【カオ転三次】×よう実 鬼になる一之瀬帆波   作:ねむのき

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第4話 「体育祭当日の臨海支部」

 体育祭当日は快晴だった。その光は、ケヤキモール一階の喫茶店へ斜めに差し込んでいたが、グラウンドの生徒たちの熱気は届かない。窓際の床に落ちた明るさは夏より奥まで届き、椅子の脚から伸びる影が、通路の手前を細く横切っている。帆波はその影を跨いで店内へ進み、先に来ていた坂柳を見つけた。傍らに杖を置いた彼女が、こちらへ顔を上げる。

 

「おはよう、坂柳さん。待った?」

 

「おはようございます。いえ、私も先ほど参りました」

 

 帽子の下で、淡い髪が頬に沿って揺れた。坂柳は帆波の顔を見て微笑み、それから、店の奥へ一度だけ目を向ける。もう行き先を気にしているらしい。その視線に気づくと、帆波も自然に笑っていた。

 

「今日は、こっちから行くね」

 

「ええ。よろしくお願いいたします」

 

 坂柳が杖を手に取って立つのを待ち、帆波は店員へ声を掛けた。挨拶を返した店員が、客席の奥にある扉へ二人を案内する。初めてエースとここを通った朝にも、こうして開けてもらった。あのときは、彼が飲み残したコーヒーを、そのままにしてよいのかまで気にしていた。

 

 扉の先には、飾りのない短い通路が延びている。壁際には台車が寄せられ、客席より白い照明が床を照らしていた。厨房へ入る必要はなく、荷物の間を縫って進むような狭さでもない。帆波は坂柳が隣へ来るのを待ち、途中で折れる通路の先へ進んだ。

 

「普通にお茶をいただいている間は、こちらに道があるとは思いませんでしたね」

 

「私も、初めて連れてきてもらうまで知らなかったよ。買い物には、何度も来てたのに」

 

「最初は、エースさんに?」

 

「うん。このお店で待ち合わせたんだ」

 

 あのとき、カップを下ろしてこちらを見た顔が浮かんだ。雪の森を出てから、もう一度会える日をどれほど待っていたかも、一緒に思い出す。今は仕事へ来れば会えることが多い。それでも、今日も顔を見られたらよいと思う気持ちは変わらなかった。

 

 外へ続く扉を開けると、海に近い空気が頬へ触れた。帆波は先に出て脇へ寄り、坂柳が通ってから店員へ礼を言った。

 

 頭上には庇が張り出し、その先へ、窓の少ないモールの壁が続いている。表側に並ぶ看板やガラス張りの店先は見えず、配管や搬入用の扉が、建物の用途をそのまま外へ示していた。壁際の設備から伝わる一定の運転音も、帆波にはもう聞き慣れたものだった。

 

「こっちだよ」

 

 建物沿いの通路へ向かいながら、帆波はいつもより歩幅を小さくした。隣では、坂柳が杖をつき、壁面や通路の先へ視線を移している。

 

「授業が終わったあとも、この道を?」

 

「うん。そのまま歩いてくることが多いよ。お店がお休みのときとかは、別の道を使うけど」

 

「学校へ戻られるときも、歩いていらっしゃるのですね」

 

「そう。支部までは、船に乗ったりしなくても来られるんだ。同じ島の中だからね」

 

 坂柳が小さく頷いた。杖の先が路面を確かめ、その隣へ靴が進む。帆波は前へ出すぎないようにしながら、通路の先へ目を向けた。

 

 やがて、金属の網目が見えてきた。学校区域とガイア側を隔てるフェンスだった。その向こうには舗装路が続き、コンクリートの建物の外壁が、モールとは違う幅で視界を占めている。

 

「ここが、学校との境目」

 

 帆波は、人が通るために設けられた扉の前で足を止めた。初めて来たときには、エースがここで鍵を取り出した。大きな検問所を通るのではなく、フェンスを切り取ったような扉が、ごく普通に開いたことを覚えている。

 

 今回も、認められた経路での出入りを済ませ、二人は向こう側へ進んだ。通り終えてから振り返ると、歩いてきた道が網目越しに見える。帆波は出入口が閉じられたのを確かめ、坂柳へ向き直った。

 

「この先は、学校の敷地じゃないんだ。見学できるのも、許可をもらってるところだけになるけど」

 

