第1話 「守るべき場所」
臨海支部の食堂には、窓を通った夏の光が広がっていた。空調の風に肌の熱が薄れていく一方で、窓の向こうでは、日差しを受けた舗装面の上に遠景がかすかに揺れている。学校へ帰り着き、ようやく訪れることのできた、夏休みのある日だった。帆波は見慣れた姿を見つけると、そちらへ足を速めた。
「エースさん、お久しぶりです!」
「ああ、一之瀬。無事に戻ったか」
「はい。やっと来られました」
顔を上げて迎えてくれる、その声を聞きたかった。向かいの席に腰を下ろすと、船の中で話そうと思っていたことが、順序を決める間もなく口に上ってきた。
「島で、キャンプ用の椅子をもらったんです。タイピングの課題で一位になって、報酬から選べたので」
「椅子が欲しくて出たのか」
「はい。座ってみたら、思っていたよりずっと楽で。ちょっと確かめるだけのつもりだったのに、なかなか立ちたくなくなっちゃいました」
エースがわずかに口元を緩めた。それを見ると、帆波も嬉しくなって、用紙と手元と画面を忙しく見比べながら打ったことまで話した。キーの位置は覚えていなかったので、見ないで打つことはできなかったのだと説明すると、彼は帆波の手へ目を落とした。
「位置を覚えれば、もう少し楽に打てるな」
「私もそう思いました。でも、今回は間に合ったので」
「欲しかったものが手に入ったなら、よかったじゃないか」
「はい。……エースさんは、椅子を選ぶとき、何を見ますか?」
彼の答えに耳を傾けながら、帆波は机の上で両手を重ねた。自分が試してみた感触を添えて質問できるのが楽しかった。仕事の報告だけで終わらず、こんな話にも付き合ってもらえる。島で椅子を選んだときから思い描いていた時間が、今、目の前にあった。
会話が仕事へ戻ってからも、肩に余計な力は入らなかった。鬼の姿を任務で使っていたときの様子を尋ねられ、変身も解除も、身体の操作も、以前と変わらず自分の意思どおりにできていると答える。今ここで実演する必要はなく、エースも短く頷いた。
「木更津の居住権も、早く取っておきたいです。あと少しのところで、二週間空いちゃったので」
「ああ。ずっと目指していたことだからな」
「島で楽しいこともありましたけど、やっぱり、その時間は惜しかったです」
母と妹のために場所を用意したい。それとは別に、また自分の力を使えることも、エースと仕事ができることも楽しみだった。久しぶりに顔を合わせたばかりなのに、次も隣にいられる時間を欲しがっている。帆波はその気持ちを抱えたまま、彼へ明るく笑いかけた。
「また、よろしくお願いします。エースさん」
「ああ。普段どおりやっていこう」
その後、エースに紹介された任務を終え、帆波は居住権取得に必要な貢献実績を満たした。
終わった仕事については、あまり詳しく思い返したくなかった。エースと顔を合わせても、そこだけは話を広げる気になれず、帆波は少しだけ眉を寄せてから、確かめたかったことを尋ねた。
「……これで、必要な実績は満たせたんですよね?」
「ああ。そちらの条件は満たしている」
「よかったです。その仕事のことは、あんまり思い出したくないですけど」
そう答えたあとには、自然に息が緩んだ。語りたい仕事ではなくても、そこで積んだ実績によって、母と妹の暮らしを守るための条件が整った。そのことは、素直に喜べた。
残してきた実物マッカと、積み重ねた貢献実績。その両方を満たし、帆波はガイア連合木更津支部の家族用シェルター居住権を正式に取得した。本人のために確保されていた枠とは別の、家族一世帯が暮らせる場所だった。住居を所有する権利ではないが、原則として期限を区切らず、母と妹が生活を続けられる。
条件が整ったと聞いてからも、帆波はしばらく、その意味を胸の内で確かめていた。金を残し、仕事へ出て、少しずつ近づけてきた目標だった。学校の試験で活動を止められたときには、あと少しなのにと何度も思った。その続きを、ようやく終えられたのだ。
「これで、お母さんと美帆が住めるんですね」
「ああ」
エースの返答を聞いて、帆波は唇を緩めた。まだ二人が移ると決まったわけではない。母に話し、納得してもらわなければならなかった。それでも、今度は、いずれ用意したい場所について話すのではなかった。
「……よかった。本当に」
母と妹に、伝えられるものができた。
実家へ帰ると、玄関で帆波を迎えた妹が、奥へ向かって母を呼んだ。聞き慣れた声が家の中を通っていき、台所の方から母が顔を出す。帆波は靴を脱ぎながら二人を見て、帰ってきたときにはいつもそうなるように、頬を緩めた。
「ただいま」
「おかえり、帆波」
「お姉ちゃん、おかえり!」
鞄を置き、家の中へ上がってからも、話し始める言葉を胸の内で選んでいた。嬉しい知らせだからこそ、勢いで押し切りたくはなかった。母は自分の話を聞いてくれる。けれど、ガイア連合のことまで、そのまま信じられるわけではない。その違いは、これまで何度も話し合ううちに分かっていた。
