地下へ降りるにつれ、四月の暖かさは階段の上へ取り残されていった。地中は外気ほど急には温まらず、壁面から染み出した水が、照明の途絶えた踊り場に冷たい光を溜めている。階段の先には、もう列車の来ない駅があった。錆びた線路、剥がれた案内板、天井から垂れ下がる配線。その奥で、崩れたコンクリートの隙間を押し広げるように、古い石の鳥居が立っていた。
帆波は足元の水を避け、エースの隣へ並んだ。食堂を出てからここへ着くまで、胸に残っていた明るい期待は薄れていない。医務室で聞いた話を忘れたわけではなかったが、自分にできることは、こうして仕事を重ねていくことだった。そして今日は、その仕事にエースと一緒に来られた。
「この前と、入り口の様子が少し違いますね」
「周りの崩れ方は変わる。足場は覚えていても、そのまま使えるとは思わない方がいい」
「はい。ちゃんと見ます」
答えながら、帆波は鳥居の根元へ視線を落とした。泥に埋もれた石材の脇には、前に見たときにはなかった亀裂が走っている。教わったことを一つ確かめられたのが嬉しくて、隣を見上げると、エースはすでに門の向こうへ注意を向けていた。その横顔を見るだけで、知らない場所へ踏み込む心細さが和らいでいく。
彼がいれば大丈夫だと、身体のどこかが先に知っている。その感覚に甘えていることも、帆波には分かっていた。
鳥居をくぐると、濡れたコンクリートの匂いが消えた。
代わって鼻に触れたのは、乾いた土と古い錆、それに血を思わせる重い匂いだった。冷たい空気を吸い込んだはずなのに、喉の奥へ熱の名残が貼りつく。振り返れば、門の向こうには崩れた駅のホームがある。それなのに、足元から先へ続くのは、煤けた土壁と傾いた石碑に挟まれた道だった。石の天井が覆っている場所もあれば、その高さすら分からない薄闇へ抜けている場所もある。光源の見当たらない赤褐色の明かりが、遠くの武具の山を照らしていた。
以前ここで覚えた身体の使い方を、帆波は今もはっきりと思い出せた。腕を振るい、脚を運び、一度の動きで終わらずに次の攻撃へつなげていく感覚。学校の体育館では決して得られない手応えが、この暗い土地には残っている。
「今日は、どこまで私がやっていいですか?」
「道中は今までどおりだ。周りも見ること。前だけ追って足を止めるなよ」
「分かりました」
帆波は明るく頷いた。注意を受けることさえ、少し嬉しかった。エースが自分を見て、今の自分に必要な言葉を選んでくれる。その時間を、まだ手放したくなかった。
沼地の縁で最初の兵士が起き上がったとき、帆波はもう間合いへ入っていた。
朽ちた鎧の下から突き出した腕が、錆びた刃を横へ払う。彼女はその先端を半歩で外し、濡れた土を踏み抜かない位置へ足を置いて、相手の胸へ拳を送った。肘を伸ばしきる前に身体の重みが乗り、鎧の内側が潰れる。倒れかかった兵士の肩を押して進路から退けると、すぐ後ろにいたもう一体の剣が視界へ入った。
今度は避ける距離を取らず、腕の内側へ踏み込んだ。振り下ろされる刃より先に前腕へ触れ、その軌道を肩の外へずらす。反対の手を顎へ打ち込むと、兵士は首を反らして後方へ飛んだ。泥の上へ落ちるより早く、その輪郭が黒く崩れていく。
帆波は息を吐き、振り返った。
横手の沼から上がりかけていた別の影は、すでにエースの足元で消え始めていた。帆波が正面の二体へ向かった間に、彼が回り込む敵を処理してくれていたのだ。
「ありがとうございます」
「次がいる」
「はいっ」
返事を終える前に、帆波は次の一体へ走った。踏み出すたび、長い髪が背を離れて流れる。足場の悪さに合わせて歩幅を縮めることも、打ち込んだ拳をすぐに戻すことも、以前ほど意識せずにできるようになっていた。
錆びた剣が脇腹へ届いたこともあった。別の敵へ向き直る途中、刃の腹が衣服越しに身体を打ったが、姿勢は崩れなかった。鎧の下にあった腕の方が衝撃を受け、兵士の肘が不自然な向きへ折れる。帆波は触れられた場所へ一度目を落とし、そのまま相手の懐へ入って討ち倒した。
