九月に入っても、窓の向こうの日差しには夏の白さが残っていた。喫茶店のガラスを隔てると、外を歩く生徒の姿だけが明るく浮かび、声や足音は遠くなる。帆波は入口から店内を見渡し、席に着いている坂柳を見つけた。淡い髪の上に帽子を載せ、傍らに杖を置いた彼女が、こちらへ顔を上げる。
「坂柳さん、こんにちは!」
「こんにちは、一之瀬さん。今日はお時間をいただいて、ありがとうございます」
「ううん。私も楽しみにしてたんだ」
向かいへ座ると、坂柳が微笑んだ。臨海支部で別れる前に話していたことを、こうして実現できた。机も椅子も見覚えがあり、席から見える店の奥行きにも馴染みがあったが、今日はその中に坂柳の顔がある。
以前ここでエースと待ち合わせたときには、彼が来るまで、入口へ何度も目を向けていた。今でもあの姿を見つけると嬉しくなるだろう。そんなことを思い出しながら、帆波は机の上へ視線を戻した。今日はもう、話したかった相手が目の前にいた。
「学校で会うと、また少し違うね」
「私も、そう思っていたところです。先日は、そちらのお仕事の場所でしたから」
「坂柳さんがいるの、最初は本当にびっくりしたよ」
「それは、私の方こそ。父についていった先で、一之瀬さんが迎えてくださるとは思いませんでした」
飲み物を選んで注文を済ませると、坂柳は机の上で両手を揃えた。視線が帆波の顔へ向かい、それから額のあたりで一度止まる。何を思い浮かべたのか、尋ねられる前に分かってしまって、帆波は笑った。
「また見たくなった?」
「……顔に出ていましたか?」
「ちょっとだけ」
「先日のお姿については、まだ伺いたいことがたくさんあるのですが」
坂柳が声を抑えた。帆波は近くの席へ一度目を向け、同じくらいの声で答えた。
「詳しいことは、ここだと話しにくいかな」
「そうですね。少々、場所を選ぶお話でした」
坂柳は頷き、それ以上は尋ねなかった。周囲の生徒がこちらを気にしていなくても、何が耳に入るかまでは分からない。帆波が言葉を選ぶ理由を、坂柳も分かってくれている。そのまま話を変えようとすると、彼女はもう一度、帆波の目を見た。
「では、一つだけ。今日はお会いできて嬉しいと申し上げるのは、差し支えありませんよね」
「うん。それは、いくらでも言って」
「それでしたら、嬉しいです」
ためらわずに返されたので、帆波の方が少し照れた。笑ってごまかそうとしたところへ飲み物が運ばれ、二人で机の上を空ける。店員が離れてから、帆波は坂柳へ顔を向け直した。
「私も嬉しいよ。今日は誘ってくれてありがとう」
「こちらこそ、来てくださってありがとうございます」
「それ、さっきも言われたね」
「ええ。いくらでも言ってよいとのことでしたので」
帆波は思わず笑った。坂柳の口元にも、わずかな笑みが残っていた。
カップを手に取って一口飲むと、席へ落ち着いた感じがした。次に何を報告するかを考える必要も、返事のあとですぐに動く必要もない。帆波は背筋の力を少し抜き、坂柳の方へ目を戻した。
「一之瀬さんは、最近はどのようにお過ごしなのですか?」
「学校に行って、仕事もして、あとは家族と過ごしたりかな」
「なかなかお忙しそうですね」
「うん。でも、前よりは少し落ち着いたよ。今日も、こうして来られたし」
母と妹の住む場所を用意するまでは、仕事に使える時間を少しでも増やしたかった。今も働きたい気持ちは変わらず、エースと過ごす時間も欲しい。それでも、会いたいと思った相手とお茶を飲む余裕まで、手放さなくてよくなった。
「坂柳さんは? 今日、私と会おうと思ったのも、やっぱりこの前のことが気になったから?」
「それも、もちろんあります。ですが、今日は一之瀬さんとお話ししたくてお誘いしました」
「私と?」