「もちろんです。前回、父と伺ったときも、案内していただける範囲は決まっておりましたから」

 

 坂柳は答えながら、フェンスの先に続く設備へ目を向けた。境界のすぐ向こうが、何もない空地になっているわけではない。少し離れた位置には防御のための設備があり、その奥に、窓を規則正しく並べた建物が立っている。帆波も初めは、見えているもののどこまでが普通の施設で、どこからが知らない力に関わるものなのか、まるで分からなかった。坂柳の視点からそれらが、今まさに目の前に現れたように見えるのだろう。

 

「こうして拝見すると、隔てているものが、このフェンスだけではないことを実感しますね」

 

「結界のこと?」

 

「ええ。これだけのものを、知らずに過ごせてしまうのですから」

 

 帆波は建物の外壁を見上げた。日を受けたコンクリートは明るい灰色で、窓には空の青が映っている。見えている今は、そこに建物があることを疑いようもない。それなのに、覚醒する前には、この島で暮らしていながら気づかなかった。

 

「私も、学校に帰ってくる船から初めて見えたとき、びっくりしたよ。倉庫も、大きな船もあって。どうして今まで知らなかったんだろうって」

 

 坂柳の視線が、建物から帆波へ戻った。

 

「……一之瀬さんも、最初から見えていたわけではないのですか?」

 

「うん。入学したころは、全然」

 

「では、お力をお持ちになったのも、入学されてから?」

 

 帆波は頷き、歩く先へ一度目を向けた。道を横切る車両が通り過ぎるのを待ち、それから坂柳と並んで進む。

 

「一年生の夏だよ。ほら無人島に行ったときに、たまたま異界に迷い込んじゃって、その中で目覚めたの」

 

「異界、というのは……」

 

「私たちが仕事で行くこともある、普通とは違う場所。あのときは何も知らなかったから、自分がどこにいるのかも分からなくて」

 

 夏だったはずなのに、目の前には雪があった。制服から染み込んでくる冷たさも、追ってくるものから逃げようとして、息がうまく吸えなかったことも覚えている。ただ、その記憶を辿ると、今は必ず、最後に現れた人の姿まで浮かんだ。

 

「そこで、エースさんに助けてもらったんだ」

 

 坂柳が帆波を見上げた。帆波は笑みを返しながら、建物沿いの道へ向きを変える。

 

「助けてもらったあと、力の扱い方とか、私に何が起きたのかとか、教えてもらって。学校へ戻ってから、ここに連れてきてもらったの。さっきのお店で待ち合わせてね」

 

「それで、先ほどの道を」

 

「うん。初めて来たときは、ずっとエースさんについて歩いてたよ。ここが何をする場所なのかも、分からなかったから」

 

 坂柳は歩いてきた方へ目を向け、それから帆波へ顔を戻した。

 

「ずいぶん、大きな出来事だったのですね」

 

「そうだね。あの人が来てくれなかったら、私、帰れなかったと思う」

 

 口にしても、そのことへの気持ちが薄れることはなかった。助けてもらったから好きなのだと、一言で片づけられるわけでもない。それから何度も一緒に過ごし、教わり、知らなかった顔を見つけるたびに、もっとそばにいたくなってきた。

 

 隣で、杖の先が路面へ置かれた。坂柳は少しの間、何も尋ねずに歩いていたが、やがて静かに口を開いた。

 

「では、もともとお持ちだったお力ではないのでしょうか。異界で、急に手に入れられた……たとえば、妖怪に取りつかれたというようなことなのかと、思ったのですが」

 

「ううん。誰かが入ってきたわけじゃないよ」

 

 帆波は首を振った。あの場所で突然変わったことは確かでも、自分の中に別の誰かがいるわけではなかった。

 

「調べてもらったら、ずっと昔の先祖に、鬼がいたんだって。私にも、もともとそういう因子があったの。それが、あのとき目覚めたみたい」

 

「ご先祖に、鬼が」

 

「うん。私も、検査で教えてもらうまで知らなかったんだけどね」

 

 坂柳はすぐには次の言葉を返さなかった。考えるように目を伏せ、それから帆波の額へ視線を上げる。前髪で隠れた小さな角を、思い出しているのかもしれなかった。

 

「では、外から新たな力を与えられたというより、持って生まれたものが目覚めた、という感じなのですね」

 

「そうだね。私も、そう説明してもらったよ」

 

