食卓に置いた器から、温かな湯気が立っていた。空調の風が届くたび、薄い白さが横へ流れ、やがて室内の空気へ溶けていく。帆波は母から受け取った皿を並べ、箸を運んできた妹に場所を空けた。引っ越したばかりのころには何を探すにも一度立ち止まっていた母も、今は話をしながら必要なものを取り出している。
「二人とも、もうこっちには慣れた?」
「そうね。買い物も、だいぶ迷わなくなったわ」
「私も一緒に行ったよ。お姉ちゃん、今度行こう」
「うん。何があるか教えてね」
妹が頷き、自分の席へ腰を下ろした。母も座るのを待ってから食べ始める。何か特別なことがあった日の食卓ではなかった。買い物の話を聞き、家の中で使うものの置き場所について相談し、妹の話に母が笑う。その向かいで箸を動かしていると、帆波も、用意した場所が二人の普段の暮らしになってきたのだと感じられた。
「帆波は、学校が始まっても仕事を続けるんでしょう?」
「うん。どっちもちゃんとやるよ。こっちにも帰ってくるし」
「無理はしないでね」
母の声に、帆波は顔を上げて頷いた。もう心配しなくてよいとは言えなかった。それでも、こうして同じ食卓に着いて、自分の顔を見てもらえる。帆波からも、母や妹に今日のことを尋ねられる。その時間を大事にしたかった。
「お姉ちゃん、そっちのお皿取って」
「はい。美帆も、これ食べる?」
「食べる」
差し出された皿へ取り分けながら、帆波は母の話の続きを聞いた。次に帰ってきたときにも、こんなふうに過ごせればよかった。
八月も終わりに近づいたころ、臨海支部で、学校の理事長が視察に来るという話を聞いた。
「坂柳理事長、ですか?」
「ああ。こちらと縁のある政治家を通して、訪問したいという話があった」
エースの説明に、帆波は頷いた。学校へ戻った理事長が、外の情勢についてどの程度知っているのかまでは分からなかった。続けてエースから聞いたのは、海外との連絡が途切れていることや、難民の増加、国内でも起きている説明のつかない現象について、知識と接点を持ちたいらしいということだった。父親である先代理事長から代替わりした際に途切れた縁を、つなぎ直したいという意向もあるらしい。
「公開できる場所を案内する。一之瀬にも同席してもらおうと思っているが、どうする?」
「私もいていいんですか?」
「学校の人間だからな。お前の意思は先に聞いておきたい」
断る理由は、特に思いつかなかった。母と妹の暮らす場所を確保できた今となっては、学校を退学になっても、家族の安全を守るための計画が行き詰まることはない。母のためにも高校は卒業したいと思っているから、わざわざ退学したいわけでもなかったが、以前ほど在籍にこだわる必要はなくなっていた。それでも、何かあったときに学校側と話のできる縁があるのは悪くない。
「分かりました。私でよければ」
「ああ。詳しい話は、当日までに伝える」
エースがいるなら、話せる範囲に迷っても確かめられる。帆波はそう思うと、視察への同席も、いつもの仕事の延長として受け止められた。
ところが当日、本庁舎で迎えた相手は、聞いていた理事長一人ではなかった。
細身の身体を落ち着いた色のスーツに包み、眼鏡越しに周囲へ視線を巡らせていた理事長の隣に、小柄な少女が立っていた。淡い銀色の髪を肩のあたりで揃え、帽子の下から覗く顔はよく知っている。片手には杖があり、歩みを止めたその先で、帆波を見つけた目がわずかに大きくなった。
「……一之瀬さん?」
「あれ。坂柳さん?」
帆波も思わず目を瞬かせた。学校で会う相手がこの建物の中にいると、いつもとは人の並びまで違って見える。無人島でトランシーバー越しに聞いていた声が、今日は目の前から聞こえてきた。
「こんにちは。坂柳さんも来てたんだね」
「ええ。ですが、一之瀬さんがこちらにいらっしゃるとは思いませんでした」
「私も、今日は理事長先生がいらっしゃるって聞いてたから」
坂柳が父親へ顔を向けた。理事長は帆波と娘を見比べ、それから、出迎えた黒瀬へ向き直った。