席に着き、母も向かいへ腰を下ろしたところで、帆波は背筋を伸ばした。
「お母さん、美帆。今日は二人に話したいことがあるんだ」
妹が帆波の顔を見上げた。母はすぐには何も言わず、続きを待っている。その視線から目を逸らさず、帆波は口を開いた。
「前から話していた、木更津の住む場所ね。確保できたの。お母さんと美帆が暮らせる分、ちゃんと用意できたよ」
母の目がわずかに見開かれた。妹は母と帆波を見比べてから、少し身を乗り出した。
「じゃあ、あっちに引っ越せるってこと?」
「うん。住む場所の方は、もう大丈夫。三人で暮らせる広さがあるの」
「お姉ちゃんも?」
「もちろん。私の部屋もあるよ」
妹の顔が明るくなった。それが嬉しくて笑い返しかけたが、帆波は母へ視線を戻した。母は膝の上に置いた手を一度動かし、言葉を選ぶように、ゆっくり尋ねてきた。
「その場所を用意するのに、また無理をしたんじゃない?」
「必要な仕事をして、貯めていた分も使ったよ。簡単だったとは言わないけど、住むための条件は、ちゃんと満たせたの」
母の目が、帆波の顔から肩、腕へと移った。帆波はその視線を受け止めたまま、急いで話を進めずにいた。今の一言で心配がなくなるとは思わなかったし、なくなったふりをしてほしいわけでもなかった。
「前に話したこと、覚えてる? 海外のこととか、こっちでも少しずつ変わってきていることとか」
「ええ」
「私は、お母さんと美帆に、何か起きてから行き先を探してほしくないんだ。住めるところを用意して、それから、どうするか一緒に決めたかったの」
母は口を結んだ。帆波は自分の手へ一度だけ目を落とし、それからもう一度、顔を上げた。
「お母さんが心配していることも、分かってる。私が言うからって、働いているところまで全部信じられるわけじゃないよね」
「帆波のことを、疑っているんじゃないのよ」
「うん。分かってるよ」
その返事だけは、迷わずにできた。母が何を確かめたいのか、どうして同じことを何度も尋ねるのか。帆波自身も、以前よりずっと分かるようになっていた。最初から、学校の外にあるものを何でも信じられたわけではない。母には、帆波が見てきたものの多くが見えていないのだ。
母は帆波を見たまま、しばらく黙っていた。やがて、静かに息をつく。
「学校は、続けるのね」
「うん。ちゃんと通うよ」
「こちらでの生活を、全部やめてまで移ることになるのよ。お母さんと美帆が行ったあとで、やっぱり駄目だったでは済まないの」
「うん。だから、二人が暮らせる場所を先に取ったの。私だけが行けるところに、来てほしいって言いたかったんじゃないから」
妹が、隣で小さく姿勢を正した。帆波はその手に自分の指が触れたのを感じたが、目は母に向けたままでいた。
「お母さん。木更津に引っ越そう。私、二人にあそこで暮らしてほしい」
口にすると、ずっと求めていたものの形が、いっそうはっきりした。住める権利を得たことだけでは終わらない。そこに母と妹がいて、毎日の暮らしが続いてほしかった。
母の視線が妹へ移り、もう一度、帆波へ戻った。しばらく考えてから、母は静かに口を開いた。
「帆波が二人のために頑張ってくれたことは、分かってる。でも、お母さんは、まだそこを見ていないでしょう。見てもいない場所に引っ越しなどできないわ」
「……うん」
「どんな場所で、どんなふうに暮らすことになるのか、自分で確かめたいの。住むところも、その周りも。これから毎日生活する場所なんだから、見ないまま決めることはできないわ」
帆波は重ねかけていた手を、自分の膝へ戻した。母の言うことはもっともだった。住める場所を確保できた嬉しさが先に立って、二人がそこで暮らすために、何を見て、何を確かめたいかまでは、十分に考えられていなかった。
「じゃあ、まずは見に行こう。お母さんも美帆も、一緒に」
「ええ。まずは下見をさせて。そこで問題がなければ、引っ越しましょう」
帆波は顔を上げた。母はその視線を受け止め、ゆっくりと頷いた。
「本当に?」
「見てからよ。気になることがあれば、ちゃんと聞くし、それを確かめないままにはできないわ。でも、問題がないなら、向こうで暮らすつもりで見に行く。それでいい?」
「うん。もちろん。分からないことがあったら、私にも聞いて」
今すぐ引っ越すという返事ではなかった。それでも、これまでのように話を聞くだけでなく、母は自分の目で確かめに行くと言ってくれた。問題がなければ移るつもりだと、そこまで言葉にしてくれたことが嬉しかった。
「私も見たい。お姉ちゃんの部屋もあるんだよね?」
妹が身を寄せてきた。帆波はそちらへ顔を向け、笑って頷いた。
「あるよ。美帆の部屋も、ちゃんと見てみようね」
「うん!」