「なるほど……」

 

 声を落とした坂柳の口元に、ゆっくりと笑みが戻った。カラオケで、生まれ持った資質について話したときの顔を思い出す。帆波は隣を見ながら、少し笑った。

 

「今、いろいろ考えてる?」

 

「ええ。考えずにいる方が、難しいお話ですから」

 

「聞きたいことがあったら、聞いていいよ。私に分かることなら、話せるから」

 

「ありがとうございます。やはり学校では、落ち着いて伺えませんでしたので」

 

 帆波は頷いた。今日は、話してよい相手と、認められた場所を歩いている。知らないことまで答えようとしなければ、坂柳の質問を気にしすぎる必要はなかった。

 

 舗装路は、建物の間を広く通っていた。車両の通る道と二人が歩く場所の距離を見ながら進む。モールの裏から来ると、道路の幅も建物同士の間隔も、一段大きくなったように感じられた。外壁は装飾より用途が優先され、管理や医務、訓練、物資の保管と、必要な仕事に応じて建物が分かれている。

 

「あちらには、医務の施設があるよ。さっき話した検査も、支部で受けたの。何か気になることがあれば、相談できるから助かってる」

 

「お力が目覚めたあと、お身体で困ることはありませんでしたか?」

 

「最初は、どのくらい力を入れたらいいのか、分からなかったよ。普通に触るつもりで、壊しちゃったらどうしようって。でも、学校へ戻る前に、エースさんが教えてくれたから」

 

 帆波は片手を軽く開いてから、鞄の持ち手を握り直した。物を持つことにも、扉を開けることにも、今は迷わない。思ったとおりに身体が動くことは、もう暮らしの中の当たり前になっていた。

 

「今は、大丈夫。自分思う通りにできるよ」

 

「では、先日のお姿になられたときも?」

 

「うん。鬼になっても、とくに加減が難しくなったりはしないよ。感覚は広がる感じがするけど、止まろうと思えば止まれるし、力を弱くすることもできる。考えてることも、普段と同じだよ」

 

 坂柳は帆波の手を見ていたが、その返事を聞くと顔を上げた。

 

「お話ししている間、普段の一之瀬さんのままだということは、私にも分かりました」

 

「照れてるって、言ってたもんね」

 

「ええ。よく覚えております」

 

「そこ、そんなに覚えてなくてもいいんだけどなあ」

 

 笑って返すと、坂柳も口元を緩めた。彼女があの姿を怖がらずに見てくれたことは、帆波もよく覚えている。もう一度見たいと言われたときの嬉しさまで、話しながら戻ってきた。

 

 建物の間を抜けると、視界の先に港湾が広がった。積み重なったコンテナの色が、倉庫の壁と海の間を埋めている。車両が広い道を進み、船の舷側に沿って、岸壁の線が長く伸びていた。

 

 坂柳が歩みを緩めたので、帆波も隣で止まった。

 

「……やはり、広いですね。改めて、学校の隣にあることに感慨を覚えます」

 

「うん。あのコンテナが並んでる辺りも、倉庫の方も、ちゃんと仕事に使ってる場所だから。支部の人だけが出入りする港じゃないんだよ」

 

「商業港としての働きもあるのですね」

 

「そう。関係する会社の船も使うし、車もいろいろ来るから、歩くときは気をつけてる」

 

 帆波は岸壁へ目を向け、任務で使う船についても話した。最新型の高速艇に乗って移動することや、操縦する人が別にいることを説明すると、坂柳は海と帆波の顔を見比べた。

 

「一年生の夏までは、こうしたお仕事とも無縁でいらしたのですね」

 

「うん。船に乗って仕事に行くなんて、考えたこともなかったよ」

 

「それが、今は案内してくださる側なのですから。不思議なものですね」

 

「最初は、分からないことばっかりだったけどね。今も、全部知ってるわけじゃないし」

 

 話していると、近くを通りかかった職員から声を掛けられた。

 

「一之瀬さん、お疲れさまです」

 

「お疲れさまです!」

 

 帆波が挨拶を返すと、相手は坂柳にも会釈し、仕事へ戻っていった。少し先でも見知った顔と目が合い、軽く手を上げて応じる。向こうも片手を上げ、それで挨拶が通じた。

 

 坂柳はそのやり取りを見てから、帆波へ視線を戻した。

 