「娘も同行させていただきました。事前にお伝えしておらず、申し訳ありません」
黒瀬が同行者を確かめ、エースとも言葉を交わした。案内は、娘を含めて公開できる範囲で行う。その確認が済んでから、帆波も理事長に挨拶をした。
「一之瀬さんも、こちらに関わっていたんだね」
「はい。お仕事を手伝わせてもらっています」
「そうだったのか。今日は、よろしくお願いします」
学校で向けられるものとは少し違う、客としての丁寧な言葉だった。帆波が頭を下げると、隣にいた坂柳の視線が、帆波の服装から顔へ戻ってくる。制服ではなく、支部で着る黒いジャージ姿が珍しいのかもしれなかった。
案内が始まると、帆波は坂柳の近くを歩いた。杖を使う歩調に合わせて進むと、父親と黒瀬の話も無理なく聞こえた。港湾側の施設や外壁について説明を受けながら、理事長は、時折足を止めて建物の奥行きを確かめている。
「これほどの施設だったとは。存在については、先代である父から伺っていましたが、実際に拝見すると、想像していたものとは違いますね」
「建設を始めたのは十年ほど前ですからね」
黒瀬の返答に、理事長がもう一度外壁へ目を向けた。
「私が学校へ赴任するよりも前から、ですか」
帆波は、自分が初めてここへ来たときのことを思い返した。知らなければ、すぐ近くにあっても気づかない。見える建物の大きさだけでは、自分が何を知っているのかは測れなかった。
「私自身、こうした分野には詳しくありません」
理事長は歩き出してから、黒瀬へ言った。
「ただ、詳しくないからといって、起きていることまで無視できる状況ではなくなってきました。海外の情勢についても、以前と同じ考え方だけでは判断が難しい。いざというとき、何をどなたに伺えばよいのか、それを知っておきたいのです」
説明を受ける姿勢は慎重だった。帆波が本部通達で聞いた見通しを、理事長が知っているような話し方ではなかったし、こちらから伝える場でもなかった。
建物の中へ入り、食堂や医務室の公開できる場所を見て回る間も、理事長の質問は続いた。帆波には見慣れた設備でも、外から来た人には、一つずつ確かめたいものなのだろう。隣を歩く坂柳も、説明する黒瀬の方を見ていたが、やがて帆波へ顔を向けた。
「一之瀬さんは、普段はこちらでどのようなお仕事を?」
「いろいろあるけど、私の力でできることを手伝ってるんだ。使い方も、ここで教わったの」
「力、ですか」
「うん」
坂柳の視線が、帆波の手元へ落ちた。タイピングの課題で何を考えていたのかまで、彼女が知っているわけではない。それでも島で一緒だった相手にこうして尋ねられると、帆波の方には、報酬の椅子を持って報告したときの声が思い出された。
「学校とは、随分違うご様子ですね」
「そうかな。服が違うから?」
「それだけではないように思います」
坂柳はそう言って微笑んだ。何が違うと感じたのか聞いてみたくなったが、前を歩く黒瀬が立ち止まったので、帆波もそちらへ目を向けた。
屋内演習場は、人が身体を動かすための広さが確保されていた。声が壁や天井から戻ってくるまでに、廊下とは違う間がある。理事長と坂柳が中を見渡しているあいだに、エースから、帆波の変身を見せてもよいかと確認があった。
「お二人には、姿が変わるところまでだ。できるか?」
「はい。大丈夫です」
帆波は頷いた。何を話し、何を見せるかが決まっていれば迷うことはなかった。エースの落ち着いた声を聞くと、こちらも普段どおりでいられる。
坂柳が、二人のやり取りへ目を向けていた。
「一之瀬さんが、何か見せてくださるのですか?」
「うん。ちょっと姿が変わるの。驚くと思うけど、危ないことはしないから」
「姿が……?」
問い返す声を聞いてから、帆波は変身を思い描いた。
額の右側で角が伸びる感触がした。身体の中心から肌の色が深まり、腕を伝った褐色が手の甲へ、最後に指先へ届く。ほんの一秒ほどで変化は終わり、帆波はいつもと同じように息をした。足を置く位置も、指を曲げる加減も変わらない。見せるために変わったのだから、変わり終えたあとは、そのまま立っていればよかった。
