午後の日差しが、寮の窓から机の端へ届いていた。九月も後半になると、同じ時刻でも光は夏より深く室内へ差し込む。帆波は机に置いたスマートフォンを手に取り、坂柳とのやり取りを開いた。喫茶店を出たときの、少し顔を上げてこちらを見た姿を思い出す。次は自分から誘いたいと言ったのだから、連絡する理由はもうあった。
何を話すかまで決めておく必要はなかった。それでも、また同じ店へ誘うより、違う場所へ行ってみるのも楽しそうだった。少し考えてから、帆波は文字を入力した。
『坂柳さん、今度また一緒に遊ばない?』
送信してスマートフォンを置きかけたところで、返事が届いた。
『ええ、ぜひ。嬉しいお誘いです』
思っていたより早い返信に、帆波の頬も緩む。続けて、今度はカラオケへ行かないかと尋ねると、ほどなく画面に新しい文が現れた。
『ふふ。密談にはうってつけの場所ですね』
『遊びに誘ったんだけどなあ』
『存じております。楽しみにしていますね』
文字だけでも、あの落ち着いた声が聞こえるようだった。帆波は笑いながら都合のよい時間を送り、返ってきた候補と自分の予定を見比べた。仕事に行く時間も、家族と過ごす時間も欲しかった。その中に、坂柳と会うための時間を自分で選んで入れることに、ためらいはなかった。
約束の日、カラオケルームへ入ると、廊下から聞こえていた別の部屋の歌声が扉の向こうへ遠ざかった。壁や座席が音を吸う室内では、自分たちの声まで少し近く感じられる。正面の画面には曲の案内が流れ、低い机の上には、まだ誰も手を伸ばしていないマイクが二本並んでいた。
坂柳は杖を傍らへ置き、ソファへ腰を下ろした。淡い髪が肩のあたりで揺れ、帽子の縁に隠れていた目が帆波へ向く。帆波も隣に少し間を空けて座り、鞄を足元へ収めた。
「来てくれてありがとう、坂柳さん」
「こちらこそ、お誘いありがとうございます。一之瀬さんからご連絡をいただけて、嬉しかったです」
「私から誘うって言ったからね」
「ええ。ですから、お待ちしておりました」
「そんなに待たせちゃった?」
「さて、どうでしょう」
坂柳は微笑んだまま、机の上の選曲端末へ目を向けた。責められているわけではないと分かる声だったので、帆波も笑って端末を取る。
「坂柳さんって、普段カラオケ来る?」
「頻繁には参りませんね」
「じゃあ、何を歌うのか、ちょっと気になるかも」
「先に一之瀬さんのお手本を拝見してから、考えようかと」
「ええ、最初からそう来るんだ」
「誘ってくださった方に、お任せしてはいけませんか?」
困った顔をしてみせると、坂柳の笑みが少し深くなった。帆波は画面に並んだ曲を眺めたが、隣から次に何を言われるかも気になって、すぐには選べなかった。
「先日の試験も、無事に終わられたそうですね」
「うん。最後はちょっと話が長くなったけど、終わったよ」
「退学者を出さずに、50クラスポイント。神崎さんも、一つ区切りがついたことでしょう」
「そうだね。終わったあとも、浜口くんたちと話してた」
あの日の教室で、神崎の周りへ人が集まっていた様子を思い出した。帆波が席を立ってからも、彼らの会話は続いていたはずだった。何をどこまで決めたのかは、聞いていない。
「一之瀬さんは?」
「私? 終わってよかったなって。投票して待ってる間は、ほかのこともできないし」
「そのお時間が、惜しかったのですね」
「うん。話し合いが必要なのは分かるけどね」
帆波が答えると、坂柳は静かに頷いた。そこから、もっとクラスに関わった方がよいと勧められることはなかった。彼女は机へ置かれたままの端末を一度見て、帆波へ視線を戻す。
「ですが、今日のお時間はいただいてよろしいのですか?」
「もちろん。坂柳さんと遊びたくて誘ったんだもん」
坂柳が、ほんの少しだけ口を閉じた。
何かおかしなことを言っただろうかと顔を見ると、彼女は目元を和らげた。帆波が返事を待っていることにも気づいたらしく、ゆっくりと頷く。
「それは、光栄です」
「そんなに改まらなくてもいいのに」
「嬉しいときくらい、素直に申し上げてもよいでしょう?」
「うん。それなら、私も嬉しい」
坂柳は視線を落とし、飲み物のグラスへ指を添えた。帆波も端末を机へ置く。曲はまだ決まっていなかったが、急いで音楽を流さなくても、部屋の静けさは気にならなかった。
「坂柳さんのお父さんも、こういう話し方するよね」
「こういう、と申しますと?」
「相手の話を聞いてから、ちゃんと返してくれる感じ。言葉を選んでるのは分かるけど、話しづらくはないっていうか」
「父が伺えば、喜ぶと思います」
「お仕事で会ったとき、私も少し緊張してたから。話しやすくしてくれてたんだと思う」