「ですが、ここで過ごしていらしたことは、よく分かります」

 

「何度も、お世話になってるからね。私一人じゃ、船にも乗れないし」

 

「力を持つだけで、お仕事ができるわけではないのですね」

 

「うん。行き先のことも、何をするかも、知らないと困るから。教えてもらったこと、たくさんあるよ」

 

 坂柳は頷いた。生まれつきのものについて話していたときと違っても、聞く声の真剣さは変わらない。帆波には、それが心地よかった。自分に起きたことを、珍しい出来事として聞いて終わりにせず、そのあとどうしてきたかまで尋ねてくれる。

 

 二人は港を眺められる場所を離れ、食堂のある本庁舎へ向かった。道の先を急ぐ人や、建物へ荷物を運び込む人が見える。職員同士の短い確認も、すれ違う間に耳へ届いた。

 

「これだけの施設を維持するとなると、組織としても相当な規模なのでしょうね」

 

「ちゃんと企業の形で活動していて、一般の人相手にも商売をしているんだよ。そのフロント企業であるガイアグループの傘下には、いろんな会社があるんだって。さっきのお店もそうだし、ケヤキモールにも、ほかに系列のお店が入ってるよ」

 

「私たちが、そうと知らずに利用しているお店もあるわけですか」

 

「うん。普通に買い物するお店だから、知らなくても困らないけどね」

 

 帆波は歩きながら、全国に支部があることも話した。どこも臨海支部ほど大きいわけではないことや、もとは不思議な力を持つ人々が、自分たちの生存と安全のために助け合った組織だったことを、教わった範囲で伝える。ただ、社会の崩壊の危機であることまでは、語らなかった。母の説得に時間がかかったことを考えれば、急にそんなことをいわれても信じられないだろう。

 

「では、一之瀬さんのように、何も知らずに力が目覚める方も、ほかにいらっしゃるのですね」

 

「いるよ。きっかけも、できることも、人によって違うんだって」

 

「皆さんが、同じような血筋をお持ちというわけではなく?」

 

「うん。それに、力が強くなったり、私みたいに変身できたりする人ばっかりでもないよ」

 

 坂柳の視線が、帆波の額から手元へ移った。以前、姿を変えたところを見せたときにも、彼女は一つひとつの変化を確かめるように見ていた。今は、その目に見えたものを、ほかの人にも当てはまると思ってよいか考えているのかもしれなかった。

 

「なるほど。一之瀬さんを基準に考えては、かえって見誤ってしまうわけですね」

 

「私も、初めはエースさんを見て、そういう力がある人は、みんなあんなに強いのかなって思ってたから」

 

「ふふ。同じ間違いをするところでした」

 

 坂柳はそう言って笑ったが、すぐに考えるような顔へ戻った。杖をつきながら数歩進み、帆波を見上げる。

 

「ですが、ご先祖から受け継がれたものなら、ご家族にも同じ遺伝子があるのではありませんか?」

 

「うん。持ってる可能性は高いと思う。でも、検査したわけじゃないから、はっきりは分からないよ」

 

「お母様と、妹さんでしたね」

 

「そう。もし同じ鬼の因子を持っていても、私と同じような力に目覚めるとは限らないんだって」

 

 帆波は港へ向かう車両を見送りながら答えた。母や妹にも自分と同じことが起きるのか、気にならなかったわけではない。ただ、似ているところがあるからといって、まだ起きていないことまで決めてしまうことはできなかった。

 

「では、因子を受け継ぐことと、それが実際に力として現れることは、別なのですね」

 

「うん。それに、優れた霊能の資質は、子供に受け継がれる可能性が高いって聞いてるけど、何ができるようになるかまで同じとは限らないみたい」

 

 坂柳の歩調が、わずかに緩んだ。帆波もそれに合わせると、彼女は少し目を伏せ、それから静かに頷いた。

 

「資質は受け継がれやすくても、現れ方まで一様ではない、と」

 

「そういうことだと思う。私も、教えてもらったことしか分からないけどね」

 

「いえ。とても興味深いお話です」

 

 坂柳の返事は早かった。丁寧な相槌だけでは終わらず、言葉を選ぶような間を置いて、また帆波を見る。

 

「一之瀬さんには、目覚める前にも、何か兆しのようなものはあったのでしょうか?」

 