坂柳の唇がわずかに開いていた。父親も言葉を止め、眼鏡の奥から帆波を見ている。
「これが、私のもう一つの姿です」
理事長にも聞こえるように言ってから、帆波は両手を軽く開いた。黒い袖口から出た肌は褐色に変わり、その上に落ちる長い髪の色が、いつもより明るく映える。前髪の間には、額の右側から伸びる漆黒の角があった。
「……本当に、変わられたのですね」
坂柳は帆波の顔へ目を戻した。視線が角へ上がり、また目元へ下りてくる。退こうとする様子はなく、杖をつきながら、むしろ少し近くへ寄ってきた。
「今、痛みなどはないのですか?」
「ないよ。普通に立ってるだけ」
「そうですか。……それに、綺麗ですね」
思いがけない感想に、帆波は一度だけ瞬きをした。
「綺麗?」
「ええ。髪のお色も、お肌によく映えています。その角も」
坂柳は言葉を切り、額のあたりを見つめた。何か仕掛けを探しているだけの目つきには見えなかった。髪と肌の色を見比べ、角の形を目で辿っているその様子に、帆波も口元を緩めた。
「ありがとう。私も、この姿は結構気に入ってるんだ」
「それは、よく分かります」
坂柳の返事が早かったので、少し可笑しくなった。学校で試験の話をしているときには、こんなふうに自分の見た目を褒めてもらうとは思っていなかった。
理事長が黒瀬へ尋ねる声が、少し離れたところから聞こえた。
「彼女は、こうした変化を自分で……?」
「自分の意思で行っています。今も、普段どおりに話ができていますね」
帆波はその方へ頷いてみせた。理事長はもう一度帆波を見てから、説明に耳を傾けた。目の前で起きたことを確かめようとしている様子は娘と似ていたが、坂柳の関心は、もっと近くに留まっていた。
「あの、その角に、少し触れてみても構いませんか?」
「うん。いいよ」
答えてから、帆波はそばにいるエースにも目を向けた。彼が頷くのを見て、坂柳に向き直る。
「そのままだと届きにくいかな。ちょっと待ってね」
帆波は膝を曲げ、角へ手を伸ばしやすい高さまで身を低くした。坂柳が杖で身体を支えているのを見ながら、近づきすぎない位置で止まる。彼女の目が、今度は間近になった帆波の顔へ向いた。
「ありがとうございます。では、失礼します」
伸びてきた指先が、角の側面へ軽く触れた。帆波は動かずに待った。坂柳は指を滑らせるほどのこともせず、触れた場所を見つめ、それから確かめるように帆波へ尋ねた。
「触れられているのは、お分かりになりますか?」
「うん。分かるよ」
「今も、痛くは?」
「大丈夫。そんなに気を遣わなくても平気だよ」
「そう言われましても、初めてのことですので」
その答えに、帆波は笑った。自分には馴染んだ身体でも、坂柳にとっては、触ってよいかを尋ねるところから初めてなのだ。彼女はもう一度角を見てから手を引いた。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
立ち上がったあとも、坂柳の視線は帆波についてきた。帆波が髪を肩の後ろへ流すと、その動きに合わせて目が移る。はっきりと興味を向けられているのが分かり、それが嫌な感じではないことも、不思議ではなかった。
必要な実演を終え、帆波は変身を解いた。指先から肌の色が戻り、腕を経て身体へと変化が引いていく。角も普段の長さへ戻った。坂柳はその過程も見逃したくないように見ていたが、終わると小さく息をついた。
「戻るときも、ご自身でできるのですね」
「うん。なりたいときに変われるし、戻りたいときに戻れるよ」
「姿が変わっている間も、普段と同じように考えられるのですか?」
「そうだよ。今も、坂柳さんと何を話したか、ちゃんと覚えてるし」
「では、気持ちの方が変わるということも?」
帆波は少し考えた。話してよい範囲を選びながら、自分にとっては自然になっている感覚を、言葉へ直す。
「見た目が変わっても、私は私かな。自分で考えて、自分で動いてるのは同じ。今も別に、頑張って普段のふりをしてたわけじゃないよ」