強くなっている。
それは検査の結果や、誰かの評価よりも分かりやすかった。前は身を固くして受けていた攻撃を、今は歩き方を変える程度で避けられる。避け損ねても、すべてが傷になるわけではない。倒した相手の向こうに次の敵が見えると、怖さよりも先に、自分ならどう動けるだろうという楽しみが湧いた。
崩れかけた石室を抜けると、通路は少し広くなった。壁の裾に骨が溜まり、その間へ古い槍の穂先や割れた兜が埋まっている。乾いた泥に半ば飲まれた布には、かつて袖だったらしい縫い目があった。赤黒い染みが重なる一角では、棍棒を持った巨体が背を丸め、足元にある何かを押し潰していた。
帆波が近づくと、それが顔を上げた。
持ち上がった棍棒が土壁の明かりを遮る。彼女は振り下ろされる位置を見て、前へ進む速さを変えなかった。武器が頭上から落ち始める直前に斜めへ跳び、地面へ叩きつけられた棍棒の脇を駆け上がるように懐へ潜る。拳を続けて打ち込み、相手が腕を戻す動きに合わせて横へ抜けた。
背後から来た兵士をエースが止める。そのわずかな間に帆波はもう一度踏み込み、重い肉体を石壁へ押しつけた。
戦いが終わってから、頬に土がついていることに気づいた。手の甲で拭うと、指先が少し黒くなる。エースに見られていると思うと照れたが、胸の中は明るかった。
「今の、最後に足が止まりました?」
「少しな。打ち終わったところで、相手が倒れるか見ようとした」
「……見てました」
「倒れなかったときの場所を先に取ればいい」
「はい。次は、そこまで続けます」
頷くと、エースも短く頷いた。その反応を見た帆波は、もう一度同じ相手と戦って試したくなった。教えられたことを身体で確かめ、できたところを見てもらいたい。次も一緒に来たいし、その次も、隣で教わっていたかった。
けれど、医務室で聞いた言葉は、その願いのすぐそばにあった。
これから、エースが同行できない仕事も増えるかもしれない。
彼がいないと何もできないままでは、困る。分かっているつもりだったそのことが、前へ進むにつれて少しずつ、具体的な重さを持ち始めていた。
最奥の石扉は、わずかに開いていた。
隙間から流れ出す風は乾いており、低く重なった響きを運んでくる。大勢の声が遠いところで一つに潰されたような、耳よりも胸で受ける音だった。帆波は扉へ触れる前に足を止め、エースを振り返った。
「エースさん。最後は、私一人で戦わせてもらえませんか」
彼の目が帆波へ向いた。
「中の相手と?」
「はい。周りに出てくるのも、自分で対処します」
口にすると、思っていたより胸が高鳴った。頼みたいことは、ここまで歩いてくる間に決まっていた。それでも、彼から助けてもらえる戦いと、本当に自分だけで引き受ける戦いの間には、足元の見えない溝がある。
「もっと強くなりたいんです。エースさんがいてくれると、すごく安心しますけど……それで見なくて済んでいるところも、あると思うので」
エースはすぐには答えなかった。石扉の向こうを確かめ、それから帆波の足元と両腕へ目を向けた。ここまでの疲れを見られているのだと分かり、彼女は呼吸を落ち着けた。無理を隠そうとは思わなかった。隠したところで、この人には見つかってしまう気がした。
「分かった」
その一言に、帆波の表情が明るくなる。
「ただし、一人でやるなら途中で都合よく助けが来るとは考えるな。怪我をしたから、倒れたからで俺は入らない。文字どおり、死ぬ直前までは手を出さない。それでもやるか」
帆波は石扉へ視線を戻した。風の向こうにいる相手を、まだ見ていない。その攻撃を受ければ、ここまでの兵士たちとは違う傷を負うかもしれない。
それでも、やめたいとは思わなかった。
「はい。お願いします」