「ううん。少なくとも、自分では覚えてないよ。普通に暮らしてたし、まさか鬼の先祖がいるなんて、考えたこともなかったから」

 

「それでも、知らないまま、お持ちではあったのですね」

 

「うん。そうだね」

 

 坂柳は帆波の返事を聞き、口元へ薄い笑みを浮かべた。カラオケで、生まれ持った資質の話をしていたときにも、こういう目をしていた。何か一つ納得しても、それで満足してしまうのではなく、次に確かめたいことができるらしい。

 

「坂柳さん、楽しそう」

 

「ええ。知っているつもりだった言葉を、考え直す機会をいただいておりますから」

 

「才能とか、血筋とか?」

 

「はい。同じ言葉を使っていても、私が思い浮かべていたものより、ずいぶん広いようです」

 

 帆波は、少し笑った。自分には、身体に起きたことを教わり、確かめてきた経験だった。それを聞く坂柳は、また違うところに興味を持っている。次は何を尋ねるのだろうと思うと、答える方も楽しかった。

 

「でも、目覚めたから何でもできたわけじゃないよ。力の使い方も、仕事のことも、教えてもらったことはたくさんあるから」

 

「資質があれば、教わる必要がなくなるとは思っておりませんよ」

 

「うん。前にも、そう言ってたね」

 

「よい楽器でも、扱い方を知らなければ、望む音は出せませんから」

 

 聞き覚えのある言葉に、帆波は坂柳を見た。彼女もこちらを見ていて、二人の間に笑みが戻る。

 

「エースさんは、上手に教えてくださるのですね」

 

「うん。すごく」

 

 すぐに答えると、坂柳の笑みが少し深くなった。帆波は気づいていたが、今度は問い返さなかった。あの人に教わってよかったと思うことなら、まだいくらでも話せそうだった。

 

 道の先で職員が建物へ入っていった。帆波はその姿を見送り、坂柳へ向き直る。

 

「私も、最初は助けてもらった方だからね」

 

「エースさんに、ですね」

 

「うん」

 

 すぐに頷くと、坂柳が少し笑った。

 

「迷いのないお返事です」

 

「だって、そうなんだもん」

 

 帆波も笑って返した。あの人がどれほど頼りになるか、話そうと思えば、まだいくらでも話せそうだった。けれど、今朝から顔を見ていないことに気づくと、説明するより先に、会いたい気持ちが強くなった。

 

 坂柳はそれ以上からかわず、本庁舎の方へ目を向けた。

 

「これほどの力と基盤があれば、もっと大きな影響力を求める方もいらっしゃいそうですが」

 

「そういうの、面倒だって言う人もいるよ」

 

「面倒、ですか」

 

「うん。自分たちのことを自分たちでできるようにしたかったのに、ほかのことまで全部引き受けるのは大変だって」

 

 坂柳は少し目を細めた。

 

「力があるなら使うべきだと、周囲から求められることもあるでしょうね」

 

「あると思う。でも、できることがあるのと、それをずっと任せられるのは、違うんじゃないかな」

 

 口にしてから、帆波は入口へ視線を戻した。自分が知っているのは、実際に話した人の言葉や、教わった範囲だけだった。

 

「もちろん、みんながどう思ってるかまでは、分からないけど」

 

「ええ。それでも、興味深いお話です」

 

 坂柳はそう答え、入口へ荷物を運ぶ職員を目で追った。

 

「今日は、お忙しそうですね。一之瀬さんのお仕事も、増えているのでしょうか?」

 

「それが、今は普段みたいには依頼を受けられないんだ。いつもの仕事を仲介してもらう方は、制限されてるの」

 

「では、お力を使う機会も減っているのですか?」

 

「任務に行く機会はね。でも、訓練はできるよ。ここには、ちゃんと身体を動かせる場所があるから」

 

 帆波は訓練施設のある方へ顔を向けた。周囲に合わせて速さを抑えたり、人に見られないか気にしたりせず、自分の動きを確かめられる。前よりうまくできたところをエースに見てもらえるなら、それも楽しみだった。

 

「新しく教わったことを試したり、前にうまくできなかったところを練習したり。だから、仕事が少なくても、何もすることがないわけじゃないよ」

 

「学校の競技で加減なさるより、存分に動けるわけですね」

 

「うん。こっちなら、そのために来てるんだし」

 

 坂柳が、納得したように頷いた。帆波も笑い、本庁舎の入口へ目を戻す。

 