「なるほど。私が想像していたものとは、少々違いました」
「どんなふうに考えてたの?」
「変わったあとで、会話まで難しくなるのかもしれないと。少なくとも、私の角に触りやすいように、屈んでくださるとは思っていませんでした」
「それくらい、普通にするよ」
言ってから、帆波はまた笑った。坂柳も目元を和らげた。
家族や支部の人間以外と、こんな話をするのは久しぶりだった。学校で女子と会話する機会はあっても、自分のことを尋ねられ、こちらも相手の反応を知りたくなって、次の言葉を返すような時間は、随分と減っていた。坂柳は帆波の姿を見て怯えたり、すぐ別の話へ変えたりしない。知りたいことがあると分かる聞き方をして、その答えを楽しそうに受け取ってくれる。
「ほかにも、伺いたいことがたくさんあるのですが」
「私が話せることならね。全部は無理だから」
「ええ。それは、わきまえているつもりです」
坂柳は素直に頷いた。どこまで答えればよいかを一人で抱えずに済むのも、話しやすかった。
視察を終えるころには、理事長と黒瀬の会話も、最後の挨拶へ移っていた。今日見たものについて礼を述べる理事長の声を聞きながら、帆波は少し横へ退いた。学校のことが、この場で何か変わるわけではなかった。それでも、互いに顔を知り、話のできる関係を持つという、最初に聞いていた目的には沿った時間だったのだろう。
坂柳が、帆波の方へ身体を向けた。
「一之瀬さん。今度、学校でもお茶をご一緒しませんか?」
「お茶?」
「ええ。今日は父の視察についてまいりましたので。次は、もう少しゆっくりお話しできればと思うのですが」
帆波は坂柳の顔を見た。試験の相談を持ちかけられているときとは、違う誘いだった。先ほどの会話をもう少し続けるのだと思うと、断る理由を探すまでもなく、返事ができた。
「うん、いいよ。私も楽しかったし」
「ありがとうございます」
「学校の中のお店なら……」
言いかけて、以前エースと待ち合わせをした喫茶店が浮かんだ。同じ店の席へ、今度は坂柳と向かい合って座る。その光景を思い描くと、学校へ戻ってからの時間にも、少し楽しみが増えた。
店の場所を伝えると、坂柳が頷いた。
「そちらなら、私も分かります。それと、できれば、先ほどのお姿もまた拝見したいですね」
「それは、お店だと駄目かな」
「……そうでしたね」
坂柳が一度、演習場の方へ目を向けた。あまりに惜しそうに見えたので、帆波は笑いを含んだまま続けた。
「私がよくても、周りの人が困っちゃうから」
「では、私の部屋ならいかがでしょう?」
今度は帆波が目を瞬かせた。坂柳の顔には、問いかけの微笑みがある。姿を見るためなら自分の部屋を候補にするらしい。その関心の向け方が面白くて、帆波もつられて口元を緩めた。
「それなら、人目は気にしなくて済むかもね。でも、まずはお茶にしようよ」
「ええ。楽しみにしています」
帆波も頷いた。少し離れたところでエースがこちらを見ていて、目が合うと、彼女の挨拶が終わるのを待ってくれた。あとで、今日のことを話したかった。学校の知り合いが来て驚いたことも、鬼の姿を綺麗だと褒められたことも、彼なら聞いてくれるだろう。
「じゃあ、また学校でね。坂柳さん」
「はい。また、学校で」
学校で交わすのと同じ言葉なのに、次に会うときには、試験の行き先も報告の内容も考えなくてよかった。何を尋ねられるのだろうと少し楽しみにしながら、帆波は父親の隣へ戻る坂柳を見送った。
学校外へ追放状態だった理事長は、綾小路父へ対抗するために、政治家や官僚と会ったりいろいろしたことでしょう。そこで一部政治家などは事前に逃げる準備をしている、あるいは逃げ出している(小ネタ 魔都東京と政治家さんの現状)という事情がありますので、知れば視察位するかなと。
でも緊急性まで認識できてないので、娘の連れてきちゃった。
理事長が娘を連れてきたのは、なんか治安が悪いから万一に備えて、隣にある警察に顔つないでおくか+娘にも将来のコネ作らせておくか。くらいの軽い気持ち。
尚、そろそろ核が飛んできます。