エースの前で頷くと、胸の奥が熱くなった。許してもらえた喜びだけではなかった。自分から望んで、これからあの扉を開ける。そのことが、帆波には嬉しかった。
「終わるまで見ていますから」
そう言いかけて、帆波は自分で気づいて笑った。
「……違いますね。見ていてください」
「ああ」
その返事を受け取ってから、彼女は石扉へ手をかけた。
広い玄室の中央に、古代の武人"妖鬼モムノフ"が座っていた。
頭の両脇で髪を束ねた、美豆良と呼ばれる髪型だった。露わになった額の下には太い眉が張り、引き結ばれた口元まで、彫りの深い顔には隙がない。胸から腹を包む甲冑は硬質な曲面を連ね、肩や腰を守る具足も、身体の動きに沿って重なるように作られていた。壁際の明かりがその縁を鈍く照らすたび、丸みを帯びた装甲の厚さが浮かび上がる。右手には、その身の丈ほどもある長槍が握られていた。
妖鬼モムノフが立ち上がると、膝を覆っていた具足が滑り、腰の装甲が静かに収まった。
槍の石突を床から離し、穂先を帆波へ向ける。それだけの動きに、余分な揺れがなかった。両足の間隔も、柄を支える手の位置も、相手を迎えるために必要なところへ初めから置かれている。大きな身体を誇示するでもなく、武者はまっすぐに彼女を見据えた。
帆波は肩から力を抜いた。エースは扉の近くにいる。すぐに顔を向けたくなったが、それをしないまま、自分から距離を詰めた。
穂先が動いたのは、その一歩に足が乗り切る前だった。
喉元へ伸びてきた槍を、帆波は首と肩をずらしてかわした。頬のそばを硬い風が抜ける。そのまま柄の横へ入ろうとすると、武者の後ろ手が引かれ、戻ってきた穂先が彼女の進路を塞いだ。踏み込みを浅くして身を引いたところへ、今度は低い突きが腹を狙ってくる。
帆波は横へ跳び、着地した足で床を押した。二度目の踏み込みでようやく長い柄の内側へ入り、武者の脇へ拳を打ち込む。甲冑を通して確かな手応えがあったのに、相手の身体はほとんど動かなかった。手首から肘へ硬い反動が返り、握った拳の奥が痺れる。
拳を戻す間に、槍の柄が胸元へ押し出された。帆波は掌を添えて身体を逃がし、その端を肩の外へ流す。空いた顔の横へ反対の掌底を送ると、武者の頭部は傾いたが、足はその場を離れなかった。
硬い甲冑を着ているだけではなかった。狙った場所へ身体の重さを乗せても、打撃そのものを浅いところで受け止められてしまう。顔へ入れた一撃まで同じように鈍る感触に、帆波は唇を軽く開き、息を吐いた。
モムノフが槍を引く。彼女は後退する代わりに腕の下へ潜り、柄を支える肘を斜め下から打ち上げた。穂先が浮いた間に軸足へ蹴りを差し込み、膝を外へ折ろうとする。姿勢は崩れたが、武者は一歩を踏み直すだけで身体を支えた。
次の瞬間、短く持ち替えられた柄が帆波の肩へ届いた。
衝撃に逆らわず身体を回し、踏み直した足で床を捉える。服の下に傷はない。それでも、骨の内側まで押されたような重さが肩に残った。兵士の剣を受けたときにはなかった感触だった。
速さは自分の方が上だった。近くへ入ってから身体を入れ替える動きも、こちらの方が細かく使える。けれど、一撃の重さと、打たれてなお構えを保つ力では、目の前の武者が勝っていた。槍が作る間合いも長く、離れれば安全というわけではない。
帆波は口元を緩めた。
穂先を外し、戻されるより早く内側へ踏み込む。今度は同じ脇腹へ続けて拳を重ねた。一度で動かないなら、腕が戻る前に二度打つ。腰をひねって三度目を送ると、武者の息がわずかに詰まり、柄を押し返す動きが遅れた。
通らないわけではない。その手応えを確かめた瞬間、玄室の暗がりから別の刃が伸びた。
帆波は足を引いた。錆びた剣が腿の前を通り過ぎる。モムノフの向こう側から、鎧をまとった兵士たちが出てきていた。
いつもなら、そちらはエースが止めてくれる。