「仕事に行くのも好きだけど、訓練するのも好きだよ。できることが増えると、次に試したいことも出てくるから」

 

「それでは、今日は、私がそのお時間を頂戴しているのですね」

 

「今日は、坂柳さんと遊ぶ日でしょ?」

 

 顔を向けて答えると、坂柳は一度言葉を止め、それから目元を和らげた。

 

「ええ。そのために、交渉もいたしましたので」

 

「うん。だから、ちゃんと案内するよ」

 

 帆波が笑うと、坂柳も笑った。自分の好きな場所を見せ、これまで学校では話せなかったことを話している。その時間を、別のことに使いたいとは思わなかった。

 

 

 本庁舎へ入ると、海風が背中から離れ、靴音が床と壁の間へ返ってきた。通路の照明は明るく、並んだ扉の脇には、それぞれの行き先を示す表示がある。帆波は坂柳と歩調を揃えながら、食堂のある方へ進んだ。

 

「ここの食堂は、時間を気にしなくても使えるんだよ。帰ってくる時間が遅くなっても、ご飯を食べられるから」

 

「お仕事の時間が、揃っているわけではありませんものね」

 

「そう。私も、助かってる」

 

 入口が近づくにつれ、食器の触れる音や、人の話す声が聞こえてきた。食事をする人も、飲み物を前に休んでいる人もいる。帆波は室内へ目を向け、その一角に見知った顔を見つけた。

 

 寄せた卓の周りに、十人の男女が集まっていた。普段は別の拠点にいる黒札たちだった。待機が続く間に食堂で見かけることはあったが、今日はそこにエースもいる。声を掛けようとした帆波は、彼の顔を見て、ほんの少し足を緩めた。

 

 エースは椅子へ深く腰を下ろし、背もたれに身体を預けていた。片方の腕を椅子の背へ掛け、卓へ向けた膝も、きちんとは揃えていない。手にしたカップを口元へ運びかけたところで誰かに何か言われ、そのまま飲まずに笑った。

 

「お前、まだそれ言ってるのか」

 

「忘れてほしかったら、次はもう少しうまくやれよ」

 

「忘れる気がない奴に言われてもな」

 

「よく分かってるじゃないか」

 

 すぐに別の声が入り、卓を囲む笑いが重なった。エースは言い返そうとして、途中で諦めたように片手を振る。その顔からは、困っている感じが少しもしなかった。口元だけでなく目元まで緩み、また何か言われると、今度はカップを置いて声を立てて笑った。

 

 帆波と話しているときにも、エースはよく笑ってくれる。冗談も言うし、こちらの返事を聞いて、面白そうに目を細めることもある。それでも、目の前の笑い方は少し違っていた。

 

 こちらが分かっているか確かめるような間がない。教えたり、気に掛けたりする側でいようとする様子もなく、言われたことへすぐに返し、返された言葉をまた笑って受け取っている。椅子へ預けた肩まで、いつもより楽そうだった。

 

 自分といるときには、あんなふうに座っていない気がした。

 

 帆波は、まだ声を掛けずに彼を見ていた。知らなかった顔を見つけたことが嬉しい。その一方で、卓を挟んで遠慮なく言葉を投げ合える人たちが、少し羨ましかった。自分もあの輪の中で、何も考えずに言い返せたら、彼はあんな顔で笑うのだろうか。

 

「……一之瀬さん」

 

 隣から小さく呼ばれ、帆波は顔を向けた。坂柳は卓の方を見ていたが、すぐにこちらへ視線を戻す。口元には、何か面白いものを見つけたときの笑みがあった。

 

「いらっしゃいましたね」

 

「うん」

 

「お声を掛けなくても、よろしいのですか?」

 

「今、掛けるところだよ」

 

 答えてから、帆波は自分がどのくらい立ち止まっていたのか気になった。坂柳は追及しなかったが、エースへ一度目を向け、それからまた帆波を見る。その視線の動きだけで、何を見られていたか分かる気がした。

 

「……何?」

 

「いえ。ずいぶん、お寛ぎなのだと思いまして」

 

「エースさん?」

 

「ええ。先日お目に掛かったときとは、また違っていらっしゃいますね」

 

 帆波はもう一度卓へ目を戻した。ちょうどエースが、隣から向けられた言葉へ笑いながら首を振っている。

 

