今日も、自分に任されたことを一つずつ果たしていくつもりだった。
その先にいるものを見つけたとき、歩幅が自然に小さくなった。
大きな身体に、上半身を覆うような赤い長髪、こちらへ伸ばせばすぐにも届きそうな腕。その姿を、帆波は知っていた。目の前の個体を見たことがあるのではない。あの雪山で、自分を追ってきた悪魔と同じ種類だった。
「エースさん。あれ、ウェンディゴですよね」
「ああ。同じ種類だ」
答えを聞いても、胸が冷たくなることはなかった。相手の腕がどこまで届くか、そこから身体を外すにはどちらへ動けばいいか。目の前の姿を見ながら、そんなことを考えていた。
「私がやってもいいですか?」
「ああ。任せる」
エースは進路を空け、帆波と敵の両方を見られる位置へ移った。帆波は彼へ頷き、相手に向き直った。
雪の白さが、ほんの短い間だけ視界へ重なった。足を取られながら逃げ、背後から迫る腕に追いつかれそうになったこと。息が苦しくて、声を出すだけでも精いっぱいだったことを覚えている。あのときは、振り返って距離を確かめることさえ怖かった。
けれど今は、その腕が動き始めるところを見ていた。
ウェンディゴが距離を詰める。伸びてくる手に対し、帆波は斜め前へ足を運んだ。肩をわずかに引くと、掴もうとした指が胸元の外を通り過ぎる。腕の長さを避けるために遠くへ逃げる必要はなかった。手が戻ってくるより先に、その内側へ入ればよかった。
踏み込んだ足で地面を押した。脚から腰へ、背中から肩へとつながる力を、拳が触れる直前に一点へ集める。
拳の先で、悪魔の胴が深く沈んだ。大きな身体が折れ、伸ばされていた腕が帆波の頭上を流れていく。彼女は打ち込んだ手を引きながら横へ抜け、相手が倒れ込んできても巻き込まれない場所へ足を置いた。腕へ返ってきた抵抗は確かに重かった。それでも、自分の姿勢を崩すほどではない。
帆波は顔を上げた。ウェンディゴはまだ立っている。踏み直した足で身体を支え、こちらへ向き直ろうとしていた。
狙ったところへ、きちんと打ち込めた。その実感が、遅れて胸へ広がった。相手の手を避け、自分から近づき、拳を届けられた。雪の中で追われていたときには、思いつく余地すらなかったことだった。
ウェンディゴの肩が動いた。帆波はそちらへ注意を戻す。大きな腕が、今度は横から彼女を捉えようと迫っていた。
軌道の下へ身体を沈める。膝を曲げた分だけ視線が下がり、腕の通り過ぎる風が髪を持ち上げた。そのまま脚を伸ばして近づき、空いた脇へ掌底を入れる。相手の身体が傾く動きに合わせて足を送り、戻ってくる腕より外へ抜けた。
唇の端が、自然に上がった。肩が回り、肘が動き、手がこちらへ来るまでの間に、自分の身体はもう次の場所へ向かっていた。見えているものと、動こうとする自分の間に、余計なものが挟まらない。相手の腕が空を掴んだときには、こちらの手が届いている。
帆波は相手を見たまま、呼吸を整えた。
ウェンディゴが踏み込んでくる。大きな身体が前へ出る分、伸ばされた手の届く場所も変わる。帆波はその先端だけを追わず、足と肩を見て位置をずらした。触れられそうだった袖が腕の外へ抜ける。打ち返した拳が胴へ入り、悪魔の踏み出した足が、今度は身体を支えるために使われた。
楽しくなっていた。自分の手足が軽やかに動くことだけではなかった。向こうがこちらへ腕を伸ばしても、届かない。向き直って距離を詰めようとすれば、その途中へ自分の攻撃が入る。大きな身体が力を振るうたび、それを上回って動けることが嬉しかった。
笑みを深めた帆波は、相手が腕を引く動きについていくように、一歩、内側へ入った。大きく回されようとしていた腕へ肩を寄せ、その力が乗りきる前に掌で軌道をずらす。相手の胴が開いたところへ肘を送り、接触する瞬間に全身の力を通した。