身体が先にそのつもりで動こうとしていたことに気づき、すぐに向きを変えた。踏み込んできた兵士の手首を掴み、引き寄せた肩へ膝を打ち込む。崩れた身体を武者との間へ押し出すと、背後から伸びた槍がその鎧を貫いた。黒く崩れ始めた兵士の胸から、穂先がさらに帆波へ迫る。
横へ抜けた彼女の上腕を、刃の縁がかすめた。熱が走ったが、皮膚は裂けていない。自分の身体の強さに助けられたと確かめる間もなく、別の兵士へ踵を送り、追ってくる槍から距離を取った。
息が深くなる。玄室は十分に広いはずなのに、敵を自分だけで見ようとすると、使える場所が急に狭くなった。兵士の背後へ抜ければ槍が待ち、穂先の外へ逃げようとすれば、横から来る剣が足を止めようとする。
エースは、いつもこれを見てくれていたのだ。
自分が目の前の相手へ夢中になる間に、横から来るものを止め、背後を空け、次に動ける場所を残してくれていた。声をかけられなかったときでさえ、そこには彼の仕事があった。ありがとうございます、と胸の内で呟きながら、帆波は兵士の肩越しに武者の手元を見た。
モムノフは追ってこなかった。
槍を腰の横へ引きつけ、両足で床を踏み締めている。先ほどまでなら、こちらが兵士を相手にしている隙へ突きを差し込んできた。それが今は、穂先を向けたまま動かない。甲冑の下で胸が膨らみ、柄を握る指がゆっくりと締まった。
何かをするつもりだと分かった。
帆波は兵士の腕を払い、身体ごと押し退けて進路を空けた。その瞬間、モムノフの前足が床を踏み抜く勢いで出た。腰の横に引かれていた槍が、肩と腕の動きにつながって真っすぐ伸びる。
彼女は横へ身を投げた。腹を狙っていた穂先が服の脇をかすめ、背後の石壁へ突き立つ。砕けた石の欠片が髪へ降りかかり、遅れて届いた振動が足裏を揺らした。
先ほどまでの突きとは、重さが違った。
帆波が着地して振り向くより早く、武者は壁から槍を引き抜いていた。ただ、次の構えへ戻るまでには隙がある。大きく踏み込んだ脚と伸ばし切った腕を引き戻す、その短い間へ帆波は走った。
脇腹へ拳を入れ、顔へ掌底を重ねる。武者が柄を立てて押し返そうとしたところで膝を蹴り、さらに胸へ一撃を送った。硬い身体はなお衝撃を受け止めたが、今度は後ろ足が滑った。帆波はそのわずかな後退に胸を弾ませ、追撃の前に横から来た兵士へ向き直った。
どれほど打ち合ったのか、もう正確には分からなかった。
モムノフの甲冑には拳の跡が残り、脇から胸へかけて細い亀裂が走っていた。片側の肩当ては縁が欠け、槍を引くときの肘にも、初めにはなかった遅れがある。それでも武者は構えを崩さず、近づけば柄で押し返し、離れれば穂先で追ってきた。
帆波の方にも、受けた衝撃が残っていた。肩は重く、脇腹には呼吸を深めると痛む場所がある。兵士を蹴り倒した直後に柄の横薙ぎを受け、腕ごと身体を押し流された。床へ触れた手で体重を支え、脚を振って立ち直ったが、握った指先には痺れがあった。
それでも、足は動いた。突きが届く前に身体をずらし、長い柄に沿うように内側へ潜り込む。正面から押せないなら横へ、横を塞がれればさらに近くへ入る。穂先を追い越して懐へ届くたび、胸が弾んだ。さっきより深く拳が入れば、もっと嬉しかった。
「……まだ、いけます」
エースへ助けを求める言葉ではなかった。吐いた息に、自分の声が混じっていた。
兵士の剣を腕で払い、その胸を蹴って後ろへ押し出す。倒れる一体の向こうで、モムノフが再び腰を落とした。槍を引きつけ、踏み締めた足へ力を集めている。帆波はその構えを見ながら、横から迫るもう一体の手首を掴んだ。
止めるなら、今だった。
兵士を引き倒し、武者へ向かって床を蹴る。こちらから間合いを潰せば、長い槍を伸ばし切らせずに済む。そう思ったときには、モムノフの前足がもう動き始めていた。
帆波は踏み込む向きを変えた。胸を貫く線から身体を外し、伸びてくる柄の横へ入ろうとする。けれど、傷んだ肩を引く動きがわずかに遅れた。穂先の縁が肩口から上腕へ届き、今度は皮膚を裂いた。
