【カオ転三次】×よう実 鬼になる一之瀬帆波   作:ねむのき

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第2話 「また、あの楽しさを」

 七月の陽射しは、窓を閉めた部屋の中にも明るく届いていた。ガラス越しに床を照らす光の端で、薄いカーテンの影が揺れている。外壁や地面に蓄えられた熱は夕方になってもすぐには逃げないが、空調の風が通る寮の自室は涼しかった。帆波はベッドの端へ腰を下ろし、肩から力を抜いた。今すぐ返事をしなければならない連絡も、急いで済ませる用事もなかった。

 

 こうして休んでいると、仕事を終えるたびに少しずつ積み重ねてきたものを思い返すことがあった。任務で得たマッカは、母と妹の居住権のために残している。ガイア連合での貢献実績も、同じように一つずつ増やしてきた。まだ二人の暮らす場所を用意できたわけではない。それでも、働いたぶんだけ目標へ近づいている手応えはあった。

 

 任務へ行ける時間を作るとき、まず浮かぶのは母と妹のことだった。次も引き受けられれば、また少し先へ進める。そう考えて仕事を重ねている。本部から聞かされた見通しを思えば、二人のための場所を確保するまで、いつまでもかけてはいられなかった。

 

 帆波は膝の上で、何気なく片手を開いた。指の付け根から掌へ目を移し、もう一度軽く握る。その動きで、六月の戦いを思い出した。

 

 ウェンディゴの腕をかわし、懐へ踏み込んだときの感触だった。地面を押した脚から腰へ力が通り、拳の触れるところへ集まっていく。自分より大きな身体が、その一撃で折れた。こちらを掴もうとしていた腕が頭上を流れたとき、次に足を置く場所まで見えていた。

 

 帆波の口元が緩んだ。あれから日が経っているのに、思い出すとやはり楽しかった。腕に力が入るほど興奮するわけではない。ただ、もう一度確かめたいような、好きな出来事を心の中で繰り返して眺める気分になった。

 

 最初に反撃できたときも嬉しかった。けれど、記憶を辿ると、そのあとで相手がこちらへ向き直ったところに気持ちが留まる。まだ向かってくる腕を見て、自分から動いた。手の届く場所を外し、空いた胴へ打ち込む。相手が距離を詰めようとしても、帆波はその途中へ入っていけた。

 

 あのとき、笑っていた。

 

 戦いが終わって安心したから笑ったのではない。まだ相手が立ち、こちらへ腕を伸ばしている間に、もう楽しかったのだ。攻撃が来ると、それを避けて自分の手を届かせられる。大きな身体が立て直されても、自分はまた先へ動ける。そのたびに、胸が明るく弾んでいた。

 

 帆波は握っていた手を開き、指先を見つめた。

 

 雪山で逃げていたころとは、随分変わった。あの悪魔を前にして、自分から戦いたいと言えたことも嬉しい。けれど、今思い出している楽しさを、強くなったという一言だけで済ませると、何かが少し足りなかった。最後に倒した瞬間より、その前の攻防へ気持ちが戻る。向こうの腕が届かず、自分の拳が届くところを、また思い返したくなる。

 

「……そっか」

 

 声に出すと、静かな部屋の中で思ったより近く聞こえた。帆波は小さく息をつき、そのまま自分の手を膝へ戻した。

 

 相手が何をしてきても、自分の方が上だった。あの腕で掴もうとしても、間に合わない。近づこうとしても、その前にこちらが打ち込める。相手の力が自分へ届くより早く、その身体を崩してしまえる。自分が思いどおりに動けることに加えて、相手がそれに対抗できないことまで、帆波は楽しんでいた。

 

 気づくと、笑みが深くなった。自分の中にあった喜びに、ちょうど合う言葉が見つかったようだった。怖くなくなったから嬉しいだけなら、無事に戦い終えたところを思い出せばいい。けれど胸に残っているのは、こちらへ向かってくる相手を上回り、戦いの流れを自分の手から離さずにいられた、その心地よさだった。

 