「はい。先日は、質問ばかりしてしまいましたから」
「そんなことないよ。私も楽しかったし」
「そう仰っていただけると安心します」
坂柳がカップへ手を伸ばした。指を添える仕草は静かで、話すときにも、こちらが口を開けば自然に待ってくれる。帆波も何か尋ねたくなって、少し考えた。
「じゃあ、私からも質問していい?」
「ええ。どうぞ」
「私が仕事してるって聞いたとき、どう思った?」
坂柳はカップを置き、帆波へ向き直った。
「驚きました。学校でお会いするだけでは、分からないものですね」
「うん。私も、普段はあまり話してなかったから」
「それでも、先日の一之瀬さんを拝見していると、そこで過ごすのがお好きなのだろうとは思いました」
帆波は少しだけ目を開いた。あの日の自分がどんな顔をしていたかを思い返してみる。エースのそばにいて、慣れた建物を歩き、坂柳の質問に答えていた。好きかと聞かれれば、迷うことはなかった。
「うん。好きだよ」
「今のお返事で、よく分かりました」
「え、また顔に出てた?」
「少し」
先ほどの自分と同じ言葉を返され、帆波は頬を緩めた。見抜かれて困るような気持ちではなかった。あそこで仕事をするのが好きで、会いたい人もいる。そのことを、坂柳へ話すのも嫌ではなかった。
「坂柳さんって、結構そういうところ見てるんだね」
「目の前でお話ししている方ですから。見ていてはいけませんか?」
「ううん。私も見てるし」
答えると、坂柳の視線が一度だけカップへ下りた。再び顔を上げたときには、いつもの微笑みに戻っていたが、その短い間が少し面白かった。帆波は追いかけて尋ねず、代わりに、自分のカップを両手で持った。
「家族といるときも、楽しいよ。最近、妹が買い物に一緒に行こうって言ってくれて」
「妹さんがいらっしゃるのですね」
「うん。母と二人で行ったから、今度は私に教えてくれるって」
「それは、楽しみですね」
「そうなんだ。私の方が知らないこともあるから、聞いてみたくて」
何を話してよいか考えたとき、浮かぶのは大きな出来事ばかりではなかった。食卓で妹が言ったことや、母が買い物に慣れてきたこと。そんな話を口にしても、坂柳は続きを待ってくれた。家の場所や仕事の内情まで話さずに、楽しかったことは伝えられる。
「一之瀬さんのお話を聞いていると、ご一緒してみたくなりますね」
「私たちの買い物に?」
「楽しそうにお話しになるので」
「美帆が張り切っちゃうかも。教える人が増えたって」
口にすると、その様子が目に浮かんだ。帆波が笑うと、坂柳も静かに笑った。実際に連れていく約束をするわけではなくても、一緒に想像して笑えるのが楽しかった。
話が途切れたところで、坂柳が帆波の手元を見た。
「そういえば、島で手に入れた椅子は、お気に召したのでしたね」
「うん。座ってみたら、すごくよかった。報告したときにも言ったよね」
「ええ。お声だけでも、気に入られたのが分かりました」
「そんなに?」
「課題で一位になったことより、椅子のお話の方が楽しそうでしたから」
帆波は記憶を辿り、やがて笑った。ポイントと椅子を受け取ったあと、自分で運べると答えた。欲しいものを選べたのだから、声も弾んでいたかもしれない。
「欲しかったんだもん。ちゃんと座れたし」
「お役に立つ課題をご案内できたようで、何よりです」
「うん。ありがとう。あれは本当によかった」
向かい合って礼を言うと、坂柳はわずかに顎を引いた。無線でやり取りしていたときには見えなかった反応だった。あのときは次の行き先を聞けば歩き出していたが、今日はそのあとにも話ができる。
「一位なら、報酬を選べるだろうとは思っていましたが。随分と早く終えられたのですね」
「私、キーの場所を全部覚えてるわけじゃないから、忙しかったよ。用紙を見て、手元を見て、画面を見て」