臨海支部で向かい合ったときの、理事長の穏やかな表情が浮かんだ。エースがそばにいてくれた安心も、大きかった。自分一人で迎えていたら、最初の返事からもっと硬くなっていただろう。
「お父さんだけじゃなくて、おじいさんも、理事長だったんだよね?」
「ええ。祖父も、この学校の運営に携わっておりました。父の成守が、そのあとを継いでおります」
「代々、教育の仕事なんだ」
「ありがたいことに、そうした役目に関わる機会をいただいてきた家ではありますね」
坂柳は、殊更に誇る調子ではなく答えた。それでも、自分の家について話す声には迷いがない。帆波はグラスを置き、彼女の方へ身体を向けた。
「そういう家で育つと、やっぱり、勉強とか才能とか、いろいろ考えるの?」
「考える機会は、多かったと思います。ただ、教育に関わる家に生まれたからといって、教育ですべてが決まると思っているわけではありませんよ」
「最初から得意なこととか、そういうの?」
「ええ。人には、生まれ持った資質があります。同じものを与え、同じだけ時間を掛ければ、誰もが同じところへ辿り着くとは思っておりません」
穏やかな声だった。相手の反応に合わせて弱めるつもりのない言葉だと、帆波にも分かった。
「じゃあ、教えるのは、持ってるものを使えるようにするため?」
「それも、大切な役割でしょうね。よい楽器でも、扱い方を知らなければ、望む音は出せませんから」
「でも、楽器によって、出せる音が違う?」
「私は、そう考えています」
坂柳が頷いた。帆波はその指先へ目を落とした。グラスを持つ手は小さく、傍らには杖がある。今の話を、目の前の彼女自身にも当てはめているのだろうかと思ったが、すぐに尋ねることはしなかった。
自分の身体に起きたことを考えると、生まれつきのものがあるという話は遠くなかった。知らないまま過ごしてきた血が、あの雪の森で力になった。それでも、今できることのすべてを、最初から分かっていたわけではない。
「私は、教えてもらえてよかったこと、たくさんあるよ」
「お仕事先で、ですか?」
「うん。できることが増えても、どう使えばいいか分からないことってあるから」
エースが目の前で見本を示す姿を思い出す。あれほどの速さで動き、正確に力を通し、それでいて、終わればいつもの声でこちらへ話しかける。自分の身体は思ったとおりに動くようになったが、彼を見ていて覚えたいことは減らなかった。
「教えてくれる人が、すごいんだよね」
「先日も、頼りにしていると仰っていましたね」
「うん。すごく頼りにしてる」
口にすると、会いたい気持ちまで少し強くなった。できるようになったことを見てほしいし、まだ知らないことも教わりたい。仕事を一人で任せられるようになるのは嬉しくても、そのために一緒にいられる時間が減るのは嫌だった。
坂柳は帆波の顔を見ていたが、その人について、詳しく説明するよう求めはしなかった。
「一之瀬さんが、教わったことを喜んでいらっしゃるのは、分かります」
「そんなに分かりやすい?」
「ええ。少なくとも、試験についてお話しされていたときよりは」
「それは、そうかも」
帆波が笑うと、坂柳も小さく笑った。声が収まったあと、彼女の視線が帆波の額へ移る。前髪の下に隠れたものを思い出しているのだと、今度も分かった。
「……一之瀬さん。お願いしても、よろしいでしょうか」
「うん。何?」
「以前、臨海支部で見せていただいたお姿を、もう一度拝見したいのですが」
「鬼になったときの?」
「はい。もし、許されるのでしたら」
帆波は頷きかけてから、いったん周囲へ目を向けた。個室に入ったから、何でもしてよいわけではない。見せてよい相手と、扱ってよい範囲について、支部で教わったことを思い返す。秘密保持の決まりを守れることを確かめてから、坂柳へ向き直った。
「いいよ。坂柳さんが見たいって言ってくれるの、嬉しいし」
「ありがとうございます」
「そんなにちゃんとお礼を言われると、ちょっと緊張するなあ」
「緊張なさるのですか?」
「変身する方じゃなくて、見られる方」
坂柳の口元が緩んだ。それを見て、帆波も笑いながら額の髪を指で分ける。
そうしようと思えば、身体はすぐに応じた。額の右側で角が伸び、黒く艶を帯びていく。胸元から広がった肌の色が首を上り、頬へ届く一方で、袖の先に出た手も、手首から順に深い褐色へ変わっていった。指先まで色が満ちるころには、変化は終わっていた。
伸ばした手を一度返してから、帆波は坂柳を見る。
「どうかな?」
坂柳はすぐには答えなかった。額から頬へ、そして机のそばに置かれた帆波の手へと、ゆっくり視線を移している。