 帆波は掌を上に向けた。今は何の力も込めていないその手が、記憶の中では悪魔の抵抗を押し切っている。自分の攻撃で相手の姿勢が崩れるたび、次も自分から入っていけると分かった。そのことが、たまらなく嬉しかったのだ。

 

 また、ああいうふうに戦いたい。

 

 そう思ってから、帆波はゆっくりと指を曲げた。過ぎたことを楽しかったと振り返るだけではなく、これからも同じ楽しさを味わいたいと思っている。相手を圧倒できるのが嬉しくて、それをまた望んでいる。その気持ちは、確かに自分のものだった。

 

 仕事を引き受けるときには、母と妹の暮らしを考えている。必要なことを確かめ、任された仕事を果たし、二人のために使うものを持ち帰る。その繰り返しの中に、あの戦いもあった。けれど相手の腕を避け、踏み込んだ瞬間には、マッカも居住権も頭になかった。もっともらしい理由を思い浮かべなくても、身体が動き、手が届くたびに笑っていた。

 

 帆波はその笑顔を、今ならよく分かる気がした。母と妹のために働きたい気持ちも、あの楽しさをもう一度味わいたい気持ちも、どちらも薄れなかった。

 

 ベッドへついた手の下で、布が少し沈んだ。帆波は身体を支え直し、視線を窓辺へ移した。カーテンを透かす光を見ているうちに、戦いのあとで顔を上げたときのことも浮かんできた。

 

 近づいてくるエースを見て、嬉しくなった。「見ていた」と返された声は、今も容易に思い出せる。大げさに褒められたわけではなかった。それでも、自分のしたことを最初から最後まで彼が見ていてくれたと思うと、顔が緩んでしまった。

 

 帆波は膝の上の手へ、もう片方の手を重ねた。

 

 自分で戦えるようになったからといって、彼がいなくても同じだとは思えなかった。終わったあとに振り返れば、あの人がいる。その安心を、帆波はよく知っている。怪我を尋ねる落ち着いた声も、隣へ戻ったときの距離も、自分にとってはもう、簡単に手放せるものではなかった。

 

 強くなったところを見ていてほしい。できることが増えたら、真っ先に知ってほしいし、自分でもまだ気づかないところを、あの人には見つけてほしかった。任せてもらえるのは嬉しい。それでも、任せられるようになったぶんだけ遠くへ離されてしまうのは嫌だった。

 

 四月に見せてもらった、鋼鉄を断つ手刀を思い出す。あの速さには、まだ届かない。けれど、いつか同じように動けるようになりたいと思うと、今も胸が弾んだ。教えてもらった動きを自分でも使えるようになって、それを彼に見てもらう。そんな時間が、この先にも続いていてほしかった。

 

 帆波は重ねていた手を離し、口元を緩めた。エースのことを考え始めると、戦いとはまた違う嬉しさが加わって、しばらくそこから離れたくなくなる。次に一緒に仕事へ行けたら、また話せるだろう。その期待は持っていてよかった。今すぐ何かを頼まなくても、声を聞くために電話をかけなくても、思い出せる言葉があった。

 

 両腕を上げ、背中を伸ばした。肩の辺りが広がり、深く吸った息が胸へ入る。腕を下ろすと、そのまま身体を横へ倒した。枕へ頭を預け、長い髪を肩の下から引き出して、楽な位置へ整える。

 

 仕事へ行ける日には、また二人のために働こうと思った。居住権が手に入ったと伝えられる日を、早く迎えたかった。そのためにも、休める今は休んでおけばいい。ベッドに受け止められた身体から力が抜けると、頬に残っていた笑みまで自然に柔らかくなった。

 

 冷えた空気の中で手足を休め、何も急がずにいられるのも気持ちがよかった。戦いのことを思い出したからといって、この静けさがつまらなくなるわけではない。帆波は片手を枕のそばへ置いた。さっきまで眺めていた指先にも、今は特に目を向けなかった。次に戦うときの楽しみは、そのときまで取っておける。

 

 もう少し、このままでいようと思った。カーテンの向こうの明るさを眺めながら、帆波は頬を枕へ寄せ直し、涼しい自室の静けさに身体を預けた。

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