【カオ転三次】×よう実 鬼になる一之瀬帆波   作:ねむのき

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第5話 「自分にも戦える」

 森の中では、風の通り道にだけ細かな雪が舞っていた。幹に遮られた空気が枝の間へ押し出され、積もった白さを薄く削っていく。帆波は顔へ流れてきた髪を払い、少し前を歩くエースの足跡へ靴を下ろした。雪を踏む感触は同じなのに、今は、その下へ足を取られても、次の一歩を落ち着いて選べた。

 濃いグレーの上着は、肩へかけるだけでなく、袖へ腕を通していた。自分のものより長い袖口を少し折ると、指がきちんと出る。その手で枝を避け、邪魔にならないよう押さえ、通り過ぎてから放す。枝を折ってしまうことはなかった。

 力を加減する練習は、拍子抜けするほど簡単だった。

 キャンプ地でエースに見てもらいながら確かめると、普段どおりに持とうと思えば、ものは普段どおりに持てた。強く力を出そうとしたときには、それまで知らなかった力が出る。それを怖がって手を動かせなくなっていたのが、少し前の自分だった。お茶のボトルも、食事の道具も、握り潰さずに扱えたし、立ったり歩いたりするたびに椅子や地面を壊すようなことも起こらなかった。

 全てが分かったわけではない。それでも、人へ手を差し出すことを恐れながら暮らさなくてもよさそうだという実感は、確かに得られていた。

 帆波は掌を開き、一度だけ握った。エースの手を握っていたときの温かさを思い出すと、力を入れすぎる不安より、もう一度触れてみたいという気持ちの方が先に浮かんだ。慌てて手を下ろし、その白いシャツの背中へ視線を戻す。彼が振り返る前でよかったと思ったが、気づかれなかったことが、少し惜しいようにも感じられた。

 

 木々の切れ目から吹いた風が、頬へ触れた。

 寒いことは分かる。雪も溶けてはいないし、息を吐けば白くなる。けれど、今は、指が冷えて動かなくなるような感じがなかった。膝も震えていない。さっきまで自分の身体を思うように扱えずにいたことが、別の出来事のように遠ざかり始めていた。

 上着と火だけのおかげなのだろうか。恐ろしくてたまらなかったときには、身体のどこへ触れても冷たいように思えた。寒さと、疲れと、捕まるかもしれないという恐怖を、分けて考えることなどできなかった。今、同じ森を歩いて初めて、その全てが同じものではなかったのだと、少しずつ分かってきた。

 エースがこちらを振り返った。

 

「歩きにくくないか?」

 

「はい。大丈夫です」

 

 返事が思ったより明るく出て、帆波は自分でも驚いた。

 さっきまで座って泣いていたのに、今はお腹の中に温かい食事が収まっている。出発前に食べたカレーは、ひどくおいしかった。湯気の向こうでエースが食べる姿を見ながら、帆波も匙を口へ運んだ。もう一口食べたいと思い、実際に食べられたことまで、嬉しかった。

 食事ができて、力も加減できて、帰る道を知っている人が一緒にいる。その一つずつを思い返すたび、胸の中が軽くなった。

 まだ、異界の中なのに。

 怪物がどこかにいるかもしれないことも、何が起きているのかほとんど知らないことも変わらない。それなのに、前へ進む足には、もう逃げ出したいという焦りがなかった。

 

「……変な感じです」

 

「何がだ?」

 

「さっきまで、あんなに怖かったのに。今は、帰れるって思うと、ちゃんと周りを見る余裕もあって……こんなにすぐ変わるものなのかなって」

 

 エースは歩調を少し緩めた。帆波が隣へ近づくと、その顔を確かめるように見てから前へ向き直る。

 

「覚醒したばかりの頃は、妙に気が大きくなることがあるんだ。今までできなかったことができるようになって、自分には何でもできるような気になる」

 

「何でも……」

 

「新しい道具を手に入れたときに、何にでも使ってみたくなるようなものだな。実際には、できることもあれば、できないこともあるんだが、その境目を知らない」

 

 帆波は自分の手へ目を落とした。薪を砕いた力は、確かに以前の自分にはなかった。けれど、その力を全部込めても、エースは少しも痛がらなかった。

 

「自分より強い奴に会うまで、調子に乗る奴もいる。お前の場合は、いきなりウェンディゴに追い回されて、その後に俺と会ったからな。何でもできると思い込む前に、上がいることを知ったわけだ」

 

「……それは、よく分かりました」

 

 答えると、エースが笑った。帆波もつられて口元を緩めたが、あの黄色い目を思い出せば、まだ胸の奥は狭くなる。何でもできるとは、とても思えない。ただ、先ほどまでより、自分の身体を頼りにできる気がしていた。

 

「俺も最初は、物語の主人公にでもなった気分だったけどな」

 

「エースさんも、ですか?」

 

「ああ。もっとも、修行をつけてくれた先達を見て、すぐにそんな気分じゃなくなった」

 

 帆波は顔を上げた。この人が強さに怯える姿は、うまく想像できなかった。怪物がいた場所でも、雪の中でも、彼はいつも自然に立っていた。自分の知らない何かを恐れることなど、もうない人のように思えていた。

 

「そんなに、強い方だったんですか?」

 

「それはもう。才能は残酷だと、嫌というほど分かったよ」

 

 笑いながら話すエースに、今度は帆波も声を出して笑った。そんなふうに話してくれることが嬉しかった。遠いところに立つ人だと思っていたのに、その人にも、力を得たばかりで戸惑い、もっと強い相手に驚いた時間がある。