巨体の足が浮き、重心が後ろへ流れた。帆波はその変化を間近で見た。自分が踏み込む場所を、相手の腕が塞ぎきれていない。もう一歩進んでも、次へ動く余地が残っている。
胸の内から喜びが湧き、息に明るい笑いが混じった。帆波は止まらず、相手が傾いた身体を戻すより早く前へ出た。
踏み込んだ勢いを肩へ通し、開いた手を走らせる。最初の手刀が胴へ斜めに入り、その手を引く動きと入れ替わって、反対の腕が次の軌道へ乗った。切り裂いた感触が返る間にも、足は相手の正面から外れていた。
ウェンディゴの腕がこちらへ向く。帆波はその外側へ身を運びながら、続く手刀を振り抜いた。相手が立て直そうとする動きに、自分の速さが先んじる。切り込む手が止まらず、踏み替える脚も淀まない。抵抗が返ってきても、その向こうへ手が通った。
頬が緩んでいた。目の前のものをよく見て、次に動く場所を選びながら、それでも笑わずにはいられなかった。
最後の一撃を抜いたところで、帆波は身体を横へ運び、地面を踏んだ。両手を戻し、相手へ向き直る。ウェンディゴの大きな身体は、もう次の攻撃へ移れなかった。
崩れた輪郭から、黒い粒子がほどけていく。伸びかけていた腕も、こちらへ向いていた身体も、形を失っていった。帆波は足を止めたまま、その消滅を見届けた。粒子の向こうへ視線が通るようになり、もう何も残っていないと確かめてから、ようやく腕を下ろした。
息を吐くと、胸の奥に満ちていたものが、温かく広がった。唇にはまだ笑みがあった。満足に目を細めた一瞬、身体の内側まで柔らかくほどけるような心地がした。それでも、視界は明瞭だった。腕を下ろした自分の姿勢も、少し離れたところにいるエースの姿も、きちんと分かっている。
あの雪山では、悪魔が消えた向こうに、彼が立っていた。今回は、自分の手で終わらせたのだ。
帆波は両手へ目を落とした。肌の色は変わっていない。額にも、角が伸びるときの熱はなかった。いつもの身体のまま、あの腕を避け、自分から近づき、最後まで戦えた。
「一之瀬、怪我は?」
エースの声に顔を上げた。
「ありません。大丈夫です」
答える声にも、嬉しさが残っていた。彼が近づいてくるのを見ながら、帆波は軽く指を曲げ、腕を動かした。痛む場所はない。呼吸も、少しずつ普段の深さへ戻っていた。
「一度も当たりませんでした」
「ああ。見ていた」
その返事を聞き、帆波は笑みを広げた。戦いの間、自分から彼を振り返ることはなかった。それでも、この人が近くにいることは分かっていた。自分の力で戦い終えた今、その顔を見られるのが嬉しかった。
「最初に見つけたとき、雪山のこと、少し思い出したんです」
帆波は悪魔のいた場所へ目を向けた。先ほどまで自分へ伸びていた腕は、もうない。それでも、避けたときの風と、踏み込んだ拳から返ってきた感触は残っていた。
「あのときは、逃げるだけで精いっぱいだったのに。今日は、ちゃんと見えました。近づいても大丈夫だって、自分で分かって」
話すうちに、攻防の途中で感じた喜びが蘇った。手を伸ばされても、その先へ抜けられる。立て直して向かってくる相手を、また自分の攻撃で押し返せる。思い出すと、自然に頬が緩んだ。
「……すごく、楽しかったです」
「そうか」
エースの声は普段どおりだった。帆波も明るく頷き、彼の隣へ戻った。歩き慣れた距離に立つと、戦っていた間には気にしていなかった冷たい風が、温まった頬へ心地よく触れた。
まだ笑っていたい気分だった。もう腕を構える必要はなく、悪魔の消えた場所を見続ける必要もない。帆波は肩から力を抜き、満ち足りた息を吐いた。胸に残る温かさは、そのまま穏やかな呼吸の中へ馴染んでいった。
「デジタル・デビル・ストーリー 女神転生II」より
シリーズ最弱のウェンディゴくん: Lv 7