鮮血が、赤褐色の明かりの中へ細い弧を描く。槍に押された身体を着地した脚で受け止め、膝を曲げて足を踏み直すと、傷口から流れた血が指先へ届いた。焼けるような痛みが腕を伝い、肩の奥まで食い込んでいる。
帆波は傷を一度だけ見て、すぐに顔を上げた。
避け切れなかった。あれだけ力を溜めた突きなら、自分の身体にも刃が通る。その事実を確かめながら、瞳には隠しようのない喜びが満ちていた。息が弾み、口元が自然に開く。痛みを消してほしいとも、同じ傷をもう一度受けたいとも思わない。ただ、あの穂先を外し、硬い身体へ手を届かせようとした瞬間の高鳴りが、まだ胸から消えなかった。
「あはっ……すごい」
自分の声が、思っていたより明るかった。
まだ動けるし、まだ戦いたい。次はあの突きを抜けられる。踏み込む足も、槍を送り出す肩も、さっきよりよく見ていた。傷ついた腕を戻しながら、もっと深く打ち込むための動きを思い描くと、心臓がひときわ強く跳ねた。
次の拍動とともに、胸の奥へ溜まっていた熱が一斉に広がった。
背骨の内側を駆け上がり、肩から両腕へ、腰から爪先へと巡っていく。息を吸い込んだ胸が大きく開き、それまで身体に残っていた重さの向こうから、さらに深いところにある力がせり上がった。帆波は足を踏み直しかけ、その動きが思っていたよりずっと軽いことに気づいた。
額の右側に、鋭い圧力が集まる。
前髪の陰にあった小さな角が、内側から押し出されていった。根元の皮膚が引きつれ、髪が持ち上がる。淡い色の表面は伸びるそばから黒く染まり、一本の角が額の右側から突き出した。十センチほどに達した漆黒の曲面が、玄室の明かりを硬く照り返した。
帆波は、迫ってくる穂先を見ていた。
先ほどまでなら、すぐに足を動かさなければ間に合わなかった。その突きの始まりから終わりまでが、今は余裕をもって見渡せる。後ろ手が柄を押し、前の手が狙いを定め、脚が床を押す。肩の具足が滑るわずかな動きも、その下で肘が伸びる順序も、一つにつながって見えていた。
目だけではなかった。穂先が押しのけた空気を頬に感じたときには、足が望んだ場所へ動いていた。力を集める必要がない。わずかに床を押すだけで、身体が軽く運ばれる。
帆波は腰を引き、肩を傾けた。槍の穂先がすぐ脇を通り過ぎる。ほんの少し前まで、全身を使って飛び退かなければならなかった一撃を、今は髪の先を揺らされるだけで外していた。
避けた足を、そのまま前へ置く。伸びた腕へ手を添えると、甲冑の縁が指の下で歪んだ。
帆波は目を見開いた。強く握ったつもりはなかった。拳を作る前から、手の中に力が満ちている。何度も肩を押し戻してきた相手の腕を、自分の手で動かせる。その手応えが、皮膚の下から鮮明に伝わってきた。
「……見える」
呟いた声は、いつもの自分の声だった。
熱に呑まれて意識が遠のくことはなかった。どこに立ち、何と戦い、横から何が近づいてくるのかも分かっている。傷ついた腕は痛い。それも分かったうえで、帆波は笑っていた。
胸の奥は燃えるように熱かったが、その力をどう使うかは自分で決められた。手を離そうと思えば指が開き、半歩だけ動こうと思えば、その場所で足が止まる。ずっと自分の中にあったものへ、ようやく手が届いたようだった。
これも、私なんだ。
その感覚はあまりにも自然で、疑おうという気持ちすら湧かなかった。
横から兵士が斬りかかってくる。帆波は武者の腕から手を離し、振り向きながら刃を外した。伸びた腕の内側へ掌を滑り込ませ、胸へ触れる直前に脚と腰をつなぐ。兵士の身体が床を離れ、後ろの一体を巻き込んで壁際へ飛んだ。
二体が黒く崩れる、その間にもモムノフの姿は視野から消えていなかった。引き戻した槍を構え直し、こちらへ穂先を向けている。帆波は長い髪を背へ流し、ゆっくりと顔を上げた。