 もっと聞いてみたかった。どんな顔をしたのか、何を教わったのか、今みたいに誰かと並んで歩いたことがあるのか。問いを選びかけたところで、エースの足が止まった。

 帆波も、その視線の先を見た。

 

 幹の間に、灰色の身体が二つあった。

 細い腕が雪へつき、痩せた胸の下で腹だけが大きく膨らんでいる。伏せられていた顔が持ち上がると、裂けた口から歯が見えた。赤い髪の怪物に捕まっていたものと、同じ姿だった。

 帆波の足も止まったが、逃げ出そうとはしなかった。

 あのとき見た光景は覚えている。目の前にいるものを、普通の人間だと思うこともできない。それでも、息が吸えなくなることはなかった。隣にエースがいる。その事実を確かめると、自分が立っている地面まで、先ほどより確かなものに感じられた。

 

「大丈夫か?」

 

「……はい。大丈夫です」

 

 無理をしている返事ではなかった。そのことが自分でも分かり、帆波はもう一度、灰色の二体へ目を向けた。

 

「こいつらは、ガキという悪魔だ。さっき話したこと、試してみるか?」

 

 帆波は頷いた。

 キャンプ地を出る前、エースは、弱い悪魔に会ったら、自分でも対抗できるか確かめてみないかと提案していた。彼がそばにいて、安全を確保できる場合に限る。帰った後も、見たものの恐ろしさだけを抱えて過ごすより、対抗できるという経験があった方がよいのだという。

 あのときは、まだうまく想像できなかった。けれど今は、目の前の相手を見ながら考えられる。自分には力があり、エースはその使い方を教えてくれる。できるかもしれないという思いが、帆波をその場に留めていた。

 

「無理だと思ったら、すぐ下がれ」

 

「はい」

 

 エースの片手が上がり、そのまま振り下ろされた。

 奥にいた一体の身体が左右にずれた。何かが切り裂いたのだと分かるより早く、その輪郭は黒い粒子へ変わり、雪の上から失われていく。帆波には、手を動かしたことしか見えていなかった。

 もう一体が頭を巡らせた。消えた仲間のいた場所から二人へ目を移し、身を翻して木々の間へ逃げようとする。

 帆波は踏み出した。

 雪へ沈むはずの足が地面を押し、思った位置より早く身体が前へ出た。驚きながらも足をつき、灰色の身体の進路へ入る。相手が顔を上げたときには、もう、すぐ目の前に立っていた。

 裂けた口が開いた。

 飛びかかってくる姿へ、帆波は反射的に腕を上げた。牙と爪が濃いグレーの袖へ触れる。つかまれた、と思ったのに、布を隔てた向こうに痛みはなく、受け止めた腕さえ、ほとんど押し戻されなかった。

 帆波は目を見開いた。

 歯が、そこにある。さっきなら見るだけで悲鳴を上げたものが、今は、自分の腕へ届いても傷をつけられずにいる。袖に噛みついた顔と、その奥の細い肩が見えた。借りた上着の下で、自分の腕は動かせる。

 帆波は空いている手を握り、目の前の胴へ拳を押し込んだ。

 手の甲から腕へ反動が返り、灰色の身体が大きく傾いだ。袖へ食い込んでいた歯が離れ、相手の足が雪を削る。帆波も一歩進んだ。身体をどう動かせばよいか、きれいに考えたわけではなかった。まだ起きている相手へ、もう一度、届くところから拳を出した。

 二度目の打撃を受けた身体が折れた。

 その輪郭が黒く崩れ、帆波の手の先から失われていく。腕を引き戻したときには、目の前に相手はいなかった。黒い粒子が低く流れ、その向こうに、誰も踏んでいない雪が見えた。

 

 帆波は拳を握ったまま立っていた。

 息を吸うと、冷たい空気が胸へ入った。痛みはなかった。噛まれたはずの腕を動かし、濃いグレーの袖へ目を落とす。そこから、自分の手へと視線を移した。指を開くと、拳を作っていた掌の皮膚が、普段と同じように伸びた。

 自分がやったのだ。

 エースが一体を倒し、残った一体には、自分が向かっていった。腕を上げ、拳を出した。その動きで、目の前の悪魔はいなくなった。

 薪を砕いたときとは違っていた。何が起きるか知らないまま力を出したのではない。対抗できるか確かめようとして、自分から動き、その通りのことができた。

 

「よくやった」

 

 すぐそばから声がした。

 帆波は振り返った。エースがこちらを見ている。その姿を認めると、戦う前から途切れずにそこにあった安心が、ようやく胸へ広がった。彼がいるから踏み出せた。その先で、彼に代わってもらわずに、自分の手で終えることができた。

 

「……できました」

 

「ああ。ちゃんと対抗できただろう」

 

 帆波は頷き、もう一度、自分の手を見た。

 この手で誰かを傷つけたらどうしようと思った。今も、その怖さがなくなったわけではない。けれど、自分を守るためにも使えるのだと、今は知っている。

 あの赤い髪の怪物にも勝てるなどとは思わなかった。何にでも向かっていけるわけではないし、借りた上着にも、そばで見ていてくれたエースにも助けられた。それでも、怪物のいる世界で、自分にできることが一つあった。

 帆波は指を緩めた。掌へ残る打撃の感触を確かめながら顔を上げると、今度は、気負わずにエースの目を見ることができた。

 

「私でも、戦えたんですね」

 

 口にして初めて、その事実が、自分の中へ静かに収まった。

 




颯爽と助けに入るつもりだったエースくん:
「あれ、この子強くね?」
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