「私も、あんな感じは、あんまり見たことないかも」

 

「そうなのですか」

 

 坂柳の声が、少し楽しそうになった。帆波がそちらを見るより先に、卓の向こうでエースが顔を上げた。

 

「お、一之瀬」

 

 椅子の背へ掛けていた腕が下り、姿勢を正した身体がこちらへ向く。いつも見ている動きだった。帆波の顔を確かめ、それから隣へ目を移した。

 

「坂柳さんも。こんにちは」

 

「こんにちは。本日は、お邪魔しております」

 

「エースさん、お疲れさまです」

 

「ああ。今日は学校の行事じゃなかったのか?」

 

「はい、体育祭です。でも、クラスの取り決めで、私は競技に出ないことになったんです。坂柳さんも欠席するので、今日は支部をご案内してました」

 

「そういう話になったのか」

 

 エースの視線が坂柳へ移った。彼女は杖をついたまま、軽く頷く。

 

「両クラスで条件を取り決めたうえで、こちらへ伺っております。再訪の許可も、いただきました」

 

「それなら、楽しんでいってください」

 

 外部の相手へ向ける、落ち着いた丁寧な声だった。帆波には聞き慣れた切り替わりでも、つい先ほどの姿を見たあとでは、少し違って感じられる。

 

「急にちゃんとするなよ。こっちまで姿勢を直したくなるだろ」

 

 卓の方から声が飛んだ。エースはそちらへ顔を戻す。

 

「直したければ直せばいいだろ」

 

「そう言われると、直す気がなくなるな」

 

「じゃあ、そのままでいろよ」

 

 すぐに笑いが返った。エースの肩もまた緩む。その変化を目の前で見られて、帆波も思わず笑っていた。

 

「二人とも、座っていけばいい」

 

「見学してきたんだろ。少し休んでいけよ」

 

 言葉と一緒に、空いている椅子が二人の方へ寄せられた。卓の端にあったカップが奥へ動き、別の手が椅子を引く。誰か一人が世話を焼くというより、話を続けながら、自然に場所ができていった。

 

 帆波は礼を言い、坂柳と並んで腰を下ろした。彼女が杖を椅子の脇へ収める間に、エースがこちらを見る。

 

「どこを回ってきた?」

 

「喫茶店から、前に連れてきてもらった道を通ってきました。港も、道から見えるところをご案内して」

 

「あそこまで見ると、結構歩くな」

 

「はい。でも、お話ししながらだったので」

 

「一之瀬さんには、いろいろと教えていただきました」

 

 坂柳が言葉を添えた。エースは頷き、帆波へ目を戻す。

 

「案内役は、うまくできたか?」

 

「たぶん、できたと思います。……坂柳さん、どうだった?」

 

「ええ。おかげさまで、とても楽しく」

 

 坂柳が微笑む。帆波はほっとして笑った。知っていることを話すだけなら、難しくはないと思っていた。それでも、実際に一緒に歩いて楽しんでもらえたと聞くと、やはり嬉しかった。

 

「今日は、エースさんも、ずっとこちらにいらっしゃるんですか?」

 

「待機だからな。呼ばれるまでは、ここにいる」

 

「そうなんですね」

 

 返事をしてから、声が弾んだことに気づいた。隣の坂柳がこちらを見たが、帆波はエースの方へ顔を向けたままでいた。

 

「ずっと、って言っても、こいつがここに座ったのは——」

 

「余計な実況を始めるな」

 

「まだ何も言ってないだろ」

 

「その先が要らないんだよ」

 

 エースが笑いながら返すと、卓のあちこちから声が重なった。

 

「止めるのが早い」

 

「聞かれると困る話か?」

 

「お前ら、暇だからって人で遊ぶな」

 

「今ここにいる全員、条件は同じだろ」

 

 遠慮なく返され、エースはとうとう笑って首を振った。誰かを黙らせようとするわけでも、場を整えようとするわけでもない。言いたいように言わせ、自分も好きなところで言葉を挟んでいる。

 

 帆波は卓へ両手を置き、そのやり取りを聞いていた。さっきは少し離れたところから見ていた笑顔が、今は目の前にある。自分が来たからといって、全部が終わってしまったわけではなかった。そのことが嬉しくて、肩に入っていた力が自然に抜けた。

 