額の右側では漆黒の角が前髪を押し分けていた。頬に浮かぶのは、戦う前と変わらない明るい笑みだったが、足裏で床を捉える感覚には、先ほどまでにない確かさがあった。
武者が腰を落とした。槍を引きつけ、両足を踏み締める。力を溜めるあの構えを前に、帆波はもう後ろへ逃れる場所を探してはいなかった。
相手が動くのを待つ間に、胸の高鳴りが深くなっていく。さっきは避け切れなかった一撃だった。今なら、その穂先を見たまま内側へ入れる。何度打っても立ち続けた身体へ、今の自分の力を届かせられる。
モムノフの足が床を蹴ったところで、帆波も前へ出た。
槍が真っすぐに伸びる。その軌道へ入る寸前に肩をずらし、柄の横を駆け抜けた。穂先が背後へ過ぎていく風を感じながら、武者の開いた脇へ目を向ける。何度も拳を重ねた場所だった。甲冑には胸へつながる亀裂が走り、その下の身体が大きな突きを支えている。
帆波は指を揃え、手首を整えた。覚えていた連撃の感覚が、変わった肉体の中で迷いなくつながる。踏み込む脚から腰へ、腰から肩へと力を通し、手の外縁を武者の脇へ走らせた。
甲冑が裂けた。
これまで拳を押し返していた身体にも、手の縁が深く沈んでいた。硬い抵抗は確かにある。それを感じながらなお腕を振り抜けることに、帆波の胸が弾んだ。武者が槍を引き戻すより早く踏み込みを重ね、反対の手を斜め下から送る。
二つの切断面が胸の亀裂で交わり、相手の上体が傾いた。前へ出ていた脚が身体を支えようと踏ん張るが、もう間に合わない。その崩れ方まで見ながら、帆波は倒れてくる身体の外へ足を運んだ。
腰の回転を追って長い髪が広がる。開いた切れ目へ最後の手刀を通すと、武者の胴が断ち分かれ、槍を握った腕が下へ落ちていった。
モムノフは、穂先を彼女へ戻せなかった。
精悍な顔が視線の高さから落ち、傾いた甲冑の内側から黒い粒子が溢れる。長槍も床へ届く前に輪郭を失い、柄を握っていた指とともに暗がりへほどけていった。
帆波はその場に足を止めず、横へ向き直った。
残っていた兵士の刃をかわし、胸へ拳を打ち込む。もう一体が暗がりから出てくるのを見て、倒れた相手の向こうへ踏み込んだ。終わったと思って目を止める癖を、今日は注意されたばかりだった。最後まで、自分で見て終わらせたかった。
その影も黒くほどけたところで、ようやく構えを解いた。
玄室には、舞い上がった土埃だけが残っていた。槍が風を切る音も、具足を揺らす足取りも消えている。胸の熱はまだ強く、呼吸も速かったが、次の敵を探したいとは思わなかった。
帆波は手を開き、血の伝う腕を確かめた。痛みは残っている。それでも、何度打っても揺らがなかった武者を、自分の手で打ち倒した感触が、指先から全身へ満ちていた。細く息を吐くと、頬がまた自然に緩んだ。
「一之瀬」
呼ばれて振り返った瞬間、笑顔がいっそう明るくなった。
エースがこちらへ歩いてくる。扉のそばで見守っていた彼の姿が近づくと、張りつめていた注意が少しずつ緩んだ。戦っている間、顔を向けずにいた分まで、今は彼を見ていたかった。
「エースさん。できました」
「ああ。最後の敵まで見ていたな」
「はい。途中は、何度も危なかったですけど」
帆波は笑って答えた。嬉しさのまま手を動かしたところで、腕の傷が引きつれた。今度は痛みがはっきりと意識へ上り、彼女は少し肘を曲げる。
エースの視線が、その腕へ移った。
「まず、傷を治そう。腕を見せてくれ」
「はい。お願いします」
差し出した自分の腕を見て、帆波は動きを止めた。
血が流れていることは、戦っているときから分かっていた。けれど、その下にある肌の色が違う。手の甲から手首へ、さらに腕へと続く色は、見慣れた自分のものよりもずっと深かった。
「……あれ?」
帆波は反対の手を持ち上げた。そちらも同じ色をしている。血や泥がついた場所だけではなかった。指を開き、手のひらを返してみても、滑らかな肌は浅黒い褐色へ変わっていた。