「見に行くだけで、もう住むつもりになってない?」
母に言われ、妹が少し口を尖らせた。
「だって、見たいんだもん」
「見たいのは、お母さんも同じよ。だから、ちゃんと見てから決めるの」
帆波は二人のやり取りを聞きながら、膝の上で手を緩めた。先に場所を用意できたからこそ、母にも妹にも、実際に見て選んでもらえる。返事を急いでもらう必要はなかった。
その後、母と妹は木更津の住居を下見した。
表向きには商業施設の社員用マンションとなっている建物の一室だった。三人で暮らせる三LDKへ入ると、妹はすぐに奥へ進みかけ、母に呼び止められた。帆波はその隣で靴を揃え、二人と一緒に部屋を見て回った。
母は居間の窓辺に立ち、台所へ戻り、それぞれの部屋を確かめた。どこに何を置けるか、普段の買い物はどうするか。尋ねられるたび、帆波は分かることを答えた。自分では答えられないことまで、安心させようとして請け合うことはしなかった。
妹が自分の部屋になるかもしれない一室を覗いている間も、母は家の中をゆっくり見渡していた。帆波は急かさず、そのそばにいた。ここで暮らしてほしかったけれど、母が頷くところを見たいあまり、確かめたいことを残してほしくはなかった。
下見を終え、気にかかっていたことを確かめたあとで、母は改めて帆波へ向き直った。
「帆波。ここへ引っ越しましょう」
「……うん」
今度は、母もこの場所を見ていた。窓から入る光も、台所の広さも、三人それぞれの部屋も、自分の目で確かめたうえで言ってくれた。
「美帆も、ここでいい?」
「うん。ここがいい」
妹の返事を聞いて、母が微笑んだ。帆波は二人を交互に見てから、ようやく胸の奥に溜めていた息を吐いた。
「ありがとう。二人とも」
引っ越しの準備を経て、母と妹は木更津へ移った。下見のときには何もなかった部屋に、今度は二人の荷物が入り、これから使うものの置き場所を相談する声が響いていた。
帆波は居間の入口で立ち止まり、少し先へ進んだ母と妹を見た。二人がここにいる。その光景を、実際に自分の目で見られたことが嬉しかった。
母は室内を見渡し、窓辺まで歩いてから振り返った。
「明るいわね」
「うん」
帆波も近づき、母と並んだ。光の差す向きも、窓から見える景色も、以前の家とは違っていた。妹が別の部屋を覗いて戻ってきて、二人のそばへ立つ。
「お姉ちゃんの部屋も見ていい?」
「いいよ。まだ、そんなに何もないけど」
「私のところも、まだ何もないよ」
「じゃあ、これからだね」
そう言って笑うと、妹も笑った。
母が何をどこへ置こうかと考え、妹が部屋を行き来している。帆波はその間に立って、尋ねられれば答え、ときどき自分からも声を掛けた。居住権という言葉で考えていた場所に、二人の声が重なっていく。窓の方へ向かう母の足音も、帆波を呼ぶ妹の声も、これからここで繰り返し聞くことになるのだ。
世界の先行きが分かるようになったわけではない。ここへ移ったからといって、これから先のすべてを約束できるものでもなかった。それでも、何かが起きたときに二人をどこへ連れていけばよいのか分からず、ただ離れた場所で案じている状態からは、一歩進めた。
仕事へ戻れば、また覚えたいことも、できるようになりたいこともある。エースのそばで、その続きを積み重ねていきたかった。今はそれを急がず、帆波は母が開けた部屋の扉を一緒に覗いた。
「ここなら、ちゃんと片づけないとね」
母の言葉に、妹が帆波の方を見る。
「お姉ちゃんもだよ」
「私? 私もちゃんとするよ」
答えながら笑うと、母の顔にも微笑みが浮かんだ。
妹はもう一度、居間を見渡した。先ほどよりも長く窓や壁を眺め、それから、確かめるように言った。
「ここが、これからのお家なんだね」
帆波は母を見て、妹を見た。ここへ来てほしいと願っていた二人が、自分のすぐそばにいた。
「うん。これからはここが、私たちの家だよ」
妹が満足そうに頷き、母に呼ばれて隣の部屋へ向かっていった。帆波もそのあとを追いながら、自分の部屋の前で一度だけ足を止めた。帰ってきたときに鞄を置く場所を考えると、向こうから、もう一度名前を呼ばれた。
「今、行くよ」
開いたままの扉を離れ、帆波は二人の声がする方へ歩いた。
転生戦士イシュキックが直面する、あまりにも残酷な真実——。
信じたい。だけど、彼女は世界を滅ぼす「鬼」だった。
ナミちゃん。「お友達になろうね」って、嘘だったの……?
少女たちの絆を引き裂く、残酷すぎる運命のベルが鳴る。
転校生として彼女の前に現れ、初めてできた「一番の親友」。その正体が敵組織の女幹部・デーモンレディと知ったとき、イシュキックの心はどう揺らぐのか。「世界をとるか、親友をとるか」という究極の選択を迫られる。
最後に見せるナミちゃんの涙の理由は——劇場で確かめて!
みたいな仕事をしてました。
とても大きな貢献(黒札の評価)となりました。