画面の光を受けるたび、黒い角の表面に細い明るさが走った。肩へ流れるストロベリーブロンドの髪は、褐色になった首元に触れ、いつもより淡く見える。帆波が膝へ手を戻すと、白いプリーツスカートの上で、指の輪郭がはっきりと浮かんだ。赤いブレザーも同じ服のままなのに、袖口から覗く肌の色が変わるだけで、見慣れた制服まで違って感じられた。
「……やはり、見事ですね」
「前と同じだよ?」
「ええ。ですが、改めて拝見しても、そう思います」
坂柳の目が戻ってきた。いつもの微笑みは少し薄くなっていて、その分だけ、真剣に見ていることが分かった。
「美しい、という言葉だけでは、少々足りませんね」
「そんなに褒められると、何て返したらいいか分からないよ」
「そのままでいてくだされば、十分です」
帆波は思わず笑った。坂柳は、その笑顔まで確かめるように見ている。怖がっている様子はなく、距離を取りたがってもいなかった。
この姿でいる自分を、好んで見てくれる。それが嬉しくて、帆波は少しだけ坂柳の方へ顔を傾けた。
「変わって見える?」
「見た目のお話でしたら、とても。お話ししていると、一之瀬さんのままですが」
「うん。私のままだよ」
「それは、よく分かります」
坂柳は頷き、帆波の目を見たまま微笑んだ。
「今も、照れていらっしゃいますし」
「だって、そんなにじっと見られたら」
「失礼いたしました」
「謝らなくていいよ。見せるって言ったの、私なんだから」
坂柳が口元へ手を添えた。隠しきれなかった笑みを見つけて、帆波も笑った。姿が変わっても、こうして同じ会話が続くのが心地よかった。
やがて帆波は、戻ろうと意識した。指先から肌の色が元へ戻り、手首へ、袖の内側へと変化が進んでいく。顔にいつもの色が戻るのに合わせ、角も短くなった。前髪を整えて坂柳を見ると、彼女はまだ、先ほど角の伸びていたあたりを見ていた。
「もう少し見てたかった?」
「ええ、と申し上げたら、欲張りでしょうか」
「また見せられるときなら、いいよ」
「では、楽しみにしております」
帆波は頷き、飲み物へ手を伸ばした。グラスを持つ指は、もう見慣れた色に戻っている。坂柳も自分の手元へ一度目を落とし、それから静かに息をついた。
「やはり、私の知る才能の枠だけでは、語れませんね」
「坂柳さんでも、分からないことあるんだ」
「もちろんです。知っていることだけで世の中を説明できると思うほど、傲慢ではありませんよ」
「今の、ちょっと自信ありそうな言い方だったけど」
「自分の考えに自信を持つことと、知らないものがないと思うことは、別ですから」
返事が淀みなく戻ってきて、帆波は笑った。そういうところが面白いのだと思う。少しからかっても、坂柳は困った顔をするだけでは終わらない。次の言葉を聞きたくなる。
「じゃあ、分からないことが増えちゃったね」
「ええ。ですから、今日お会いできてよかったと思っています」
「私を見て、ずっと考えてたの?」
「ずっと、というほどではありませんが。……少しは」
「少し、なんだ」
坂柳が目を細めた。帆波は追及する代わりに、机へ置いたままになっていた選曲端末を取った。
「じゃあ、今度は私から、知らないこと聞いてもいい?」
「どうぞ」
「坂柳さん、どんな歌が好き?」
坂柳は端末を見て、それから、並んだままの二本のマイクへ視線を移した。
「ずいぶん、話が変わりましたね」
「遊びに来たんだよ、私たち」
「それは、そうでした」
声に笑いが混じった。帆波が端末を二人の間へ寄せると、坂柳も少し顔を近づけた。画面に並ぶ曲の中から、知っているものを互いに挙げていく。同じ曲を知っていても、どこで聞いたかは違い、片方だけが覚えている歌もあった。
「これは?」
「存じていますが、歌えるかどうかは別ですね」
「分かる。聞いたことあるのに、途中から分からなくなるんだよね」
「でしたら、一之瀬さんに補っていただきましょうか」
「私も分からなくなったら?」
「そのときは、ご一緒に考えましょう」
帆波は笑って、一つの曲を選んだ。差し出したマイクを、坂柳が受け取る。もう一本を自分の手に取ると、画面の案内が切り替わり、室内に前奏が流れ始めた。
最初の言葉が出る少し前に、隣から視線を感じた。顔を向けると、坂柳がマイクを手に微笑んでいる。
「お手本、よろしくお願いいたします」
「まだ言うんだ、それ」
笑ったせいで、帆波は歌い出しを少し逃した。隣で坂柳も笑い、二人は揃って画面へ向き直った。
この段階のほなみちゃんは、ようするに人当たりがいい高円寺です。
超優秀だけどクラス競争に興味がない。学校にいる理由は親。自分の好きにやる。
人当たりがよかったら高円寺じゃない?それはそう。