「エースさん、私、肌の色が」
「変わっている。顔も腕と同じだ」
返ってきた声は落ち着いていた。
帆波が顔を上げると、エースは額の辺りへ視線を向けた。
「角も大きくなっている。額の右側の一本が、十センチくらいだな。色は黒い」
「黒……?」
傷のない方の手で、前髪を持ち上げる。指先が、いつもより高い位置で硬いものに触れた。根元から先へ手を沿わせると、慣れ親しんだ小さな角では収まらない。確かめるために指を伸ばし、ようやく先端へ届いた。
「本当だ。こんなに……」
「髪は見たところ変わっていない。意識はどうだ」
「普通です。エースさんとお話ししてますし、戦っていたことも全部覚えてます」
「気分が悪いところは」
「ないです。怪我したところが痛いだけで……すごく、よく見えます」
帆波は玄室の奥へ視線を向けた。暗がりに沈んでいる石の欠け方まで、まだ鮮明だった。身体の中にも、戦いの最中に溢れた力が残っている。
「さっきから、身体もすごく軽くて。力を入れると、思っていたよりずっと動けるんです」
「分かった。今はそのまま、腕を動かさないでくれ」
「あ、はい」
帆波は慌てて手を下ろした。エースは傷ついた腕へ掌を近づける。そこに回復の力が集まると、切り裂かれた場所を中心に、柔らかな温もりが染み込んできた。
さっきまで胸で燃えていた熱とは違った。傷の奥に残っていた鋭い痛みが薄れ、引きつっていた皮膚が緩んでいく。開いていた傷口が寄り、血の流れが止まった。さらに力が巡ると、肩へ沈んでいた重さまで少しずつほどけていった。
帆波は息を吐いた。自分でも気づかないうちに、肘をかばっていたらしい。痛みが引くにつれ、強張っていた指が自然に開いた。
「ほかは」
「脇腹と、反対の肩が少し。あと、こっちの手が痺れてました」
尋ねられるままに答えると、エースは場所を確認しながら治療を続けた。モムノフと打ち合う間に積み重なっていた衝撃が、身体から抜けていく。帆波はその温かさを受け取りながら、彼の手元を見ていた。
死ぬ直前までは手を出さないと、エースは言った。
実際に、その約束を守ってくれた。けれど戦いが終われば、こうして真っ先に傷を見てくれる。それを当たり前だとは思いたくなかったのに、差し出した腕から温もりが広がると、胸の奥まで安心してしまった。
「ありがとうございます」
「痛みは残っているか」
帆波は腕をゆっくり曲げ、肩を動かした。深く息を吸っても、脇腹へ痛みは走らない。
「大丈夫です。もう痛くないです」
「ならいい」
エースが手を離す。帆波は治った腕を見つめ、それから自分の両手を並べてみた。傷はなくなったが、肌の色はまだ褐色のままだった。
「……私、本当に変わったんですね」
「ああ。外見も、動きも変わった」
「戦っているときは、肌のこと、全然気づきませんでした。角の辺りは熱かったんですけど、それより目の前がよく見えて」
指を握り、開く。手刀を走らせたときの感触は、まだ鮮明だった。硬い相手に何度も押し返されていた手が、その身体を断ち切った。思い出すと胸が弾み、帆波の口元がまた緩む。
「怖くはなかったです。変わっていくのも、自分の身体だって、ちゃんと分かっていて」
「無理に何かしようとはするなよ。今までと同じつもりで動くと、力を入れすぎるかもしれない」
「はい。さっき、相手の腕に触っただけで、鎧が曲がったので……気をつけます」
エースが短く頷いた。その表情も声も普段と変わらない。額から黒い角が伸び、肌の色まで変わった自分へ、いつものように必要なことを教えてくれる。
帆波は、彼の顔をもう少し見ていたくなった。
「エースさん、驚きませんでした?」
「変化したのは見ていた。動きは乱れていなかったし、こちらの声にも普通に答えている」
「そうですけど……」
帆波は角へ触れかけ、途中で手を止めた。