 坂柳も、会話の流れを面白そうに追っていた。エースが言い返すたびにそちらを見て、ときどき帆波へ目を向ける。視線が合うと、小さく笑われた。

 

「……今度は何?」

 

 帆波が声を落とすと、坂柳も少しだけ顔を寄せた。

 

「お話しされている皆さんも、それを聞いていらっしゃる一之瀬さんも、楽しそうだと思いまして」

 

「それは、楽しいよ」

 

「ええ。よく分かります」

 

 素直に返したのに、坂柳の笑みが深くなった。帆波は何か言い足そうとして、やめた。自分でも楽しいと思っているのだから、そこを隠そうとしても仕方がない。

 

「お嬢さんは、支部を見るのは、初めてか?」

 

 卓から掛けられた声に、坂柳が向き直った。

 

「いえ。以前、父と一度伺いました。本日は、一之瀬さんに改めて案内していただいております」

 

「そうだったのか。俺たちは、普段ここにいないからな」

 

「今日は、ちょうどよかったな。まとめて捕まえられる」

 

「捕まえるって言い方はどうなんだよ」

 

「お前、呼ばなきゃどこか行くだろ」

 

「待機中に勝手に帰るみたいに言うな」

 

 また笑いが起きた。坂柳も口元へ手を添え、それが収まるのを待ってから、卓を囲む人々へ視線を巡らせる。

 

「皆さんも、一之瀬さんのような、不思議なお力をお持ちなのですよね」

 

「できることは、それぞれだけどな」

 

「なるほど。先ほども、そのように伺いました」

 

 坂柳の視線が帆波へ向いた。帆波が頷くと、彼女は姿勢を整え、もう一度卓の向こうを見る。

 

「でしたら、一つ、お願いしてもよろしいでしょうか」

 

「何だ?」

 

「許される範囲で構いませんので、皆さんのお力を、少し拝見したいのです」

 

 帆波は隣の顔を見た。道中で血筋や覚醒について尋ねていたときと同じ、答えを待つ目だった。ただ、今度は話を聞くより先へ進もうとしている。目の前にいる人々が何をできるのか、実際に見られるなら見たいのだろう。

 

 卓の間で、いくつかの視線が交わされた。最後にエースへ目が向く。

 

「見学は、どこまで許可が出てる?」

 

「認められた範囲での実演なら、構わない」

 

「じゃあ、いいんじゃないか」

 

「せっかく来たんだしな」

 

「見せると決まった途端、やる気になるなよ」

 

「頼まれて張り切るくらい、いいだろ」

 

 返事が重なり、もう何を見せるか相談し始めそうな勢いだった。エースはカップを置き、坂柳へ顔を向ける。

 

「お見せできるものなら、構いません。ただ、内容はこちらで選ばせてください」

 

「もちろんです。ありがとうございます」

 

「あと、見学者がいるからって、お前ら浮かれるなよ。やりすぎは厳禁だ」

 

 続いた言葉は、卓を囲む仲間へ向けたものだった。

 

「最初に言うことか、それ」

 

「後で言うよりいいだろ」

 

「自分だけ落ち着いてる側に回るなよ」

 

 エースは否定する代わりに笑った。その顔を見ていると、帆波も口元が緩んでしまう。坂柳が面白そうにこちらを見ていたが、今度は気にならなかった。

 

「一之瀬。お前も見ていくだろ?」

 

「はい。私も見たいです」

 

 すぐに答えると、エースが頷いた。向こうからまた声が掛かり、彼はそちらへ肩を向ける。砕けた返事をする横顔にも、まだ笑みが残っていた。

 

 帆波はその隣で、これから見せてもらえるものを楽しみにしながら、もう少しだけ、知らなかった彼の顔を見ていた。

 




綾小路君は、坂柳が自室に来なかったことを分析中。
ABの同盟や、一之瀬と坂柳が同時に休んだことを聞き、一之瀬に坂柳が興味を持つ何かがあるところまで、確信しました。
さすがにオカルト云々にはたどり着けませんが、一之瀬をより注視することになるでしょう。

半終末開始。
多分、核攻撃後は、ガイア連合も警戒態勢くらいはとってただろうと、一部の真面目な黒札が待機任務に就いていることにしました。
戦闘可能で、素直に待機任務についてくれる黒札がそんなにいるもんかな?と思いましたが、まぁ臨海支部というシェルターに避難するついで、とすればなくはないかなと。
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