「それで、一位ですか」
「うん。見ないで打てる人は、すごいなって思った」
坂柳が一瞬黙ったあと、口元へ指を添えた。
「……何だか、負けた方々が聞くと複雑な気持ちになりそうなお話ですね」
「でも、本当にそう思ったんだよ」
「ええ。そうでしょうね」
声に笑いが混じっていた。帆波もつられて笑い、机の上へ目を落とした。エースにも話したかったあの打ち方を、こうして坂柳にも説明している。彼女は実際の手元を見ていないからこそ、思い浮かべた様子が可笑しいらしかった。
「坂柳さんは、見ないで打てる?」
今度はこちらから尋ねると、坂柳は自分の手を少し持ち上げてみせた。
「少なくとも、一之瀬さんが羨ましがってくださるほどのものではありませんよ」
「羨ましいっていうか、便利そうだなって。目を動かさなくて済むし」
「でしたら、練習なさってはいかがですか?」
「うん。それは、同じこと言われた」
思わず答えてから、帆波は口元を緩めた。エースが自分の手へ目を落としたときの顔が浮かんでいた。何もかもできるようになったつもりでいても、覚えていないことは残る。彼に教えてもらいたいことも、まだたくさんあった。
「お仕事先の方に?」
「うん。教えてくれる人がいるの」
「頼りにしていらっしゃるのですね」
「すごく」
その返事にも、迷いはなかった。坂柳は帆波の顔を見てから、穏やかに頷いた。それ以上詳しく尋ねずにいてくれたので、帆波もそのまま、カップへ手を伸ばせた。
話しているうちに、窓から入る光の位置が少しずつ変わっていた。店の出入口が開き、別の席の客が帰っていく。帆波はその動きを目の端で捉えながら、坂柳の言葉へ耳を戻した。次に何を話すか考えるために、会話の終わりを急ぐことはなかった。
こうして同じ年の女子と、用事のためではない話をするのは、随分久しぶりだった。覚醒してからの一年は、学校の外で覚えたいことも、果たしたいことも増え続けていた。学校へ向ける時間が減ったことを惜しんではいない。今ここに座っているのも、坂柳と話したいと思ったからだった。
自分の返事を聞いて、彼女が何を言うのか知りたい。こちらが尋ねたことに、どんな顔をして答えるのか見ていたい。その気持ちがあれば、話は続いた。
「……一之瀬さん?」
「あ、ごめん。何でもないよ」
「何か、気になることでも?」
「ううん。こういう時間もいいなって思って」
坂柳は帆波を見つめ、それから目元を和らげた。
「私も、そう思います」
帆波は笑って頷いた。誘ってもらえてよかったと、改めて思った。
やがて席を立つころには、飲み物の残っていたカップも空になっていた。坂柳が杖を手に取り、椅子から立ち上がるのを待って、帆波も鞄を持つ。店の中を出口へ向かって歩きながら、まだ少し話し足りないような気がした。
「今日はとても楽しかったです」
「私も。誘ってくれてありがとう、坂柳さん」
「また、ご一緒していただけますか?」
「うん、もちろん。またお茶しようよ」
店の扉を出ると、外の空気にはまだ熱が残っていた。帆波は隣へ並んだ坂柳に顔を向ける。次はどこへ行くかも、いつ会うかも、まだ決めていなかった。それでも、今日で終わりにしたくないという気持ちは、二人とも言葉にしていた。
「今度は、私から誘ってもいい?」
坂柳が少しだけ顔を上げた。
「ええ。お待ちしています」
返ってきた微笑みを見て、帆波も笑った。連絡するときには、何か伝えるべき用事を探さなくてもよい。ただ、また話したくなったと言えばよかった。
坂柳有栖は、「天才」という存在にたいして強い執着を持っています。
彼女がいわゆるオカルトの才能をどのように見るか、意見が分かれるところかもしれませんが、本作では好意的な好奇心としました。