「私、自分では顔が見えないので。どんなふうになってるのかなって」
「支部へ戻れば見られる」
「はい。早く見てみたいです」
明るく答えてから、帆波は少し照れた。こんな場所で、戦いが終わったばかりなのに、自分の顔を見てみたいと話している。それでもエースは急かさず、彼女の呼吸が落ち着くのを待っていた。
玄室の土埃が徐々に沈んでいく。帆波も、もう戦いの構えを取ってはいなかった。足を自然に揃え、腕を下ろすと、胸に残っていた熱が少しずつ静まっていった。
「周りの敵を一人で見るの、大変でした」
「正面へ入り込みすぎると、戻る場所がなくなるからな」
「はい。いつもエースさんが止めてくれていたんだって、途中で分かりました。自分で見てるつもりだったんですけど、全然違いました」
彼と一緒に戦ってきた時間が、少し違う姿で思い返された。気持ちよく踏み込めた場所も、目の前の相手へ集中できた瞬間も、その外側を彼が支えてくれていた。
「いつも、ありがとうございます。今日、よく分かりました」
「今日の分は、自分でやっただろう」
「……はい」
帆波は目を細めた。
その言葉を、この人から聞きたかったのだと思った。誰にも手を借りずに戦ったことを、最後まで見ていたエースが認めてくれた。それが嬉しくて、胸の奥に温かいものが広がる。
「でも、これからも教えてくださいね。まだ、分からないことがいっぱいあるので」
「ああ。その身体のことも、戻って確認しよう」
「はい」
頷いたとき、額に残っていた重みがふっと軽くなった。
帆波は顔を上げた。角の根元へ集まっていた熱が引き、頭の奥まで澄んでいた感覚が、ゆっくりと馴染みのあるものへ戻っていく。玄室の奥に見えていた細かな石の輪郭が、再び薄闇へ溶け始めた。
手元へ視線を落とすと、褐色だった肌から深い色が退いていた。手首も、指先も、見慣れた自分の色へ変わっていく。何かをしようとしたわけではない。胸の高鳴りが収まり、エースと話しているうちに、身体の方が静かに元へ戻り始めていた。
「あ……」
帆波は額へ手を上げた。
指が触れたのは、いつもの小さな角だった。先ほどまで手を伸ばして確かめた長さはなく、前髪の下に隠れてしまう。鏡がなくても、その違いだけははっきり分かった。
「戻りました?」
エースが彼女の顔を確かめ、それから腕へ目を移した。
「角も肌も戻っている。さっきの見た目ではなくなった」
「本当だ……。私、何もしてないんですけど」
「今は、それでいい。戻せるか試すのは後にしよう」
「はい」
帆波はもう一度、自分の手を見た。腕を曲げ、指を動かしてみる。力が溢れていた感覚は退いていたが、疲れ切って立てなくなることはなかった。治療してもらった場所にも、痛みは戻っていない。
エースはその様子を確かめると、玄室の入り口へ身体を向けた。
「歩けるなら行こう。詳しい確認は支部でやる」
「はい。大丈夫です」
彼が先に歩き出す。
帆波は一瞬、その背中を見送った。黒い角も褐色の肌も、今はもう自分の身体にはない。それでも、あの剣をかわし、武者を断った感覚は残っている。知らなかった自分の姿を、最初に見たのはエースだった。そのことを思うと、なぜかまた嬉しくなった。
入り口へ向かう彼との間が少し開き、帆波は足を速めた。
「エースさん、待ってください」
振り返った彼へ笑いかけ、追いつく。石扉を抜けるところで肩を並べると、乾いた風が前髪を揺らした。いつもの小さな角に髪が触れる。その感触を確かめながら、帆波は隣を見上げた。
「帰ったら、今日の最後のところも教えてもらっていいですか。私、ちゃんとできていたか聞きたいです」
「ああ。順に話そう」
帆波は頷き、彼に続いて歩き始めた。強くなれたことも、一人で最後まで戦えたことも嬉しかった。けれど、帰り道でその話を聞いてもらえることも、同じくらい楽しみだった。
先ほどまで熱を抱えていた手を軽く握り、彼女はエースの歩幅を追った。